妖精の章 三十六

 

 物置の中へ上手く着地出来た泉を待っていたのは、ワーズに横抱きにされて落ちてきた竹平の姿だった。
 自分の時とは違う扱いに多少なりともムッとしたが、ワーズの腕から降りた彼は、すぐさま泉にしがみついてくる。
 共に暮らしそれなりに時間が経っていても、未だにワーズが怖いらしい。
 すっかり毒気を抜かれてしまった泉は、ワーズから渡されたリュックサックを背負うと、彼を先頭にして物置の中を歩いていく。
 前にもこれと同じような造りの“道”を通ったと聞くが、竹平は終始へっぴり腰。
 自分より上背のある少年を腕にぶら下げた状態は、動き辛いことこの上なかったが、最初の頃の自分もこうであったと思い直せば、ワーズに対しての申し訳なさが先に立った。
「よし。ここだね」
 そう言って何もないところにワーズが手を掛けたなら、向こう側へと扉の形で開いていく空間。
「ひぃっ」
 これにより、益々怯える竹平へ苦笑を一つ零した泉は、腕に巻きつく彼の手を安心させるように叩いた。
「大丈夫ですよ、竹平さん。ただの出口ですから。足下に気をつけて出れば、何の問題も…………ぁれ?」
 けれど泉の余裕もそこまで。
 出た先の街並を背景に、芥屋で別れたはずのランが仰け反り宙に飛ばされる光景を目の当たりにしたなら、真っ先に混乱へと陥り固まってしまう。
「よいしょっと。……おや?」
 続き、扉を閉めて空間を閉じたワーズも、銃口でツバを上げては目を丸くした。
 遠く、視界の右端でランの身体がバウンドしたなら。
「ちっ。受身も取れんとは情けないぞ、小僧」
 左端で、見た事のある美丈夫が苛立った声を上げた。

*  *  *

 奇人街の住人たちの知る海の正式名称を凪海という。
 由来は読んで字の如く、波打ち際を除いては凪いでいるためらしい。
 では、彼らが一様に山と呼ぶ騒山はといえば――

