妖精の章 四十六

 

 紅、橙、黄色に茶色、時折混じるは老いまで待てなかった緑……

 秋の彩りに満ちた山は、しかし、落葉の擦れる音も奏でず、延々と、視界のあらゆるところで極彩を散らせていく。
「秋山か。流石にまだ、ここまでは来ていないよな」
 立ち止まり息をつき、肩を下ろした神代史歩は、色づく葉を嫌うように軽く頭を振った。
 昨日、芥屋に立ち寄った彼女は、何とも胡散臭い留守番・スエより、店主たちが山へ向かったという話を聞いた。
 自分に一言もなく、という点で少しばかりしょげたものの、自宅へ戻った史歩が最初に行ったのは、必要最低限の準備。
 自らもまた、彼らを追って山へ登るための。
 そうして今、秋山に辿り着いた史歩だが、彼女は彼らの目的を知らない。
 ゆえに、ふと目に入った、座れそうな大きさの石に腰掛けると、背筋を伸ばして先程まで背にしていた山道を見やった。
「夏山に用があるとは思えんし、春山に向かうにしても、あの顔ぶれで冬山を経由する事はないだろう。となると、この秋山を通るは必定。近道を使っていたなら、もうだいぶ先まで行っているだろうが……猫がいたとしても、難しいな」
 嘆息するようにして、目を閉じた史歩が思い浮かべたのは、彼らに追いつき追い越すため使用した山道での光景。
 騒山の中を進むにあたり、山道は決して一つではない。
 踏み固められた山道の他にも、ほとんど獣道に近いが、山道は確かに存在していた。
 特に史歩が通って来た山道は彼女が「近道」と言う通り、ほぼ直進に近い状態で移動出来、他の山道より多少のでこぼこはあっても地面の起伏が少ない。
 他の山に用のある者なら、誰しもが利用したいと思う山道だった。
 だがしかし、そんな他者の思いとは裏腹に、獣道となっている「近道」の状態。
 勿論、そこには理由がある。
 あまり知られていない事だが、四つの山で形成された騒山にはそれぞれ、山の主と評される生き物が存在しており、山道の中で「近道」だけがその領域に侵入してしまっているのだ。
 侵入者に対して優しい生き物なぞ、そうそういはしまい。
 しかもこの主、己の身体を生かした直接攻撃もさる事ながら、凝った罠を「近道」に設置するだけの頭脳を持っている。
 ばかりか、深手を負っても時を要せず完治する回復力や底のない体力、身の重さを感じさせない敏捷性にまで優れていた。
 けれど最も怖れるべきは、如何なる状態に陥ろうとも、死に至らぬ事。
 山の主は不死の存在――なればこそ、「近道」を通れる者は限られてしまう。
 史歩のように、一時でも山の主を封じられる力量を持つ者か、何も知らずに運悪く「近道」を見つけてしまった者か。
 先の、逃げのための戦いをなぞった史歩は、陰鬱な息を吐いて首を振った。
「山の主、か……私の居たあの場所ならば、間違いなく神に分類されるのだがな」
 見える度に思い出すのは、故郷の事。
 そう高くない山の麓のこじんまりとした集落、日々の暮らしに追われながらも朗らかに生きる人々。
 長い石段の先にある山中の社は、そんな彼らの精神的な支えでもあり、集落の象徴でもあり――

 史歩が守るべき住い、守るべき人の居るところでもあった。

「…………」
 知らず知らず伸ばされた手が、柄を握る感触で我に返る。
 取り戻した意思でその手を目元に押し当てては、口元に自嘲を刻んだ。
「駄目だな、どうにも。音がないせいか、この山の景色はすぐに重なってしまう」
 もう、戻れない過去に、戻れない時に。
 戻らないと決めた、あの場所に。
「……感傷に浸るとは、らしくもない。じっとしているせいか? ならば」
 振り払うようにそう言い、立ち上がっては「近道」から抜けて来た山道を背にする。
 刃の如き鋭さを持つ切れ長の瞳を前方に据え、一歩、足を踏み出す史歩。
 あれだけ騒がしい連中だ。近づけば分かるだろう。
 そんな風に考え、秋山にある、とある場所へと真っ直ぐ向かっていく。
 ――が。
 彼女は知らない。
 この選択が後に、どんな災難をもたらすのか。
 今の彼女には、知る由もなかった……

