妖精の章 三十七

 

 人間好きを豪語する芥屋の店主だが、両腕を彼らに取らせて喜ぶような性癖は持ち合わせていない。
 そんな彼がわざわざ両腕を差し出した理由は、偏に奇人街と騒山を隔てる境界のせいである。

 ワーズの腕にしがみついたまま歩を進めて程なく、複雑怪奇な街並みが開けたなら、現れた景色に泉の喉がごくりと鳴った。
 これから登る騒山の、陽を遮る影の大きさもさることながら、目前に控えるアレは一体……?
「……霧?」
 とりあえず、自分の記憶の中にある、尤も近い名詞を口にしてみた。
 次いで視線を左右に泳がせては、堅牢な城壁の如く山の周囲を覆う白い風景に、ぞくりと肌を粟立たせる。
 まるで此処から先は別世界だと、来る者全員に警告を発しているようだ。
 凪海という前例があるため、普通の山だとは思っていなかったが、あの海を上回る不可思議な景色の洗礼に少しばかり泉の腰が引けてしまう。
 ――となれば、泉よりも奇人街慣れしていない少年が、ぐっと地面を踏みしめても仕方のない事。
「わわっ」
 自由の利かない右を無視して左が前を行けば、当然崩れるバランス。
 死角になっている竹平の動きに引き摺られ、泉の身体はワーズへと倒れ込んでしまった。
 と思えば、腕を掴まれて反対方向へと引っ張られる。
「ぎゃっ」
「おっと。御免ねー?」
 結果、竹平を下敷きにするのはワーズのみとなり。
「だ、大丈夫ですか?」
 そこに加わるはずだった泉は声を掛けつつも、助けてくれた相手を振り返った。
「ありがとうございます、ニアさん」
「……はあ」
 倒れるのを免れた礼に対し、何故かやっていられないと首を振るニア。
 そのまま泉の左手の指に自分の指を絡ませて手を繋いでは、艶かしい動きにぎょっとする泉をじろり、深緑の瞳で睨みつけた。
「貴方ったら言っても分かんない人みたいね? 私が一緒に行ってあげるから、店主と密着するのは止めてくれないかしら?」
「み、密着って、私は別に」
 確かにそう言われても仕方のない状況だったが、泉から望んでワーズに腕を絡ませたわけではない。
 とはいえ、傍からそういう風に見えていたと知らされたなら、反論できる余地がないのも事実。
 口ごもり、遅れた羞恥に頬を染める泉へニアはもう一度首を振ると、ワーズたちが立ち上がったのを目にして歩き始める。
 引き摺られる形の泉が慌てて歩幅を合わせれば、竹平の鈍い足に構わず進む黒い背のその先、立ちはだかる白い霧を見つめてニアが訊ねてきた。
「ねえ、綾音泉。貴方は騒山についてどのくらい知っているのかしら?」
「え……と、ほとんど知りません。――というかその前にニアさん」
「何よ」
「その、出来ればフルネームじゃない方が良いんですけど」
 言いつつ、ふと頭の中で再生される、某剣士の理不尽な主張。
 自分の事は名前で呼べというくせに、猫を巡る敵だからと泉の事は名字で呼ぶ彼女を思い起こしたなら、ニアもそういう風に切り返してくるのでは? との考えが過ぎった。
 父娘で認めたくない話ではあるが、シウォンを慕うニアにとって、彼が想う泉の存在は恋敵以外の何者でもないのだから。
 けれどもフルネームないし名字で呼ばれるとばかり思っていた泉に反し、了承したと頷いたニアは言う。
「じゃ、泉」
「え」
「何? 自分で言ったくせに不満があるの?」
「い、いえ! 決してそんなっ!」
 塞がっていない方の手と首を横に振り全面否定の姿勢で臨む泉に、片眉を上げただけのニアは「ふーん?」と気のない返事。
「ま、いいけど。それでえーっと、ああ、そうそう。ほとんど知らないって言うなら……え、正気?」
 いきなり立ち止まったニアが目を見開いて泉の方を向く。
 引っ張られ足を止めた泉は、拍子で出発前、シイが言っていた「心中」という単語をぽろっと思い出した。
「あ、あの、騒山ってそんなに凄いところなんですか?」
 思わず口から出る問い。
 奇人街自体が凄い、もしくは酷い場所だろうに、そこの住人をして行くだけで正気を疑われる騒山とは?
 元々あった心配が更に色を増して鮮烈な光を放てば、先を行くワーズの姿を一瞥したニアが歩みを再開。
 繋いだままの手に従って泉が並ぶのを見計らい、ニアは困惑を浮べる頬を掻いた。
「うーん。なんて言えば良いのかしら。とりあえず、予備知識もなく一人で行けば楽に死ねるところ、かな?」
