妖精の章 四
夜行性である彼にとって、じりじり焼けつく、奇人街特有の濁った黄色の陽はつらいモノがあった。
それでもここまで来たのは、偏に、愛しい女に会わんが為。
怪我が治った後も長い入院生活を、頑固な医者から強いられ、痺れ薬や睡眠薬漬けにされていた日々は、今日まで後遺症を残していた。
お預けを喰らっていた間、彼の慰めとなったのは、腕一本失われたからと襲撃しに来る、下克上狙いの餓鬼ども。
お陰で、痺れの残る億劫な身体の回復が早められた。
適度な運動は必要だとつくづく感じ、それなりに愉しませてくれた名も知らぬ屍へ、珍しく感謝の念を抱く。
ベッドに縛り付けられていた時にも、運動紛いのコトはしていたが、アレらでは彼女に会えぬ手慰みにもならなかった。
仕方なしに荒ぶる本性を消し去る煙を呑み続け、渇きは美酒と評判の品々で散々誤魔化してきたが。
退院直前、側近である少年が持ち寄った情報は、にわかには信じられない話であり、誤魔化しすら綺麗さっぱり吹き飛ばす類のモノ。
そのまま、彼女の下へ直行しようとする彼を止めたのは、慌てた少年が叫んだ名だった。
“その状態で猫に会ったら、どうするつもりっすか!?”
三凶の名も通り越し、奇人街不動の最強と謳われる影の獣と彼の因縁は、深い。
内実を誰にも悟られたくないほどに。
なればこそ、無様な姿を彼女の前で晒す真似だけはしたくないと、渇望する想いを封じ込め。
そんな過程を経、彼はようやく、愛しき女の下へと――――
馳せ参じることはなかった。
* * *
肩口までの乱切り頭を静かに揺らし、刃と称されることがままある瞳を欠伸に細める。
「ふぁあ……ぁふっ…………? 何だ?」
馴染みの芥屋ではない店で買った食材を肩から背にぶら下げ、小首を傾げたのは、芥屋向かいに住む神代史歩(かみしろ しほ)。
まだ少女の域を出ない背格好ながら、雰囲気に大の男でも怯むほどの怜悧さ孕む彼女は、酷く困惑した表情を前方へ向けていた。
前方――向かいとは言いつつも、奇人街の造りゆえに、遠回りする彼女の家と芥屋を結ぶ橋の上。
対峙する、二つの影。
一つは、彼女が想いを寄せる影の獣・猫。
もう一つは、奇人街の中で一番多い種・人狼の、一番大きな群れを率いるシウォン・フーリ。
「おいおい、まだやってるよ。昼からだろ、アレ」
「いや、昼前からだとよ。どっちにしろ、声掛けられねぇ相手だよな」
行き交う住人の怯えた調子に、史歩の片眉が上がった。
昼前から猫と睨み合い……なんて羨ましい、もとい、どうしたってんだ、一体?
現在、夜真っ只中。
陽の光を嫌う静かな街並みとは違い、光の洪水で埋め尽くされる、不夜城染みたこの時間帯は、大した店のない界隈であっても賑やかなはず。
だというのに、ここら辺一帯は、不気味な静寂に包まれていた。
史歩が出かけたのは、陽の落ちる直前であったが、真逆に出掛けて行ったので、今の今まで気が付かなかった。
声を掛けたものかどうか。
迷う心は、史歩にあらず。
つかつかと足を速めては、鞘に納めたままの太刀を引き抜き。
「おい、シウォン」
呼びかけ様、耳だけを反応させた人狼へ、鋭い一閃を放った。
もしもこれが、常時の相手だったなら、容易く避けられ、反撃の一つでも生じるのだろう。
しかし。
「がっ」
「げ!?」
シウォンの失われた左腕の袖を揺らし、ストレートに脇腹を抉った鞘は、史歩より上背のある青黒い人狼の両膝を地に着かせた。
彼女としては、挨拶代わりの一撃だった。
たとえそれが、同族の人間相手に用いた場合、内側が粉砕した末に、死を招く代物であったとしても。
丈夫さは折り紙つきの人狼。
それが、こうも簡単に地に着くなぞ……
言葉を失くし、混乱し、はっとして顔を上げ、先程まで伏したシウォンと対峙していた猫を探し。
「……ま、猫? い、いない?」
獣はいつの間にか姿を消していた。
愕然とする中、とりあえず、足下に倒れる人狼の意識の有無を確かめる。
「う……」
若干引いてしまったのは、シウォンの緑の双眸がカッと開かれていたため。
まさか、あの程度で……死んだ?
