妖精の章 三十四

 

 残暑厳しい秋の初めから抜け出し、ようやく涼しくなってきた晴天の早朝。
 出発の準備を済ませ、歯磨きに勤しんでいた手がふと思い至ってリモコンのスイッチを押した。
 程なく画面に映るのは、五分にも満たない時間で放送されている、日替わりの星占い。
「ふーん? いて座のアナタは六位か。なんだかぱっとしないランキングねー。まあ、健康運上昇は貰っておくけど。っとと、さぁてお次は?」
 泡の立った歯ブラシを咥えつつ呟いた手が、今度は別のチャンネルの星占いを求めて動いた。
「おっと下から二番目ですかいっ!? あー、順位はさっきの貰っておくとして。おっ、ラッキーカラーはさっきと違って赤なんだ。よーし、コイツは貰っておこう。ラッキーナンバーが1っていうのも良いわ」
 好き勝手に占いのイイトコ取りをし、口の中身が溢れ出そうになってきたなら、慌てて洗面所へ向かう。
 口をゆすいで顔を洗い、髪を梳かして団子状に後ろで纏め。
「ぃよっしゃ!」
 景気づけに両手で頬を張った。
 力加減を間違えて、少しばかり痺れる頬に涙を浮かべながら、つけっ放しだったテレビを消して帽子を被り、荷物を背負ってステッキを持つ。
 靴を履いて外へ出てはオートロック式の鍵が掛かる音を聞き、今の姿に似つかわしくない静かで上品なホテルの廊下を鼻唄混じりに進んでいく。
 エレベーターのボタンを押し、同乗する事となった、見るからに疚しい関係だと分かる男女の訝しむ視線もなんのその、フロントへ直行しては鍵を預けて外へ向かい。
「待ってなさいよ、先輩。絶対、会いに行くからね……」
 視界に捉えた山へ、これまでの調子とは打って変わった小さな声で告げた。
 込み上げる切なさに一瞬、瞳を揺らがせ、これを振り切るように玄関先で待機しているタクシーへと乗り込む。

 彼女の名は椎名美津子(しいなみつこ)。
 これから上る山から下山する折、世間を騒がせる土産を一つ持ってくるのだが。
 当然の事ながら、今の彼女にそんな未来など分かるはずもなく――

*  *  *

 人間、どんなに大事なことでも、忘れる時は忘れるモノである。
 しかし思い出す時さえ、ふとした瞬間に思い出すモノでもあり。
「ぁ…………わぁずさんに聞くの、忘れてた」
 目覚めてぱちくり。
 まだ明け切らぬ早朝の薄闇の中、見慣れた木目の天井を視認した泉は、枕にクセのある薄茶の長い髪を被せたまま、間の抜けた自分を思って掛け布団を引き上げ目元まで顔を隠した。
 何を聞き忘れて彼女がそんなに恥じているのかと言えば、昨日、確かめるはずだった事柄。
 エンより聞かされ、ワーズに真相を問うつもりであった、失われた記憶の断片。
 ――私を奇人街に連れて来たのがワーズさんって、本当ですか?
 たった一言、訊ねるだけだったはずなのに。
「うぅ……どうして忘れるのかしら、そんな大事な質問」
 自問自答したところで、答えなどとうに出ている。
 あれから色々あったせいだ。
 冴えないと思っていたランの危ない変貌、恋腐魚の後遺症か恋慕に似た想いをワーズへ寄せているという自覚、それらを解決するために登らなければならない山の話等など。
 加えて――
「……止めておこう。色々考えちゃったら、また忘れてしまいそうだもの」
 昨日をなぞるのではなく、今日の行動を考えよう。
 それが一番だと結論付けた泉は布団を剥いで起き上がると、両手の拳をぐっと握り締めた。
「とりあえず、ワーズさんに会ったら聞く事! これを第一の目標にしないと、いつまで経っても聞けないままだわ!」
 自分に活を入れるべく、声に出して決意する。
 隣室のワーズにこの声が聞こえたなら尚良し。
 もしまた忘れても、切っ掛けさえあればすぐに出てくる問いなのだから。
 そうと決まれば、まず身支度。
 剥いだ布団はそのままに、廊下へ出ては洗面所へ。
 途中で会えたらと思っていた店主には出くわさなかったが、同じ屋根の下、探さずとも会えるはず。
 でなくとも、隙あらばゲテモノフルコースを揮いたがる人間好きの変人なのだ。
 そうそう、早く下に行かないとワーズさんが何か作ってしまうわ。って、そうじゃないでしょ、私!
 決意した傍から別の方向へと泉の気は逸れていく。
 慌てて叱咤しても、頭の中は徐々に朝の献立で埋め尽くされる始末。
 朝っぱらから自分の思考と格闘し、どうにかワーズへ訊ねる事を留め置く事に成功した泉は、桜と浅葱色の衣服に着替えると扉に手を掛けた。
「よしっ」
 自分を鼓舞する声を口にし、一気に扉を開け――矢先。

