妖精の章 四十五

 

 碌に言葉も交さずシウォンと別れた泉。
「おかえり」と迎えるへらり顔に思い出したのは、先程シウォンが猫に向けて言った言葉と、猫とワーズは繋がっているという、いつかの挨拶回りの夜の言。
 組み換えて推察すれば、泉が身体を拭く場面を、猫を通してワーズが見ていたかもしれない、という事になり。
「……見ましたか?」
「ん? 見てないよ?」
 問えば簡潔に返って来る否定。
 そうですか、と幾らか安堵した泉は、汲んできた小川の水を竹平に渡し、木の一つを背にするワーズの隣へ腰を下ろした。
 ――が。
「み、見てないって、何を、ですか?」
 主語もない言葉だったにも関わらず、為された答えに遅れて可笑しいと気づいたなら、相変わらずのへらへら笑いでワーズがのほほんと言った。
「そりゃ勿論、上半身下着の泉嬢のあられもない姿だよ。両足小川につけてきたなら、尚更涼めたよねえ」
「っ!!? そ、そこまで知っていて、見てないって!?」
 詰め寄るように身を乗り出せば、その分を離すように胡坐の上体を逸らして後ろに両手をついたワーズがにたりと笑う。
「そう。知っているだけ。泉嬢が何を心配しているのかは知らないけど、ボクと猫は繋がってるってだけで、視界を共有している訳じゃないからね」
 それって……どうなのかしら?
 誰もいないからこそ出来た格好を、知られるだけでも充分恥ずかしいとはいえ、見られていなかった事に関しては、安心しても良いのではないだろうか。
「……すみません」
 とりあえず覗かれた訳ではなかったのだ、と泉が疑った事への謝罪を口にしたなら、背中を丸めて膝に肘をついたワーズがクツクツ揺れた。
「謝られる理由も分からないねぇ? 確かにボクは見ていないけど、詳細には知っているのに」
「う……で、ですがほら、百聞は一見にしかずって言うじゃありませんか。そ、そもそも、ワーズさんは私が何を心配していたのか分からないんですよね? だから謝って終わり、これで良いんです!」
 顔を赤らめつつ、自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、力を込めて断言する。
 すると闇色の髪に陰る美貌を苦笑に歪めたワーズは、泉の意見を尊重してか、終わった話をほじくり返さず、別の話題を持って混沌の瞳を、受け取った水で身体を拭く竹平と、これにちょっかいを出す美津子へ向けた。
「シン殿に美津子女史。明日からの行動を確認するから、ちょっと来て貰っていいかな?」
「お、おお」
 すぐさま食らいついたのは竹平。
 美津子から離れる口実が出来たと、肌蹴かけていた水色の着衣を直しながら、そそくさと泉の隣へやってくる。
 これに続くと思われた美津子は、ワーズの向かいに胡坐を掻くと、惑う素振りで頬を掻きかき。
「あのさ、私としてはすぐに帰りたいところなんだけど……やっぱり無理?」
「うん、無理。だって美津子女史、いつこっちに来たのか分からないんでしょ? せめて、何処から出てきたのか分かれば、帰れるんだけどね」
「うわ、ばっさりだー」
「期待させといて落すほど、残酷なつもりはないからね。――人間以外は別としても」
 にやりと笑う白い面の赤い口。
 少しばかり美津子の顔が引き攣ったが、顎に銃口を向けるワーズを目にしては、何事もなかったかのように溜息をついた。
 どうも美津子には、ワーズが常時携える銃を、筒から何も出ない、モデルガンや手品の道具ですらない、装飾品の一部だと見ている節がある。
 異常者を演じる事で、自分の身を守っているのだと。
 そういう解釈をした者は初めて見たものの、馴れ合うつもりはないのだろう、親しみの持てる言動とは裏腹に、突き放すような冷めた瞳が「ふむ」と頷いた。
「すぐには、帰れないだけかしら? それとも、ずっと?」
「んー……断定は出来ないけど、たぶん、美津子女史は一週間もしないで帰れるよ。最短なら三日、かな?」
「…………? 何だってそこで俺の顔を見るんだよ?」
 話の途中で向けられたワーズの目に、竹平が微かにビクつけば、シルクハットの中に混沌を仕舞いこんだ口の端がくいっと上げられた。
「いや。その時はシン殿も一緒かもしれないからさ」
「俺が?」
「あらまー。美少年のお土産付とは気が利くじゃない。お姉さん、大歓迎ぃ」
「の割には棒読みだよな……って、いちいち寄り掛かるな!」
