妖精の章 三十八

  

 泉が記憶する夏山の風物詩と言えば、蝉の鳴き声だろうか。
 蝉時雨。
 昼夜を問わず響く、その音色。
 精一杯生きているのだという訴えにも、死にたくないという断末魔の叫びにも聞こえる、夏の音。
 距離感を失ったソレは音源の姿を木々に隠し、訪れた者を拒み惑わせるように、際限なく辺りを震わせる――

 けれど。

 靴越しに届く土の感触。
 これを蹴って足を前に出せば、平地よりも早く斜面が靴底を迎える。
 何度も繰り返せば強張る腿に重くなる足取り。
 幾らか薄着になったところで長袖、風通しは良くとも滲む汗は内に籠もり、煩わしい熱を与えてくる。
 自然、荒くなる息。
「あつ……」
「言わないで。もっと暑くなるから……」
 ぽつりと呟けば隣から少女の声が届く。
 心なし自分より疲れていると感じたなら、黒衣とその隣にいる水色の衣を見ていた視線が勝手に横を向いた。
 するとそこには、目に見えてバテているニアの姿があり。
「…………あれ?」
 そのまま更に横へと滑った視線は、続いていた後方の列が乱れているのをしっかり捉えた。
 形容するならゾンビの群れ。
 平気そうなのは泉のすぐ後ろにいる、見るからに暑苦しい格好のエンだけで、他は人狼に至るまで全員が全員、ぐったりとしたていで続いている。
 いや、どちらかといえば、強靭な肉体を持つ人狼たちの方が辛そうだった。
 それならそれで休めば良いのにと思うものの、疲労困憊の集団の中に鮮やかな緑を見つけた泉、思いを吹き飛ばす勢いで前方に視線を戻した。
 ええと、状況から考えるともしかして、人狼の人たちが止まらない、ううん、休めないのってシウォンさん、引いては…………私のせい?
 自惚れたくはないが人狼の、否、シウォンの目的は山ではなく、泉の可能性が高い。
 度々目撃している、睨みつけるような眼差しには、ほとんど泉しか映っていなかった。
 こうして背を向けていても突き刺さる視線の気配は後方、シウォンからと見て間違いないだろう。
 ……はあ。
 心の中だけで盛大に溜息をついた泉は、軽く息を吸うと前方、エン以上に暑苦しい格好をしているくせに、エン同様いつも通りふらふら澱みなく歩くワーズへ声を掛けた。
「あの、ワーズさん」
「んー? なんだい?」
「ちょっと、休憩、しませんか? 私も、ですけど……竹平さんも、結構、キツそうですし」
 皆、と言いたいところをぐっと堪え、人間好きで人間以外を蔑ろにする彼へ、上手く作用するよう工夫を凝らす。
 この場でワーズが気にするであろう人間は、泉と竹平の二人だけ。
 しかも、比べてみると非常に癪だが、泉よりも竹平の方が辛そうだった。
 ううん。じゃなくて、ワーズさんとエン先生の次くらいなんだ、私。
 客観的に疲労具合を量れる時点で、自分の大丈夫さ加減に遣る瀬無い思いが込み上げてくる。
 そんな泉の思いなど知るはずもない店主は、竹平の様子を見てへらりと了承した。
「うん。分かった。でももう少し歩いたらね。あとちょっとで開けたところに出るからさ」
「はい」
 顎を伝う汗を拭いつつ答え、「もう少し」を励みに足を動かしていく。
 騒山を覆う霧を出てから、程ない距離。
 にも関わらず、こんなにも身体の動きが鈍くなるのは、久々の山歩きのせいか、はたまたこの暑さのせいか。
 ……音のせい、もあるんじゃないかしら。
 否応なく落ちる夏の陽光、生い茂る青々とした植物、時折ちらほらと見知った大きさの虫たちが行き交う――なれど。
 届く音はただ無音。
 自分たちの息遣い、地を踏む音だけが、耳朶を震わせる全て。
 目を瞑って歩けば、延々と続く闇の中を黙々と進む己が過ぎる。
 疲労から少ない口数は多勢を感じさせず、ゆえに増して独りが浮き彫りになってしまう。
 体力的には勿論の事、精神的にも参ってくる状況下、それでもふらふら進む黒い背中を追って歩いていけば、やがて聞こえて来る音があった。
 息遣いや足音ではない、もっと粘着性のある――
「うっ」
 次いで唐突に襲ってきたのは強烈な臭気。
 思わず呻いて口元を押さえた泉、匂いの正体を探って前方を見やれば、同じように口を押さえつつも右隣のワーズに引き摺られて歩く竹平の姿を目撃。
 そこからちらり、右側に掠めたモノがあればそちらへと目を向ける。
「!」
 途端、絶句。
「騒がないで」
 そんな泉に対し、左隣のニアが億劫そうな声でぴしゃりと言った。
「そのまま口を塞いでいなさい。取り立てて煩くしなければ、向こうもこちらに気づかないから」
 暑さから来るだれた調子とは裏腹に、緊張を孕んだ手が口元を押さえる泉の手へ被さった。
 緩く首肯したなら、ニアはそれ以上何も言わず、臭気に俯く泉の頭を抱えるようにして先を行く。
 早くこの場から立ち去りたいとでもいうように。
 泉とて同じ気持ちではあったが、それでも視線は草木の向こう、下方の光景を捉えて離さなかった。

