妖精の章 五十二

 

 一つの浴槽における女たちの入浴場所が、芥屋・神代史歩・人狼の三つに分かれていたなど外で待っていた男たちには知る由もない。しかし不思議なことに、こちらはこちらで入浴場所が綺麗に分断されていた。
 ただし、内訳とその規模は女たちと大きく異なる。
(……言えた義理じゃないけど、気持ち悪いな)
 丁度、芥屋の娘たちが陣取っていたのと同じ場所に落ち着いたランは、目の前の光景に冴えない顔を更に暗くさせて心の中で深いため息をついた。
 ランの反対側で一人陣取り静かに目を伏せる美丈夫や、そこから少し離れた場所で景色を眺めている、恐らくシウォンに次ぐ地位にあるだろう男はさておき。彼らと、頂点の宿敵であり人狼最強を冠する男を避けて中央の湯にみちっと浸かる裸身の男たちは、目にして気分の良いものではなかった。
 人間に似た姿となっているせいで、似た肌の色が混じり合って見えるのが輪をかけて気持ち悪い。原因の一端を担っていようが嫌なものは嫌だった。
(こんな光景喜ぶ奴なんて……いや、止めておこう)
 一瞬浮かびかけた赤髪の中年男。途端、芯まで温まるはずの身体に悪寒を感じたランは慌てて頭を振った。それでも収まらずに集団へ背を向けては、無音の中で舞い散る落ち葉と流れる川を見て思考を別に持って行く。
(にしても……ホント、重症だよな)
 人狼最強を叫ばれるようになってから、同性の同族に無防備な背中を見せたことはなかった。見せれば、いや見せなくとも、最強の名欲しさに命を狙われてきたのだから当然であろう。
 それなのに今、岩を抱くように無防備に浴槽の外へ腕を出していられるのは、昨夜、宿敵よりも想い人への慕情を優先した、重い男の存在があるためだ。