*  *  *

 夜が明ければ再びやって来る、夏山の猛暑。
 奥まってきたせいか、踏み慣らされた山道に掛かる日陰は昨日の倍。
 比較的涼しいと言えるのかもしれないが、長い距離を歩ける分、体感温度や疲労は昨日の比ではない。
 その中をただひたすら歩く一行において、昨日と同じくニアを隣にした泉は、昨日とは明らかに違う前方の様子へ眉を顰めた。
「……竹平さん、見ていて暑苦しいんですけど」
 先程からべったりと寄り添う姿に素直な感想を述べる。
 と、呼ばれた竹平は振り返り様、顔を真っ赤にして抗議した。
「何で俺だよ!? 言うなら俺じゃなくて、コイツに言ってくれ! って、あんたも! いい加減離しやがれ! 朝からべたべたべたべたべたべたとっっ!! 暑いっつってんだろ!」
「いやあ。ほらほら、お姉さんって登山家じゃん? 君みたいな若い子ってあんまり接点ないから、ついつい。しかもこんな美少年だよ? 今触っとかないで、いつ触るってさ」
「だからっ、触んなっつってんだろうがよ!」
 先頭を行くワーズには着かず離れず、美津子に左腕を取られた竹平が、必死の抵抗を試みる。
 けれど美津子の方も負けじと、竹平の腕をぐいっと引っ張る。
 押し合いへし合い、どの道暑苦しい事この上ない二人のやり取りだが、抗議したばかりの泉はニアを一瞥しただけで、それ以上何も言わなかった。
「ちょっと泉。何よ、今の視線」
 代わりとばかりにニアの方が泉に抗議めいた声を上げた。
 陽が昇った途端、ほぼ同じ背丈の人間に似た姿へ変わった彼女へ、泉が向ける目には落胆の色しか映っていない。
「いえ、何も。ただ……美津子さんの気持ちが分かるだけで」
「は? 貴方もあの赤い頭に触りたいの?」
「まさか。私が触りたい、いえ、揉みくちゃにしたいのは……」
「うっ。ど、どうして私の方を見るわけ?」
「はあ」
 これ見よがしに溜息をついた泉は、怯むニアに構わず、竹平と執拗に構う美津子の画に、別の人物をそれぞれ当て嵌めて、こげ茶の瞳を潤みに潤ませた。
「かあいかったなぁ、昨日のニアさん。私に抱かれたあなたは、実に可愛らしい人でした」
「ちょっとぉ!? 止めてよね、そういう誤解を招く表現! あと妙に艶かしい動きをする手も! 昼もまだだっていうのに、冗談キツ過ぎるから!」
「いえ、冗談じゃなくて、本当に」
「余計、たちが悪いっていうの!」
 顔を真っ赤にして怒鳴り散らすニアを掠め見た泉、ふっと小さく息を零すように笑っては、軽く頭を振った。
「大丈夫ですよ、ニアさん。私、昼間のあなたには全く興味ありませんから」
「……それはそれで何か腹立つわ」
「はあ。早く夜にならないかなー」
「ならない! 夜は昼の次に来るの! って言うか何かもう、夜が嫌いになりそう。人狼の本分は夜なのに……」
「そんな。私は好きですよ、夜。ニアさん、今以上に可愛くなるし」
「……だからっ、そうだから嫌いになるって言ってるんでしょうがっっ!」
 恋焦がれる乙女の顔で、木漏れ日をうっとり見つめたなら、ニアの悲愴な声が辺りにこだました。
 しかしこの訴えを真に受け取るべき相手は、閃きにぽんっと手を打つと。
「ああ、そっか。先に行ってしまえば暑苦しくても問題ありませんね」
「は? それって根本の解決にはなってないんじゃ……って、あ、泉! 待ちなさいよ!」
 前方で繰り広げられている攻防戦の合間を縫い、泉とニアが竹平たちの横を通り抜けていく。
 途中、竹平から伸ばされる援護要請の手を「御免なさい、私には無理です」とすっぱり切った泉。
 ワーズと竹平たちの間に移動したなら、ふぅ、と額の汗をひと拭い。
「それにしても、今日も暑いですねぇ」
 これまでの出来事を完全に忘れ去った風体で、しみじみ一人ごつ。
「……綾音泉、貴方ってこんな性格だったの?」
「なう」
「わっ、猫!? い、いつの間に」
「? 足下にずっといましたけど」
「にー」
 ニアの言葉に同調を示す声を上げ、足下から泉の肩へとへばりついた猫は、泉の背中に胴体をだらりとくっつけた状態で、ニアに向かってもう一度鳴いた。
「にぁ」
「習うより慣れろ、だそうです……って、どういう意味、猫?」
「みー」
 翻訳した内容に泉自身が猫を睨みつけたなら、これを宥めるように影の獣はぺろりと彼女の頬を舐めた。
 瞬間、ニアや後方から「ひっ」と息を呑む音が届くのだが、猫の甘える仕草にほだされた泉は気づかず、小さく息をついた。
「ま、いいけどね」
 大多数が心の中で「いや良くない!」と叫んでいるなど知らない泉は、誰を振り返る事なく、前を行く店主の黒い背中に向かい、足を大きく踏み出していった。

