妖精の章 五十三

 

 神代史歩の認識と一般人の認識には、控えめに言ってかなりの差がある。たとえば彼女の普段の言動に、大半の人間が暴虐・鬼畜・狂人と思うのに対し、彼女自身はソレをお転婆・お茶目・常識の範疇と思っている、という程度に。
 だからといって人の心の機微に疎いわけではない史歩は、いや、だからこそ他にはそれと判らぬよう振る舞う泉の異変に気づき、ついでに詳細は解らないものの原因にも見当がついた。
 東屋に陣取るこちら側から離れた、人狼女たちの内の一人。そこからもまた、心なしか離れて立つ姿。
「…………」
 いつもであれば心に留めておくだけだが、秋の山に古い記憶を揺さぶられたせいか、史歩の草履は足先をそちらへと向けた。じりっ……と地面を低く鳴らして数歩近づいていく。
 すると不穏を嗅ぎつけたらしい、人狼側から一人、黒髪の少女が駆け寄ってきた。
「何か御用?」
「……あ?」
 鈴を転がすような声の問いかけに、史歩は不機嫌ながらも応じ、訝しむ。
 奇人街を住処とする人狼――住人であるならば、史歩の名は元より、姿かたちを知らない者はいない。最弱の種・人間でありながら、最も警戒すべき殺戮者、と。そのことについて史歩自身はあまり良い気分はしないものの、情に薄いことは自覚しているため、仕方なしと受け入れて来た。
 だというのに、この目の前の少女は、そんな曰くつきの彼女を前にして、あまりに普通に問いかけ、それに応じた史歩の剣呑な様子にも動じず、答えを待っている。
 余程鈍いのか、あるいは腕に自信があるのか。
(……それとも、私を知らない、か。かといって人間と侮るわけでも――うん?)
 柳眉は寄せたまま、まるで怯まない相手に史歩の中で段々と困惑が強まり、乗じて改めて人狼のくくりではなく、少女自身を見たなら掠める記憶。
(コイツ……風呂場にいた奴か?)
 ここに来て、目の前の少女と面識があることに気づいた史歩。意識して見た姿が湯浴み姿だったせいで、暖色の衣を纏った姿を同一人物と認識出来なかったようだ。ついでに、風呂上りに自己紹介をしてきた美津子同様、奇人街に迷い込んだ人間だと思っていたのが、実は人狼だと知ったなら、再燃する、少女を湯船に沈めた羞恥。
 史歩の中で、向けた足先の理由が羞恥へ塗り替わったなら、その思いのまま、身を沈めた手が腰元の刀へと伸びる。
「ちょっ!? 何!?」
 抜刀の気配を感じてか、制止を訴えながら史歩より早く、少女が右耳へ手を添えた。と思えば、何かが史歩の身体に絡みつく。
「!」
 一瞬、遠い故郷では憶えのある術かと目を見張った史歩は、しかし実を伴うその正体が極細の糸のようなものと見破ると、糸が有無を言わさず締め上げようとする――前に腕を軽く振った。
 途端に軽く音を立てて千切れる糸状の何か。
「げっ!? 腕の一振りって、貴方本当に人間!? 噂以上の化け物じゃない!」
「……言いたいことはそれだけか?」
 現在、史歩の纏う衣は芥屋の店主が縫い上げたものだが、その工程には彼女の故郷の技術が練り込んである。奇人街ほど殺生の自由はなくとも、ほどほどに物騒な故郷が編み出した技法は、袴姿の見た目を裏切る丈夫さを誇っていた。尤も、真実目を見張るべきは、そんな異なる場所の技術を、見様見真似だけで忠実に再現してみせた、店主の腕前かもしれないが。
 さておき、それにしても少女のこの反応、鑑みるに、どうやらこの糸は細さの割に強靭なものであったらしい。
(そんなものをいきなり巻きつけてくるとは、油断も隙もない)
 息をするように殺傷の構えを取った己は知らず、史歩は刃のように鋭い目で少女を射抜く。対する少女は、残る糸を払い落す史歩の手が、再び柄へ伸びないか警戒しながらも、大きく喉を鳴らすと深呼吸ひとつ。
「そうね。話が逸れるところだったわ。……私が言いたいこと、聞きたいことは最初のひとつだけ。何か御用かしら、神代史歩」
(……ほう?)