「棒読みが不服だなんて可愛いねぇ、少年。こりゃ、ああいう噂が流れても仕方がない感じかなぁ?」
「噂?」
 呑んでもいないのに、ほとんど酔っ払いの勢いで絡んでくる美津子に身を捩りつつ、竹平が尋ねたなら近づく唇。
 頬を掠めるに似て、耳元までやって来たそれは、襲撃に驚く竹平の拒絶を待たずに、何かしらをボソボソと告げた。
 するとみるみる内に青褪めた竹平が、美津子との距離も忘れて横を向いた。
 これには美津子の方が驚いた様子で身を引くが、彼女の両肩を掴んだ竹平は至近の唇も見えないのか、噛み付くようにして小さく叫んだ。
「う、嘘だろ? それこそどんな作り話だよ」
「いや、だから噂だって。綺麗な顔した可愛い性格の少年が、一年半も行方不明ったらさ、ある事ない事書き立てる奴もいるもんでしょ? そこは芸能人、ぐっと堪えて?」
「……マジかよ。信じらんねぇ」
 美津子の肩に手を置いたまま、竹平の赤い頭ががっくりと項垂れた。
 どうしたのだろうと目を瞬かせれば、美津子が教えてくれる――前に振り向いた竹平が茶色の眼でじろりと睨みつけてきた。
「誰かの口を経由するくらいなら、自分で言った方がマシだ」そう前置き。
「あっちじゃ俺が地下に行ったっていうような噂があるんだとよ」
 回りくどい言い方に少しだけ首を捻った泉は、あっちが元居た場所と理解した後で、地下の意味を考える。
 その目がつと人狼の一団に逸れたなら、以前地下を住処とする彼らに竹平が攫われた事を思い出した。
 しかも客を取るような店に、商品として連れて行かれて。
「……ああ」
 色々無事だった竹平の現在の姿に、それしか言えなかった泉は気まずい思いで顔を逸らした。
 助からなかったらその通りになっていたであろう噂は、洒落で済まないモノがある。
 ビミョーな空気が漂えば、美津子を離した竹平が項垂れてしまう。
 対し、噂を告げた張本人は、そんな周りの様子を受けて、動揺しつつも明るく竹平の肩を叩いた。
「ま、まあ少年。どうせ相手は三流ゴシップとかそんなんだ。気にする事ないって。そこのオニーサンの話じゃ、帰れるんだしさ? 未来は明るいぞ、若人よ!」
「あんた……無責任だって言われたりしないか?」
「あら直球。でも無責任で結構よ。それで希望が持てるなら、ね。……絶望に囚われて、やれる事も忘れてしまうよりはずっとマシ」
 最後の呟きは嘲り混じりに。
 一瞬、暗い表情に二人が呑まれたなら、美津子はそれをなかった事のようにして、からりと笑ってみせた。
「さてと。帰れる事は判った。でもそれじゃあ、帰れるまではどうすれば良いのかしら? よく判んないとこだし、貴方がたについてっても?」
 竹平から移動した美津子の視線に、頷いたワーズはへらりと笑った。
「うん。じゃなきゃ美津子女史、死ぬからね」
「ワーズさん!?」
 端的に聞けば確実に引かれる単語。
 事実、泉はそんなワーズの説明から当初、彼の事を怖れた経緯がある。
 このため、その通りとはいえ、もう少しソフトに言えないのかと泉が声を荒げたなら、彼女を宥めるように両手を翳した美津子が頷いた。
「おーけーおーけー。大丈夫よ、お嬢ちゃん。ここが未知の山ってだけで、その手の可能性は最初っからあったもの。しかもあの獣頭のお兄さんたちがいるようなとこだったら、それ以上に危険な生き物も生息している事でしょう」
「へえ? 冷静だねぇ。美津子女史は随分と場数を踏んでいるのかな? 大概の人間は死ぬというと恐れを抱くものなんだが」
「死を怖れない生き物なんてそうはいないわ。生にしがみつくのだって人間だけじゃないもの。でも、免れられない事も知っている。登山とか、自然を相手に頑張ってみると、嫌ってほど分かるわよ? 人は、人が思っているよりも簡単に……呆気なく死んでしまうものだと」
 静かに目蓋を閉じた美津子。
 優しげな表情の中に秘めた思いを抱えるその姿は、泉の手をどくりと脈打つ胸の前で軽く握らせた。
 奇人街で暮らせば当たり前の、けれども元居た場所ではありえないと処理されていた、外的要因から為る死。
 それを来て間もない美津子から聞かされたなら、過ぎりかけた姿があった。
 ――駄目! 必要ないんだから。
 しかしてその姿を打ち消したのは、他でもない泉自身。
 これに対して酷く動揺してしまったのも、また。
 私……どうして? だって今のは元居た場所の記憶で、思い出さなければいけない事のはずで。

