妖精の章 四十七

  

 延々と続くように見えた登り坂が、いつの間にか平坦に、程なく緩やかな下り坂になってきた頃。
「何、あれ……」
 泉は背後でそう呟いた美津子を振り返る事なく、彼女の示す「あれ」を前方、黒い背の先に見た。
 青々とした木々が続く山道をいきなり寸断する、空まで届く白い霧の壁。
 昨夜、一行に加わった美津子とは違い、すでにそれを見ていた泉は彼女ほど驚きはしなかったものの、慣れない不自然な光景には、ごくりと喉を鳴らした。
 次いで沸き上がる不安を払うように、店主の黒い肘を掴んだなら、黙々とふらふら進んでいた白い面が、泉の方を肩越しに振り向いた。
「ワーズさん」
「ん? ああ、あれかい? あれは見ての通り境界だよ。ただし、この先にあるのは奇人街じゃなくて、別の山」
「ええと、昨日言っていた秋の?」
「そう。だから気をつけてね。あれを通り過ぎると季節が一気に変わっちゃうからさ」
 それだけ言って、再び前に向き直るワーズ。
 泉は彼の肘から手を離すと、詰めた距離分遠退く背を見つめながらも、幾らかほっとしたような息を零した。
 すると横から届く、低い声音。
「……貴方って、いっつもそうなの?」
「へ?」
 追って見れば呆れたニアの顔がそこにあり。
「はぁあ。これは思っていたよりも分が悪いわね、パパ」
「何の、お話ですか?」
 泉が遠回しのような言葉に眉を寄せると、きょとんとした表情を一瞬浮かべたニアは、嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「何のって……もしかして、自分の事にも疎いの?」
 些かムッとした泉は、しかし、そうかもしれないと思い直す。
 でなければ、あんな思い違いはしていなかっただろう。
 昨日の夜、ようやく、今になって気づいたような――
 徐々に下がる泉の視線。
 これをどう受け取ったのか、表情を焦りに変えたニア、両手を振って泉の注意を下から上に引き戻そうと、思わぬ事を口にした。
「いやあのね、責めているんじゃないのよ? ただ私が言いたいのは、店主に言葉を貰っただけで、どうしてそこまで安心しちゃうのかなーって事で」
「……安心? 私が?」
「そう。気づいてなかった?」
 注意どころか泉からの注視を受けたニアが、驚いたように目をぱちくり。
 緑の双眸の中では、泉も似たような驚きを表していた。
「まあ、鏡がある訳じゃなし、気づかないのも無理はないけど……」
 フォローのつもりなのだろう、そう言ってさっと逸らされた目が、気まずそうに前を向く。
 そんなニアの動きを真似る風体で前を見た泉は、そのまま視界に入る黒い背へ、己の想いを反芻した。
 ワーズへの好意はあると認めた。
 ただそれが、どんな内容でどの程度の強さなのかは、はっきりしていない。
 はっきりとはしていないが、傍目ではワーズによって泉が安堵を得ているように見えるらしい。
 奇人街という場所柄、人間好きであるワーズは、確かに人間にとってそこそこ安らげる存在と言える。
 現に竹平も、ワーズの庇護下にあるのが安全だと、過去、口にしていた事があった。
 しかし。
 でもたぶん……違う。竹平さんと私では、ワーズさんに対する感じ方が、全く違う。
 竹平や、多くの人間が安堵を得るのは、ワーズという存在。
 けれど泉の場合、ワーズを構成する要素は二の次。
 人間好きである事も、ゆえに人間は害さないという事も、さして重要ではない。
 重要なのは、彼そのもの。

 彼自身が、彼女の安堵を呼ぶのだ。

 って結論付けると、それはただ単に好意を寄せているから、とか言われそうだけど。
 それは違う、と泉は思う。
 安堵の起因は単純な好意の有無ではなく、もっと恒久的な、それでいて惰性に近い感覚。
 言葉にして一番近いのは。
「私の、――っ!」
 危うく発しそうになった言葉を飲み込めば、黒い背を呑み込む白い霧。
 続き、自身も霧に包まれたなら、泉の手が口元を覆い隠した。
 いつの間にかニアと繋げていた、もう一方の手にその動揺を伝えぬよう気をつけつつ、霧の中、誰の眼もない事を有難がるていで、口から離した手を胸の上に移動させる。
 触れたのは泉にべったりと張り付いていた、白い霧に混じる、黒い靄の持ち主。
「猫……」
「にゃあ」
 呼べば微かに応える、意味を為さない鳴き声。
 泉が今し方口にしかけた言葉、それすら察していながら何も言わないような、そんな音色を受け、視界を閉ざすくせに相変わらず恐怖どころか何の感情も抱かせない白の中で、静かに目を閉じる。
 歩みは止めず、歩む先に在る人を想う。
 泉が彼に感じる安らぎ。
 それを他者が感じられたなら、きっとこう表すことだろう。
 郷愁、あるいは帰るべき家、帰りたいと思える場所――