*  *  *

 山の中、誂えられたように絶壁に覆われた広場。
 そこへと続く一本道は少し高い位置にあり、車輪の跡が二本、縁のギリギリまで草を掻き分け地面を露出させいていた。
 丁度そこから、荷車の中身を下へ落とす風体で。
 決して一、二度では済まないだろう荷車の行き来は、広場に落ちた中身の状態から見てもよく分かる。
 狭くない広場を埋め尽くす勢いで積み重なる、その中身。

 数多の――死体。

 あるいは空を指し、あるいは地に垂れ、一つとして同じ形はないと感じさせるほどに、死体の四肢は先を方々へと向けている。
 時に、生を得ては悲鳴を上げるであろう、曲がりくねった格好で。
 声は亡くとも姿の奇怪さを嘆くように、顔と判別出来るモノは全てが穏やかならざる最期を象る。
 損傷は首や四肢を失くした者、裂かれた腹から臓腑を覗かせる者、折れた骨が皮膚を突き破った者等多岐に及び、同じく一貫性のない致死は、刀傷から火傷、毒性を匂わせるモノまで存在している。
 流す血は地に落ちる前に先客の上で干からび、奇人街の規格に納まらない山ゆえの匂いは、腐臭を帯びて死体の中に糸を引く。
 匂いにつられてか、たかる虫と思しき影は周りをうろつき、けれどもそれらが触れるのは血肉ではなく、広場の隅に寄せられた残骸。
 骸の山に群がる者たちが放り捨てた、原型を留めない代物だけ。
 その群れの主、その容姿は。
 生白い肌、黄色い一つ目、触手のような指、唇のない剥き出しの歯――
 脇目も振らずに山を食す、夜しか現れないはずの化け物・幽鬼。
 一心不乱に貪る数は十を優に超え、中には同属を喰い、喰われてもなお気づかぬ者までいる。

