妖精の章 三十九

 

 小煩い子どもら二人を追っ払い、芥屋の居間にて久々にゆったりとした食事を楽しんだスエ。
 煙草のヤニで黄ばんだ歯の間に楊枝を突っ込み、シーシー言いつつ己の研究室へ戻ろうとした彼は、階段へ向けた足をぴたりと止めると、おもむろに芥屋の店側へ視線を投げた。
 万引き、強盗、強奪、何でもありの奇人街とは思えぬほど、無防備に食材が並ぶ店内。
 スエが製作した箱のお陰で、管理する者がいずとも鮮度の落ちる事がない商品の向こう。
 礼儀を知らぬ住人たちにはない優雅さで歩く男が一人、豪奢な刺繍が施された緋色の衣を足で捌きながら近づいてくる。
 金鎖のグラスホルダーが付いた薄い眼鏡越し、青天の海を思わせる群青の瞳は冷ややかにスエを捉え、酷薄さを強調する薄い唇は端を軽く上げている。
 整った顔立ちではあるが、緩く括られた長い漆黒の髪と幽鬼に似た生白い肌の色彩は、人の温かみに欠けており、髣髴とさせる生き物があるならば蛇に近い。
 とはいえ――

 はっきり言って男は、くたびれた感満載のスエが対峙するには、とことん似つかわしくない相手である。

 しかしスエは男が自分を尋ねて来たことを知っていた。
 しかし馬鹿正直に請け負うつもりもなかった。
 そういう相手ではない事もまた、長い付き合い、よく知っていたがために。
「…………店主ならいないヨ」
「だろうな。彼奴めが我が来訪に気づかぬはずもなし」
 分かりやすいはぐらかしにも関わらず、男は眉一つ動かさずに応じてみせる。
 これに小さく息を吐いたスエは、改めて男に向き直ると面倒臭そうに腕を組んだ。
 三白眼の黒い瞳にも、迷惑だという色を余す事なく浮べて。
「余興の事かネ? アレは確か、ワシから完成を告げる手筈だと思ったが」
「いや。そうではない。そうではないが……少し早めて貰えぬか、とは思うておる」
 対し、にたりと笑みを深める男。
 スエは片眉を上げて応じる。
「さよか。まあ良い、善処してやるヨ。……しかし、それならば」
「鳥に焦がれて一体が消えた。もしやと思い、鳥の巣まで赴いてみたのだが」
「鳥?……なるほど。少し前に神童の小僧が消えたと喧しかったが、急に大人しくなったのはそのためかネ。余程、面白い歓迎を受けたと見える」
「クッ……想像よりは、な」
 殊更酷薄に笑む男を見やったスエは、眉を顰めてフケだらけのくすんだ金髪をガリガリ掻いた。
「勝手は困るヨ。せめて納品の払いが済んでからにして貰わんと。開発に支障を来たしてしまうネ。しかも受注主の生存確認なぞ、面倒を増やしおってからに。全く、館で大人しくしとくが主の心情ではなかったかネ?」
 愚痴るスエを前にして、「まあそう言うな」と笑った男は、肩を竦めて苦笑を象った。
「その一体、糸が切れていたからな。居所が掴めんのだ」
「ふん。切った、の間違いではないか」
 スエが尊大に鼻白めば、男はくいっと口の端を大きく上げてみせた。
「察しの通り、と言いたいところだが違うな。アレは己の意思で糸を振り払ったのだ」
「……その意思すら主の制御下だろうに」
「フッ……千差万別だ。私も無駄な労力は好かぬゆえ、従う者への糸は緩めておる」
「ほう? では裏切られたかネ。ざまあない」
 せせら笑う言をつまらなそうに吐き捨てるスエ。
 男は怒るでもなく受け取ると、ゆっくり首を振って頷いた。
「然もありなん。とはいえその様子、アレはここに来てはおらんようだな。元は人間、店主でも尋ねるかと思うたが」
「はっ。同族だろうと店主を訪ねる輩は稀ヨ。頼る者も同様」
「ふむ。検討違いだったか。……そうそう、スエよ」
「なんヨ」
 去る気配を滲ませた男に合わせ、背を向けかけたスエは億劫そうに振り返った。
 別れの挨拶もなく先に去ろうとしたスエに対し、自分の興味外には目もくれないと知っているであろう男は、さして不満を示すでもなく眉根を軽く寄せた。
 口元には依然、情に薄い笑みを貼り付けたまま。
「アレが言うにはその鳥の名、Seirenというそうだが……何か心当たりはないか?」


