妖精の章 五十
それは恋腐魚の効果が弱まり、泉の意識がはっきりと取り戻された、ある夜のこと。
発端は風呂に入ろうとしていた竹平が、ふと思い立った顔で足を止めた時だった。
「……なあ、泉」
「はい?」
「折角まともになったのに、こういう事聞くのも難だけどよ」
「まとも……ええまあ、その通りでは、ありますけど」
恋腐魚にあてられていた、忘れたくとも忘れられない日々。
反論の声もない泉が、いじけ口調で尖らせた唇を下に向ければ、竹平は気づいた様子もなく、眉間の皺を彼女へ向けて言う。
「ワーズって……風呂、入ってったっけ?」
「へ? ワーズさん? お風呂って……」
何故いきなりそんな質問が出てきたのか。
泉は竹平にこそ疑問を感じたが、そこはそれ、日常のふとした思い付きというヤツだろう。
今まさに風呂へ入ろうとしていたからこそ、そんな流れになったと自己完結すれば、今度は竹平の質問に眉根を寄せて記憶を漁っていく。
恋腐魚のせいで、元凶のワーズへ恋心を抱く羽目になった泉は、効果が持続している間、事ある毎に彼にべったりとくっつき、また彼にもそうあるよう要求してきた憶えがあった。
(うう。別に、私がそう望んだわけでもないのに……理不尽だわ)
思い出したくなくても思い出せてしまう、故に恥ずかしい日々の記憶。
それでも恥を忍んで経過してきた時を遡ったなら、泉の表情が固まり、顔にさーっと青みが降りてきた。
「嘘。入っていたって記憶が……ない」
「……だよな?」
互いに顔を見合わせ、次に目をやったのは、件の店主がいる曇りガラス越しの店。
座っていてもふらふらしている背中の影に、もう一度互いを見つめた泉と竹平は、力強く頷きあった。
程なくガラッと開く曇りガラスの仕切り。
「ん? どうしたんだい、二人とも?」
のほほんと、白い面に赤い笑みを携えて迎えた黒一色の男に対し、少年少女は沈黙を返す。
「…………」
「…………」
「…………?」
つられて、ではないだろうが、同じく沈黙したワーズがヘラヘラした顔を横に傾けた。
と、竹平が重い口を開くていで言った。
「ワーズ、お前……風呂っていつ入った?」
「……うん?」
「ワーズさん……お風呂があるのに、シャワーすら浴びていませんよね?」
「んー……?」
泉の直球な質問にもはぐらかす声だけが発せられる。
これを無視し、泉たちがじーっと見つめたなら、ワーズの頭がくるりと店へ戻る。
「……おい」
答えずに終わらせようという魂胆が見え見えの動作に、竹平が低い声を掛けた。
するとワーズは小さくため息をつき、両手の平を上に向け、肩を竦めて首を振った。
「人間、風呂に入らなくたって死なないよ?」
「「やっぱり!!」」
確証を得た二人がハモる、悲鳴に近い声。
「入ってないって、いつからですか!?」
「んー……あ、そうそう、明日の朝飯は玉子料理がいいなー」
「無理矢理話題を変えようとするな!」
「ワーズさん、スエさんが来た時には、無理矢理にでもお風呂に閉じ込めるのに!」
「んー? だってスエ博士が清潔じゃないと、他の人間に害が及ぶでしょ?」
「だから、それなら何でお前は風呂に入んないんだよ!?」
ワーズがへらへら返答する度、泉と竹平の訴えに熱が篭っていく。
特に、つい最近までワーズにべったり張り付き、彼の匂いで蕩けそうなほど安心し切っていた泉は、恋腐魚のせいであっても、そこで落ち着いてはいけなかった事実に、今にも泣きそうだった。
そんな彼女の思いを汲んでではないだろうが、ワーズは憤る竹平に首を振った。
「随分な言われようだけど、全く入っていないわけじゃないよ? ほら、前に凪海入った時とか、人魚が街に溢れた時とか」
「……その後は?」
「……大丈夫。ワーズ・メイク・ワーズは一応、人間だからね。一応じゃない部分で、清潔感は保たれているよ」
「全っっ然っ、大丈夫って気がしないんですけど!?」
「へーきへーき。余程のことがない限り、ワーズ・メイク・ワーズの状態は、奇人街の時間みたいな停滞を維持しているから――」
「……つまり余程がない限り、お前は風呂に入らない、と」
「うん、まあ、そうとも言う……かも?」
