妖精の章 五十一

 

 鮮やかな色彩に涼やかな川の流れ。
 音はなくとも絶景といえる露天の湯は、白濁に滑らかさを加えて肌を潤し、身体に染み付いた汗と疲労を心地良く洗い流していく。
 ――彼女一人を除いては。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるあとで司楼を問い詰めて殺してやる殺してやる殺してやる逃げたことを後悔するほど残虐に殺してやる殺してやる殺してやる――……」
「へぇ〜、あれが噂の殺人狂かぁ。なるほどかなりの美人さんね。思考も想像以上にイっちゃってるわね」
「み、美津子さん、あんまり史歩さんを刺激するようなことは」
 先客の史歩により、男女の順番が逆になった露天風呂。
 思いのほか広い岩風呂の浴槽は、特に意識した訳でもないのだが、脱衣所の小屋から見て右側を芥屋陣営、左側を人狼女の面々が、綺麗に分かれて利用していた。
 そんな中、当初先に入るはずだった男ら数人に裸を見られた史歩は、どっちつかずの真ん中で岩の一つにしがみつき、こちらへ背を向けたまま、延々呪詛を吐き続けていた。
 なんでも、白濁の湯から上がったところを、ばっちりがっちり見られてしまったらしい。
 しかもそこで乱心した彼女は、湯に戻るでもなく刀を抜くと、あられもない姿を脱衣所にいた数人に、更に晒してしまったそうな。
 これに気づいて固まってしまったのが悪かったのか、その隙に人狼は脱兎の如く逃げ出し、前列の騒々しさに覗いたまた数人が、史歩の殺人予定リストにめでたく載ったという。
 ちなみに何故予定なのかと言えば、さしもの史歩もそこは人間、本気で逃げる人狼の足には遠く及ばないそうで。
 同じ年頃の泉としては、史歩の気持ちも分からなくもない。
 が、不可抗力で見てしまった人狼たちを思えば、完全には同調できず、美津子の軽口を諌めるだけに留まっていた。
「……それにしても本当に、普通に……温泉ですね」
 手のひらを折り曲げて湯を掬い、腕を伝って流れ落ちる様を眺める。
 ついでに匂いを嗅げば、これでもかというくらい普通の香りがした。
 背中にごつごつした岩の感触を置いて目を閉じる。
(でも、音はしない)
 誰かが湯を掻く音や何かを囁く声音はあっても、肌に感じる自然は無音を貫いたまま。
 蕩けそうな泉質と温度も相まって、作り出した闇に溶けてしまいそうだった。
 不安定な感覚に吐息をついてゆっくり目を開ける。
 眼前、こちらを見つめる美津子がいて、気づかなかったその近さに変な声が上がった。
「うあっ!?」
「あ、ごめんごめん。寝ているのかと思って確認を、ね」
「ね、寝ていたら何をされるおつもりで?」
「……いや、何をってそりゃ起こすつもりでしたよ? 気持ち良いのは分かるけど、眠ったら溺れちゃうだろうし」
「あ……すみません」
 普通の返答に素直に謝る泉。
 美津子は心外そうな顔で仰々しいため息をついた。
「まったく。竹平君といい、泉ちゃんといい、お姉さんをどういう目で見ているんだか」
「あ、あはははは……」
 何と返せば良いものか。
 分からない時は笑って誤魔化すに限る、と引きつる頬を騙しだまし笑ませた泉は、次いできょとんとした顔で小首を傾げた。
「泉、ちゃん……名前、憶えていてくれたんですね」
「ん? ああ、ずっと可愛い子ちゃんって言ってたからか。そりゃね、憶えていますとも。こう見えてもお姉さん、記憶力は良い方ですから」
 言って腕を伸ばした美津子は、それをそのまま上に移動させて解く。
 軽い柔軟のつもりか、続けて首を左右に倒し、伸ばした右腕に左腕を絡ませ引き寄せる。
 腕を変えて同じ動作をし、最中で再び泉へと声をかけてきた。
「あ、そうだ。泉ちゃん、お姉さんに頼みたいことある?」
「……はい?」
 いきなりの言葉に泉の目が丸くなった。
 何がどうなってそんなことを尋ねられるのか、話のつながりが見えずに、何か聞き漏らしたことがあっただろうかと固まった表情で考えれば、自分の不備に気づいた様子で「ごめんごめん」と苦笑した美津子が言う。