「おい」
「……何ヨ?」
 立ち去る男と入れ替わり、現れたのは芥屋向かいに住む剣士。
 今度こそ自室へ戻るつもりだったスエは、またしても足止めを喰らって煩わしそうに眉を寄せた。
 見れば剣士の方も同じように柳眉を寄せており、刃と評される事の多い黒い瞳に至っては、異様に殺気立ってさえいた。
「今、ここに誰か居なかったか?」
 怒鳴りつけたい思いをひた隠した、いやに静かな問いが訪れる。
 ただの問い――なれど漂うは一触即発の張りつめた空気。
 対してスエは、内心で盛大な溜息をつきつつ首を振った。
“今し方、主と擦れ違っただろうに”とは決して口に出さず。
「居らんよ、誰も。店主も娘御も、被検体の小童も皆、山に行きおったわ」
「綾音が?……猫は?」
 これには若干眉を上げたスエ。
 てっきりもう少し食らいついてくるものと思っていたために、三白眼が数度瞬いた。
 けれど剣士はスエのこの様子を別の意味に捉えたらしい。
 ほんのり頬を紅潮させては、気まずそうにそっぽを向いた。
「だ、誰を気にしても良いだろ? 奇人街は何でもありな街だ」
「……それでも猫を好く輩は稀ヨ」
「う、煩い! とはいえ……除け者扱いか」
 帯刀している得物を簡単に抜く割に、意外と繊細な剣士はそれ以上語らず、肩を落としたまま店の外へと戻っていく。
 なんともなしにこれを見送ったスエは、奇人街特有の陽の中へ剣士の背が完全に消えたのを見計らい、ゆっくりと頭を振った。
「最初から、ネ。ワシ以外に此処に居たものはおらんヨ」
 まるで懺悔でもするように呟く。
 そうしてスエはようやく、自分の部屋がある二階へと歩を進めた。