「んじゃ、美津子女史の理解も得たところで、今後の予定なんだけど」

 内側で瞠目する泉を余所に、ワーズが枝を取り出し地面に何かを書き記していく。
 彼から見て、上弦を描く線が間隔を開けて上下に四つ、その下には奇人街の文字で“奇”。
 次いで下の上弦中央に“夏”に似た文字が書かれたなら、上の上弦中央には“冬”という文字が記されていった。
「ざっとこんなもんかな? あとは」
「……もしかして、もしかしなくてもこれ、地図のつもりか? “奇”っぽいのは奇人街、 このカーブは山って事か? “夏”ってのは位置的にもたぶん、今いるここだよな? ということは、この手の山があと三つあるわけか。しっかしお前、思ったより絵心な――」
「それはもういいよ。泉嬢にも前に言われたから」
 嫌味のない感心した声を上げる竹平に被せて、少しばかり早口で感想を拒否するワーズ。
 他の事なら兎も角、絵に関してだけは何も言われたくないらしい彼は、残る左右の上弦中央の空白へ、左に“春”、右に“秋”と書いてから話を続ける。
「騒山は外から見ると一つの大きな山なんだけど、実際には四つの山からなっている。そしてその山はそれぞれに四季を巡っているんだ。春・夏・秋・冬の順にね。今この山は夏の真っ最中だから、一番奥が冬に相当する。で、ボクらが目指しているのは右の秋。問題がなければ、明日か明後日には入れると思う」
「問題?」
 死ぬと聞かされていたためか、ワーズの簡単な説明に肩透かしを喰らった様子の美津子が首を傾げた。
「そ。変動っていう問題。時間が停滞している奇人街とは違って、四季の移り変わりがある騒山だけど、それゆえに不安定でね。時々変動が起こるんだ。すると季節が一つ巻き戻される。そうなると目的地の秋は――」
「最奥の冬ってとこになる?」
「うん。でも問題はそこじゃなくてね」
「げっ。ここ目指すだけでもやってられねぇってのに、まだあんのかよ?」
 竹平が心底嫌そうな顔をしたなら、対照的にへらへらいつも通り笑うワーズが頷いた。
「あるよ。まだっていうか、目指す場所が遠退くくらいは問題の内に入らないんだけど。……ほら、騒山の麓までしか、あの空間は続かなかったでしょ? 凪海にはあったのに」
「空間って……“道”の事か。それで?」
 芥屋の物置と“道”は厳密には違うのだが、それを知らない竹平の言に、ワーズは訂正を入れず銃でこめかみを小突いた。
「それでね、その理由が変動にあるんだ。あれはある程度固定された場所にしか通じる事が出来ないからさ。もしも通じていたら変なところに出てしまう。変動の影響を受けて」
「でも、“道”は通じてないんだろ? だったら問題は」
「だから、問題なんだよ。変動は何も、季節や“道”にだけ影響を及ぼすわけじゃない」
「まどろっこしい言い方ね? つまりは何が問題なの?」
 のらりくらりとしたワーズの言い草に、美津子が焦れたような声音で問う。
 けれどもそれはワーズに苛立っているというよりも、問題を早く知り、備えておきたいという風にも聞こえた。
 分かっているのかいないのか、頷いたワーズはへらり笑う。
「つまりは、変動が起こると空間の歪みに引き摺られて、四つの山の内の何処かに飛ばされてしまうんだ。そうなると“道”もない騒山はとっても厄介」
「……回避、または対処法は?」
「回避は出来ない。対処は単独で行動しないで一纏まりになる事。それ以外にはない」
「なら、予知や予測は出来る?」
 矢継ぎ早に質問する美津子。
 ワーズはペースを乱さず答えていく。
「出来る……と思う」
「頼りないわね?」
「まあね。さっきの君の言葉を借りるなら自然相手、どれだけ頑張っても無力な時はあるからね」
「……そこまで言ったつもりはないんだけど」
「でもそういう意味なんでしょ?」
「…………」
 返すワーズの質問に美津子の視線が下に落ちた。
「それに相手は自然だけじゃない。その時の状況もあるだろうし……妖精(ヤオシン)の動きも」
「ヤオシン?」
 美津子に代わって竹平が質問者の席につけば、そちらを見たワーズが頷いた。
 地面に“妖精”に似た文字を書きつつ。
「うん。目指す影解妖(インツィーヤオ)の正体でもある」
「食材の?」
「そう。ただし、奇人街の三大珍味に属する裂肝鬼(キィカンフン)、恋腐魚(リゥフゥニ)が、それぞれ幽鬼と人魚から出来る事を考えれば分かるように」
「……妖精ってのも、化け物って事か」
 竹平が参ったと顔を顰めて髪を掻き毟れば、慰めるようにワーズが言った。
「妖精に関しては他と違って回避は出来るよ。幽鬼みたいに破壊行動もしないし、人魚みたいによじ登ってきたりもしないから」
「へえ。それじゃあ他の奴より随分楽――」
「っていうか回避しか出来ない。猫でも撃退出来ない相手なんだ。直接地面に接しない高いところ、たとえば木に登ったりして回避しないと、捉まった時点で終わりだから」
「……お前、さっき期待させて落す事はしないって」
「期待、してたのシン殿? 幽鬼と人魚を引き合いに出せば、期待なんか持てないって思っていたんだけど」
 いけしゃあしゃあと変わらぬ顔つきで告げるワーズに対し、言葉を失くした竹平ががっくりと項垂れてしまう。
 人間二人を撃沈させたワーズは、その事実に眉を寄せて困惑しつつも、残った泉に視線を向けると一つ頷いてみせた。
「兎も角、ボクらが目指すのは秋の山。気をつけるべきは変動と妖精。それだけ憶えてくれれば大丈夫だから――――泉嬢?」