*  *  *

 後ろからの凄まじい気配を感じてだろう、美津子の腕から緊張が伝わってきた。
 これに少しばかり彼女への煩わしさを軽減させた竹平は、けれども自身にも掛かる無言の圧に、前方へ移動した少女へ恨めしい目を向けた。
 鈍い鈍いと思ってはいたが、まさかここまで鈍いとは。
 それとも、自分に向けられる好意にだけ鈍いのか?
 意思の疎通が難しそうな影の獣へ、何事か話しかける少女の姿に、竹平の口から億劫そうな吐息が零れ落ちた。
 だからという訳ではないだろうが、そのタイミングで退く無言の圧。
 緊張が解れた事で、もう一度息をついたなら、同じようにほっとした様子の美津子が、今までよりも強い力で竹平の腕を引いてきた。
 おいおい、マジかよ……
 先程までのからかい半分嫌がらせ半分の行為であれば、竹平の方も「べたべたするな!」と抗議出来るのだが、今の美津子の表情は質問者のソレ。
 無下には出来ない様子を汲み取り、竹平は内心で非常に動揺してしまう。
 美津子を必死に引き離そうとした大本の理由が、暑苦しいからではないゆえに。
 無論、暑苦しいには暑苦しいのだが、一番の問題はそこではなく。
 うう……あ、当たってる、当たってるって! 頼むから、少しは察しろよ!
 美津子が腕を引く度に感じる、ふにゅふにゅとした柔らかさ。
 前を掠めて間に抱かれては、心地良さに赤くなった顔を見られやしないかと、囚われていない手で口元を覆う竹平。
 しかし、当の美津子はそんな彼の願いも虚しく、何も察してくれないままに、ちらっと後方を黒く大きな瞳で示してきた。
「ねえねえ、シン君。ちょいとお姉さん、君に聞きたい事があるんですけどね?」
 言って次に美津子の目が向けられたのは、前を行くクリーム色の背中。
「あの可愛い子ちゃん、実はかなりのモテキャラ?」
「モテ……?」
 美津子の問いを追うように、泉の背を眺めた竹平は、言われてみればそうかもしれないと、これまでの記憶を手繰り寄せていく。
 恋人への怖れから、一時的に泉を異性として見てしまった自分は除外するとしても。
 何だかんだ言いつつツーカーの仲であるワーズに、滅多やたらに重たい想いを抱くシウォン、出会い頭に愛人を主張するエン。
 とりあえず、この三人からなら、泉はモテていると言っても良いだろう。
 正直、全員が全員、同情モンの相手だがよ。……ゲテモノに好かれやすいのかな、アイツ。
 人魚という、正真正銘のゲテモノの大群に好かれた過去のある少年は、そんな自分を綺麗さっぱり忘れた顔で、誰にも聞かせられない感想を抱いた。
 次いで美津子に「かもな」と気のない返事をしたなら、そこで解放されると踏んでいた腕が、更に魅惑の谷間へ埋められてしまう。
「お、おいっ!?」
 身長差から傾ぎ、高まる密着度に引っくり返った声が出る。
 しかしてやはりと言うべきか、全く意に介さない美津子は、それでも足りない背丈を埋めるように首を伸ばすと、竹平の耳に唇を近づけて囁いてきた。
「ねえ? じゃあさ、本命は誰なの?」
「っ!!」
 掠める甘い吐息――どころか、皮膚を撫でた唇に竹平の肌が粟立った。
 きっと美津子自身は気づいていまい。
 厄介な事この上ない女だと思いつつも、それ以上に厄介な自分の反応に、竹平は苛立った口調で答えた。