  *  *  *

 胡坐をかいて丸い月を眺める男の、丸まった背中。
 いや、実際にはいつも通りの真っ直ぐな姿勢だったのだが、状況がランにそう錯覚させていた。
(どうしよう。……戻って寝直すか)
 もともとが命のやり取りをする関係である。黄昏れているなら放っておくのが一番だ。らしくない姿に慰めの心なぞ起こそうものなら、次の瞬間生きていられる保証はない。
(今ならきっと、ぐっすり眠れるだろうし)
 シウォンの黒い背から視線を外し、ちらりと見やったのは彼の両隣に倒れる二人の女の内の一人。他の女たち同様シウォンの当身を食らった身体は規則正しい寝息で微かに揺れている。この分では朝まで目を覚まさないだろう。
 ――囲い女の領分を忘れて、最強の胤を欲しがることもあるまい。
泉がシウォンへクッキーを届けた際、ランがうっかり見つけてしまったこの女は、名をルアン・リーと言った。忘れもしない茶色の髪に開けば緑に輝く瞳の持ち主は、ランが五才の時に想いを寄せた当時のまま、変わらない肢体を惜しげもなくシウォンの横に晒していた。
 母さんに似ている――自他共に認めるマザコンのランにとって、ルアンへの想いはそこに端を発するわけだが、淡く美しい初恋の思い出はすでに忘れたい過去となっていた。それは何も、当時すでにシウォンの子を宿していたという事実を、より生々しく再現するような場面に出くわしたからではない。いや、もちろんそれはそれで耐え難い衝撃を受けたものだが、その後起こったことに比べれば些細なことだった。
 気高い母の面影を写し見た女が、彼が最も嫌う人狼の本性を剥き出しに毎日寝床へ潜り込んでくることに比べれば。
 以来、悪夢にうなされ浅い眠りしか望めなくなったランは、理性を保ち続けることも難しくなったのだ。
(……そう、そうして俺は危うく泉さんを――や、やっぱとっとと戻っとこう)
 自分の内に潜むおぞましい本性を思い出し苦渋に顔をしかめたランだが、険しさは長くは続かなかった。女の傍にいる黒い背中の男がどういう手合いだったか思い出したなら、今し方浮かべた失態を振り払うように首を振り、抜き足差し足忍び足で立ち去ろうと試みる。泉にしたことへの後悔は尽きないものの、シウォンに気取られたなら最期、まともな死すら望めなくなるだろう。
 と、そんな背中に掛かる声。
「……で? お前はどうした?」
(っ!! び、ビックリしたぁ……いや、シウォンにこっちの動きがバレないわけないけど!)
 後ろめたさ半分だったせいか、穏やかな声音にも関わらず一気に跳ね上がった心臓が痛い。
 バクバクと鳴り続ける煩い心音を手がかりに何もかもシウォンにバレてしまうのではないか。
 そら恐ろしい想像に駆られた手が無駄と分かっていながら胸を隠すのに対し、当のシウォンはランの返事を待たず話を進めてきた。
「コイツに用でもあったか? 悪ぃな、あんまりうるせぇから黙らしちまった」
 どうやら背後で感じていたであろうランの不審な動きを、シウォンは彼の初恋の相手が傍にいるためと受け取ったようだ。シウォンにまで知られている自分の初恋というのは頂けないが、それならそれで乗っかるべきだろう。
 人狼最強の名を手にしたところで依然シウォンより強いと自負できないランは、たっぷり間を置いて動悸を鎮めると、あたかも初恋を指摘された気まずさを装って弱々しく首を振った。
「良いよ。ルアンは……初恋はもう終わってしまったし。貴方のせいで――いや、人狼の本性のせい、かな? やっぱり」
最初はこれ幸いと乗っかった話だが、途中から苦しくなる胸に視線が落ちる。自分が思っているよりも初恋の結末はランを傷つけていたらしい。
(当然か。でなきゃ、悪夢なんかで寝る時間を削ったりはしない)
 下を向けば自然と見てしまう女の姿に、慌てて顔を上げては穏やかな月の光に目を細めた。本性を嫌っていようが人狼の身の上、月を眺め続ければ不思議と気持ちが落ち着いていく。
 次第に初恋で疲労する不毛さに気付けば、そろそろ戻るべきと足を動かした――矢先。
「ククク……なまじミュウに似ているからな。性根は、奴ほど変わっちゃいねぇが。人狼のくせにあの若さで自分のガキを育て上げるなんざ、今でも正気の沙汰とは思えんよ」
 人狼の女たちの本性は年齢によって変化していく。齢を重ねれば自ら進んで群れの子どもの世話をするが、若い内は魅力溢れる頂点連中に添うように本性が出来ていた。そんな常識の中にあって、どの群れにも属さず若い時分に一人で子育てをしたランの母は、確かに特殊だった。それはラン自身、認めるところではある。だが、他人に言われて素直に頷ける話ではなかった。
「……人の母親の悪口は止めてくれ」
 引き止めるようなタイミングで出てきた言葉に、厳つい人狼の顔が一気に険しくなった。泉や竹平あたりが見れば顔を青ざめさせるどころか一目散に逃げ出すような、世にも恐ろしい顔つきである。
 しかしランにとっては渋面を作ったに過ぎず、たとえ振り向いたところで眉一つ動かさないであろうシウォンは、この反応に喉をクッと笑わせた。