「ほら、あのオニーサンの話じゃ、お姉さんと竹平君は帰れるけど……」
 美津子の言葉が途中で濁る。
 泉は帰れないと、軽々しく口に出来なかったのだろう。
 変なところで律儀な人だと、美津子の苦笑を引き継いだ泉は、気にしなくていいという思いを込めて「はい」とだけ返事をした。
 促すようなそれに美津子は緊張を解くと、取り直すように力強い言葉で続けた。
「だからさ、その……手紙とか言付けとか、託してくれたらお姉さん届けるよー、って。ほらほらお姉さんの記憶力は立証済みなわけですし」
 終わりが早口になってしまったのは、気まずさを払うためか、それとも柄にもないと思っての照れ隠しか。
 どちらにせよ、幼く見える容姿も相まって、年上ながら微笑ましく映る美津子の姿に目を細めた泉は、次いで元いた場所に思いを馳せた。
 けれどもそれは時間にして数秒にも満たない間。
「いえ、遠慮しておきます。第一、美津子さんが大変じゃないですか」
「私?」
「はい。だって曲がりなりにも行方不明者なんですよ、私。なのに言付け持ってきたって言ったら、まず美津子さんが怪しまれるでしょう?」
「あ」
「それに、怪しまれなかったとしても、どこにいるって尋ねられたら」
「あー……」
 自分の記憶力頼りにぱっと思いついた提案だったのだろう。
 思い直せば穴だらけだったと知り、沈んでしまった美津子は「ごめん」と一言、項垂れてしまった。
 とはいえ、元は善意からくる提案である。
 奇人街という場所柄ゆえの厄介事には悩まされているものの、それなりに順応してしまっている泉としては、あまり美津子に悲壮を背負って欲しくはない。
 何か上手い具合に話を逸らせないだろうかと思い、その端にちらりと浮かんだ顔があれば、声を上げて美津子の関心をこちらへ呼んだ。
「そうだ、それなら美津子さん」
「……はいな」
「様子を、見てきてくれませんか?」
「様子?」
「ええ。もちろん、美津子さんたちが帰っちゃったら、連絡手段なんかないって分かってはいます。でも……言葉にするのは難しいんですけど、美津子さんに託したいんです」
「…………」
 美津子の黒い瞳が真っ直ぐに泉を見つめる。
 まるで心を読むかのように向けられる視線を、臆することなく受け入れれば、ふっと息を吐いた美津子が小さく呟いた。
「存在の証明か」
「え?」
「ううん、なんでも。けどまあ、うん、分かった。いいよ。お姉さんが責任持ってその人の様子を見てきてしんぜよう――自腹を切って」
「う……」
 付け加えられた言葉に泉の顔が引きつった。
 奇人街で過ごすようになってからこの方、従業員や客として金銭のやり取りをする場面はあったが、移動に金を掛けることはほとんどなかった。”道”という特殊な手段があったことも大きいだろう。
 今更ながら随分と奇人街に慣れ、そして元いた場所の感覚を忘れていることに気づかされた泉は「やっぱりいいです」と言いかけ、
「ウソウソ。いや、掛かるモンはどうしたって掛かるけど。今のはほら、ちょっとした軽口だから。自腹は気にしない気にしない。お姉さんが自発的にやりたいだけなんだし」
「うぅ……すみません。ありがとうございます」
「いやいや。こちらこそ、ご丁寧にすみませんって」
 湯に付かない程度に頭を下げれば、習うように下げられる頭。
 上げればどちらともなく笑い、その雰囲気のままで美津子が問う。
「で、ご両親の様子を見てくれば良いのかな?」
 何気ない一言。
 けれども一時息を詰まらせた泉は、「いえ」と小さく頭を振った。
(ああそうか。普通はそういうものだよね)
 子どもを心配する親、親を案じる子。
 世間では普通とされる心情に到らなかった泉は、そんな自分を微かに笑うと、先ほど浮かんだ顔の名前を口にした。
「由香、折登谷由香(おりとや ゆか)を。彼女の様子を見てきて欲しいんです。私のクラスメートで友達で……たぶん、一番心配していると思うから」
「……ふむふむ。折登谷由香ちゃんね。分かったわ」
 ゆったりと頷く美津子。仰々しい動作は道化染みていたが、彼女はそれ以上泉に何も聞いては来なかった。たとえば――ご両親は本当に良いの? など、当たり前に湧いて然るべき疑問を。