 ゆえに。

 ワーズが言った通りの開けた場所に出るなり、誰よりも先に奥の茂みへ走った泉は、そこで堪った不快を全て吐き出した。
 匂いだけでもキツいところを、瞼を閉じても浮かぶ光景が、拍車を掛けて泉の喉に苦味をもたらしていく。
 溢れる涙と鼻水、涎から更に数度嘔吐を繰り返せば、熱く痺れるだけだった頭が幾らかマシになり、影の中で粘つく汗が冷えたせいか、遅れて全身が寒気に襲われる。
 背負っていたリュックからティッシュを取り出し、顔の体裁を整えた泉は、同じくリュックから水筒を取り出して数度うがい。
 取り出した物をリュックに仕舞ってはふらつく足で立ち上がり、戻した後へ靴でおざなりに土をかけた。
 そうして皆がいるであろう場所へと戻り。
「すみません。気持ち悪く…………って、あれ?」
 勝手に行動し待たせた事を謝るべく、青褪めた口を開いたなら、そこに広がる光景に惚けてしまった。
 何せ自分一人が無様に苦しんでいたと思っていたのに、ワーズやエンは兎も角として、同じ人間である竹平は言わずもがな、人狼たちすらぐったり倒れているのである。
 無論、これだけ具合の悪い者がいたなら、彼の包帯巻きの医者は嬉々としてそんな人狼間を行き交っており。
「大丈夫かい、泉嬢?」
「あ、はい。何とか」
 木陰で喘ぐ竹平の傍、苦しむ人間外の姿を喜ぶでもなく眺めていた、常時へらり顔のワーズが泉に向かっておいでと手招きする。
 他に所在も無く近づいた泉は彼の隣に立ち、呻く声で誘引される吐き気から口元を押さえつつ。
「……あの、ワーズさん」
「んー?」
「その……人狼の人たちって暑さに弱いんですか?」
「んー、まあそだね。奇人街じゃ温度は一定だし、ただでさえ人狼は夜行性で寒い方が好きだし。ほら、奴らの巣もそんな感じだったでしょ?」
 ワーズの言う巣とは、人狼が住処としている“洞穴”の事だろう。
 奇人街の地下に広がる空間は、確かに地上よりも涼しい、もしくは寒かったのを思い出した泉。
 けれどもそうなんだと納得する前に、肩を竦めてワーズは言った。
「だけど、そればっかりって訳じゃないだろうね。ほら、アイツらって鼻が良いからさ。さっきのアレで相当キたんじゃない?」
「え? ええと、でもそれって……人狼なのに?」
 さっきのアレが指す光景を描きかけ、慌てて首を振った泉。
 今度は奇人街における人狼の残虐性を思い浮かべて首を傾げた。
 ……それはそれで、胃がムカムカしてしまう話なのだが。
「泉嬢の言いたい事は分かるよ。奇人街じゃあんなのゴロゴロあるし、殺っているのは大概人狼だからね。だけど奇人街じゃニオイはそこまでキツくない。死にたてならまだしも、腐っちゃってるのはほとんど無臭でしょ?」
「で、でしょって言われても……」
 一度だけ、ワーズ言うところの「腐っちゃってるの」を間近で見た事のある泉は、思わずその原因となったシウォンを視界に納めた。
 同族以外の女を飽いたら喰らう彼の、寝床兼食事場にあった、腐れた頭部。
 陥没した頭蓋から現れた鼠然の動物や濁った目の中で泳ぐ虫、それでいて微笑む女の表情までも浮かべてしまったなら、相変わらず女を侍らせながら木陰で休む彼の姿にどうしようもない溜息が零れていく。
 次いで溜息で終わらせてしまう自分の感覚にも嫌気が差してきた。
 すっかり奇人街に慣れてしまったと思えば、下降する一方の気分に視線が自然と下を向き。
 ふと視界の端に黒衣の裾を見つけたなら、別の話題を共に見つけてワーズに振った。
「あの、ワーズさん」
「んー?」
「その服、黒いのに暑くないんですか?」
「うん。はい」
 ぽんと差し出される黒い腕。
 意味が分からず混沌を見上げれば、へらへらした顔は重ねる言葉もなくそこにあり続ける。
 ええと……さ、触ってみろって事なのかしら?
 「うん」という肯定だけで終わる話だろうに、ワーズのやりたい事がいつもながらさっぱり理解出来ない泉は、それでも恐る恐る黒い袖に触れ。
「うわぁ……」
 熱の籠もった外気の一切を感じさせない、ひんやりとした触り心地に、思わずもう一方の手もワーズの腕に置いた。
「ひ、卑怯ですよ、ワーズさん。何ですかこの服、すっごく快適じゃないですか」
「まあね。ボクの服は特製だから。何だったら抱き締めてあげようか? その後が地獄になるけど」
