妖精の章 四十四

 

 泉たちの元居た場所で、竹平が行方知れずになったのは、今から約一年半前。
 あの後、正気を取り戻した竹平が「嘘をつくな!」と、俄かには信じがたい情報をもたらした美津子へ怒鳴ったものの、彼女は戸惑うばかり。
 その黒い瞳はただただ、事実を告げただけなのに怒られる理由が分からない、と語っていた。
 嘘偽りのない、真っ直ぐな瞳で。
 勿論竹平と同じく泉も、突然降って湧いた話を鵜呑みにする事は出来なかったが、だからといって否定も怒りもしなかった。
 あるのは唯一つ。

 ――借りを、作ってしまったかもしれないという思いだけ。


 熱を蓄える人工物のない山中、夏であっても夜になれば冷える風。
 木々が作り上げた陰の湿る冷たさは、うだる暑さでかいた汗をすっかり打ち消し、名残のようなベタつきを肌にもたらしている。
 これを拭くため、広場近くの小川へ向かった泉は、獣ではない足で踏みしめられた地面を辿りながら、ぼんやりと音のない景色を見やった。
 広場の明かりと共に、煌々と照る月により、陰から滲み出る木々の形。
 見た事もない生き物を育むくせに、泉の知る木と寸分違わぬそれらは、奇人街に一本しかない老木とは違って、ただ静かに立ち続けている。
 揺らす木の葉はあれど、何の音も立てずに。
 ……竹平さんが一年半なら、私はそれ以上行方不明って事よね。
 右手にタオル、左手にバケツを持ち、これを振りつつ歩く泉は、踏まれては鳴る草を下に見やる。
 騒山の外から訪れた者しか起こせないという音は、そんな泉の思いを増長させるように、静けさの中で煩いくらいに響いていた。
 お前は異質なのだと糾弾するが如く。
 けれども泉は、そんな風に感じた自分の心を小さく笑う。
「嫌だわ、本当。奇人街で初めて目覚めた時は、こんなところに慣れたくないって思っていたのに。異質だって、そんなの分かり切ったことでしょう?」
 今更だと滲む苦笑に眉を寄せ、瞬き一つで肩の力を抜く。
 そうしてまた周りを見渡せば、広場の明かりが弱まった以外は変わらぬ景色。
 なれどもそれは、泉一人の存在で揺るがせられる程、安易に出来ていなかった。
 神経質に異なるモノを弾く、狭量さすら持ち合わせてはいまい。
 感じ得た騒山、自分の心にしかない風景を在りのままの静寂で塗り潰した泉。
 すると程なく、せせらぎのない小川が、木漏れ日のように注ぐ鮮やかな月光を反射し、流れる様を視界に捉えた。
 心なし、夜気が涼しげな水を含んでいるように感じた。
 深く息を吸い込めば、肺にまで抜ける清涼な風。
 何一つ自ら立てる音のない騒山だが、嗅覚を擽る香りは奇人街よりも遥かに生に満ち溢れていた。
「甘くて、美味しい……」
 知らず知らず呟けば、何やら沸き起こる笑み。
 こんなにも違うのにどうしてかしら? 引っ越してからも山に登った事はあったはずなのに、ここが一番、小さい頃登った山に近い。
 人の手が遠い場所だからだろうか。