 居ても良いのだと、居て当たり前なのだと思える私の……居場所。

 だがそれは、呑み込み塞がなければならない程に、簡単に肯定して良いモノではない。
 増して長年求め続けていたならば、尚更に。
 好きになる理由は幾らでも転がっている。
 適当に拾い上げて繋げれば、それは尤もらしく理解をもたらす。
 きっかけにしてもそうだ。
 目が合ったり、手が触れたり、それだけで充分、新しい想いは生じる。
 けれど。
 分からない……。どうして私は、彼にここまでの安らぎを見出せるの?
 甘く淡い想いとは違う、柔らかく優しい感傷。
 何か、大切な事を忘れている気になった泉は、霧が晴れる直前に小さく頭を振った。

 ううん、そんな訳ない。
 だって私は――

*  *  *

 椎名美津子は登山家であり、これまでにも数多くの山を登ってきた。
 だからといってその経験を理由に、どんな山でも制覇出来るなどと高を括るつもりはない。
 幾度となく登った山でも、初心者向けのコースであっても、美津子はいつも入念に準備をしてきた。
 快活さとは裏腹に、彼女本来の性質は過剰なほど慎重なのだ。
 ゆえに不測の只中に在る今、竹平少年をからかう傍ら、美津子はいきなり放り出されたに等しい見知らぬ山を内で分析していた。
 そしてそんな彼女がこの山に下した結論といえば。
 ……にしても、変な山。
 白い霧の壁を抜け、現れた秋の光景と肌寒さに、歩きながら腕を擦る。
 真夏の青々とした緑から一変、舞い狂う暖色の彩りは、視覚は勿論、五感の全てを混乱に陥れるほど暴力的だ。
 否、唯一聴覚だけは同じ音を捉え続けている。
 前方と後方から届く、自分と、それ以外の足音と息遣い。
 けど、それが何の役に立つっていうのよ。いいえ、役どころか害でしかないわ、こんなの。
 昨晩は空腹と、まさかこんな山に移動していたとは知らなかったせいで、全く気づかなかったが、今日、歩いた事でよく分かった不自然さ。
 風が吹いても、葉が散り落ちても、聞こえてくるのはいつだって、歩みを一にする者たちの音のみ。
 もしも……もしもこんな山が普通にあったら私、絶対可笑しくなる。っていうか、その前に絶対登らないわ。
 断言してもいいとさえ思う。
 だというのに、今もってこうして歩いていられるのは、同行者が同じく、普通ではない連中だからだ。
 木の葉を隠すには森の中ーってたとえとはちょっと違うけど、まあ、概ね同じよね。とはいえ、私はそっちに染まる気ないんだけど。
「っ! だーかーらっ!! 必要以上にくっつくな!」
 美津子が絡ませた腕を不意に引けば、隣を歩いていた竹平少年が真っ赤な顔で怒った。
 上から来る怒声を物ともせず、更に身体を密着させた美津子は、これみよがしに袖から覗く筋張った手を撫でた。
「えー。いいじゃないか、少年! お姉さんにピッチピチの肌を堪能させておくれよ」
「駄目だ、離れろ!」
「けーちけち。運命共同体なのに、なんてつれないのかしら?」
「だ、れ、がっ! 運命共同体だっ!」
 元気に嫌がる竹平少年に対し、彼が嫌がれば嫌がるほど調子付く美津子は、反面、心の中で小さく息をついた。
 表ではからかいを続けながらも、思い起こすのは昨日、黒一色の男が語った事。
 一週間もしないで帰れる、最短なら三日、か。ついでにあの時の様子から察するに、鍵はこの子が握っている、と。
 騒ぐ視線の奥で、冷静な光が赤い髪の少年の赤くなった美貌を眺める。
 次いで浮かぶのは昨夜の内に推測していた、彼と彼らとの関係性。
 職業柄、人を見る目はあると自負する美津子は、竹平少年をこの一行の中で、誰よりも自分に――自分の知る普通に近い存在だと感じていた。
 加え、同郷であるはずの少女は、遠い存在だとも。
 業界人と一般人、そういう枠組みの話ではなく。
 たぶん、この中で心身ともに一番脆弱なのはこの子。今日の朝に別れた鳥っぽい少年は、自分の事を一番弱いって言ってたけど、基盤がそもそも違うもの。泉って子にしても、そう。本人が気づいているかどうかは知らない。でも、確実に彼らに染まりつつはある。それに引き換え、この子は――