 取られた腕ごと泉に向かって両手を広げ、妙な誘惑をしてくるワーズ。
 抱き締められる恥ずかしさはさて置き、彼の言う通りこの温度に慣れたら慣れたで、登山を再開した折、温度差に苦しみそうではあるが。
 辟易するこの暑さと戻した具合悪さを鑑みるに、抗いがたい魅力を感じるのもまた事実。
 甘い匂いで虫を誘う食虫植物の如く、おいでと両腕を広げるワーズに対し、泉の足は一時の夢を求めてふらふら彼へと近づき――かけ。
「そう、わあっ、問屋がおろす、もんっ、ですかあっ」
「うぎゃっ!!? に、ニアさん、あっつい! 暑苦しいですっっ!!」
 背後から伸びた両腕が顔の横を通り、負ぶさる形で泉の上半身を引いた。
 抗議したところで泉を抱き寄せたニアは解放を許さず、熱に濁った深緑の瞳が危険な光を携えて頬に擦り寄ってきた。
「ふ、ウヒヒヒヒ……ひ、一人だけ、涼しい目に合おうたー、ふてーアマだぜー」
「に、ニアさん? 何かさっきと言っている事違いません?」
 先程まで、シウォンの神経を逆撫でするなと、ワーズから引き離したニア。
 それが今では、涼む事に対しての文句に変わっており、そんな泉の指摘に荒い息使いのまま一時止まったニアは、蕩けた思考が追いつくなり「ふっ」と小さく息を漏らした。
「同義よ」
「違いますって!」
「むぅ。うっさいなー。そんな可愛くない事言う泉はぁ、こうだっ!」
「ひゃはっ!?」
 完全な不意打ちでぐにゅっと掴まれたのは、正面にいるワーズ以外には見えない部分。
「お。にゃかにゃか手頃な大きさですのー。あたしのお手てにぴったりー」
「ぎあっ!!? な、何してんですか、ニアさん!? わ、ワーズさんも見てないで助けて!」
 熱に浮かされた酔っ払い口調を体現するように暴走するニアの手を押さえつつ、もう一方の腕を伸ばしてワーズに助けを求めたなら、彼女の手の動きをじーっと見ていた男はへらりと言った。
「丁度良いんじゃない、泉嬢。人狼どもと話すシン殿の事、羨ましそうに見ていたし。仲良くなる分にはボクは止めないよ。利用できる奴は多い方が良いからね」
「そ、そういう仲の良さは求めてませんっっ!」
 友達が欲しいと思っていた事を、まさかワーズが察していたとは夢にも思わなかった泉だが、そこに気を配るなら適切なのは今ではないだろう。
 そのくせニアの所業に喘ぐ泉から目を離さないのだから、段々と別の目的で放置されている気がしてきた。
 いや、そもそも放置って……何でそんな言葉が出てきているの、私!?
 嬌態もどきを演じさせられつつ、変な方向をひた走る脳内に、全ては暑さのせいだと思いたい泉は徐々に泣きたい気分に陥ってきた。
 何故こんな山中で、それも他の眼があるところで、同性に弄られる場面を好きな人に見られなければならないのか。
 ――って違うし! 私は別に、ワーズさんの事なんてっ……き、嫌いではありませんけど、そりゃあどちらかと言えば、好き、なんでしょうけど。
 でも大半は恋腐魚のせい、そう泉が揉みしだかれる先で叫んだなら。

「い・い・か・げ・ん・に・しろっ!! この大馬鹿娘がっ!!」

 低い怒声に合わせ凄まじい打撃音が鳴った。
「ぎゃひんっ!?」
「うきゃっ!?――――わっ」
 音源と思しきニアが倒れるのと共に仰け反った泉は、その前に背後から引っぺがされ、代わりとばかりに肩へ回された黒い腕に抱えられる。
 咄嗟に黒=ワーズと判断し、礼を述べかけた口だったが、見上げた先に後方を睨みつける美丈夫の姿を見つけては、思わず回された腕を両手で掴んだ。
 人狼姿であれば牙を剥いているところだろうに、泉の行動を過敏に感じ取ってはビクッと過剰な震えを示して、シウォンがこちらを向く。
 久々の近距離に、何故か戸惑う色を浮かべる緑の瞳。
 対して泉は至極真面目な声で言った。
「シウォンさん……そういえば何で黒い服? 暑くありませんか、これ?」
「…………」
 想像だにしていなかったであろう問い掛け。
 なおも沈黙を保つシウォンは、答えの代わりに「第一声がそれか?」とでも言うような、呆れ果てた視線を泉へ送ってきた。

 

 


UP 2010/5/4 かなぶん

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