 あるいは――ひっそりと息づくモノが在るからだろうか。

 泉が幼い頃、幾度となく登った山には、近所の老人たちさえ知らない場所があった。
 人どころか獣道もない草むらを掻き分けて、奥へ奥へと進んだその先にある、朽ちた家屋。
 今よりずっとお喋りだった泉は、発見したその場所を共に暮らしていた老女へ告げたが、泉以外、誰一人として其処へ辿り着ける者はいなかった。
 ゆえに子どもの戯言と片付けられてしまった泉は、それ以上何も言わず。
 それでも一人でならば行き着ける其処へ、度々訪れてはどうにもならない日頃の鬱憤を叫んでいた。
 いつしかそれを煩いと感じたなら、唄へと変じさせ。
 しかしてある日突然、その場所へ行けなくなってしまった泉、老女の家にしか帰れない彼女はまた、其処の話を告げる。
 置いていかれたような不安を抱えながら。
 他の者が否定を繰り返す中でも、何も言わなかった老女は、そこで初めて己の考えを口にした。
 先に言ってしまえば、その時期が早まると思って言葉にしなかったのだと前置き。
“大人になってからしか見えないモノがあるように、子どもの頃にしか見えないモノがある。その境は気づき。大人は気づいてから見えるようになり、子どもは気づいてから見えなくなる。だからお前は気づいてしまったのだろう。その場所が、自分の居場所ではない事に”
 もしかしたらあの場所は、泉の妄想が作り出した場所だったのかもしれない。
 または今ここに泉がこうしているように、別の世界だったのかもしれない。
 全ては遠い記憶の憶測でしかないが。
 でも……そういえばあの場所も、騒山みたいに音がなかったわ。
 春夏秋冬、四季折々。
 どの季節であっても深みを知らない山中に、幾度となく足を運んだ泉は、今更ながらに思い出した。
 思い違い、ではないはずだ。
 だからこそ彼女は何度も訪れていたのだ。
 時を忘れたようなその場所で。
 誰にも知られないように。
 誰か気づいてと唄っていた――
「綾音様? 入水には嵩が足りぬと思いまするが」
「のっわっ!? ひ、緋鳥、さん……って、わわわっ」
 余程考えに没頭していたのだろう、知らず辿り着いていた小川に片足をつっ込んでしまった泉。
 先客の緋鳥に声を掛けられるまで、どの存在にも気づかなかった彼女は、びしゃびしゃになってしまった足を引き摺るように上げると、目深帽の少女へ頭を下げた。
「す、すみません。ぼーっとしてて」
「はあ。私めは一向に構いませぬが……ご加減でも?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど。ちょっと考え事をしていたもので」
 バケツにタオルを放り、「あはは」と笑いながら結わえた頭を押さえるように手を当てる。
 不思議そうに小首を傾げた緋鳥は、だからと追求するでもなく小川へ顔を向けると、何かをゴシゴシ洗う素振り。
 このため、上流にも下流にも移動出来ず、浅い割に広い川幅を跳んで対岸へ渡る事も出来ない泉は、緋鳥の隣にしゃがむと彼女の手元を覗き込む。
「何を洗ってらっしゃるんですか?」
「フェイ・シェンの服でございます」
「フェイの?」
「……フェイ?」
 ぴたりと手を止めた緋鳥が、目元の見えない怪訝な顔つきで泉を見やった。
 何か不味かっただろうかと焦った泉は、以前フェイから、名前だけを呼び捨てにされたのは初めてだ、と言われた事を思い出した。
 ついでにフェイと因縁があるらしい緋鳥が、過保護に彼と接する話まで浮かべば、逆鱗に触れてしまったかもしれないと嫌な汗を背中にかいてしまう。
「あ……と、呼び捨ては駄目、でしたか?」
「……どうせフェイ・シェンの奴が、そう呼ぶよう強要したのでございましょう。私めには関係ありませぬゆえ、どうぞご随意に。けれども綾音様は、何者に対しても敬称をお付けになるお方。些か不自然に聞こえてしまうのは、お許し頂きたく」
「不自然、ですか……」
 尋ねればふいっと小川に戻る緋鳥の顔。
 その姿を間近で見ていた泉は、語るその口が少しばかり面白くなさそうに尖っている事に気づいた。
 見ようによってはいじけている風にも見える。
 緋鳥のこの様子に対し、泉は内心で小さく唸った。
 これって……でも緋鳥さんって確か、ワーズさんを狙っているとかいないとか。
 でも前に、それは合成獣の本分で好みは別にあるって……
 ――となれば。
 好奇心に負けた泉の口が、想像に留まらずぽろっと零した。
「緋鳥さんって、フェイさんの事が好きなのかしら?」
「なっ!?」
 無自覚に出た呟きは、フェイの名前に敬称を付けて落ち。
「おわっ!? ひ、緋鳥さん、大丈夫ですか!?」
 同時に、力加減を間違えたのか、滑った手ごと小川へ倒れた緋鳥。
 残忍な姿を見聞きする割に泉より華奢な腕を引き、身を起こす手伝いをしたなら、それを嫌うようにわたわた無意味に動く身体。
 濡れた手が撒き散らす水から泉が逃げれば、ぴたっと奇妙なポーズを取って動きを止めた緋鳥が、次いで顔を一気に赤らめさせた。
 真一文字に引き結ばれた大きな口元から、鋭い牙が震えて覗いている。
 幾ら鈍いと言われる泉でもここまでされては、ほとんど確信に近いまさかを言いたくなるもので。
「まさか……図星?」
「い、や、あの……ややっ! これはいかん。悠長に話している暇はありませぬなっ。では綾音様、私めはこれにて失礼をば」