けれど上下する胸があり、一先ず胸を撫で下ろす。
では、このまま放置してしまおう――そう考える史歩であったが。
「……おい、見ろよ、アレ。シウォン・フーリがのされてるぞ。流石、神代史歩。容赦ないな」
「アレって、昼間っからいたんだろ? 通行の邪魔だからって、殺っちまったのか?」
「怖いな、三凶。いや、シウォン・フーリは重傷を負ってるから……なんだ、所謂、族抜けって奴か?」
「一人でリンチ? タイマンもさせねぇで、一方的に死角から攻撃だとよ。すっげぇ」
「…………」
だらだらと、嫌な汗が史歩の全身を伝う。
別段、彼女自身は他が言うほど、己を非道とは思っていない。
どちらかといえば、情け深い方だと思っている。
ついでに、慎み深いとも思っていたので。
「し、シウォン? だ、駄目じゃないかー、こんなとこで寝たらー……」
わざとらしい棒読み台詞で、シウォンの右腕を持ち上げ、自分の肩に背負う史歩。
このままココにシウォンを置いてしまっては、よからぬ噂だけが、またしても自分の周囲に蔓延してしまう。
手遅れな気もするが、こう言っておくことによって、目撃者の口止めにはなるはずだ。
私がこう言ってるんだから、余計な事を言いふらすな、言いふらした時は……どうなるか分かってんだろ? あ゙あ゙?
そんな意味を多分に含む、口止めに。
証拠として、シウォンを背負ったままの史歩が周囲へ眼光を滑らせれば、全員が全員、素知らぬ風を装った。
まさに、触らぬ神になんとやら、である。
「……くそっ、何故私がこんな目に?」
十中八九どころか、十割方自分の責であるにも関わらず、史歩はぶつぶつと悪態をつき。
通常なら、こんなお荷物、真っ先に芥屋へ置いて行くところだが、史歩にとって今現在、あの店は極力避けて通りたい場所となっていた。
そのため、向かった先は不本意ながら、ここから一番近い自宅。
* * *
ずるずる重いだけのシウォンの身体を引き摺り、器用に足で自宅の戸を開けて閉め。
さあ、とっとと下ろそう――思った矢先。
「泉っ!」
「ぎゃあっ!?」
床に捨てようとした身体から逆に床へ捨てられ、挙句、重石の身体が覆い被さってきた。
拍子で顔面目掛けて突っ込む鼻先を避ければ、バキッとイイ音を立てて床が割れた。
力は化け物染みていようとも、強度は人間並みの史歩。
避けなかった際の末を思っては、珍しく顔を青褪めさせ、引き上げる獣面の鼻息の荒さを耳に感じては、内心で悲鳴が上がった。
「ま、待て、シウォン! 私は綾音ではないぞ!!?」
大体、何をどうすれば、あの軟弱娘と間違えられるのか。
似ているのは精々、年恰好だけだろう。
正気に戻れと言うつもりで張り上げた声は、哀しいかな、上げられた緑の双眸の歪みで一蹴されてしまう。
「泉……史歩の姿だろうが、俺には分かる。お前は泉だ。俺の腕を取るような真似、あの傲岸不遜、一毛不抜、極悪非道、己以外はゴミ同然に扱う史歩が、するはずがねぇ」
「っ、この野郎! お前にだけは言われたくない!」
噛み付くように史歩は叫べども、トリップした面持ちのシウォンはなおも言葉を重ねる。
「鬼の眼にも涙という場合もあるかもしれんが……万が一、いや、億が一、いやいや、兆……それでも足りんな。何にせよ、史歩が俺に肩を貸すなぞ、天地が引っくり返ってもあり得ん話だ」
「……てめぇ、分かってて言ってるだろう?」
実は正気でからかってるのかと、鋭い眼差しで射抜けば、怖気立つ熱い溜息がシウォンの口元を離れ出。
「なればこそ、お前は泉なんだ。……愛してる」
「ひぃっ!!?」
ぞわりと這う気持ち悪さに史歩の身体が固まる。
シウォンはこれを薄く笑い、敷いた彼女の腕や頬を撫でた。
「どれほどこの時を待ち望んでいたことか。夢ですらつれぬこの身、心底恨めしかったぞ、泉。散々焦らされたんだ。しばらく俺の想いに付き合ってくれ」
「ぅっ……待つんだ、シウォン! 早まるんじゃ――」
身じろごうとすればするほど、圧迫される身体に、史歩の恐怖心が煽られた。