「うあっ! は、はい。大丈夫です、聞いてはいましたから」
 物思いに意識の大半を持っていかれていた泉は、ワーズに呼ばれた事で必要以上に大きく頷いた。
 かといって、応えた言葉に偽りはなく、騒山の四つの山や変動、妖精の話はしっかり頭に入っていた。
 それでも泉の様子は、ワーズの顔に笑みのない困惑を浮かべさせるほど、不自然だった。
「おい、藪。そんな鳥人放って、こっち来て泉嬢を診ろ」
「あ、うん。経過良好だからね、もう心配ないからね」
「……忝い」
 ワーズに呼ばれた先で、眠るフェイの健康状態に太鼓判を押すエン。
 傍らの緋鳥が頭を下げるのに、肩を小さく落として安堵した彼は、立ち上がるのとほぼ同時にこちらへと駆け寄り。
「スイ、大丈――ぶぃっ!?」
「とぅっ!」
「うおっ!? あ、あっぶねぇ。危うく下敷きに」
「なってますって、こっちが! 避けるんじゃなくて、倒れないように支えて下さいよ、竹平さんに美津子さん!」
 お約束のように躓いたエンを知り、咄嗟に避けた竹平と美津子へ、泉は若干理不尽な非難の声を上げた。
 けれども逃れられた二人は至極真剣な顔で、逃げもせず座ったまま包帯男の身体を抱き取った泉へ、手と首を振ってみせた。
「俺にソイツの子守りは無理だ」
「私じゃ位置的に顔に膝蹴り喰らってたもの」
 二者二様の主張にちょっぴり涙を浮かべた泉。
 身体の上でエンがもぞもぞ動いたなら、起き上がろうと慌てて地面に手をつく。
 と、突然至近まで上がる包帯の顔。
 不自然な格好のまま固まれば、煙管ごと包帯巻きが斜めに傾いだ。
「スイ。どこが具合悪い?」
「エン先生……とりあえず、重いんで退いて下さい」
 案じる声に呑まれかけた泉がそう言うと、「はぁい」と気の抜けた返事をした医者が視界から遠退く。
 相変わらずの素直さに小さく微笑む泉は、しかし。
 具合は、悪くない……ううん、違う。本当は最初から――
 意識の大半を費やして導き出された結論に、笑みの裏でキツく歯を食いしばった。

*  *  *

 ランを後ろに歩いていた泉は知らない事だが、彼は始終、その更に後ろを気にして歩いていた。
 ただしそれは、彼を宿敵と定めながらも、この頃は初恋に胸を焦がすばかりのシウォンを気にしての事ではなかった。
 否、確かに気にはしていたが、それよりもランの気を惹いたのは別の存在。