イーヒャアヒャアヒャアヒャアヒャア――――……

「っ!!?」
 悪い事をしていたわけでもないのに、突然の大音量を耳にして、泉の身体が大きく跳ねた。
 ついでにポロリ、ワーズへ訊ねる事柄が抜け落ちると。
「待ちやがれ、クソ学者! これから寝入るって時に、汚ぇ奇声発しやがって!! 今日こそその喉、首ごと潰してやるっっ!!」
「ヒャーっ! どう笑おうとワシの勝手ヨ! 大体、死ぬと分かってて待つ阿呆がおるかネ!!」
 壁をぶち破るけたたましい音と共に、階下へと駆け抜けていく怒号が響き。
「スエさん……また?」
 すっかり意識をそちらへ向けた泉は、抜け落ちた事柄を拾う事なく、扉を開けて階下を目指した。


 泉の部屋から出て右に行けば行き止まり、左を向けば廊下の真ん中に位置する階段向こう、突き当たりに見える壁一面のずぼらな補強跡。
 今現在、ぶち壊されたその先には薄暗い廊下が続いており、カビと埃、煙草のニオイが立ち込めている。
 廊下には数部屋分の扉やその跡を匂わせる枠が備え付けられていたが、凡そ人が住んでいるようには見えない。
 しかして奇人街でも有名な変人学者スエ・カンゲの住まう場所こそ、彼が勝手に占拠し隔離したこの廊下であり、元を正せば芥屋のモノだったという。
 清潔感には天と地ほどの差があっても。
 過去、半ば強制的に入る羽目になった泉は、鼻がニオイを思い出す前にそこからさっさと視線を逸らし階段を一段降りた。
 が、足はそこでピタリと止まってしまう。
 何故なら階段の終わりで、追いかけられていたスエと、追いかけていたと思しきチンピラ紛いの男が、仲良く居間を見て目を剥いていたからであった。
 しばらくするとチンピラ紛いが気持ち悪そうに口元を覆い、階段を登り始める。
 狭い中ですれ違うつもりのない泉は慌てて廊下へ戻ったものの、男はその動きに気づかず、元来た道を戻っていく。
 途中「……あの学者に関わると碌な事にならねえ」という言葉を残して。
 一体何を指して「碌な事にならない」のかは分からないが、スエと関わったこれまでがある泉は、心の中で深い共感の意を示した。
 とはいえ、件のスエは未だ目を剥いた状態で階下にいる。
 彼の見つめる先にはどんなモノがあるのか。
 これが一階でなければ見て見ぬフリをしたいところ。
 避けて通れぬ進行方向に小さく息をついた泉は、意を決して階段を降り始めた。
 ……それにしても、何だか妙に静かだわ。
 元々朝になると静まる街。
 増して静かに感じるのは、スエの奇声を聞いた後だからであろうか?
 はたまた、階下で繰り広げられるはずであった騒動を予想していたせいだろうか?
 踏む度軋む木造の階段の音さえ泉の耳には遠く。
 代わりに聞こえて来たのは、「んっ」という何かを堪える声音。
 この声……ええと、これって確か。
 どこかで聞いた憶えのある、少々掠れた艶めく音色。
 誰だったかしら? と首を捻りながら数段歩みを進めていった泉は、スエの顔を見てぱっと思い出した。