 特にこれといった目安もなく、暇がないと告げた緋鳥は、ギクシャクとした動きをしながらも優雅に一礼し、そそくさと退散を始めた。
「え? そんなに濡れたままなのに」
「うん? これでございますかな?」
 事の真偽は後回し、びしょ濡れの彼女を呼び止めた泉は水の滴る格好に戸惑うものの、その指摘に我を取り戻した緋鳥は、いつもの笑みを顔に貼り付けると首を振った。
「心配ご無用。合成獣たる私めには鬼火の能力も備わっておりますゆえ」
 背を向けた緋鳥の手がおもむろにミリタリー柄の帽子を取れば、クセのない黒茶の長い髪が足下までさらりと落ちた。
 羨ましいくらいのサラサラ感に泉が目を奪われたのも束の間、緋鳥の周りの空気が滲むように歪み、刹那、その身に纏わりついた炎が髪をふわりと浮かせた。
「!」
 鮮烈な赤に包まれた姿。
 目にした泉は、間近の炎に熱さよりも冷たさを感じてしまう。
 脳裏に再生される死の記憶に身を抱いたなら、己の炎では身を焦がさない鬼火の性質そのままに、炎を消し去った緋鳥は、火傷一つない身体を振り向かせた。
「ご覧の通り、水気などすぐ蒸発させる事が……綾音様?」
「ぁっ……いえ、その……凄く、便利、ですね」
 帽子を被りながら不審がる緋鳥に何とか声を絞り出す泉だが、回した腕を解くには至らず。
「如何――」
「いえ何もっ」
「しかし」
「ええと、緋鳥さんが鬼火の能力を使えるなんて知らなかったので。少し……驚いただけです」
「……ふむ」
 重ねられる問いを跳ね除け、愛想笑いを貼り付けた泉は、ぎこちない動きで腕を下ろした。
 これに対して緋鳥は小さく首を傾げると、興味を失くした風体で再び背を向けた。
「何にせよ綾音様、先に失礼させて頂きまする。……どうぞ、ごゆっくり」
「……ありがとうございます、緋鳥さん」
 泉が下げた頭を上げれば、そこにはもう、緋鳥の姿はなくなっていた。
 素早い行動はフェイを案じての事のようにも思えたが、最後の言葉は今の泉の状態が、どれほど危険なモノかを伝えていた。
「ごゆっくり……か。顔、洗った方が良いかも」
 強張る両頬に手を当てた泉は、再び小川に向かうと膝をつき、掬い上げた水で叩くように顔を洗う。
 瞑った目でタオルを手探りすれば触れる柔らかさ。
 ほっと息をついた泉は、それで顔を拭き埋める。
「どうしてかしら。クァンさんの時は、何ともなかったのに」
 あの時から――ツェン・ユイを殺した時から、鬼火の炎を目にする機会はあったというのに、緋鳥の炎にだけ過剰に反応した己。
 何故と反芻していけば、その理由は先程、苦し紛れに緋鳥へ告げた自身の言葉が当て嵌まった。
 鬼火ではない者の炎に巻かれた姿、だからこそ思い出したのだろう。
 それに焼かれて爛れた彼の鬼火を。
「……思い出さない、なんて時はないけど」
 殺さなければ殺されていた。
 分かっているし、理解もしている。
 奇人街ではよくある事だという事も。
 だが、どうしても割り切れないのだ。
 あの時泉が望んだのは、誰かの死ではなかったから。
「でも、死んだ。私が、殺した。意思の有無なんて関係ない。望んだとか望まないとか、そんな事じゃないのよ。どんな言い訳を重ねたって、彼は死んで、殺されて。殺して……私は、生きている」
 タオルから顔を上げた泉には、何の表情も在りはしなかった。
 ただ、事実だけを見つめる焦げ茶の瞳が、音もなく流れる小川の揺らぐ月を真っ直ぐ見つめる。
「っ!?」
 瞬間、刺さる気配に立ち上がった。
 死角からの身を震わせるそれを追い、小川を背後にしたなら、がさりと揺れる草の音が獣道もない左から届いた。
 右に探りを入れていた泉は、不意を打つ方向からの音に身動きが取れなくなり。
「ぶはっ! んもうっ、だから子どもは嫌なのよ! 小さいし小さいし小さいし小さいしっっ!! 草が邪魔なの!」
「……ニアさん?」
 草むらから突き出た犬の顔に泉が目を丸くしたなら、そこを無理矢理突っ切ってきたらしいニアが、こちらを向くなり手を伸ばして来た。
「泉! ぼさっと突っ立ってないで、手ぇ貸しなさいよ! 枝が引っ掛かって先に進めないのぉおおおおお!」
「は、はい!」
 抜け出そうと一生懸命なところも然る事ながら、今にもクゥクゥ泣き出しそうな伏せられた耳に、思わずこのまま見ていたいと、稀な嗜虐心を擽られてしまった泉は、そんな己を誤魔化すように急いでニアの下へ駆け寄った。
 そうして草むらから彼女を救出する頃には、殺気めいた気配も完全に消え去っており、ぜーはー息つく身体を軽く抱いた泉は、その背を擦りながら先程のアレはニアのモノだったのだと結論付けた。
「にしてもニアさん、随分変なところから現れましたね?」
「す、好きで現れた訳じゃないわ。くぅっ、油断してた! あの女が破った“糸”を補強するだけだったのに、司楼のヤツ!」
「あの女? 司楼さん?」
 いまいち掴めない状況に泉が首を捻ったなら、じろりと睨んだニアがその肩をぎゅっと掴んだ。
「時に泉」
「はい? 何でしょう?」
「貴方……いつまで私を抱っこしているつもりよっ! しかも今、どさくさに紛れてまた頬ずりしようとしていたでしょう!?」
「え、そんな……駄目ですか?」
「ちょっとは否定しなさいよ!」
 むぎゅっと顔に押し付けられるニアの手。