 美津子の目に映る竹平少年の姿は、他の誰よりも儚げだった。
 印象が薄いのではなく、ただただ脆いのだ。
 叩けば簡単に崩れてしまいそうなほどに。
 それでもからかえば、怒気として反応が返って来る分、救いがあると言える。
 少し、疲れちゃうだろうけどね。帰れなくても下山するまでは付き合って貰わないと。しっかし竹平君、流石だわ。芸能関係に疎い私の耳に、凄い俳優だって情報が入ってくるだけの事はある。
 尤も、自分でそう思って行動している訳ではないかもしれないけど――人知れず瞳を鋭くした美津子は、怒る竹平少年を宥めながら胸内で感嘆した。
 はっきり言ってしまえば、この竹平少年は偽物、仮初の姿だ。
 美津子自身、そう最初に判断を下した時は、己の見る目を疑ったものだが、腕を絡ませ竹平少年を直に感じたなら、この判断は間違いではないと確信した。
 彼は、演じている。
 昨日会ったばかりでいつからなのかは知れないが。
 彼は自分を――日常生活にあるべき己を、演じ続けている。
 この、妙な連中と付き合っていくために。
 触れる度、常に緊張を伝えてくる肌が全てを物語っていた。
 そこへ来てのこの登山は、彼の精神を更にすり減らしていく。
 だからこそ美津子は。
「そーいや可愛い子ちゃんのお相手の邪推はしたけどぉ」
「邪推……分かってんなら止めろよ」
「いやいやいや! そこは譲れんよ? 他人の恋路ほど、面白い見世物はないんだから」
「見世物って」
「うん、そう。でね? 竹平君はどんな子が好みなの?」
「……見世物呼ばわりするヤツに、教えると思うか?」
「うん、思う。だって私が聞いているのは、不特定多数に対するこだわりだもの」
「くっ。しれっと言いやがって」
「ふっふふ〜ん♪ ほぉれほぉれ、お姉さんに話してみ?」
「だあっ、もううるせー! ってか、だから引っ付くなって!!」
 からかっている最中は解かれる緊張。
 やり過ぎはご法度だが、ずっと気を張っているよりは断然良いはずだ。
 御免よ、竹平君。でもこれは、君にとって必要な事なんだ。だから存分に……感じてくれたまえ!
「いぃっ!!?」
 空想のマイクを差し出す手とは反対の手で、竹平少年の腕を引いた美津子。
 自然な動きで偶然を装い、不自然な鈍さで胸の膨らみを彼に押し付ける。
 ほとんどセクハラといってもいい行為だったが、これが一番、竹平少年の緊張を解くのに効果的だった。
 いやー、竹平君が健全な男の子で良かったわ。しかも見た目に反して、異性交遊は潔癖っぽいし。……でも、この方法じゃ確実に嫌われちゃうわよね。やれやれ、憎まれ役も楽じゃないわー。
 美津子はお気楽を表に、裏で哀愁を漂わせて思う。
 彼女からしてみれば、竹平少年は嫌いなタイプではないため、それなのに嫌われる事をしなければならないのは正直辛かった。
 かといってからかいに手を抜いては、彼の緊張は解れない。
 ここは涙を呑んで痴女に徹するしかないのよっ!
 美津子が心の中でぐっと握った拳に誓いを立てれば、丁度同じタイミングで竹平少年の言葉が耳朶を打った。
「あんたみたいな性格」
「……へ? 私?」
 いきなり向けられた人差し指。
 思わず美津子は自分でも自分の顔を指差し、何の事だと眉根を寄せた。
 すると煩そうに眉を顰めつつも、肌を薄っすら赤く染めた竹平少年は、茶色の瞳をそれとなく逸らして続けた。
「好み、聞いただろ?」
「え? ああ、うん…………………………ぅえ?」
 美津子は直前の会話を思い出して頷き、先程の竹平少年の言葉をそれに繋いでは、異様な声を上げて驚いた。
 純粋に、ただただ、驚いてしまった。
 切り返しが遅くなり、多少なりとも上擦ってしまう程に。
「は、ははは、参ったね、こりゃ……さ、流石は美津子ちゃん、大人の色気で悩殺――」
「それはない。断じてない」
 冗談を真顔で否定されてしまった。
 立つ瀬なく、次に使えそうな言葉を探して口ごもれば、慰めどころか追い討ちをかけるように竹平少年が言う。
「後な、人の話は最後まで聞け? 俺は、あんたみたいな性格――じゃないヤツって続けようとしたんだぜ?」