「ら、楽?」
 今まで死にそうな目には幾度となく合ってきたが、それら全てが楽とは程遠い。
 死=楽の図式を上手く描けない泉に対し、関連する言葉をそれ以上重ねず、ニアの空いている手が前方、間近に迫る霧を示した。
「んで、最初の関門があの境界。奇人街と騒山には決定的に違う箇所があるから、ソレが互いを浸食しちゃわないように大昔に設けられたところ、なんだって。境界が出来た詳しい経緯は、私も書物を参考にしているだけでよく分からないんだけど」
「ええと……じゃあ、奇人街と騒山の決定的に違う箇所、というのは?」
「騒山には四季があるの。時の移ろいが環境に作用している。奇人街は停滞しているから、騒山とは相容れない。とても近くにいるのに同じようには歩けない」
「…………」
 ふいに泉の視線が、霧の手前にいる黒い背を見つめた。
 ふらふらしながらも止まらない歩みは、怖じ気づく右腕の少年を物ともせず、爪先を何度も霧に向けて進んでいく。
 ――離れてから一度も泉を振り返ることなく。
 マルデ初メカラ私ナド何処ニモイナイ、トデモ言ウヨウニ。
「まるで私とパパの関係みたいじゃない? どれだけ想っても報われないんですもの」
「…………へ?」
 思い耽れば熱っぽい吐息を織り交ぜ、ニアがそんな事を言った。
 我に返るというよりも、聞き間違いであって欲しい面持ちで惚けた声を上げたなら、物憂げな深緑の瞳が唐突に泉を射抜いた。
「何よ、その「へっ」て。鼻で笑わなくても良いじゃない」
「え……ええっ!? い、いや、あの、それは濡れ衣というか、思い違いというか」
「酷いっ! 思い上がりも甚だしいなんて!」
「だ、誰もそんな事、一言も言ってないでしょうが!」
 どうやらニアは、一度思い込むと突っ走る傾向があるらしい。
 彼女の父親であるシウォンも似たような性質を持っているため、外見どころか内面まで似ていると泉は妙な感心を抱いた。
 とはいえ、惚けを嘲りと勘違いされたままでは居心地が悪い。
 ショックを受けながらも、握った手を離さないニアならば尚の事。
 否定に力を込めて叫ぶ泉に、口を尖らせたニアは歩きながら下を向いていじけ始めた。
「いいもんいいもん。どうせ私は変な子ですよ。好きな人が実父ってだけなのに、皆して頭大丈夫かって……何よ、自分たちはアレコレ好き勝手にパパの事褒めちぎるくせに。私だってパパに抱かれて」
 段々熱みを帯びていく語り口に合わせ顔を上げていくニア。
 恍惚を象る微笑みに泉が若干引いた、まさにその時。
「みた――っぃだあ!?」
 ガゴッという鈍い音と共に、ニアの頭が思いっきり前に出た。
「きゃっ」
 これを追ってニアの身体が動いたなら、手を繋いだままの泉もバランスを崩しつつ、同じ速度で足を踏み出し。
 最中、一瞥する事になった背後で、エンに担がれたランや意気揚々とついてくるフェイに黙々と続く緋鳥の奥、何故か行き先を同じとする人狼集団の中央、ピッチャーよろしく何かを思いっきり投げた後のモーションをするシウォンの姿を目撃。
 ニアの突然のよろめきが、シウォンが投げた何かのせいと至った泉は、絶妙のタイミングから自分たちの話が彼に聞こえていたのだと気づいた。
 人狼の聴覚、恐るべし。
 思わずシウォンを凝視するようにこげ茶の眼が固まったなら、遠く霞む彼の顔がゆっくりと向けられ――
 直前、急に視界が真っ白に染まっていく。
「わわっ!?」
 移り変わりの激しさに声を上げたなら、ニアの手が泉を自分の方へと引き寄せた。
 腕がぶつかるほど近くにいても見えない不明瞭な視界の下、硬く結ばれた指先から「離さないで」というニアの意思が伝わってきた。
「あーあ。つい話に夢中になっちゃって碌な説明出来なかったわ。ん、もう、それにしても誰よ? 人の頭につぶて投げやがった奴!」
「え、えと、シウォンさんだと思います」
 見えないにも関わらず、牙でも剥きそうな勢いに負けて挙手をする泉。
 するとニアの態度が一変、もじもじ照れるような風体でうふっと笑った。
「やだっ。私の話、パパに聞かれていたの? しかも正確に頭を当ててくるなんて、そんなに見つめられたの、初めてだわ」
「…………」
 何を言っても無駄だと声だけで分かる、ニアの豹変っぷり。
 全くもってついていけない泉は前方――と思しき白い世界を今一度眺めた。