 ああそうだ、この声って――
 だが、その名を出す前に居間を臨めるところまで降りたなら泉の思考は急停止し、同時に止まり切れなかった足は、丸くなる目を余所に数段降りてからようやく止まった。
「んな……」
 次いで出て来たのは言葉にならない驚き。
 丸ごとごっくん呑み込んだなら、泉に気づいた声の主が、うつ伏せ状態でソファに立てていた指をこちらへ向けてきた。
 悶えて潤む茶色の眼を片方だけ開き、荒く息つく半開きの口から絶え絶えの声を発して。
「ぃっ、ずみっんぁっ、た、たす、けっ――あぅっ!」
「ああ? 泉さん、だと?」
 肩から滑り落ちる衣服により、露わになる男とは思えないほどきめの細かい肌。
 しっとり汗ばみ上気する様は艶美に映り。
 流石、芸能人。肌が違うわ……
 などと現実逃避に走り掛けた泉だったが、そんな声の主の上に被さっていた金の眼がこちらを見るなり、はっと我に返った。
 そして問う。
 急いで一階まで下り、今はあんまり近づきたくない相手へ、本当は聞きたくない事を。
「ら、ランさん! 竹平さんに何をしているんですか!?」
「何って……ナニ? まあ、俗に言うところの性欲処理か」
「せっ」
 面倒臭そうに頭を掻きつつ、竹平に圧し掛かっていたランがゆっくり離れていく。
 思わず「ひっ」と悲鳴を零しそうになった泉、ランの身体に隠れていた竹平の服がまだしっかり纏われているのを見ては、ほっと胸をひと撫で。
 そんな泉を知ってか、朝を迎えて人間姿へと変わっていたランは、普段の冴えない容姿とは裏腹の皮肉めいた笑みを浮べて肩を竦めた。
「ま、未遂、ですがね」
「み、未遂って! お、俺は男だっ!」
 ランが退いても、うつ伏せ状態から脱せない竹平が叫ぶ。
 若干の悔しさが滲む掠れた声は、いつの日か、スエによって人狼女にされてしまった彼が発していたモノだった。
 その片棒をちょっぴり担いでしまった泉は、気づくのが遅れた事を恥じるようにちょっぴり竹平から目を逸らす。
 と、その端でランが竹平をせせら笑った。
「んなもん、見りゃ分かるさ。直にも触ったから、なあ?」
「っ!!」
 弄る口調で右手を竹平へ差し出したランは、架空のボールを弾ませる動きで手首を上下に振った。
 竹平の顔が悔しさからみるみる内に真っ赤に染まると、「へっ」と右手を払ったランは片眉を上げてニタニタ竹平へ笑いかけた。
「しっかしお前、性別間違えてんじゃねぇかってくらい、啼いてたよな? 人間の力じゃ俺を振り払えないって分かるまでは、随分と勇ましかったってぇのに。せめて声だけは、なんて堪えるからよ? 最初はからかい半分だったのが、途中から段々マジになりかけちまったぜ? 危ない危ない。俺にはそういう嗜好はないんだから、無闇に誘わないでおくれよ、坊主?」
「ぐっ」
「ランさん!?」
 竹平の赤い髪を毟るように掴み、屈んだ自分の顔に合わせるよう引き寄せるラン。
 優しい声音とは真逆のいたぶる行動に、泉が非難の声を上げて駆け出す――