 肉球の感触に、崩れた顔のままにへらと笑えば、危険を察知した様子のニアが泉の腕を脱して距離を取り、毛を逆立てて牙を剥いた。
 大人の人狼が相手なら怯えるところを、それすら可愛いと、きゅんっと胸を高鳴らせた泉は、飴玉で子どもを釣ろうとする不審者の顔でにっこり笑ってみせた。
「まあまあニアさん。細かい事は気にしないで」
「細かくないっ!」
「はあ。ニアさんって、外見はわんこなのに、中身はにゃんこっぽいですよね。一粒で二度美味しいといいますか……本物なら是非とも飼いたいところです」
「なっ!!? 何て事言うのよ! 貴方も司楼と同類!?」
「いやあ、本物だったらという話で――司楼さん?」
「ぅぐっ」
 どういう意味だろうと泉がきょとんと瞬けば、若干たじろいだ様子のニアがそっぽを向き、忌々しげに吐き出した。
「これも全部、美津子とかいうあの女が、私の“糸”を破ったせいだわ! 戻ったら絶対――」
「美津子さんが相手なら、可愛がられるでしょうね。たぶん、私の比じゃないと思いますよ。ランさんでもああでしたし」
「……あ、貴方に好き勝手されたのは、パパの想い人だから手が出せなかっただけで」
「そういえば以前、キフさんって方が竹平さんを襲った時、猫が止めに入ってくれたんですよ、ねー」
「泉、貴方……私で遊んでない?」
「否定はしません」
「してよ!」
 どきっぱり真顔で告げたなら、深緑の瞳を潤ませてニアが吠えた。
 これすら愛らしいと頬を緩ませた泉、ふと我に返っては、そんなニアを置き去りに浮かんだ疑問を尋ねた。
「ところでニアさん、“糸”って何ですか?」
「え? ああ、そういえばまともに見せたことなかったっけ」
 話を変えればあっさり警戒を解いて近づいてくるニア。
 右耳の飾りを弄る姿に、こんなに素直で良いんだろうかと泉が不要な心配をしたなら、そこからしゅるりと紐状のモノが伸びた。
「これが“糸”よ。見やすいように縒ってるけど、実際はこれくらい細くて」
 ニアに合わせて膝をついた泉は、あやとりの手つきの中で、突然消えた紐へ目をぱちくり。
「え……? これくらいって」
「これくらい、よ」
「……ええと、馬鹿には見えないとかそういう仕掛けですか?」
「はあ? 何の話?」
「いえ、私の元居た場所にそういう御伽噺があってですね」
「ふぅん。所詮御伽噺は御伽噺でしょ。というかそれじゃあ貴方、自分で自分が馬鹿だと言ってるのと同じじゃない。やめてよね、パパの想い人のくせして自虐ネタに走るの。貴方の欠点なんて、鈍くて変ってだけで充分だわ」
 酷い言われ様。だけど……否定できないわ。
 シウォンの想いをまともに捉えず、ニアの人狼姿に度々正気を失い掛けている泉は、的確な評価にぐぅの音も出なかった。
 対するニアは泉の思いなどそっちのけ、紐のないあやとりの手を保ったまま話を続けた。
「要は視認出来ないくらい細い“糸”だって事。これで、ほら、昼間に蛾を駆除したでしょ? ああいう事が出来たり、今みたいに周りへ張り巡らせて外敵を探れるのよ。まあ、あの女が入って来た時は、貴方が暴走していたせいで無駄だったんだけど」
 じろりと睨みつけるニア。
 美津子以上の元凶が見つかったと訴える視線だが、人狼姿のニア相手では怯む事も出来ない泉、崩れそうになる相好を何とか持ち直すと、“糸”への理解に頷いてみせた。
「ええと、“糸”がニアさんにとって、すっごく便利だって事は分かったんですけど」
「けど?」
「司楼さんは?」
「……へ? 何でそこであいつの名が」
「いや、だってさっき、司楼さんがニアさんを飼いたい私と同類だって」
「ちょっ!? さっきは貴方、本物だったら、とかって言ってたのに」
「まあまあ。それで司楼さん、というのは?」
「う……」
 先程と同じように話の流れを変えた泉だが、今度は乗らずに引いたニア。
 あやとりの手を下げるとぐるり顔を巡らせ、泉が小川まで歩いてきた道へ身体を傾けた。
「ニアさん?」
 答えを避けようとする動きに声を掛けたなら、びくっと肩を震わせたニアが、顔を背けた状態でわざとらしく手を打った。
「そうそう、こうしちゃいられないわ。他にも“糸”が破れていないか見ておかないと」
「あの、ニアさん」
「わー御免なさいねー、泉。私、これからやる事あるからぁ」
 おざなりに手を振って去っていく、小さな人狼の背中。
 膝立ちのまま置いていかれた泉は立ち上がると汚れた裾を払い。
「ニアさん…………………………それで逃げたつもりなんて甘いですよ」
 今日は無理でも、また夜を迎えた時に聞き出してやると、あまりしたことのない含み笑いをする。
 一通り笑ったところで、完全な悪役顔から一転して本来の目的へ戻っては、転がっていた桶を拾い、中に入っていたタオルを手に取り小川へ浸した。
「ここで拭いちゃおうかな」
 固く絞ったタオルを解して桶の縁に掛け、クリーム色の上着の紐に手を掛ける。
「着替え、持ってくれば良かったかしら?」
 言いつつ、上だけ下着姿になった泉は、どうせ濡れてしまったのだからと、ズボンの裾を捲くり上げて両足を小川に浸した。
 すっと引く熱に吐息を零し、タオルを用いて肌を拭いていく。
 首から腕、脇、もう一度タオルを小川に潜らせ、下着の中に手を入れては胸、脇腹と続き。
「ふ、あ……ちょっとはマシ、かな?」
 あらかた拭き終わったところでしばらく涼み、寒いと感じ始めたなら、上着を取るべく泉の腕が後方に向かう――