*  *  *

 泉からニアを引っぺがす際、隻腕のシウォンが行ったことと言えば、腕で泉の肩を抱き、ニアに対しては――
「ぐう……ま、まだ痛いわ。流石はパパ。愛の重さが段違い」
「だ、大丈夫ですかニアさん?」
 休憩を終え、再び歩き出した一行。
 またしてもニアを隣とした泉は、破廉恥行為をした少女へ気遣う声をかけた。
 前屈みになりつつこれを受けたニアは、右手をひらひら振って「大丈夫」だと告げる。
「いいのいいの。暑さにやられたのは私なんだし。パパが蹴ってくれなかったら、たぶん、泉の事剥いてたから」
「うっ……」
 冗談と取るには真に迫った言を聞き、泉の上半身がちょっぴりニアから遠のいた。
 しかし腹に両腕を回して痛がるニアを見続けていれば、その距離もすぐ元に戻る。
「ええと、た、確かに助かったには助かりましたけど、お腹は不味いんじゃ……ニアさん、女の子なのに」
「ん、平気。パパは熟達だから上手い具合に調整出来るの。たとえば、臓器には傷一つつけず、地獄の苦しみを与える、とか」
「え……そ、そんなに?」
 思わず背後を歩くシウォンを複雑な感情のまま振り返りそうになった泉。
 慌てたニアは片腕で腹を庇いながらも、手を振ってコレを止めた。
「ち、違う違う。あくまでたとえ話よ。うん、まあ、似たような状況で持ち出す話ではなかったけど。驚かせて御免ね?」
「そう、ですか? でも……まだ痛むんですよね?」
「大丈夫よ、これくらい。昔はパパじゃない奴らから、もっと酷い目に合わされてきたぐらいだし」
「…………」
 務めて明るく言うニアだが、あまり気の休まる内容ではなかった。
 どんな言葉も掛けられずに口を噤めば、フッと吐かれた息がニアの唇を震わせる。
「勿論、やられっぱなしなんてガラじゃないから、ヤられる前に殺って来たけどね」
「…………」
 ニュアンスの違いを感じ取り、どの道言える口のない泉は、前方の黒と水色の背を目で追った。
 それがこのまま続くかと思われた矢先、更に暗い声音でニアが愚痴る。
「いいのよ、相手はパパなんだから。だけどこれが司楼だったりした日には……ああっ、もうっ! 今思い出しても腹が立つ!!」
「へ? 司楼さん?」
 またしてもニアの口から憎々しげに出るその名前。
 繋がりが全く見出せない泉は、今一度ニアを見やると、口を閉ざさずそのまま訪ねた。
「司楼さんと何かあったんですか?」
「何かっ!? 何かってそりゃあもうっっ!…………………………ううん、やっぱり言いたくないから何でもない」
 激昂転じ、唇を尖らせて不貞腐れるニア。
 泉の目にはニアの頬が薄っすら赤くなっているようにも見えており、指し示す邪推が脳裏を過ぎっていった。
 ニアさん、シウォンさんが好きだって言ってたけど、司楼さんも気になっているのかしら? もしくは――司楼さんの方がニアさんを?
 判断材料がニアの様子しかないためヘタな事は言えないものの、頭の中で二人を並べてみた泉は、見た目の初々しさに頬を緩ませた。
 ついでに思い出す、シウォンが好きだという司楼の言葉。
 変な意味ではないとも言っていたが、そんなシウォンにニアが似ている以上、何らかの想いを寄せていても可笑しくないのでは、と勘繰ってみる。
 ……でもそれが理由だったら嫌だな。
 いつの間にか勝手に出来上がった二人の馴れ初めに、これまた勝手な妄想を働かせていく泉。
 全てが内なる考えなれば止める者は影もなし、答えは在っても合っているかはまた別。