「知るか」
「そなの? うーん、そっかぁ。お姉さんの勘では、一番前の彼じゃないかと思ったんだけど」
 得られなかった成果に肩を落す素振りで、美津子の顔が離れ、腕の拘束が少しだけ弱まる。
 これに対し、安堵よりも残念がる自分を知った竹平は、内心でそんな己を罵倒した。
 阿呆か、俺! こんな為ってない色仕掛けモドキに一々ビクついてんじゃねぇよ! どんだけ盛ってるってんだ!
 だが、この怒りとは裏腹に、未だ囚われたままの腕はしっかりと、美津子の柔らかさを堪能しており、自らの意思で離れる気配すら見せてくれない。
 全てが全て、自分の望んだ事ではないと否定する竹平は、腕の動きを拘束によるモノと切り捨てながらも、胸内で自身への弁明に必死になっていた。
 そりゃ確かに、ここしばらく、女らしい女に触れては来なかったさ。同郷でも泉は元々論外だし、奇人街の女ったら全員化けモンで怖いだけ。他に女って言ったら……キイ? はは、性別だけだろ。ガキをどう思えってんだよ。まあ、将来的にはイイ女になるんじゃねぇの、アイツ。って、何か父親目線だな。子どもなんていやしねぇのに。
 くたびれた笑いの代わりに小さく息をついた竹平は、口の先で他人の恋路に予想を立てている美津子をちらりと盗み見た。
 拘束とは名ばかりの、腕に添えられた両手と支える胸。
 好奇心旺盛な大きな瞳は思いのほか強い光を携え、化粧っ気のない頬は山道を歩く事で仄かに上気している。
 汗に張り付く髪は艶かしいうねりを生じさせており、馬に蹴られそうな事ばかり妄想する唇は、若干開かれた先に白く可愛らしい前歯と誘うような舌を覗かせていた。
 思わずごくりと鳴ってしまいそうな喉に、竹平は慌てて前を見つめ直すと、美津子に気づかれないよう首を振った。
 待て待て早まるなよ、俺。よーっく考えてみろ。お前はただ、手が届きそうな女に飢えているだけだ。……って、この表現も健全な男としてどうよ。……いや、健全な男だからか? まあいい。兎に角、この女は駄目だ。何でかって? そりゃお前、決まっているだろ? だってこの女……
 今度は幾らか、苛立ちと悔しさを混じらせながら、美津子を一瞥した竹平。
 目元をぐっと怪訝に顰めては、吐き捨てるように小さく口にした。
「……自覚、してねぇし」
 腕を取っている相手の性別を。
 でなければ、こんな風に密着する事もあるまい。
 それは即ち、この女が竹平を男として見ていない事を示していた。
 こちらは彼女の一挙手一投足にたじろぎ、あまつさえ良からぬ夢想にまで及ぼうとしているのに。
 不公平ではないか。
 いや、それよりも何よりも。
「虚しい」
 疲労感たっぷり、溜息に忍ばせて今一度呟いた。
 元居た場所では有名人とちやほやされる事に、多少煩さを感じていたものの、いざこうして離れた場所に来てみれば、それがどれだけ贅沢な事だったかが分かる。
 しかも周りを見渡せば、否、見渡さずとも周りにいるのは、濃ゆい個性の塊たちばかり。
 元居た場所では、ただの女子高生であったはずの泉でさえ、そんな彼らに埋没する事なく、己をしっかり持っているというのに、自分はと言えば……