 と。

「えっ!!?」
 いつからそこにいたのか、草むらの陰から、茫然とこちらを見つめる男が一人。
 慌てた泉が袖も通さず上着を掻き抱けば、落ち掛けていた煙管を寸でのところで戻した彼が一つ歩み寄る。
「ち、違う! 決してそういうわけでは」
「い、いいから来ないで下さい、シウォンさん!」
 何故近寄るのかと抗議する泉へ、手まで付け足して伸ばした男――シウォン・フーリは、しかし。
「ガウ!」
「ぐわっ!?」
 足下から突如虎サイズになって襲い掛かる影の獣に、易々と押し倒されてしまった。
「なっ、猫!? 何で、てめぇがここに!?」
「さ、最初っからいましたよ!? 落としたタオル拾ってくれたりして。だから私、安心してたのに……猫ぉ?」
「グルゥ……」
 泉の恨みがましい視線を受け、人狼の頂点を押し倒した金の瞳がそれとなく外される。
 この様子に何かに気づき声を上げたのは、その下にいるシウォン。
「猫、てめぇ……さては泉の信用を笠に――ふがあっ!?」
「ま、猫、乱暴はしないで」
「ガウ」
 シウォンの顔を器用に尻尾で塞いだ猫は、そそくさと上着を羽織る泉へ、お行儀良く返事をした。

 

 


UP 2010/7/14 かなぶん

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