 すぐ隣にいるニアさえ見えないのだから、前を歩いているはずの黒い背やへっぴり腰の同僚の姿が見えないのは当然。
 かといって埋め尽くす白に不思議と恐怖はなかった。
 手を繋げる他者がいる、それだけで心強いのは確かだが、この恐怖心の欠如は他の要因を感じさせた。
 この霧のせい、なのかしら?
 ともすれば自分という存在さえ見失ってしまいそうな、混濁した意識に陥りかけた泉は、その中で奇妙な感覚に囚われていく。
 前にも一度、同じ事があった……?
 何処で、とは明確に示せない。
 けれども泉は確かに眼前の虚無を知っていた。
 そしてそれは、圧倒的な支配にも似て、鈍い泉の思考を根こそぎ奪いかねないほどの力を含んでおり――
「っ!!」
 急に開けた視界、退いた白の空間に泉の息が詰まった。
 無から有へ。
 取り戻される自己の大きさに、直前まで閉塞していた心が金切り声を上げる。
 ともすれば倒れてしまいそうな眩暈に襲われ、泉は咄嗟に自分の胸を押さえた。
 身体を響かせる鼓動を手と内で聞き、久しく忘れていたような深い呼吸を繰り返す。
 幸い、泉の変化は内側だけで、手を握ったままのニアは前方を向いたまま、こちらの様子に気づいていない。
 異常を察せられたところで答えられない泉は、改めて息をつくと、胸から手を離して辺りを見渡した。
 霧が晴れた先には、山道と思しき踏み固められた傾斜のある地面と、木々や藪が鬱蒼と生い茂る緑の風景。
 先に霧の中を進んでいたワーズは、泉を待つようにして山道を後ろにへらりと笑っており、その近くでは四つん這いになった竹平が、荒い息を藪に向かってついていた。
 どうやら泉以上に、霧の中が負担になっていたらしい。
 これから山を登るというのに大丈夫なのだろうか、そんな風に思った矢先。
「うっ……な、何?」
 完全に霧を振り切った身体が、周囲の変調から逃れるべく一気に汗を流し始めた。
 奇人街の穏やかな気候に慣れていた身に絡みつくこの感覚は、久しく忘れていた記憶を呼び覚ます。
 夏。
 それも真夏といって良いくらいの気温である。
「あづ……」
 思わず呻いた泉、ニアから手を離すとふらふらワーズたちの下へと歩み寄っていく。
 竹平の不調を霧のせいと考えたのは早合点だった、そう思い直すくらい、暑さから彼と同じようにワーズの足下へ倒れ込んだ泉は、へたり座る身を両手で支えつつ、真上に在るへらり顔へ紅潮した虚ろな眼差しを向けた。
「わ、わーずさん……あっちゅいよぉ」
「うん、まあ、そうだろうね。その服、何枚か重ねて着るタイプだし」
 言ってしゃがみ込んだワーズがおもむろに白い手を伸ばした。
 そして一言の断わりもなく上の一枚を脱がしに掛かっては、されるがままの泉からほっと小さく息が上がる。
 合間にも、もう一枚脱がされていく服。
「シン殿も泉嬢と同じタイプの服だから、一枚残して脱がせてみたんだけど……今度は男に脱がされたっていうので具合悪くなっちゃったみたいでねぇ。ランっていうよりアレはキフのせいだと思うけど」
「ぬがされ…………わ、わわっ!?」
 しみじみ語るワーズにより、自分の服が脱がされている現状を把握する泉。
 暑さで朦朧としていた意識を手繰り寄せるように、次から次へと服を剥ぎ取るワーズの手を除けようとするのだが、籠もる熱に鈍重な動きしか出来ない手は役に立たず。
 最終的にクリーム色の上着と、白いズボンに落ち着いたなら、幾らか楽になった呼吸の下、差し出された服を受け取った。
「リュックに入れておいて。また後で必要になるから」
「……はい」
 手際よく脱がされてしまった服に言いたい事は山ほどあったが、涼しさを得た後では説得力に欠けてしまう。
 変わりに後で必要になるとはどういう意味だろうと考えつつ、言われた通りリュックサックへ服を仕舞ったなら、眼前に手の平が現れた。
 ワーズより華奢なそれを握れば、想像だにしなかった力と勢いで引っ張られ、そのまま地面の上に立つ。
「に、ニアさん?」
 些か乱暴な動作に手の平の主を見やった泉だが、当の娘は父親譲りの艶に憂いを乗せて、深緑の瞳に長い睫毛の陰を落としていた。
「……無防備過ぎ。これがパパだったら貴方、もう二度と陽の目は拝めないんだからね?」
「は、はい」
 忠告というより案じと聞こえる声音。
