妖精の章 四十九

 

 休憩と、ちょっとした食事を摂り、山道を行く泉の足取りは、先程とは比べ物にならないほど軽い。
 未だ上り下りを繰り返しているというのに、鼻歌混じりにスキップまでしそうな陽気である。
 この陽気さを恐れてか、散々弄られてきたニアは後方、人狼の一団の中に戻っていた。
 泉の胸に抱かれていた猫が、陽気な締め付けから早々に逃げ出し、彼女の脇を少しだけ距離を取りつつ歩いているのだから、賢明な判断だったと言える。
 けれどもこれは泉に限らず、彼女から「温泉があるんですって!」と力強く言われた美津子にも見受けられた。
「温泉かー。いいなー、久しぶりだなー」
「おや? 可愛い子ちゃんが住んでいるっていう、そこのお兄さんの家には、お風呂はなかったのかな?」
 夢見る少女の眼差しを上向かせ、温泉に心奪われる泉の後ろから、美津子が声を掛けてきた。
 これへ泉が答える前に、先頭を行くワーズがへらりとした顔を振り向かせた。
「お風呂はあるよ。でも、芥屋は店であって、ボクの家じゃない」
「へ? そうなんですか?」
 初耳に泉が目を丸くすると、銃口を頭にしたワーズが頷いた。
「うん。ボクにとって芥屋は、いわば借り物だからね。そういう意味では猫も同じ。ボクは芥屋の店主で、猫は芥屋の猫。でも、芥屋を家と呼べない。住んでいても、帰る場所ではあっても、所有しているわけじゃない」
「はあ」
(奇人街の住宅事情か何かなのかしら?)
 住むトコないなら奪ってナンボが常識のあの街に、そんな込み入った話があるとは思えないが、聞いた手前、気のない相槌を打った泉。
 それで構わないらしいワーズはもう一度頷くと、へらへらした顔を前に戻していく。
「ある意味、泉嬢たちと同じだね。……人間と同じなんて、すっごく幸せ」
「…………」
 最後は独り言だったのだろう。
 楽しそうだが、どこか不穏に響く喜悦を受け、泉が相槌を避けたなら、後ろの美津子が話しの続きを持ってきた。
「そちらさんの込み入った事情は分かんないけど、じゃあ、湯船はあったんだ」
「ええ。でも、湯船と温泉は違いますから!」
 語る拳にぐっと力が篭る。
 温泉一色の泉の様子に、美津子はうんうん、何度も首を縦に振った。
「あー、分かる分かる。温まり方が全然違うもんね。特に、こうして汗に塗れた後は、また格別で……ん? ってことは、この山って火山なの?」
「? 火山じゃなくても、温泉ってありますよね?」
「いや、そうなんだけど。そういう意味じゃなくてね。ほら、火山だったら、今がどういう状態なのかなーって。いきなり噴火されるとお姉さん、ちょっと困るなー、ってさ」
「こ、困るで済むレベルですか?」
 なんとも豪快な美津子に泉が引けば、振り向きもせずにワーズが答えた。
「んーん。火山じゃないよ。ま、温泉の出方は、似たようなモンだけど」
「というと?」
「騒山には各山に一匹ずつ、主っていう不死の生物が居るんだ。で、此処の主は常に高温の皮膚を持っていてね。しかも他の主より引き篭もり体質だから、滅多に地中から出てくることはない」
「つまり、その主っていうのが、この山にあるっていう温泉の正体?」
「そ。泉質の由来もね」
「へえー」
 仕切りに感心する美津子。
 対する泉は、いつになく饒舌に、それも人間以外の生物について語るワーズへ、不思議そうに首を傾げた。
「ワーズさん、詳しいですね」
「んー、昔ちょっとね。というか、ここの温泉を掘り当てたのが、自称・温泉ハンターの人間だったから」
「自称・温泉ハンター?」
「そう。自称・温泉ハンター」
 自称だろうが、他称だろうが、温泉ハンターと人間が言えば、温泉ハンターと憶えるはずのワーズ。
 それがわざわざ“自称”を先頭に持ってくる不自然さに、益々泉の頭が傾げば、ちらりとこちらを見たワーズがへらりと笑う。
「彼が自分でそう名乗ったんだよ。自分は自称・温泉ハンターだ、ってね。最初は芥屋の従業員をしていたんだけど、ある時いきなり、温泉に入りたい! って暴れだしてさ。そうしたら丁度、通り掛かった史歩嬢が珍しく乗り気になってね。史歩嬢の居たところにも温泉があったから、久々に入りたいと思ったらしいよ。それに史歩嬢は騒山の常連、主の特性も知っていたからね。掘ったりとかは面倒だけど、やってくれる酔狂がいるならってことで」
「ああ。史歩さんらしいですね。……でも、どうして常連?」
「あの頃は主相手の修行に明け暮れていたんだよ。史歩嬢には倒したい相手がいるからね。今でも鍛錬は欠かさず……けど、少し忘れ気味にはなっちゃってるかも。アレの特性上、仕方がないと言えば仕方ないんだけど」
「?」
 どこか含みのある言い方。