 し、静かだわ。こんなにたくさん人が、ううん、人狼がいるのに凄く静か。
 途切れた街並みの先に佇む、物置から出た当初は気づかなかった雄大な山を背景に、通りに設置されたベンチで朝食を摂る事となった泉は、ワーズ手製のおにぎりを頬張りつつ、ちらりと右に目を向けた。
 山の陰に隠れる形で奇人街の陽を避ける泉たちと同じようにして、少しばかり離れた位置で好き勝手に座る一団。
 数にして凡そ二十、男女比は七:三といったところか。
 先程華麗にランを殴り飛ばした美丈夫シウォン・フーリと侍る女数人を中心に、司楼、ニア、その他大勢が思い思いの食物を口にしていた。
 日陰ではあっても陽のある内、姿は全員人間に酷似しているものの、人間好きのワーズが泉の隣で黙々とおにぎりを咀嚼しているので、それら全てが人狼である事に間違いはなかろう。
 ちなみにランはといえば意外な事に、先におにぎりを食べ終わった竹平から介抱を受けている。
「ぐ……す、すまない。あんな事したってのに」
「気にすんな、とは言わねぇが……まあ、寝不足とかストレスとか、そういう辛さは分かるからよ」
 男の友情、というヤツなのか、早い回復をみせる関係に対し、竹平から助けを求められた憶えのある泉は呆気に取られるばかり。
 そうしてランたちのいる左からまた、右へと視線を戻したなら、今度はばっちりと緑の視線が絡みつく。
 思わず目を瞬かせた泉。
 転じ、愛想笑いでも浮かべようとすれば、それより先にふいっとシウォンの顔が逸らされた。
「…………」
 やっぱり、怒っているのかしら?
 しなだれ掛かる女が差し出した煙管の吸い口を咥え、つまらなさそうに煙を吐き出す姿を見て、泉の気持ちが少しばかり沈む。
 別に嫉妬ではない。
 自分を好きだと言うくせにどうしてそんな態度を取るのか、などという頓珍漢な話でもない。
 ただ、名前を呼び合えるほどの知り合いなのに、いない者として扱われるのが酷く切なかった。
 司楼やニア、その他大勢の人狼でさえ目礼すれば返してくれるだけに、彼らよりも接した時間の長いシウォンのこの態度は、暗に非難しているように思えた。
 会いたいと求めたにも関わらず、拒絶の行動を取った泉を責めていると。
「泉嬢。このおにぎり、どう?」
 そんな泉の気持ちを知ってか知らずか、唐突にワーズが話しかけてきた。
 一瞬、何を問われたのか理解できなかった泉は、おにぎりに視線を落とすとその具を見つめて小首を傾げる。
「美味しいです、けど……これ、梅干ですか?」
 ゲテモノを好むワーズにしては、珍しいチョイスの食材。
 もう一齧りした彼は上下する顎の合間を縫って頷くと、飲み込んだ後でのほほんと笑う。
「うん。奇人街製で自家製のね。ああ、そうそう、この赤さは幽鬼の血でね――」
「お、美味しいな、この梅干」
 結局ゲテモノ方向へ突き進むワーズのおにぎりに、泉は無心となって齧り付いた。
 口に入れてしまったもの、途中で投げ出すわけにはいかない。
 たとえ梅干の赤さが紫蘇に由来する代物でなかったとしても。
 幾らか大口となった食事のペースにより、おにぎりを無事平らげた泉。
 水筒からお茶を一杯注いで口に含めば、家々が折り重なった街並みの通りを見知った顔が三人、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「スイー、お待たせー」
 泉の姿を捉えた包帯巻きの医者・エンが、一足先に大きく腕を振りつつ駆け寄ってくる。
 奇妙な沈黙を破壊する声に自然と顔を綻ばせた泉は、彼を迎えるべく立ち上がると、ついつい「そんなに急いだら転んでしまいますよ」と子どもを相手にするように言いかけ。
「ふぎゃっ!?」
「え、エン先生!?」
 お約束の如く、あるいは予想通り、何もないところで躓いた医者。
 泉が慌てて駆けつける最中、ワーズと人狼たちが嘲笑染みた忍び笑いをするが、ゆっくり起き上がったエンは気にする素振りも見せずに白い着物を払った。
「だ、大丈夫ですか?」
「てへ。転んじゃった」
 伺い訊ねれば、包帯面が煙管ごと傾く。
 と。
「おはよう、スイ!」
「おわっ!?」
 いきなり腕を広げたエンはそのままの勢いで泉に抱きついてきた。
「「「ヒイッ!!?」」」