先程までの怒りはどこへやら、姿勢良く立つ竹平が静かな声で問う。
この様子に、珍しくもワーズのへらり顔が汗を滲ませたなら、竹平の茶色の瞳が泉のこげ茶の瞳へ向けられた。
交わされたのはひと時。
しかし互いの言いたい事は分かったのか、同時に頷いた二人は、店主に向き合うと、ほぼ同時に行動へと打って出る。
「ワーズさん!」
「ワーズ!」
「えっ、いや、ちょっ、二人とも?」
左右の腕を少年少女にがっちり掴まれた男は、理由が分からず混沌の瞳を右往左往。
泉と竹平は、知ったことかと言わんばかりに、そんなワーズの腕を両側に引っ張った。
正確には彼の両袖を――。
「「脱げ!!」」
「え?――おわっ!!?」
そしてそのまま、居間へと引きずり込まれる黒衣の身体。
突然の猛攻にうつ伏せになったワーズは、宣言通り脱がしに掛かる二対の手を知るなり、何とか脱しようと身を起こし、剥ぎ取られそうな衣服を必死で留めようとする。
「ふ、二人とも!? 乱心にしては、ちょっとやり過ぎじゃないかな!? こ、ここは人間らしく、話し合いで解決を!!」
「話してどうにかなる人だったら、誰もこんな真似しません!」
「話したところでお前はどうせ、のらりくらりと避けんだろ!」
「だ、だからってこんなっ! 泉嬢!? なんで君が帯を外そうとするのさ!!?」
「勿論、竹平さんより奇人街の服の仕組みを分かっているからです! あ、ワーズさん、邪魔しないで下さい!!」
「するよ、するでしょ普通!」
「お前が普通を語れる時なんかねぇ! いいから神妙に脱がされちまえ!!」
「ふ、二人とも、ちょっと落ち着こうか!? 自分たちの行動が変だとは思わないのかい!!?」
「「思わない。むしろ変なのはそっち!!」」
「なっ――――――ぐぉうぅっ!?」
個々人の体格差では二人を優に凌ぐワーズだが、二人掛かりで寄ってたかられては打つ手がない。
稀なる慌てっぷりを披露するばかりか、解けた帯が泉と竹平の手で一気に引き抜かれたなら、駒のように転がるしかなかった。
それでもワーズは肌蹴た前を掻き寄せ、何とか二人から逃れようとし、往生際が悪いと鼻息も荒く、そんな男の行く手を塞いだ泉と竹平は、覗く病的ではない白い肌に、舌なめずりでもせんばかりに笑いかけた。
いつもなら、今のワーズがいる立場に収まることが多い二人。
下克上のような立ち位置に、意識なく高揚していく気分は留まるところを知らず。
「ほら、ワーズさん。あともう一息ですよぉ?」
「脱いだらさっさと風呂入れ? でなけりゃ真っ裸を簀巻きにしてやる」
「さあ」
「さあ」
「「さあ、さあ、さあ、さあっ!」」
「〜〜〜〜!!」
貴重な劣勢を強いられたワーズは、へらりとした赤い笑みを貼り付けたまま、茶化す言葉も制止の悲鳴もなく、強張った面持ちで近づく二人を見つめるのみ――
と。
「……何やってんだ、お前ら?」
「「……え?」」
店側から、冷ややかな声が掛けられた。
揃えた声と同じく、揃ってそちらを向いた二人は、呆れ顔の美貌の剣士と出会う。
食材を求めてやってきたのだろう、店先に立つ史歩は、二人の下にいるのが店主と知るなり、ヒクッと頬を引き攣らせた。
「……邪魔したな」
「「……え?」」
一言そう捨て置かれ、去っていく剣士の背を呆然と見送った泉と竹平は、けれど、直前に史歩が目をやった場所を認めたなら、大慌てで弁明を叫んだ。
「ち、違うんです、史歩さん! これはその、そうじゃなくて!!」
「勘違いしたまま去るなぁ!」
思わぬ人物の介入により、人としての一線を踏み越えずに済んだ二人は、正気に戻った目で、今の今まで剥く気満々だった男を捨て置き、剣士の誤解を解くべく後を追う。
かといって、難を逃れたワーズがそのままで済むはずもない。
この日より彼は、泉と竹平の監視の下、毎日風呂に入ることを義務付けられるのだが――
まあ、そんな話、今は関係ないとして。
(わ、ワーズさんの人間好き、今回ばかりは手放しで良かったって思えるわ……)
温泉小屋に続く石畳を踏んで間もなく、小屋とは別に設置されている東屋へ向かった泉は、短時間で磨り減った精神力を休ませるように、木造のベンチへ腰を下ろした。