 史歩の事情には首を傾げつつも、突っ込んで聞くつもりもない泉が首を傾げるだけに留まれば、後方の美津子が「もしもーし?」と手を上げた。
「またしても込み入ったお話中に申し訳ないんだけどさ。その史歩嬢って、どんな人なの? そこのオニーサンが嬢っていうからには、性別は女なんだろうけど、主って不死の生物、それも山に影響を及ぼすような能力の持ち主なんでしょ? なのに修行相手って」
「あー……」
 至極尤もな疑問ではあるが、どう答えて良いものやら。
 泉が返答に惑えば、先程から大人しく美津子に腕を取られていた竹平が、陰鬱そのものの声で答えていった。
「一見、古風な美人剣士。ところがどっこい、同じ人間とは思えないことを平気でやる殺人狂」
「へえ〜。そんな人もいるんだ。厄介この上ない賑やかさだねぇ」
 怖い怖い、と全然怖がっている風には見えない調子で首を振る美津子。
 肩越しにこの様子を見ていた泉は、気楽な美津子の返答には苦笑し、竹平の奇妙な様子には少しだけ眉を寄せた。
(竹平さん……なんか変。美津子さんのからかいに反応して疲れた、って訳じゃないみたいだし。温泉の話してからよね、こんなぐったりしているのって)
 同郷の出身なら、少なからず歓迎しても良さそうな温泉談に、けれど竹平だけはあまり良い顔をしなかった。
 何か理由が、と泉が考えた矢先。
「ああ、ほら。もう少しだよ」
 前方を行くワーズが、落ち葉に彩られた山道を黒いマニキュアで指差す。
 そこにあったのは、土の中に埋められた枕木。
 明らかに人の手が加えられたと分かるソレは、等間隔に配置されており、泉が元居た場所で見たことのある、ハイキングコースの光景に酷似していた。
 年季の入った木目から、自称・温泉ハンターの手が加えられたのは、随分と前のことだったに違いない。
(その人は、その後どうなったのかしら? 無事に帰れた? それとも……)
 泉は枕木に一歩踏み出すと、見ず知らずの人に思いを馳せる。
 次いで見つめるのは、前方をふらふら行く黒衣の男。
 人間が好きだと豪語して止まない彼の傍には、泉の知る限り、史歩とスエしか人間は残っていない。
 普段の話しぶりから察するに、ワーズは彼ら以外の人間とも交流を持った経緯があり――その数に応じた別れも経験しているはずだ。
(死んだ人間は知らない、みたいなこと言ってたけど……じゃあ、別れた人間は? 私が生きて元の場所に行ったら、ワーズさんは私の事憶えていてくれる? それとも……やっぱり忘れてしまうのかしら?)
 幾ら背中を見つめようと、泉の心の中の疑問になど、ワーズが答えられるはずもない。
 枕木を頼りに歩を進めていけば、紅葉の途切れが木々の合間に光を滲ませ、近づいてみれば、音もなくさらさら流れる川が視界に入ってきた。
 陽光を反射する水面がそこかしこに光の陰を散らす。
 これを時折視界に入れては目を細めつつ、川辺より高い位置にある山道をひたすら進む。
 相変わらず、自分たちが地を踏み締め動く音と、呼吸音しか聞こえない静けさだが、景色に変化が訪れたことで、不思議と心が穏やかになっていくのを泉は感じていた。
 ――温泉効果が継続中なのも、要因ではあろうが。
(変なの。騒山って確か、奇人街の文字で表すと“騒がしい山”みたいな漢字に見えたのに。凪海の時はちゃんと“凪いだ海”だったから、騒山も同じだと思っていたんだけど……やっぱり奇人街の文字は奇人街の文字、ってことなのね、きっと)
 足を動かし手を振る。
 淡々と続く動作の合間に、他愛もないことを考え、顎まで伝ってきた汗を拭う泉。
 と、視覚以外の変化に自然と頭が前に傾いだ。
「げぇ……もうなのかよ」
「竹平さん?」
 硫黄泉とは違って仄かに甘ったるい、しかし温泉を彷彿とさせる香りに、背後の竹平がげっそりとした声を上げた。
 何事かと振り向いたなら、赤い髪の少年は気まずそうに顔を逸らした。
「水差すようで悪いけどよ……温泉っつったって、一緒に入る面子考えてみろよ。そりゃ、お前らは二人とも人間で、他の連中とも仲良く入れるだろうけど……俺なんて」
「ああ、それで」
「竹平君が静かだったのは、そういう理由かー」
 終始おちゃらけた雰囲気の美津子も、竹平の様子を彼女なりに気にはしていたらしい。
 続け様、うりうりと竹平の頬を突くところからは、心配の程度が測れないものの、「止めろ」と煩く手を払われたなら、何やら小難しい顔つきをして「ううむ」と唸った。
 竹平のため、何か良い案でも考えている――そう泉が感じたのも束の間。
「じゃ、お姉さんたちと一緒に入る?」
「ぶっ!!?」
「……美津子さん」
(それ、セクハラなんじゃ?)
 とんでもなく真面目なキリッとした表情で尋ねる美津子に対し、受けた竹平は顔を赤くして首をぶんぶん横に振った。
「もっと冗談じゃねぇって!!」