 仕様のない思考をはたと顧みた泉は、このままでは堂々巡りを繰り返すだけだと気づき、別の話題を探すために視線を左右に振った。
 そうして映るのは前を行く黒い服。
「黒……といえばシウォンさん、暑くないんですかね、あの服」
 泉は先程掴んだ服の熱さを思う。
 ワーズの服とは違い、シウォンが着用する衣服には太陽光の熱が籠もっていた。
 ただでさえ青黒い髪なのに大丈夫なのだろうかと案じたなら、それよりも黒みの強い髪質のニアが一瞬だけ呆れた顔をしてみせた。
 と思えば何かに気づいた様子で頷く。
「ああ。そういえばそうだった。泉は騒山の事、ほとんど知らないんだもんね」
 前置く様子から、どうやら来る前に知っておくべき事柄だったらしい。
 無知を指摘され若干反発を抱くものの、それが何の役に立つのかと気持ちを静める。
 ケチなプライドで命を持って行かれては堪らないのだ。
 そんな泉の考えを知らないニアは切った言葉を続けず、じろじろと視線を上下させ、不躾に泉の身体を眺めてきた。
 前科者の品定めする目に小さく身じろげば、フンとニアの鼻が軽く鳴らされた。
「芥屋の店主が作った服か……それなら、まあ、問題ないんだろうけど。本当はね、騒山でそういう白系の服は着ない方が良いのよ。蛾が集りやすくなっちゃうからさ」
「……蛾? ええと、蜂じゃないんですか? しかも黒じゃなくて白?」
 黒い服は蜂を寄せやすい――元居た場所に近い常識を聞いて問い返したなら、深緑の瞳をぱちくり瞬かせたニアが少しだけ首を傾げた。
「はち……って何?」
「え、えと、虫の名前です。私が元々居た場所の」
「……ああ、そっか。泉って人間だったものね」
 え……今まで何だと思われていたのかしら?
 地味にショックな呟きを聞き、話の間中も歩みを進めていた足が止まりかけた。
 これをどうにかもう一度振るった泉は、言葉を失くしてニアを凝視する。
「蛾って言うのはね……よっと!」
 今し方の発言なぞすっかり忘れた風体のニア、腹から腕を外して姿勢を正すと、掛け声と共に近くの草むらへ素早く手を滑らせた。
 そうして「はい」と差し出されたのは、
「うわあ……よ、ヨウセイ?」
 元居た世界で目にする事の多かった、けれど実在しないと言われている、人型の幻想生物。
 ニアの手に胴体部分を掴まれたその生き物は、背中の薄翅をばたつかせながら、羽渡に似た瞳の青を怒りに吊り上げていた。
 アップにした煤けた金髪を振り乱し、小さな牙をちらつかせながらも声を一切上げないソレは、尖った爪を用いてニアの皮膚を裂こうとする。
 が、それよりも早く力を込めた手に締め付けられ、ビクンッと伸びては意識を失ってしまう。
「あ。可哀相……」
「はあ?」
 怒り狂っていようとも幻想生物に心を奪われていた泉が、ニアの所業をぽつりと非難したなら、正気を伺う呆れ果てた声音が返って来た。
 柄の悪いそれに少しだけムッとすれば、やれやれと首を振ったニアが幻想生物をボール宜しく手の平で弾ませた。
「あのね、コイツは蛾なのよ。可哀相と思うのはこれを見てからになさい」
 言って軽く斜め前方の草むらへと幻想生物、もとい、蛾を放り込むニア。
 意識を取り戻さない、青褪めた華奢な身体が宙を舞う姿を目前に泉が声を上げる――直前。
 さっと草むらから二体の蛾が現れ、地に落下しかけた身体を受け止めてくれた。
 ぐったりしたままの同族へ、二体は安心させるが如く柔らかく微笑む。
 次いで優しく抱きかかえる暖かな光景を目にし、泉がほっと息をついたのも束の間。