 途端に後方、泉からは死角となっている人狼たちの居る方向から、多数の悲鳴が上がった。
 しかし、精神はどうあれ肉体的には成人男性のエンに抱えられた泉は、理由を知るために振り向くことが出来ない。
 ただ、命に関わるような異様な気配だけは感じられたので、兎にも角にもエンの抱擁を早く終わらせるつもりで、自分からも彼へ腕を回した。
「おはようございます、エン先生」
 ついでに軽く背中を叩いてやればエンの腕が緩み、ついでに背後の気配も為りを潜めていく。
 離されてすぐ、あれは何だったのかと泉が振り返ったなら、こちらを見ていたらしいシウォンの眼がさっと逸らされた。
 本当に嫌われてしまったんだと遣る瀬無い気持ちになる反面、彼を中心とした一団の並びが変わっていることに気づいた。
 中心のシウォンは変わらず、他全員が彼から数メートル距離を置いている。
 侍っていた女たちでさえも、シウォンの様子をちらちら盗み見るばかりで、近寄ろうとしない。
 かと思えば、そんな彼らを背に、ずんずんこちらへ向かってくる姿があった。
「あ、ニアさ、ぅっ」
 暖色の衣を翻し、複雑そうな表情で近づいてきたニアは、かなりの距離を詰めると問答無用で泉の胸倉を小さく掴んだ。
 エンでも察せない動きに泉は軽く呻くが、ニアは構わず軋ませた歯から搾り出すような声音で告げる。
「お願いだからっ、パパを煽るの止めて頂戴っ」
「あ、煽るって……」
 けれどニアは言うだけ言うと泉を離し、今度はエンに向かって人間より尖った犬歯を光らせた。
「貴方もっ! 綾音泉と過剰なスキンシップ図らないようにして。でなきゃパパ、貴方を殺してしまうわよ?」
「ぱぱ?」
「シウォンさんの事です」
「シウォン・フーリ? 私の患者の?」
 ?の数だけ首を左右に振ったエンは、必要もないのに背伸びをして泉たちの上から人狼の一団を覗き、包帯面をパァッと明るくさせて手を打った。
「本当だっ! シウォン・フーリがいる! 私の患者、私の患者♪ おおっ!? あ、あそこにいるのは怪我人だ、ラン・ホングスだね!? シウォン・フーリにやられたのかな? わーわー、すっごいすっごい! 来て早々私の患者がいーっぱい!」
 きゃっほーいっ! と浮かれまくったエンは、泉とニアの存在を忘れた風体でランの下へと駆けていく。
「な、何あれ?」
「……私に聞かれても」
 残されたニアは正気を疑うような目付きでこちらを見やり、頬を掻いて応じるしかない泉は所在なくエンの背を追う。
 途中、ふいに逸れた視線が何気なくシウォンを見やれば、またしてもあからさまにそっぽを向かれてしまった。
 だが、こう何度も似た行動を取られたなら、泉に落ち込む以外の考えが過ぎる。
「……ニアさん」
「何?」
「シウォンさんて」
「パパ? え、パパがどうしたの?」
「…………………………やっぱりいいです。何でもありません」
「ぇえっ!? そこで止めるの!?」
 泉から出てきたシウォンの名に聞く気満々だったニアが、彼によく似た顔で愕然とした表情を浮かべる。
 思わず笑いそうになった泉は頬の内側を軽く噛んでこれを堪え、今一度シウォンを見やっては、幾度となく逸らされる顔に溜息をついた。
 訊ける訳がない。
 シウォンが泉の事をどう思っているか、など。
 相手が、彼の娘でありながら彼への恋慕に胸をときめかせるニアではなくても、訊いて良いはずがない。
 好意を寄せられても、困惑しか返せない泉が聞く訳にはいかないのだ。
 それでも言いかけてしまった事柄を忘れてくれるほど、ニアは生易しくなかった。
 シウォン関係だからだろう、泉の両肩に手を置いては、訊ねかけた話を引き出そうと揺すってくる始末。
 しかもその眼には何かしら若干の期待が込められており、ニアの真意をいまいち把握できない泉は返事に窮した。
 するとそこへ訪れる、エンと同じ頃合に現れた二人の人物。
「おはよう。今日はよろしくね」
 片手を上げて爽やかに挨拶したのは、泉が詰め寄られている状況に頓着しないフェイ・シェン。
「…………」
 対し、何も言わずに胸元に手を当て恭しく頭を垂れたのは、目深帽の少女・緋鳥だ。
 昨日、山にしかないという食材の話をしている最中、雨が止んだからと懲りずにやってきたフェイは、自分の庇護者だと言って緋鳥を紹介していた。