これが人間なら素手でも応戦できるが、相手は人狼、それも群れの頂点に君臨する男。
せめて刀に手が届けばと動かすものの、押し潰されたままでは、そこまで手が辿り着けず。
焦る史歩を余所に、ヒートアップするシウォンの暴走は、さしもの剣客すら薄っすら頬を染めかける、切なげな喘ぎを奏で始めた。
「あまり俺を不安がらせないで欲しい。司楼から報告を受けたが……嘘だろう? ワーズなんぞと仲睦まじくやっているなど。それとも俺が悪かったのか? 幾らお前に会えぬ慰めとはいえ、他の女に手を出したから? だから、そんなにつれないのか? ならば謝る、済まない。今後は決して、お前以外の女には触れん」
「い、言ってる傍から、触れているだろうが!!」
「そもそも、アレらでお前の代わりになるはずもないのだ。俺の心を騒がせるのはお前しかいない。お前だけが、俺を満たしてくれる」
絶叫の皮肉さえ通じないシウォンは、段々と、史歩との距離を縮めた。
合わせ、着物がしゅるりと軽い音を上げてずらされる。
「ひっ! ま、待て! 本気で、ちゃんと見ろ!」
「ああ。見ているさ、お前だけを」
「ちーがーうーっ!!?」
仰け反り叫ぶ史歩。
と。
「〜〜〜〜っっ!!」
耳元から首筋を辿る感触に、噛み締めた唇から封じ込めた声が鳴る。
幾ら暴れても、埋められた頭は位置をキープ。
肩を押しつつ、人狼の後頭部を引き剥がそうと試みても通じない。
それどころか暴れた反動で、気づけば史歩の身体は、自分からシウォンに抱きついている形となり。
「泉……やはりお前も、俺を待ち望んでいてくれたのだな」
「ち、ちがっ…………っ…………、や、やめてっ!!」
思わず史歩の口を出る、気弱な悲鳴。
普段、性別をドブ底に沈めたような彼女の、近年稀に見る女っぽい音は、シウォンの中の何かに触れたらしく、動きの激しさが増した。
「くっ…………んぅ………………ああっ」
「ふ……ククククク、まだ何もしていないというのに」
為す術なく、声だけ殺す史歩へ、愉悦に浸る低い声音が届いた。
これへ怒鳴り散らすことも出来たはずだが、当の史歩は、弄る吐息に整えられる息もなし。
語りに震える身体を知ったシウォンは、どさくさに紛れて皺を作り、引き下ろした着物の胸元、巻かれたさらしへと爪をかけた。
「苦しいだろう? 今、楽にしてやる」
ぷつ……
響く布の音に、抵抗を忘れた史歩の身体は、恐れを逃がすようにシウォンへしがみつき――
「死ねっ!!」
ごすっと鈍い音がしたと思えば、シウォンの身体が揺れた。
途端、気を失った人狼は体重を増し、加えられる圧に史歩が呻く直前。
ぐらり、青黒い人狼の身体が史歩の横に倒された。
突然の開放に切らした息のまま、半ば茫然としていたなら、ひょいと覗く顔があった。
「お前…………だ、誰だ?」
そこにいたのは、包帯巻きの顔。
最近、似た容姿の者が芥屋に入り浸っていることも、その人物のことも知っている史歩だが、彼の医者の輪郭は人間に近かった。
こんな犬面ではないはずだ。
刃に譬えられる、今では面影すらない、潤み揺れる黒い瞳が顰められる。
対する相手は別段、気にした様子もなく。
「ったく、親分も。まだ寝てると思いきや、目ェ離した隙に毎度毎度……大丈夫っすか、神代サン」
「……お、前…………司楼・チオ、か?」
肌寒さを覚えて一度震え、身を起こしながら着物を直す史歩。
さらし前まで異様に肌が痺れているところを、馴染ませるように擦りさすり、横に倒れた人狼から距離を置く。
そうして、瞬き数度で妙な熱を取っ払い、眼前、改めて全身を見たなら重傷そのものの姿を知った。
包帯は言わずもがな、吊るされた片腕に、ギプスの嵌められた片足、片腕には松葉杖。
隙間からはみ出した純白の毛先には、血と思しき錆色が付着しており。
「助かった、礼を言う……が、お前、その姿は?」
「はあ。それが、芥屋の状況をお伝えしたら、親分に八つ当たりされまして」
「…………なるほどな」