 それなりに身構えていた泉は拍子抜けし、これを狙っていたわけではないだろうが、頷きの最後に「うん」と声を発した美津子は言う。泉が構えを解いた、その瞬間に。
「しっかしあの美人さん、スタイルいいよねぇ。引き締まった身体つきも然ることながら、胸のお肉も泉ちゃんよりたっぷりあると見た」
「は……?」
 美津子の一挙手一投足がテレビの演出であれば、キラーンという効果音と共に目元がひし形の光を発していたことだろう。
 それはそれとして、同性であってもセクハラな発言に泉が固まれば、童顔とは裏腹の、人狼女たちにも負けないボリューミーな丸みを白濁に浮かべた美津子が、哀愁を帯びた眼差しをこちらへ向けて、両肩をぽんぽんっと叩いてきた。
「なんていうか、その……女は胸じゃないと思うから! 落ち込まないで!」
「……ええと? 誰がいつ、どこで、そんな落ち込みを」
 唐突に始まった話についていけず、やんわり肩に掛けられた美津子の手を引き剥がす。しかし興に乗ってしまった女は止めどころを知らないのか、くっと言いたげに握りこぶしを作って顔を逸らすと、涙を拭うような真似までしてきた。
「ええい、皆まで言うな! よっし、こうなったらお姉さんが足りないお乳の分、泉ちゃんに高度なテクのアレコレを教えて――」
「え? 泉って実はそういうヤツだったの?」
「ニアさん」
 絶妙の間の悪さで会話に加わってきた少女を見やれば、若干の引きが入っていた。
 じりじり後ずさる様子は、彼女の誤解の度合いをそのまま示しているようだったが、泉はこれといって止めることもせず、黙ってニアの行動を眺めていた。
 だが、それも長くは続かない。
「ちょっと! 少しは否定するとかしなさいよ!」
 黙って見送られることに耐え切れなくなったのか、それとも一向に否定してくれる様子のない泉に怯えてしまったのか、きゃんきゃん吠えながら下がった分を詰めてくるニア。
 これに苦笑を浮かべた泉は、頬を人差し指で掻きながら、「いやー」と言った。
「そう言われましても……ほら、夜のニアさんに関しては前科持ちみたいなものじゃないですか、私。同性をそんな風に見たことはありませんけど、ニアさんからすると似たようなものじゃないかなって」
「そんなの……本気じゃないんだし、貴方が注意して改めてくれれば別に」
「あ、それはないです」
「ちょっとくらいは否定しなさいよ!」
 ニアの譲歩を蹴散らした泉は、再びかっかする同い年の少女に、ほんのり赤くなった頬でえへへ〜と笑いかけた。
 実際、幾ら気をつけたところで、現物を目の当たりにしては抑止は不可能だろう。
 今もって、怒るニアに昨日の愛くるしい人狼姿を重ねてしまい、自然と頬が緩む状態なのだ。
 するとこれに美津子までもがうんうんと頷き参入してくる。
「あー、分からなくもないかも。昨日の子犬ちゃんでしょ? あれはマズいよね。存在自体が犯罪だよね。いたいけなお嬢ちゃんが犯罪者になっちゃうのも、あれならしょうがな」
「――くないっ! しょうがなくなんてないの!! なんなのよ! 人間って、もっとこう、か弱いもんでしょ!? 人狼相手なら玩具にされるかもって、ビクビクする側でしょ!?」
「まあまあ落ち着くんだ、子犬ちゃん。物事には何事も、例外と言うものがあってだね」
「うっさい、人間! 泉だけでもいっぱいいっぱいだってのに、貴方まで加わって来ないでよ!」
 今にも噛みつかん勢いで怒鳴り散らすニア。
 けれども温い湯の中、美少女がどれだけ叫んだところで、ふやけ頭の人間二人が怯むはずもない。
 濡れた深緑の瞳が父親譲りの美貌に華を添えているとくれば、尚更眼福というものである。
 とはいえ、そこもやはり湯の中、静かにその温もりを楽しみたい者も当然おり。
「……随分と、楽しそうだなあ、お前ら? 人がこっっんなにも、傷心中だってぇのに」
「し、史歩さん……」
 その筆頭――否、落ち込む自分をあざ笑うかのごとく楽しげな声が癪に障ったのか、いつの間にか近づいていた史歩が、陰鬱な背景を背負いつつ唸るように言う。