「んがっ!? 引っ掛け? ひ、酷いわ、竹平君! 乙女の純情を弄ぶなんてっ!」
 皮肉よりもおどけが際立つ音色を受け、即座に自分を取り戻した美津子は、大袈裟に傷ついたフリをして、竹平少年より数歩前によろめいた。
 美津子が恨みがましい目付きで睨みつければ、やられっぱなしでいるものかと向けられる、挑戦的な笑み。
 悔しがる風体でこれを逸らした美津子は、その陰で、未だバクバク音を立てる心臓の辺りを軽く押さえた。
 ビックリしたビックリしたビックリしたっっ! 一瞬マジかと思っちゃったじゃない! うーあーっ、本当、なんて演技しやがるのよ、コイツ!!
 からかうだけのつもりが逆にからかわれ、冷静に流すどころか狼狽までしてしまった。
 美津子の中ではからかいも親切心の一つであったため、この反撃は些か気分が悪い。
 ……あっちは本職だもんね。反応は純でも、心して掛からないと痛い目見るって事か。
 小さく唇を噛み、それでもめげずに次のからかいの手を考える。
 と。
「大丈夫、美津子・椎名?」
 死角からいきなり、後ろを歩いていたはずの包帯巻きの顔が現れた。
 しかも自分より上背があるくせに、飛び出してきたのは美津子の顔のすぐ横。
「ぎゃわっ!!?」
「うぉっ!?」
 純粋に、ただ純粋に驚き飛び跳ね、その先にいた竹平少年へ抱きついた美津子は、医者だというその男へぶるぶると頭を振った。
「だ、大丈夫、大丈夫! み、美津子ちゃんは、いつだって平気だよんっ!」
 必死に青褪めて訴える姿は、どう見ても具合が悪そうなのだが、これを聞いた男は煙管をぴこぴこ上下に振ると、とても残念そうな声で言う。
「そっか。大丈夫か……。はあ、つまんないな。ミニコ・チーサイも大丈夫なのか」
「み、ミニ……小さいって! 私は小さくない!」
 実際、美津子の身長は女性のほぼ平均をいく。
 が、童顔のせいで実際より小さく見えてしまう事が多々あり、それを理由に不利な状況に陥ってきた過去があった。
「ちょっ、ストップ! 怒るなって。悪気はないんだからさ!」
 苦い経験に支配され、訂正を求めて包帯男に突っかかろうとしたなら、竹平少年の手ががっしりと美津子の肩を掴んで抑える。
 それがまた、上から押さえ込んでいるようだと思えば、美津子の怒りは更に煽られてしまう。
「悪気がなかったら、何したっていいっていうの!?」
 余裕をなくし、地の部分を見せる美津子に対し、戸惑う竹平少年は落ち着けと言わんばかりに、包帯男へと顎をしゃくってみせた。
「いや、そうじゃなくて。この先生、患者や患者になりそうな奴の名前以外、無茶苦茶に間違えるんだって。試しにもう一回、あんたの名前呼んで貰えれば分かるだろ。なあ、エン先生、コイツの名前、もう一回言ってくれるか?」
「うん? いいけど……えっと、ノミニ・チービ?」
「……分かったわ。けど、一回殴ってもいいかしら?」
「止めとけって。まともに相手したら疲れるだけだぞ」
 美津子が握り拳を掲げて問うたなら、疲れた声を上げて竹平少年が止めに入る。
「んと。お先に失礼します」
 不穏な空気を察してではないだろう、包帯男はそんな彼らを追い抜くと、振り返りもせずに先へ行ってしまった。
 崩されないマイペースに、美津子は自身の怒りを虚しいモノとして処理すると、意識を自分の前に戻した。
 と、竹平少年に肩を掴まれたまま、向かい合っている格好に気づき、慌ててそこから一歩遠退く。
「わわっ、御免」
「あんたな……さっきまで散々好き勝手やってたくせに、ここで謝るのか?」
「…………」
 竹平少年からやって来る、呆れ混じりの正論。
 ぐぅの音も出ない美津子は、思わず出してしまった地の部分から、どうやってお気楽なキャラクターに戻そうか視線を彷徨わせて迷い――


ざり……ざり……ざり……


 微かに届いたその音に、揺らいでいた瞳と息を止めた。

 

 


UP 2010/9/27 かなぶん

修正 2012/8/10

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