「うん? なんだい、少年。君はお姉さんのナイスバディにケチをつける気かね?」
「じ、自分で言うことじゃねぇだろ!?」
 と言いつつ、すかさず美津子の胸に向けられる竹平の目。
 これをばっちり目撃してしまった泉は、居た堪れない思いでそっと視線を前へ戻していく。
(うん。竹平さんも男の人、ですもんね)
 竹平の性別を忘れた憶えはないものの、思い返してみれば、彼が男らしかった記憶は泉の中にあまりなかった。
 凪海からワーズに横抱きで運ばれていった姿を皮切りに、目覚めはセーラー服で中年男に迫られ、変人学者の毒牙(?)に掛かっては人狼女に変身、女の色香たっぷりの演技を見せつけ、つい最近では暴走したランに弄ばれそうになり――
(竹平さんって……不憫)
 少し振り返ってみただけなのに、この有様。
 竹平の名誉のためにも、たとえ泉の記憶の話であっても、思い出してはいけないと心に固く誓う。
 そんな泉を余所に、彼女の後ろでは竹平と美津子が、傍からはじゃれ合いにしか聞こえないやり取りをしていた。
「まあ酷い! そんなにもお姉さんの身体は魅力ないというの!?」
「だ、誰もそこまでは」
「じゃあ偽乳だって?」
「ニセ……いや、感触は……って、別にんなこと言ってねぇし!!」
「はっ!? まさか竹平君……ロリコン?」
「なんでそうなる」
「えー? だって、ピッチピチなギャルとの混浴、男同士よりイヤなんでしょー?」
「いちいち誤解を招きそうな言い回しすんな。大体、俺が混浴――つーか、温泉イヤだって言っているのは……人狼がいるからで」
(そういえば竹平さん、男女関係なく人狼には良い思い出ありませんもんね)
 思い出してはいけないと固く誓った心はどこへやら、これを軽く破って泉が思い出したのは、ある日の彼の嬌態。
 男だというのに、隅々まで変化してしまった人狼女の身体を、正真正銘の人狼女に弄られた挙句、あられもない声まで上げて――
 だというのに、人狼と裸の付き合いなど、竹平にとっては拷問以外の何者でもあるまい。
「そ、それにだな、お前みたいな破廉恥女は兎も角、泉はどうなんだよ泉は!」
「……はへ?」
 心の中で竹平に合掌していた泉は、唐突な話の振りを受けて、背後の二人を肩越しに見た。
「お前は良くても、泉は駄目だろ? な? な?」
「…………」
 自分の不得手を泉の拒否でカバーしようというのか、竹平から回ってきたお鉢。
 姑息な手段と思わないでもないが、竹平の言う通り、混浴など泉にとっては以っての他。
 折角の温泉なのに、何故、そんな緊張を好き好んで取り入れなければいけないのか。
(……まあ、私の裸なんて、美津子さんや人狼の女の人に遠く及ばないんですけどね。っていうか、誰も見ませんよ。目移りなんてそれこそ――ううん、待って私!)
 自虐がてら、そんな思いを抱かせた竹平へ、危うく混浴上等と応えそうになった泉は、土壇場になってはっと気づいた。
(他の人はなくても、ここにはシウォンさんがいる! どういう理由でそうなったかはさっぱり分からないけど、一応、私の事が好きって人だもの。そうよ、思い出して泉! 幽玄楼での事を!!)
 服の上からでも分かる、イタ過ぎる視線。
 あの時は猫を求めてのことだと思っていたため、そこまで深刻に捉えはしなかったが、アレが直で地肌に刺さることを想像すれば、羞恥を通り越した寒気が泉を襲ってきた。
 それでなくとも昨夜、小川で身体を拭いていたのを見られているのだ。
 シウォン本人は「違う!」と弁明を図ろうとしていたが、そうは言いつつも、近づいて来られたなら、安心を宿すことは出来まい。
(うん、うん、そうよ! 混浴なんて絶対駄目! っていうか、なんで私、混浴行けそうな気になったのかしら……)
 たとえシウォンのことがなくとも、断るべきだろうと自分を叱咤し結論付けた泉は、竹平への返答のため力強く頷いてみせた。
「勿論――」
「言ってなかったっけ? あそこは混浴だよ?」
「……はい?」
 被せて届く、前からの不穏な声。
 ぐるんっと首を回してそちらを見やれば、白い指の先で黒いマニキュアがログハウス風の小屋を指し示していた。
 石畳の広場の先にある小屋の、更に向こうからはこれ見よがしに白い煙が立ち上っている。
 ついでに小屋の左右から伸びる囲いがあれば、あの白い煙は温泉の湯気だと嫌でも分かろう代物だが。
「混……浴……?」
 位置関係からして脱衣所と思しき小屋、しかし出入り口が一つしかない建物を前にして、泉の頬がヒククッと引き攣った。

 

 


UP 2011/9/26 かなぶん

修正 2012/8/10

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