「どうした、少年? 思春期のお悩み? お姉さんが相談に乗ってあげようか? あ、でも、異性関係は駄目よ? お姉さん、こう見えても結構操の守りは堅いんだから」
「……はあ」
 新しく参入した美津子にしても、この性格。
 自分の存在がどんどん希薄になっていく気分に陥った竹平は、これ見よがしに溜息を付くと、それまでどれだけ足掻いても離されなかった腕をぞんざいに払って取り戻し、億劫な思いと共に身体を前へ持って行く。
「ああ、ちょっと少年、待ちたまえよ! というか待って下さい、マジで。置いてかないで! お姉さん、これでもかなり繊細なのよ?」
 途端に喧しく追って来た美津子は、竹平の横に再び並ぶなり、おずおずといった調子で上目遣いにこちらの機嫌を探ってきた。
「ねえ、怒っちゃった? 御免、許して頂戴、堪忍しておくれやす。あのね、悪気があったわけじゃないのよ」
「だろうな」
 悪気――自覚があったなら、もっと竹平をからかうだろう。
 無意識だから余計にたちが悪いのだ。
 そんな意味合いを込めて、やや怒り気味にぶっきらぼうに返せば、おちゃらけた謝罪をした美津子はその割に、更に焦った様子で竹平の袖を小さく掴んできた。
 言葉とは裏腹の遠慮がちに引く力加減を知り、竹平の茶色の目が煩そうに彼女を見やったなら、大きな黒い瞳がばつ悪そうに逸らされた。
「だってさ、正直私だって、本当は困惑しているのよ。昨日はああ言ったけど、こんな話し方ばっかりしているけど、そこまで柔軟になんか出来ていないの。だけどそこで負けてちゃ、自分を見失うばかりでしょ? だから……置いてかないで」
「…………」
 何が「だから」なのか。
 美津子の訳の分からない小さな主張に、けれど竹平は少しだけ、毒気が抜かれたような顔つきとなってしまう。
 置いていくなといつかの日、自身も口にしていたがために。
 そう、だよな……そんなもんだよな。誰だって、怖いよな。アイツだって、たぶん。
 思い、向けた視線の先には、影の獣と夜になれば獣の頭を持つ少女と共にいる、同郷の泉。
 彼女が奇人街に訪れた時の事を、当然だが竹平は知らない。
 しかし、推測は出来る。
 置いていくな、と彼女へ言う羽目になった時の事を思い起こせば、自然に。
 あの時、彼女は恐れていた。
 竹平の存在が自分よりも奇人街に馴染んでいると勘違いして。
 それは詰まる所、縋っていたに過ぎない。
 見知らぬ場所で唯一つ、縋っても良いと示された、ワーズの手に。
 縋る事で、異質である自分の希薄な存在をその場に留めようとしていたのだ。
 だからこそ、強がっているだけの竹平を馴染んでいると感じてしまった。
 今の、竹平のように。
 まあだからといって俺は、あそこまで吹っ切って馴染むつもりもないけどな。
 もし今、自分があの時の泉と同じ気持ちを抱いているとしても、その先まで踏襲するつもりはない。
 視線を泉から美津子へ戻した竹平は、返答待ちの不安げな表情を認めると、軽く鼻で笑ってから低い頭を何の躊躇いもなく撫でてやった。
「ちょお!? しょ、少年!?」
「なあ、昨日から気になってたんだけどよ、何で少年でお姉さんなんだ?」
 飛んでくる非難の声を無視し、先程の答えでもない言葉を投げかけたなら、多少崩れた髪形を抑えつつ、若干恨みがましい目付きをした美津子が答えた。