「勘違いするな。俺にとっちゃ狂気は敬う対象だぜ? ミュウはイイ女だった。保証が欲しいならくれてやるさ、いくらでも」
「あまり嬉しくない敬いだな。けど、だからこそ俺はてっきり、貴方の初恋は母さんだとばかり……と」
「…………」
 やり返したかったわけではないが、ついつい漏れた本音にランは慌てて口を閉じた。
 現在シウォンが統率する群れは元々ランの父親のものだった。これを乗っ取る形で現在の地位を築いたシウォン、その理由をランは長い間、母を得るためだとばかり思っていた。齢を重ねる条件を受け続け老いていく母を見ては諦めざるを得なかったのだとも。
 饒舌だった分、シウォンの沈黙はランに束の間緊張を強いたが、彼の気配はいつまで経っても変わらず、しばらくして返答が為された。
「俺が群れを乗っ取ったのは……奴の本質を知ってまで従う気がなかっただけさ。一度は上と惚れ込んだ男が、まだガキだった俺を群れ全てで潰しに来る狂気が、まさかただの腰抜けとは思わなかったからな」
 若かったねぇと笑って――はぐらかす背を、ランは静かに見つめる。
 傍らの女が呻いて寝相を変えるのには少しだけ反応を示してしまい、受けてはシウォンが嗤った。
「そういやコイツ、お前に迫っているんだってな? モテる最強様は辛いねぇ? いやはや、初恋に望まれるなんざ羨ましい限り――」
「何故、ここにいる」
 ぴたり、嗤いが止まった。先を促す沈黙が間を流れていく。
(……ヘタなこと言って殺し合いにまで発展したら、嫌だなぁ)
 ただでさえ軽口を叩いた後である。これ以上突っ込めばそうなる可能性は高くなる一方だが、脳裏を掠める気弱な思いは頭の中だけで払い、ランは深呼吸一つで言葉を継いだ。
「俺を唯一の敵だと言ったのは貴方なのに、こうして対峙しても殺気もなく……それどころか話だけで俺を引き止めるような真似までして。何が狙いだ?」
(いや、泉さん関係なのは間違いないんだろうけど)
 自分で問うた割に思い至る理由。それしかないとの確信があれば殺し合い以上に気は引けてくるが、聞かずにはいられなかった。
「狙い、か……」
 相変わらずこちらに背を向けたまま、シウォンはゆっくりと煙を吐き出した。
「そうさな。お前にとっちゃおかしかろうよ。この俺が敵を背に呑気に煙を吸っているのだから。それも――あの小娘に手を出しかけた野郎だというのに」
(ば、バレてる!?)
 忌々しいと低くなる声に、これまでの比ではない殺気を感じ取ったラン。一触即発の雰囲気に、十人が十人恐れる凶悪な人相を青くし固まらせれば、次の瞬間、シウォンがフッと笑って殺気を解いた。
「だが、駄目だ。それじゃあ駄目なんだよ。そんなことをすればアイツは泣くだろう? お前のために。そして俺は、ただでさえきら……われて、いる……ってぇのに、ますます――……」
(重症だ。正真正銘、重症だ)
 これまで自分の思うがままに生きてきた男が、あそこまでの殺気をぶつけながらもランを殺そうとせず、他者の意を尊重しようとしている。しかもこれ以上嫌われたくないという、ただそれだけのことで。
「……面白ぇだろ? この俺が、あんな小娘相手に、いつまでもこんな……未練たらしく」
「いや、そんなことは」
 ――どちらかと言えば気持ち悪いです。
 答えを必要としていない独り言と分かっていながらも、ついつい口を挟んでしまうラン。本音部分はつぐんだものの、勘の良いシウォンには意味のないものだったのか、自嘲気味な声に迎えられた。
「俺だって自分自身に嫌気が差しているんだ。たかが小娘、それも人間なんぞにってな。だが……駄目だった。何度思っても、強引に割り切ろうとしても、無駄だった。……知りたいんだ、アイツの全てを。そして俺の全てを知って欲しいとも願う。この煙もそのため」
 ランに示すように掲げられた煙管。
 すぐさま口元に吸い口を持っていく様は絵になるが、話の内容が内容だけにランはさっさとこの場を立ち去らなかった己を呪いたくなる。
 そんな彼を知ってか知らずか、シウォンの独白はなおも続き、
「煙で無理やり衝動を抑えてただ傍に。……反吐が出るほど苦痛だぜ? 渇望して止まないというのに目で追うことしかできねぇんだ。煙の不味さなんざ気休めにもなりゃしねぇ」
 ゆえに――お前に敵意を向ける余裕すらない。そう一人ごち、話は終わりと沈黙が後に続く。
 途中から聞き役に徹する羽目になったランは一言も発さず、ただ思う。
(お、重い……。初恋ってのは、もっとこう、爽やかなイメージが――)
 すっと視線を移動させれば初恋の面影をかなぐり捨てた女の、月影の内で輝く深緑の双眸。ぎくりと強張り、もう一度視線を合わせたなら寝息を立てる閉じられた目蓋。
 見間違いだったらしいと内心で安堵する脳裏には、シウォンの寝床で視線を交わして以来、眠りを妨げ淫らに誘う初恋の変わり果てた姿が過ぎる。
 気を取り直すようにため息一つ。
(これは……殺し合いの方がまだマシだったかもしれない)
 心痛なお苦しく、綺麗な思い出のまま終わって欲しかったランは、美しい月の中のおどろおどろしい初恋たちに背を向けた。