 麗しい微笑みはそのままに、二体がそれぞれ抱えた腕へと喰らいついた。

 痛みに意識を取り戻した蛾が暴れたなら、一体は食い千切った肉を咥えた状態で剥き出しの骨を折り、もう一体はそのまま食い進めていく。
 声なき声を上げてもがく蛾をそれでもなお優しく眺める二体は、それぞれの方法で腕を引き千切り、噛み千切っていった。
 併せて鳴る小さな雑音が、同族に裂かれ喰われる蛾の身体から発せられていると、遅れて理解した泉。
「!? なっ、ど、どうして?」
 思わぬ急展開にニアの袖を引けば、震える泉の様子に鼻を鳴らした彼女は、虫を払う動きで掴まれていない手を振るった。
 途端、シュンッと鋭く宙を切る音が静けさの中に響き、三体の蛾が一瞬にして鋭利な切り口を見せて宙に散開。
 撒き餌の如く肉塊が落下すれば、草むらから何本もの小さく細い腕が伸びてコレを回収していく。
 それら全てが、先程の陰惨な光景と重なれば、自然と泉の口が一文字に引き結ばれた。
「どう? これでも可哀相って言える? コイツらはね、単体では力はそんなにないけど、集団だとさっきみたいに生きながら獲物に喰らいつくのよ。見ての通り同族関係ナシにね。大概、夏の山に生息していて、普段は大人しいっていうか臆病なんだけど、白いモノには目がないの。ほら、さっき幽鬼が死体の山を漁っていたでしょ?」
 ただでさえ蛾の生態で具合が悪くなっているというのに、それ以上に害する光景を話題に上げられ、泉の顔が不快に歪んだ。
「でもってその周りにも蛾がいたでしょ?」
 しかしてニアは気にせず続け、泉もその言葉を便りに蛾の有無を思い出すべく顔を顰めた。
 そうして探る記憶の中には確かに、遠目では特定までこぎつけられないとはいえ、たかる虫の影があった。
 けれどもそれらの影は幽鬼を恐れる風体で、周辺の残骸に纏わり付くのみ。
 山漁りをしていたのは専ら幽鬼だけだとまで浮べられたなら、この答えを知るように頷いたニアが言う。
「勿論、蛾程度じゃ幾ら集っても幽鬼を襲うのは無理。全滅するのがオチね。だけどアイツらは幽鬼の肉の味を知っている。幽鬼も同族を喰う時があるから、その残骸を口にするの。けどやっぱり食べるんなら生きたまんまが良いみたいでさ。だから幽鬼を連想させる白は危ないのよね。例外は、人間贔屓の芥屋の店主が作った不可思議な衣服と……その他もあるみたいだけど」
 「その他」で後方、包帯巻きのエンを見つめるニア。
 病人が出てご満悦のエンは急に振り返ったニアへ首を傾げるが、彼女は何も告げずに前方へと視線を戻した。
「とまあ、そんな具合でパパは黒系の服を着ているって訳。多少暑くても我慢してね。そりゃパパだって蛾くらいじゃビクともしないわよ? でも一々相手すんのは面倒臭い。だからこその黒なのよ! 別に貴方のために黒を選んだ訳じゃないんだからね!?」
「……はい?」
 最後は人差し指を突きつけられ、泉の目が真ん丸くなった。
 ニアの意図するところが分からず、何気なく前を向けばふらふら歩く黒い背中を見つけ、そこでようやく合点がいった。
 泉の気を惹きたいがために、泉の想い人(仮)のワーズの服をシウォンが真似た――という発想に、他の誰でもない泉自身が行き当たった、とニアは考えているらしい。
 なんともややこしい話だ。
 泉はただ単に、陽光と熱に異様に弱い人狼たるシウォンが、黒い服なんぞを着て具合悪くならないのかと思っただけなのだが。
 それとも、想いに答えるつもりがないのなら、案じる事さえしてはいけないのだろうか?
 だが、それはそれでニアに非難されそうな気もする。
 妙な気疲れを感じて溜息をつきかけた泉、ふと思い出してはニアへ首を傾げてみせた。
「あの、ニアさん? さっきは確か、騒山って楽に死ねるところだって言ってましたよね? なのに生きたまんまっていうのは」
 少しばかり気分を悪くさせながらも尋ねれば、ニアはつまらなさそうに前を向いたまま応じる。
「蛾の翅には毒の鱗粉が仕込まれているの。効果は蛾の持つ翅の形状で変わるけど、大概は獲物を大人しくさせるために使われる。だから生きたまんまでも楽に死ねる。といってもこれは集団で大きな獲物を襲う場合の手段ね。単体じゃ毒の量も少ないし。でも、奇人街に出回っているヤバい薬の大半はこの鱗粉が原料なの。量や効果を調合で加減しててさ。たとえば相手の身体を自由自在に操れる毒ってのがあるんだけど、効き目は長く続かないから、切れたらまた欲しくなるような毒を混ぜたり。そういうのって複合された毒だから、服用した奴は結構酷い死に方するんだよね。表面上はなんともないのに、中身がズタズタに引き裂かれてたり、ドロドロに溶けてたり……。あ、でもパパはそんなの使わないから安心して?」
「…………」
 見てきた口振りで淡々と語っていたニアは、最後だけ明るく泉に笑いかけて来た。
 これへ愛想笑いすら出来ない泉は、初めて贈られてきたシウォンからの手紙を思い出す。
 あの手紙に付けられていた柚姻(ゆいん)という名の媚薬は、ニアが説明した毒によく似た効果を持っていた。
 もしや同じ毒だったでは? と行き当たれば、ぞっとする思いに駆られて顔が青褪めていく。
 幾らあの後、使った事を後悔する言を聞いていたとしても、遅れて知った事実に晴れる気分はなかった。
 ニアの口振りから推察するに、シウォンがそんな手紙を送っていたとは知らないに違いない。
 ……そんな危険なモノを使って手にして、何が残るというのかしら。
 もしもあの時、泉が柚姻に当てられていたなら――残るのは好き勝手に弄られた挙句、臓物を蝕まれた死体だけ。
 毒に侵された身の行き着く先は、幽鬼が群がる死体の山が打倒だろう。
 到底理解出来ない想いを知り、泉の中で何かが急速に冷めていった。
 好意を寄せたところで一過性、最中に泉がどうなろうとシウォンの知った事ではないのだ。
 欲しいのはただ、自分の手元にあって自由に出来る、泉という名の人形だけ。
 それは柚姻が毒でなくとも同じ事だ。
 好きって言われれば嬉しい、けど……そんな好きならいらないわ。
 どんな訴えも無視するような、自分の都合だけを押し付けてくるような。
 アノ人タチミタイナ……
 ――デモ。

 あの人たちには好意すらなかったんだから、好きだと言ってもらえるだけマシなのだわ、きっと。

 いつの間にか落ちた視界の中、自嘲を象り唇が歪に弧を描いた。
 これを苦笑と受け取ったのか、正面を向いたニアは同じ歩幅で隣を行く。
 泉がニアの話を聞き、どんな結論に至ったのかも知らずに。
「ふ……」
 酷く虚しい笑いが喉を擽り始めた。
 その笑いに引き摺られ、ゆっくりと泉の顔が上がる。
 ――と。
「ぶべっ!?」
 前方から真っ黒な影が、彼女の歪な表情目掛けて飛びついてきた。

 

 


UP 2010/5/15 かなぶん

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