「ったく、これだから若いモンは。そんなの当たり前でしょ? 私の方がお姉さんなんだから」
「は? お姉さんってどう見ても」
「椎名美津子、二十七歳のピチピチギャルでぇ〜っす」
「……ピチピチ?」
「そこに反応するかね、少年よ」
「四捨五入すると」
「ぐふっ……そ、そう反応します? 一の位なんて、切り捨て御免しているこの私に」
「……マジで?」
「うん、マジで」
「…………」
「…………」
 歩きながら、しばらく無言で交わされる視線。
 最初に逸らした竹平は前方を見やると、頭痛を堪えるように額を押さえて顔を顰めた。
「詐欺だ。ありえねぇって。こんな落ち着きのない二十七がどこに」
「はいはい、ここ、ここ! ここにいまーす!……って、何気に酷い事言ってくれるじゃないの」
「誰にも言われた事がないのにって?」
「いやー……会う人、皆さんに言われるよー? 美津子さん、変わらないねーって」
「そこで目を逸らすって事は、随分言われてんだな、あんた」
「いやん。シン君ったら、そんなに褒めないでん」
「…………」
「え、いやあのね、そこで沈黙返されると、私がとってもイタイんだけど」
 吐露したばかりの本心すら霞む美津子のおどけっぷり。
 これに呆れた風体の竹平だったが、実際、彼が口を閉ざしたのは別の理由からだった。
「名前」
「はい?」
「竹平でいいよ、もう」
「たけべえ? 誰のお話ですか?」
「だからっ……あんた、俺の本名知ってる?」
「シン、じゃないの?」
「……権田原竹平」
「は? ごんだわら?」
「権田原竹平って言うんだよ、俺の本名。竹のようにすくすくと、平らかに育てって」
「ふぅん? 中々素朴な由来だねぇ。なのに芸能人って、ギャップ激しい」
「るせぇよ」
 己の希薄さを感じ、美津子が呼んだシンという仮初の名に、固執する虚しさを得た竹平。
 生まれて間もなく付けられたその名を受け入れれば、茶化す美津子の言い草に少しばかり悔しい思いを抱いた。
 しかし。
「まあまあ、怒らないで。うん、私は良い名前だと思うわよ? 親御さんが大切に思ってつけてくれた名前だって分かるから。ね、竹平君」
「!」
 宥めるように叩かれた肩、柔らかな微笑み、耳を通り心を揺さぶるその――甘い呼び声。
 気安さに息を詰めた竹平は、微かに顔を歪めると、振り払うようにして前を向く。
 そんな竹平の様子を照れ隠しと考えたのか、豊満な胸の上を軽く叩いた美津子は、竹平を習うように自分の名前の由来を説明し始めた。
「美しいのは見ての通り、興味津々、何にでも首を突っ込みたがる元気っ子、それが椎名美津子ちゃんって寸法よ!」
「…………」
 たぶん、いや確実に、彼女の両親はそういうつもりで名前を付けた訳ではないだろうが、微塵の疑いも寄せ付けない断言をした美津子は、竹平の無反応にも挫けず胸を張った。
 対して竹平は、彼女のこの台詞を耳にしながらも、動揺したままの己の胸に視線を落とす。

 竹平君――

 その響きに疼く、懐かしい熱を感じて。

 

 


UP 2010/9/8 かなぶん

修正 2012/8/10

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