続けてその隣に座るのは、泉が抱いているからか、猫の存在もあまり気にならない様子のニアだ。
「ちぇっ。折角、パパと混浴出来るチャンスだったのにぃ」
「あはは……」
じろりと睨みつける深緑の視線が痛い。
つい先程、似た顔からもっとイタい視線を受けていた泉は、愛想笑いをしながら目を逸らすと、男だけで列を成す、温泉小屋を見やった。
忌避していた混浴、これは実にあっさりと、男女が交互に入るという案で早々に解決した。
決め手となったのは、平和的且つ、民主主義的でありながら、数の暴力でもある、多数決。
とはいえ、人狼たちの大半は男女問わず混浴を希望した。
シウォンの囲い女とお近づきになれる、シウォンやランという強い男へアプローチ出来る、そんな諸々の欲望を抱えて。
当のシウォンは傍観を決め込み、どちらにも挙手をしなかったが、泉を一心に射抜く緑の瞳は、一気に増した煙の量よりも雄弁に、彼の意思を語っていたものである。
だがしかし、この多数決の集計担当は、誰あろう人間好きを豪語するワーズ・メイク・ワーズ、その人だ。
当然の如く、彼にとって価値のない挙手は存在すら否定され、よって、混浴でも構わない美津子の一票を抜き、何が何でも混浴反対の泉と竹平の二票が勝利を収めた訳である。
異論は出たが、認められるはずがない。
何せ勝利者の泉には、誰もが恐れ慄く猫という、絶対的な存在が付いているのだ。
不満を言おうものなら、物理的に抹殺されるのは火を見るよりも明らかだった。
ならば最初から猫を脅しに使えば良い――そう思うかもしれないが、泉は自分の前では余程の事がない限りネコを被っている猫を、脅しの道具とは考え切れず、また猫も、多数決が終わるまでは自分の存在を隠すかのように、泉から離れた位置でひっそり影のように佇んでいた。
多数決が終わってからは、いつも通り、泉の意思を尊重するように、ちゃっかり彼女の腕の中に納まった猫、その真意を解する者は、行動の理由にへらへら笑いを崩さず、あるいは、鋭い眼光を向けて(またかよ!)と周囲を戦慄させたものだが。
――ともあれ。
そんなこんなで混浴の危険性を回避出来た泉は、ため息を一つ。
重なるようにして、ため息がもう一つ、木造のテーブルを挟んだ向こう側から聞こえてきた。
何気なく出所を追ったなら、ベンチに座る前は気づかなかった先客が、帽子のツバを下に向けていた。
「あ、緋鳥さん――と、フェイ、さん?」
先客と、彼女が見つめる先にいる、相手の名を呼んだ泉。
昨夜の緋鳥の様子から、フェイの敬称を慌てて付け足した泉だが、続く疑問符は、そんなフェイの状態から湧き出たものだ。
緋鳥の膝を枕に、目元を濡れたタオルで覆い、うちわで扇がれるその姿はまさに――。
「綾音様……いやお恥ずかしい。見ての通り、フェイ・シェンめがのぼせてしまいまして」
(あ、やっぱり)
温泉が近くにあるとなれば、自然に導かれる答えに、泉は何とも言えない顔をした。
奇人街最弱を、どこか誇らしげに主張していたフェイ・シェン。
昨日は昨日で、緋鳥の手を借り、泉たちより先にキャンプ地へ辿り着いていたというのに、夏山の暑さにやられた姿を晒しており、今日は今日でこれ。
「全く、身体を洗い湯に浸からせてから、然程時を要しておらぬというのに。軟弱者が」
「ははははは……」
しかものぼせに至るまでの時間が、とんでもなく短いと知ったなら、もう笑いしか出てこない。
が、しかし。
「……ん? え、あれ?」
緋鳥の言葉に不審を抱いた泉、頭の中で整理するのを、両手の人差し指を用いて手伝う。
(身体を洗い、湯に浸からせて……? この言い方ってまるで)
「む? いかがなされましたか、綾音様?」
フェイを扇ぐ手は止めず、緋鳥が首を傾げる。
これに愛想笑いを浮かべた泉は、片方の人差し指で頬を掻きかき。
「いや、なんていうか、ええと……ひ、緋鳥さんも温泉、入ったんですか?」
「これは異な事を。当たり前ではございませぬか。でなければ、フェイ・シェンは今頃、湯船の底に沈んでおりましょう」
「で、ですよねー……」