 以前、ワーズがフェイの手駒と表したのも、彼女の事だったらしい。
 その時の話しぶりでは緋鳥にとってフェイは因縁深い相手のはずだが、並行して過保護とも評された彼らの関係は量りにくいモノがある。
 証拠にフェイの前で緋鳥は終始無言を貫いていた。
 喋ったとしても雰囲気に隠せぬ機嫌の悪さが滲む。
 そしてもう一人、緋鳥の様子が移った訳でもあるまいに、フェイを目にしてはあからさまに気色ばむ男がいた。
「泉嬢」
「ぉわっ、ワーズさん! い、いつの間に?」
 知らぬ内、背後まで来ていたワーズに肩を叩かれ、泉の身体が少しだけ飛び上がった。
 けれど眉を顰めた店主は構わずその腕を掴むと、引き摺るようにして山へと歩いていく。
「あ、ワーズ殿も。今日はよろしく」
「……泉嬢、ちゃんと歩いて」
 にっこり笑うフェイをちらりとも見ないワーズは、よろめく泉の腕を離す事なく要求だけを突きつける。
 泉は掴む手の痛さに片眼を瞑りつつも、自らの足でバランスを取って歩き出した。
 ワーズさん……機嫌は朝から悪かったけど、このせいなのかしら?
 人間以外の種族がどれだけいたとしても、ここまで不機嫌なワーズは珍しい。
 思い返せば昨日もフェイの姿を見るなり表情を硬くし、山に行く話を聞いて彼が同行を申し出たなら、纏う雰囲気が一気に刺々しくなっていた。
 いつもの笑みを貼り付けたままの状態で。
 ……でも結局は、勝手にしろ、で終わったのよね。
 フェイの何がワーズをここまで苛立たせるのか、泉には全くもって分からないものの、それでも共に行くことを許した彼へ、泉はこっそり笑ってしまった。
 本当に勝手にしろというのなら、わざわざ麓で朝食を摂り、彼らを待つ必要はないのだから。
「シン殿も。行くよ?」
「お、おお」
 おにぎりを食していた位置まで戻ったワーズが声を掛けたなら、ランを診るエンに場所を譲った――というより彼の包帯姿を恐れて距離を置いていた竹平が駆け寄ってくる。
 ここでようやく泉の腕を解放する、と思いきや、銃を持つ腕を竹平に差し出したワーズは、怪訝な顔で自分を見つめる彼へへらりと言った。
「騒山に入るから、ボクの腕、掴んでて。山道に出るまでは離さないようにして」
「お、おお……?」
 理解出来ないという顔つきの竹平だが、奇人街自体、人魚騒動以降出歩いていないため、大人しくワーズの腕に自分の腕を絡ませる。
 視界が良好な分、ワーズに対する怯えは鳴りを潜めたらしい。
「泉嬢も」
 言って掴んでいた手を離したワーズは、その腕を泉に向けて差し出した。
 これにおずおず、竹平と同じように腕を回したなら、ふと思い出したていでワーズが竹平の方を向く。
「シン殿」
「何だ?」
「男同士で腕組んで気持ち悪くない?」
「……てめぇがやれって言ったんじゃねぇか」
 恨めしそうな声が黒い服の向こう側からやってくる。
 これに「ん?」と応じたワーズは、先程までの不機嫌はどこへやら、のほほんとした声音で続けた。
「ボクはただ聞いただけだよ。そもそも、シン殿が腕を組んでくるなんて予想外だったからさ?」
「っ、野郎!……ああもう、分かったよ。つまり掴めば良いんだろ、掴めば――って、いきなり締め付けるな!」
「いやいや。ボクとしては腕組み推奨したいくらいだから、このままで良いよ? 本当にただ、聞いただけだからさ?」
「ぐっ……なら最初っから、妙な事言うんじゃねぇよ、チクショーが」
 組んでいた腕と身体の間に挟まれたらしく、痛みを堪えるような声で竹平が毒づく。
 反対側のやり取りに少しばかり呆れた泉は、すると自分の行動もワーズに取っては予想外だったのだろうかと、組んだままの腕に視線を落とした。
 と。
「泉嬢?」
「あ、はい」
「君はもうちょっと強くね」
「はい」
 どうやら予想通りだったらしい。
 何ともなしに気恥ずかしさを感じた泉、添わせるていで絡めた腕に身を寄せ。
「そうそう。胸が潰れるくらいの強さでね。何だったら胸の間に埋めても良いから」
「…………」
 前触れもなく吐かれたセクハラ発言に、どうしたら良いのか分からず、小さく呆れ混じりの息を吐き出した。

 

 


UP 2010/2/22 かなぶん

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