納得した史歩は、なんともなしに、壁越しで芥屋のある辺りを眺めた。
今現在、シウォンがどういう訳だか懸想している少女が、珍妙な店主へ想いを寄せている、なればこそ近寄りたくない店を。
「しっかし、何故、綾音サンはあんな風に?」
反吐が出そうな光景に眉を寄せたなら、問いが耳に届く。
「ああ。ん?……見たまま伝えただけなのか、お前?」
「はあ。最初に見た時、丁度飯時で、ホングスの旦那もいたんすが、全く相手にされやせんでしたし。芥屋の店主はこっちの話を聞かない、綾音サンもいまいち反応が鈍い、権田原とかいう従業員に至っては、人狼姿に怯えられちまって、しばらく店先に出てくんなかったもんで」
「それはそれは……」
いつもなら効率良く仕事をこなす司楼を知っている史歩は、流石の彼も、今の芥屋には相当なダメージを食らったらしいと察した。
こうなると、真実を話したところで驚くだけかもしれない。
だが、ちらりと横目で睨んだ、気を失ったシウォンに、同じコトを強要されるのはコリゴリだ。
……危うく陥落しそうになった自分に、こっそりと身震い一つ。
「あいつな、恋腐魚を喰わされたんだ。店主の奴に」
「……えっ!? あの御人が? な、なんだってそんなことを?」
案の定の驚きに、頭を掻いては仰々しい溜息を吐き。
「じっとして貰いたかったんだとよ。正式な喰わせ方じゃないから、大丈夫だと抜かしていたんだが、どうも綾音はその恋腐魚と相性が良かったらしい。未だにアレだ」
「…………な、なるほど。つまり、綾音サン、正気じゃないんすね」
「そういうこった。で? コイツはなんで、私を綾音と間違えやがったんだ?」
知らず知らず、襟元を片手で掻き集めた史歩は、もう一方の手でシウォンを差した。
これへ司楼はぎこちない動きで肩を竦めた。
「綾音サンに会えない反動なのか、どうも親分、あの人と似たような行動を取ったと思った女、片っ端から襲ってるみたいなんすよ」
「…………禁断症状って奴か?」
「へぃ。まあ、大概の女は、代わりとはいえ親分に手厚い施しを受けたって悦ぶんすけど……でも、綾音サンと勘違いしてると、他種でも殺さねぇみたいで」
「つまり、虎狼公社には手付きの女がウジャウジャと?」
包帯巻きのため、分からぬ感情は声音で拾い、推測を口にしたなら肯定が首を振った。
「……へぃ。しかもその時、親分が相手すんのは一人だけなんで、あぶれた奴等が他で気を紛らわしちまって」
「間に合わない、か。餓鬼の養育も大変だな」
「全くっすよ。お陰で人手が足りないと、ニパの女将が嘆いてるくらいですから」
「ニパ……ってのは、アレか? 綾音を攫って幽玄楼まで持って行ったっていう」
「ええ。その節は申し訳なかったって、あの人、芥屋に一人で行ったんすけど……ああ、綾音サンあんなだったから、帰ってきた時、あんなに強張った顔してたんすね。てっきりオレは、猫かなんかに出くわしたのかと」
「猫…………そういや、対峙までしていたな、コイツ。なんというか……重症だな」
「…………そうっすね」
他の言葉が見当たらず下した評価は、妙な沈黙を二人の間に落とし。
「だが司楼………………死ね、っていったよな、お前」
「…………」
ふと気づいた、助かった際の台詞を問えば、包帯姿が挙動不審に揺れた。
「ふ……ふふふふふ…………オレにも譲れないモノがあるって話っすよ。この身体のせいで、仕事の効率が悪くて悪くて」
ぶちぶちと、堰が切れたように文句を口にする司楼。
司楼の状態からして、シウォンをお持ち帰りさせるのは難しいと判断した史歩は、大きな息を吐き出した。
人狼の回復力ならば、あと少しで目覚めるだろう男を横目に。
「……本当に、重症だな。とっとと治れ、綾音……」
治った矢先、少女を襲う数々の受難に検討を付けつつも、これ以上関わり合いになりたくないのだと、史歩は再度息をついた。
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