  *  *  *

 群れは頂点の意思を尊重する――
 シウォンが初恋でいっぱいいっぱいになっている今、ランが虎狼公社の連中と同じ湯に浸かっていられる理由はこれに尽きる。ランを己の宿敵と扱う頂点の目がある以上、連中はランに手出しできず、この状況下で唯一手出しできるシウォンは前述の通りランに構う余裕が一切ない。
 今だかつて体験したことのない心休まる時間は、温まる湯に蕩けそうな感覚をもたらしていた。
(死角からいきなり襲われるってのがないのはいいけど……いいんだけどさあ)
 反面、重く深い息がランの口から出ていく。
 元々ラン個人に攻撃性はない。本性が剥き出しになった状態でも自ら進んで敵を見つけて屠る、などという積極性は皆無だった。
 できればそっとしておいて欲しい。
 これこそが真実ランの望みであり、シウォンの手が引いている今は、ルアンのことを除けば望み通りの状態と言えた。
 だが現状、ランの気は重い。
(宿敵扱いされようとシウォンは俺の目標だったからなあ。本性に添うようでいて、確固たる自己を保ち続ける強さ。それが今じゃ……)
 恋の一つや二つで、と呆れる気持ちはなかった。それに悩まされて騒山に入ったのは他ならぬランである。色あせた思い出であってもここまで影響があるのだから、今になって遅すぎる初恋に胸を焦がすシウォンの心情たるや並大抵のものではあるまい。
 理解できないわけではない。ただ――受け付けないだけだ。
 これが他の人狼であったなら、とランが浮かべられそうな同族の姿を記憶の中から探しかけた時。
「なっ!? ちょ、やめっ!?」
「いいじゃねえか、ちらっと見せるくらい」
「そうそう男同士、減るもんじゃねえだろっ!」
「ひぃっ!?」
 聞き覚えのある少年の声とガラの悪い二人の男の声。
(アイツら!?)
 何の話と訝しむ暇もなく瞬時に推測できた状況から、ランは少年・竹平を助けるべく振り返り――
「へ?」
 続けざま、視界の端を勢いよく走って浴槽に滑り込む二つの影を認めたなら、間抜けな声を上げた。
 竹平の無事を確認する前につられてそちらへと目をやれば、追加された二人のせいでより窮屈を強いられる集団が彼らを睨みつける光景がある。けれど二人は集団には目もくれず、遠い目をしてただ前だけを見つめるのみ。
(……ああ。そういうことか。サイズはそんなでもないが、あの体格でアレだけありゃ――って!?)
 これまたすぐに彼らの異変に思い至ったランは知らず知らず手の形を変えかけ、はっと我に返ったなら丸い玉を転がすような手つきを隠すべく湯の中に突っ込んだ。
 と同時に届く悪態。
「ったく……気色悪ぃ」
「!!」
 間一髪、という言葉がここまで似合うタイミングはないだろう。ランは湯の中で不審な形を取った手を払いつつ、絡んできた男たちに剥ぎ取られたであろう腰のタオルを、赤とも青ともつかない顔色で巻き直す少年を振り返った。
「さ、災難だったな」
「まあな。つーかあんた、知っていたなら助けろよ」
「いやー……考え事してたから気づくの遅れて」
「そうかよ」
 けっ、と吐き捨てながらもこちら側の湯につま先を入れる竹平。思い出した手前、居心地の悪さを感じていたランはこの様子から一応は信頼されていることを読み取りほっとした。
 ほっとついでにふと気がついて金の目で辺りを見渡しては、あれ? と疑問を口にする。
「助けるって、そういやワーズは?」
 一に人間、二に人間、三四がなくともとにかく人間、がモットーの芥屋の店主。だというのにそのピンチに駆けつけることなく、姿かたちも影すらも見せない不自然さに竹平を見たなら、肩まで浸かった赤毛の少年は「ふぃー……」と年に似合わない声を上げた後で盛大なしかめっ面をした。触れて欲しくないことだったのかと思い、付け加えに「エン先生もいないけど」と問えば、ますます難しい顔となった竹平が面倒臭げに答える。
「医者は自分には別の入り方があるとかでどっか行った。ワーズは……アイツは俺らがはけてから入るんだと。あんな人狼臭い汁に浸かれるか、あっシン殿はボクに遠慮する必要ないからね、泉質は本当に良いからお先にどうぞ――って、んな言い方されて、気分良く入れるかってんだ!」
「あはは、アイツらしい」
(にしても、ワーズの真似うまいなー)
 思い浮かべるまでもなく伝わる店主の様子に、以前、竹平自身だったか泉からだったかは憶えていないが、彼が元いた場所で役者だったという話を思い出す。
(……そういやワーズが言ってたっけ。もうすぐ竹平も帰れるって。アイツが人間相手に余計な期待を持たせることはないから実際そうなるんだろうけど、寂しくなるな)
 奇人街に迷い込んだ人間が元いた場所へ戻るところをランは何度か目撃している。中には竹平のように顔見知りとなった者もおり、別れの際には悲哀を感じたものだ。
 元いた場所へ帰った者が再び奇人街を訪れることはない――つまりは今生の別れと等しいゆえに。
(……泉さんは、どうなるんだろ?)
 竹平と同郷だという人間の少女。
 ワーズが帰れると唯一名指ししなかった彼女は、これまで面識を持った人間の中でも深く奇人街に身を置いている方だ。しかしそれでも別の場所から来たことに変わりはない。いつかは他の人間たちと同じように元いた場所へ戻る可能性もあるだろう。
(そうなったらシウォンは……虎狼公社はどうなるのか)
 余程色濃く刻んでしまったのか、払っても完全には消えてくれない昨夜の重い初恋の様子。そこに泉がいなくなった要素をついうっかり入れてしまったランは、途端に見えなくなる光景に温まった肌をゾクリ粟立たせた。

 

 


UP 2014/11/18 かなぶん

修正 2017/10/2

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