 神妙に頷いてみせればニアは今一度溜息を零しかけ――転じ、目を細めては射るようにして霧がある方を見やった。
 つられて泉がそちらを向いたなら、エンとラン、フェイや緋鳥に遅れて、入り口同様壁になっている霧から美丈夫の姿が現れる。
 それまで白い視界に覆われていたせいだろう、逸らす間もなく交わされる視線に、緑の瞳が大きく見開かれた。
 次いで口まで開いてしまったなら、咥えられていた煙管がシウォンの唇を離れ落ち、彼の身体を支えるようにして侍る女の手に納まった。
 しかし、それすら気づかぬ様子で泉だけを食い入るように見つめるシウォンは、瞳に宿った光をくるり回すと、何か言いたげに一歩進み。
 だが今度は、泉の方から視線を逸らす。
 動揺する気配が伝わってきても、全員が揃った事で歩みを再開した黒い背だけを見つめて。
 追従するのはニア。
 視線を泉と同じ方向にしたニアは、興味深そうに「ふぅ〜ん?」と笑う。
「人魚の本領発揮、ってところなのかしら?」
「ニアさん……何だか楽しそうですね?」
 普通、自分の好きな相手が他の誰かを見ていたら、嫉妬くらい抱くものだろうに、ニアは先程から泉に随分と好意的な態度を示している。
 まあ、実の父親に惚れる状態が普通かと問われれば、答えられる口はないのだが。
 ともあれ、泉のこの問い掛けに対しぱちくりと瞳を瞬かせたニア、人差し指を顎に当て考える素振りを見せては、おおっと感嘆の声を上げて手を打った。
「なるほどね。言われてみれば楽しいのかも」
「は?」
「というか、言われるまで全然、楽しいって事に気づかなかったわ」
「……もしもし?」
 訳の分からないひとり言を展開され、取り残された泉は眉根を寄せて軽く手を振ってみる。
 気づいたニアは年相応の笑みで迎え、幾ら似ていようともシウォンには出来ない溌剌とした表情に、泉の胸が若干ときめいてしまった。
 か、可愛い……
 男女問わず、メロメロにしてしまう微笑がそこにはあった。
 きっと、泉が男だったら問答無用で押し倒す場面だろうが、幸いな事に彼女は女。
 それでも当てられた熱は頬を薄っすらと赤く染め、これに気づかないニアは視線を前方へ戻すと、ぐっと拳を握り締めた。
「私ぐらいの年ってね、人狼としての本性が出てくる頃合だから、同性とお喋りするより、異性への興味ついでに襲う方が多くなるの」
「へ、へー……襲うんだ、ついでで。女の人の方が……」
 あんまり知りたくなかった人狼女の習性に、ニアに絆された視線が下を目指して逸れていく。
「私はパパ以外の異性に興味ないから、そういう感覚っていまいち分からなくて、皆の話にも乗れないのよ。誰が上手いとか、サイズがどうのとか、こんな趣味だったとか、何回ヤらせたとかさ。知るかって言うの!」
 ……何ノオ話デスカ、ソレ。
 危うく停止しかけた思考にぎこちなく顔を上げたなら、ムスッとした顔で前方を睨みつけるニアがちらりと泉を見やった。
 すぐさま視線を前に戻しものの、照れくさそうに薄っすら染まった頬を掻いては、小さく息をつき。
「同い年って言ったら司楼もいるけど」
「司楼さん? 司楼さんも同い年なんですか?」
「うん。だけどあいつはパパの側近で、私より何倍も長い時間を生きてて…………それに物凄く嫌な奴だし」
 顔を心底嫌そうに歪め、怒り口調でニアは言う。
「…………」
 人狼の中では比較的接しやすい少年の話に、泉はぱちぱちと目を瞬かせるばかり。
 シウォンの側近である事や、同い年でも自分より長い時を生きている事には、特別思うところなどないが、あの司楼をして“嫌な奴”という評価には些か驚いてしまった。
 何かの間違いではなかろうかと口を開きかければ、怒りを除くように首を振ったニアが、くすりと笑って晴れ晴れと告げる。
「だから嬉しいのね、きっと。普通に話せて、こうして一緒に歩けて。楽しいんだわ、私。相手が恋の好敵手だったとしても」
「ニアさん……」
 最後の一文を除けば、温かく響く言葉の数々。
 夏の暑さ、木漏れ日越しに照り付けてくる陽にやられつつ、泉はもしかしたらと思った。
 もしかしたら、ニアとは友達になれるかもしれない。

 背後に続く、恋の云々を除いたなら――

 

 


UP 2010/3/24 かなぶん

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