「こちとら、お前らが騒山なんぞに向かったというから、助太刀と思って来てやったというのに……よりにもよって裸タダ見せさせるとは、どういう了見だ? あ?」
「ちょ、それ、私たちのせいじゃ……」
「んだと、綾音? 口答えする気か、ああ?」
「いえ、そういうわけではなくて」
 微笑ましさから一転、身の危険を感じる寒気に襲われ、泉は一先ず落ち着くよう史歩に両手のひらを向けた。
 が、史歩にはそれが見えていないようで、少しも怒りを緩めることなく、じりじりと距離を詰めてくる。
 突然の乱入者に対し、美津子の方は傍観を決めるつもりらしい。賢い選択だが、ちと酷い。
 蛇に睨まれた蛙宜しく、史歩の怒気に気圧された泉が湯に潜るようにして後ろに倒れる、その直前。
 助けは意外なところからやってきた。
「全く、いつまでも煩いわね。たかだか全裸をちら見されたぐらいで。貴方程度の裸なんて、皆見慣れているってのに」
「……ああ?」
 ある意味、史歩によって助けられたはずのニアが、鼻白んだ様子でそんなことを言った。
 これにより史歩の視線はそちらへ向かい、助かった泉は忘れていた呼吸を再開しがてら、今度はニアの身を思って胸をドキドキさせる。
 史歩は目を合わせようとも一歩も引かないニアの態度に柳眉をひくりと動かすと、泉にそうしたのと同じく、詰め寄りがてら低い声で唸った。
「なんだと、このガキ。もう一遍言って――」
「だーかーらー。ちら見なのよ、事故なのよ。誰も好き好んで、貴方の裸が見たくて見たわけじゃないの。皆命は惜しいんだから貴方の裸なんて劇薬、早々に忘れるわよ。それをいつまでもいつまでも、いじいじねちねちと。なによ、処女でもないくせに」
「――――!!?」
「……え? 史歩さん、が……?」
「おやまあ」
 呆れたようにニアが言った単語は、思いのほか、爆弾発言だった。
 瞬時に顔を真っ赤に染め上げた史歩は、茫然とする泉の声に狼狽を見せ、史歩を良く知らない美津子までもが驚きの表情をして見せた。
 一気に場を支配する重たい沈黙。
 その中で一人、軽快に話し続けるのは爆弾を投下した張本人のみ。
「あれ? 泉は知らなかったの? 芥屋に住んでんのに?」
「え……? それってどういう」
「たぶん、泉も会っているんじゃないかしら? なんたって神谷史歩のお相手は――ぶがっ!?」
「……黙れ」
 突如、ニアの頭が湯の中に沈められた。やったのは勿論、史歩だ。
「ぢょっ、見で、だいでっ……だずげっ……」
「に、ニアさん……」
 ニアに手を伸ばされ、泉とて助けたいのは山々だが、史歩の目は黙って見てろと牽制してくる。
 とてもではないが、常人にはどうすることもできない。
 やがてニアが大人しくなれば、ぐったりした身体を縁まで持っていった史歩が、くるりと泉の方を向いた。
 思わずビクンッと跳ねてしまう身体。隠せない怯えに、次は自分の番かと嫌な汗が背中を伝う。温かい湯船にいるはずなのに、全身が寒さに覆われていくような感覚だった。
 泉が青ざめた顔でそんな風に身構えていたなら、史歩がくいっと顎で脱衣所を差した。
「……もう十分、温まったろ? あんまり長湯すると疲れるから、そろそろ上がった方がいいぞ」
 言い方も声も優しげだが、顔と目は凍てつくような温度で形成されていた。
(確かに温まってはいましたけど、史歩さんとのやり取りでだいぶ冷えた……とは言えない)
 言ったら最後、今よりも肌寒くなりそうな目で睨みつけられるのは間違いない。
 よって、史歩に向かって頷いた泉は、しずしず湯から上がると脱衣所に向かった。
 続けて美津子に上がれと言わないのは、初対面のせいもあるだろうが、泉と一緒に上がらせて、自分を肴に会話に華を咲かされたくないからだろう。
(ああ、久しぶりの温泉が。……史歩さん、横暴すぎ)
 リュックサックの中に入っていたタオルで身体を拭きながら、未だ自身は湯に浸かっているであろう人を恨む。
(それにしても、誰かしら? 史歩さんの……お相手って。ニアさんのあの言い方とか、史歩さんのあの反応っぷりとかだと、ワーズさんってことは絶対ないでしょう。……猫、でもないわよね?)