 泉の挨拶回りに同行した時、それが終わってからの就寝時、そして今現在夢の中においても――伸ばされる淫靡な手の持ち主。

「っぁ!? ゅ、め……?」
 金の眼をかっと開き、見知らぬ場所に声を潜めたランは、今し方見たものの正体を小さく口にした。
 汗を拭うように顎を甲で拭い、辺りを見渡せば揺らぐ焚き火はあれど、寝静まった広場の光景を目にし、ここがどこなのかをしっかり把握する。
 騒山……そうだ、俺は。
 ついでに何の目的で自分がこの場にいるのかを思い出しては、黒く鋭い爪で獣の頭部を掻き乱した。
 嫌な夢だ。現実、だとしても……。どうして穢す? 俺を、俺の大切な思い出を。
 夢で現で、何度も遭遇する度、軋む思いに鋼のように硬い胸を握り締める。
 内で囁く本性は、それこそが真実だと嘲笑い、ランも頭では分かっていた。
 だが、理屈ではないのだ。
 何か一つでも、綺麗なまま残しておきたい――
 そう訴えかければ、普段は罵ってくる本性でさえも、尖がった大きな耳をゆっくりと伏せていく。
 あまり一般には知られていない事だが、方々で欲を愉しむ人狼はその反面、唯一人と決めた相手への想いは恐ろしく強い。
 これは本性に則った行為でもあるため、一度は理性共々その域に達した本性は、ランに同調するが如くか細く鳴いた。
 想いを向けていた相手の変貌を、共に嘆くべく。
 けれどもランにとって本性とは、正体が己であっても、どこまでも相容れない存在。
 ゆえに耽る想いを遮るように首を振っては、もう一度、無理にでも眠ろうと身を横たえかけ。
「! い、いない?……シウォン、も?」
 ちらりと掠めた視線が、眠っているはずの人狼がいない事に気づいたなら、すぐさま彼の想い人である少女を見やった。
「うわ……」
 しかしてそこに彼の人狼の姿はなく、代わりに彼女の愛人を自称する包帯巻きの医者が、眠りながらも温もりを求めて、少女へ手を伸ばす姿があった。
 ちなみに依然として達成出来ていないのは、二人の間に居座る影の獣が、少女の背に前足、医者の顔に後ろ足を添え、小さな身体を限界まで伸ばしているせいである。
 それでも何か良い夢を見ているらしい。
 「しゅいぃ〜」と気の抜けた寝言が、包帯の向こうから聞こえてきた。
 ……シウォンが見たら絶対キレるよな。ってことは、ここにはいない、のか?
 こうなってくると、眠気もあまり感じなくなってきたラン。
 シウォン以上に気になる存在がいようとも、シウォンが少女だけに神経を尖らせていようとも、彼の頂点は警戒すべき相手である事に変わりはないのだ。
 就寝中に襲撃してくるとは思えないものの、姿がないのはそれだけで恐怖だった。
 とはいえ寝起き、加えて長らくの寝不足が尾を引く身体は重い。
 鈍い動きに辟易しながらも、何とか立ち上がったランは、開けた視野を得る事で別の光景を目の当たりにする。
「……何だ?」
 それは木々の中を点々と、足跡のように続く――ぐったりとした同族の女の姿。
 いつもであれば決して近づかない相手に、恐る恐る近寄ってみたなら、どれも気を失っていると分かった。
 着衣に乱れがない事と、こんなところで倒れている事を鑑みるに、どうやら当て身を食らわされたらしい。
 シウォンの囲い女、それも騒山までやって来るような女相手に、殺しも他の傷も付けずに気絶させられる芸当が出来るのは、誰と考えるまでもないだろう。
 目的の相手がこの先にいると知ったランは、四人の女を目印にして木々を掻い潜り、程なく崖に面した小さな広場へ抜け出た。
 灰色のゴワゴワした毛並みに絡みつく葉を払い、眼前、見事な満月に手を翳して目を細めたなら、その中で二つの影を左右に伏せさせた、人間に似た姿の男が鮮やかな緑の瞳でランを一瞥してきた。
「よお、ラン。眠れねぇのか? 一丁前に血に飢えた目ぇしやがって。何ならその辺に倒れている女で済ませちまえよ。寝不足にはイイ運動が一番だぜ?」
「……エロオヤジか、貴方は」
 思わず相手がどういう手合いか忘れて呆れてしまったラン。
 だが、シウォンは自嘲気味に鼻で笑うだけで、激昂する事はなく。
「こういう事言ってっから、信用されねぇんだろうな……」
 逆に意気消沈のていで笑いながら項垂れる姿に、ランはどうしたもんかと途方に暮れる。

 

 


UP 2010/7/22 かなぶん

修正 2011/3/31

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