 その前に。

「お兄ちゃんにさわるな、ジジイ!」
「ぃだっ!?」
 果敢にも髪を掴むランの手に噛み付く小柄な影。
 見慣れない姿だが、手に埋められた牙は人狼のモノより鋭く長く。
「んだぁ、この餓鬼?」
 痛みに顔を顰め、竹平を解放したランがその影へ手を伸ばしたなら、
「おっはようさん、です!!」
「ぎゃんっ!!?」
 今度はそれより大きな影が弾みをつけて、ランの腹を蹴りつけた。
 奇襲に次ぐ奇襲を受けて台所へ倒れるランに対し、後から来た影は追撃の手を緩める事なく、軽いステップで跳躍、勢いを殺さずランの胸に足を埋めた。
「がはっ!!?」
 決して軽くない音を身に響かせたランは昏倒。
「ふっ。人狼最強が聞いて呆れますねぇ。この程度の攻撃で破れるなんて、シウォンのおっさんが知ったら八つ裂きにされちゃいますよ、ランのお兄ちゃん」
 ランの意識がない事を確認した上で言ってのけた影は、最初の蹴りと同時にランから離れ、真っ先に竹平の下へと向かった小柄な影に近づいていく。
 双方共に影と表すには少々難のある、光の頭部を携えた姿で。
「だいじょうぶ?」
 小柄な影が竹平へ問い掛ければ、掴まれた箇所を擦りつつ仰向けになった彼の手が、その頭を優しく撫でる。
「確か……キイ、だったか?」
 竹平の問いにこくっと頷く小柄な影――キイ。
「ありがとさん。大丈夫だ。助かった」
「良かった」
 年の頃は六歳くらいだろうか。
 光を思わせる色合いの、眩いストレートの長い髪をほっと弾ませたキイは、続いて泉の方を見やった。
 突然の展開にはついていけなかったものの、キイの青い目に蔑む色を読み取った泉はひくりと喉を鳴らした。
「え、えと、は、初めまして、私は――」
「やくたたず」
 ずばっと端的に告げられ、泉の身体が固まった。
 初対面の子どもに文句を言われる筋合いはないはずだが、キイの憎悪を留まる事を知らず。
「猫使いの人魚。ウソばっかり。おんなじ人間もまもれずにみすてるなんて、はくじょーもの。お前なんかにお兄ちゃんはわたさないんだ――ったぁ!?」
「駄目ですよ、キイ。初対面の人をお前呼ばわりするのは良くありません。増して泉のお姉ちゃんはシイの大恩人。シイの前で暴言は許しません」
「え……シイ、ちゃん?」
 前触れもなく、それでもランを伸したのとは比べモノにならない弱い力で、キイの頭にチョップをきめたシイは、恨みがましい視線を無視して茫然とする泉ににっこり笑ってみせた。
「おはようです、泉のお姉ちゃん。お久しぶりですね」
「うん、まあ、お久しぶりはお久しぶり、なんだろうけど……」
「? どうかしましたか?」
「いや、どう、というか何というか……」
 言葉を重ねる度に沸き起こる違和感から、恐る恐る泉はシイへと近づいた。
 ゆっくり右手を持ち上げては、ゆっくりその頭を撫でていく。
 慎重過ぎる態度に怪訝な顔をしていたシイは、撫でる手を厭わず為すがまま。
 ふいに泉の手が撫でるのを止め、シイの頭から自分の方へと水平に移動を開始。
 止まったのは丁度、泉の顎のラインだった。
 ええと、確か前はもうちょっと……胸の辺りだったはずで。
 伸び盛りの子どもとはいえ、少し会わない内にぐんっと伸びた身長。
 錯覚ではなかったと実感し、またしても茫然とする泉。
 そう、久しぶりに会ったシイの姿は、まだ子どもの域からは脱していないものの、驚くほどの成長を遂げていたのである。
 顔の輪郭も幾らかシャープになっており、左右の前髪だけ伸びた髪には飾り紐。
 言われなければはっきりしなかった性別も、女性特有の丸みを覚え始めており、変わり映えしないオーバーオールでさえ、どこか艶かしく映ってしまった。
 はっきり言ってしまうと、色気は泉と大差ない。
 自分で下した結論ながら、泉はちょっぴりへこんでしまう。
 けれども当の本人は色気より食い気らしく、泉の背後に夜色の目を輝かせては、じゅるりと大量の涎を呑み込んだ。
「おー。良いタイミングですねぇ? ご馳走――じゃなかった、スエのおいちゃんがいますよぉ?」
「ぬぉっ!? い、一難去ってまた一難かネ!」
 直後、慌てて逃げ出すスエだったが、劇的な成長を遂げたシイは逃げを許さず。
 一陣の風となってはあっと言う間に、そこだけ綺麗な白衣の背に飛び掛ると、バランスを崩すスエの身体を無視して大きく口を開けた。
 ギラリ覗く牙は何処までも鋭く。
「いっただきまぁすっ――――はむっ」
「ぎっ」

ぎゃあああああああああああああああああああああっっっ!!!

 断末魔と思しき悲鳴を聞きながら、階段を団子状に転がっていくスエとシイを見つめるしかない泉は、
「きちく」
「…………」
 今度はスエを助けなかったからだろう、以前のシイよりも低いところから吐かれるキイの暴言に、朝の爽やかさを求めて遠い目をした。

 

 


UP 2010/1/29 かなぶん

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