 丁度手にした新しい下着。これを用意した男を思っては複雑な気持ちになるものの、史歩の相手ではないと断じた泉は、彼女が異様なまでに好意を寄せる靄の獣を浮かべ、そして払った。
(芥屋にいれば、たぶん、会える人……ええと、今まで会って来た人は――)
 そんな風にして、泉がズボンに手を掛けた時だった。
「!」
 バタン、と大きな音を立てて何かが閉まり、露天風呂に繋がる通路だけが唯一の光源となった脱衣所。
 木の棒で支えられていた天窓が閉まったのだと気づくまで数秒あり、その内に、薄闇から延びて来た細い腕が、泉の首を脱衣所の壁に縫い付けてきた。
「かはっ……!?」
(なに? 誰、なの?)
 首を締めるのが目的というのではない、けれど、決して自力では外せない力にもがけば、一度強く腕を押し付けてきた相手が、泉の抵抗が失せたところで囁いてきた。
「……お前さえ、いなければ。……お前が、いるから。……お前なんか、死んでしまえ」
「っ!!」
 怨嗟と言うには淡々とした物言い。だが、泉を揺さぶるには十分な言葉だった。
 首に掛けられた圧が消えても、泉には崩れた身体のまま座ることしか出来ない。
 周りを見渡す余裕すらない泉の頭の中で、ある一つの情景がフラッシュバックしていた。

 レースのカーテンから漏れる光だけが形作る世界で、強く握り締められた肩。
 血走った瞳は泉の存在が諸悪の根源と決め付け、翳された狂気は泉の命だけを望み――

「うわっ、暗っ!? って、泉? 何してんの、こんな暗くして」
「……ニア、さん?」
 その声に顔を上げた泉は薄闇の中で動く影を認めた。真っ直ぐ泉の元へ向かうでもない影は、天窓のある方へ移動しており、光を取り入れようとしているのが分かった。
 このままこうしていては、バレてしまう。
 泉は慌てて身を起こすと、ふらつく身体を脱衣所の籠入れに寄せ、光が取り戻されるまでに何とか体勢を立て直した。
 そうして明るくなった視界には、天窓に支えの棒を入れるニアと、上がったばかりの史歩と美津子の姿が鮮明に映し出される。
「ん? 何をしてるんだ、お前?」
「何って、天窓が閉まってたのよ。だからこうして開けて」
 史歩の尋ねに答えたニアは、支えの棒がしっかり嵌ったことを確認すると、別の天窓へと渡っていく。
 ――バスタオルを巻いた姿で。
(ニアさんは、さっき上がって来たばかりなのに……?)
 返答に「そうか」と頷く史歩や美津子の格好は、身体を洗うための薄いタオルで前を隠している状態であり、ニアのようにがっちりした守りではなかった。
 そもそも、バスタオルを身体に巻くためには、脱衣所に一度入る必要がある。薄いタオル以外の荷物は全て、ここに置いていったはずなのだから。
(……ニアさんは、人狼、だから。きっと、素早く身に着けて、それで……)
 そんな風に思うものの、拭い切れない不信感が泉の中で渦を巻き始めていた。
 薄闇の中で断定は難しいが、一つ、確かなことがある。
 それは――
(さっきの人の声……ニアさんにそっくりだった。反射で見えた眼の色も、綺麗な……深緑で)
 だからこそ、何者かに襲われたと言えない泉はのろのろ着替えの手を伸ばすと、何でもない風を装い、後から来たニア含む三人との会話に専念していく。
 確証はないのだと、自らの胸に言い聞かせながら。

 

 


UP 2013/10/16 かなぶん

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