さらっと混浴していたことを告げられ、何とも為しに泉の頬がほんのり赤く染まった。
昨夜、小川のほとりで話した時は、フェイに何らかの想いを秘めていると邪推したが、こうもあっさり裸のお付き合いを暴露されては、どちらなのだろうと考えてしまう。
フェイに対して特別な感情など、最初から持ち合わせていなかったのか、または――異性に裸を見せる抵抗など、まるっきりないだけなのか。
緋鳥の人となりを奇人街で見聞きしている身としては、後者が色濃いと思うものの、外見上は泉より年若い緋鳥。
自分の常識を奇人街に当て嵌める愚かさは、重々承知しているが、年頃の少年少女が抵抗なく、というのは、泉的にビミョーに受け入れ難いことであった。
と、そこへ掛かる、別の声。
「はっ、願ったり叶ったりじゃないか。死ねば良かったんだよ、こんな迷惑鳥」
「ワーズさん……藪から棒に物騒なこと言わないで下さいよ」
人間以外にはとことん容赦しない暴言を耳にし、声の主を正確に当てて振り返った泉。
しかし、未だ続く列を視界に納めたなら、すぐさま眉を顰めてトーンを落とした。
「……あの、ワーズさん。なんでここにいるんですか?」
「ん? ああ、安心して、泉嬢。君らの番になっても、一緒に入ったりしないから」
「当たり前です! って、そうじゃなくて!!」
先に男性陣が入る段取りのはずなのに、素知らぬ顔でここにいる黒一色の男の考えなど分かりきっている。
赤い髪の少年と頼りない顔の青年、全身包帯の男が、ワーズの後ろからやってくるのを見れば、殊更泉の眉が吊り上がっていった。
「温泉、入って下さい」
「んー、だってほら、人狼とかと一緒に入ったら、獣臭くなりそうだし」
「違いますよね? そんな理由じゃありませんよね? ただ単純に、温泉に入りたくないから、そう仰ってるんですよね!?」
「いやー……温泉は好きだよ?」
「なら入って下さい! ほら、竹平さんもお迎えに来て下さいましたよ?」
「あれ、本当だ。気づかれないように、抜けてきたつもりだったんだけど」
「……ワーズさん?」
最早しらばっくれるつもりもないらしい。
いけしゃあしゃあと一人ごつワーズを、泉は半眼で睨みつけた。
するとここで、緋鳥が今初めて気づいたような声音で尋ねてきた。
「はて? もしや皆様方、ここな湯場に浸かるおつもりで?」
「え? あ、はい。それは勿論、温泉ですからっ!」
泉は一旦、ワーズへの睨みを中断すると、拳を作って力強く頷いた。
ワーズはどうだか知らないが、泉の心は温泉という二文字に踊り続けている。
けれども緋鳥は、泉の楽しそうな様子を余所に、思案深げに「ふむ」と声を漏らした。
不可解な反応を受け、逸る心を静めた泉は、小首を傾げながら緋鳥に問うた。
「緋鳥さん?」
「ああ、いえ。それであの列ということは、男女別れて?」
「え、ええ。男の人たちに先に入って貰って、次は私たちの番で」
本当は、先に入りたかった。
だが、男女別を残念がる人狼男の一部が、「けどまあ、女が先に入るなら」と、妙に身震いする一言を発したのを受けては、後を選ぶのが正解だと泉は思ったのである。
そんな彼女の我が侭を阻める者は、猫が腕の中にいる以上、在り得るはずもなし。
こうして男だけの列が完成した訳なのだが、緋鳥は苦笑混じりにこう言った。
「やれやれ。となれば、残念ですな綾音様。綺麗な湯場は望めぬやもしれませぬ」
「え?」
「女が先なれば、また結果も違ったのでございましょうが」
「それって、どういう――」
泉がそう、緋鳥へ尋ねた、まさにその時。
キャアアアアアアアアアアアアアアーーーー!!
絹を裂くような甲高い悲鳴が辺りに響き渡り、
「実は今、神代史歩が入浴中でしてな」
「んなっ!? そういうことは早く――って、いやああああああっっ!!?」
呑気に語る緋鳥から、温泉小屋へと視線を移した泉は、史歩とかち合ってしまったのだろう、服を手に、全裸を惜しげもなく晒したまま走り出てくる数名の男たちを、ばっちり直視してしまうのであった。
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