 先程史歩の前に立ちはだかった時のように、背筋を伸ばして腰に手を当て首をかしげる少女。深緑の瞳には史歩に対する恐れと不安が見え隠れしているが、引く気のない様子には素直に感心した。
 一連の様子から、少女が史歩を知らないわけでも、己の力を過信しているわけでもないことは明白。でありながら、こうして対峙するのは、やはり史歩の動きからこちらの目的を察したためか。
 群れる割に仲間意識が低い人狼の中にあって、見ようによっては身を呈して仲間を守ろうとする姿勢は、史歩の目に好ましく見えた。史歩と対峙して冷静に会話を試みるところも悪くない。大抵の場合は、いきなり襲い掛かってくるか、無駄に挑発するか、あるいは一目散に逃げ出すか、だ。
「用、か。それはこちらの台詞だがな」
 少女の態度に温泉での悶着を一先ず脇へ置いた史歩。
 これに少女が僅かに眉を寄せた。
「……どういう意味かしら?」
 史歩の言いたいことが解っているのかいないのか、判別しにくい反応だが、ここで更に言葉を重ねようとした史歩は、改めて真正面から見据えた少女の容姿に軽く顔をしかめた。続いて顎に手を当て、まじまじ値踏みでもするように角度を変えて眺めていく。
「な、なによ?」
 史歩のこの行動に、少女が怯んだ様子で身構えた。奇人街において悪名高い剣士への恐れというよりも、人間の女への不信感に満ち満ちていたが、考えに没頭する史歩は生返事をするのみ。
「ん……いや、何というか……」
(何だ、コイツ? 風呂場以前に、どこかで見たことがあるような。……妙だな。私は人の顔を憶えるのが苦手のはずだぞ? しかし……コイツの顔には見覚えがある)
 頭の先から爪先まで。爪先から頭の先まで。
 あともう一押しで分かりそうな、けれどもどうにも思い出せない、記憶の引っかかり。解消すべく、史歩は少女の全身を何往復も見つめ続ける。
「ちょ、ちょっと?」
 気圧された少女が一歩下がれば、下がった分だけ詰める史歩。傍目から見れば、無謀にも凶悪剣士に挑み、眼力だけで気圧されている少女の図なのだが、当人たちは全く気づいていない。
 それでも横合いから何者かの蹴りが襲来したなら、標的の位置にいた史歩はもちろん、少女の方も軽く飛んで闖入者から距離を取った。続け様、下げた足が地に着くと同時に身をかがめ、抜刀姿勢で地面を蹴る史歩。
「ちょっ、いきなりな――司楼!」
「っ!」
「む?」
 あと少し。あと数秒でも少女が彼の名を口にするのが遅ければ、その首は紅葉の空に別の赤を撒き散らして舞っていたことだろう。
「そんなところで何をしているんだ、司楼。うっかり首を刎ねるところだったじゃないか」
「って言うんでしたら、まずコレを納めてからにして欲しいんすけど、神代サン」
 止まった刃は未だ司楼の顎下、昼間であれば人間と遜色ない肌の手前にある。人間に似た姿だろうとも表情の変化に乏しい司楼だが、さすがに命の危機に瀕しては、口角を歪めてしまうものらしい。
 珍しいモノを見たと眉を上げた史歩は、だからとすぐに刀を納めず、それどころかひやりとした刀身をわざと彼の顎へ押し付けた。完全に脅しのソレだが、史歩の表情は平時に少々困惑が乗せてある程度。
「納めて欲しければ、まずは私を殺そうとした理由を聞かせて貰おうか? 他の奴らならいざ知らず、お前を殺気立たせる理由が思い当たらんのだが」
「それは……」
 三白眼の黒い目が、史歩と司楼のやり取りを動揺しながら見守る少女へ向けられた。
「え? 何?」
 いきなりの振りに深緑の瞳がくりっと丸くなる。訝しむ史歩の目が司楼に習って彼女を見れば、益々困惑を深めた少女が司楼と史歩を交互に見つめ返す。
 しばしの沈黙――のち。
(……ああ、そうか)
 唐突に、とある理解が史歩に訪れた。
(当然と言えば当然か。私は基本的に猫しか見ていないからな)
 一人うむうむと頷いた史歩は、その様子に二対の視線が集中していることを知ると、ふっと小さく笑って刀を納めた。
「なるほど、理解した。私をそこまで危険視した点は腑に落ちないが、この際目を瞑ってやろう。いやしかし、さしもの司楼も恋人のためには身を呈すか」
 史歩がクッと喉で笑ったなら、反応は一拍置いてやって来た。
「は?……はああああああああああ!?」
 少女の方は一瞬、何を言われたか分からない顔をし、すぐに奇声を上げてこちらへ詰め寄ろうとする。対する司楼は、解放を得た喉に手をやりつつ、少女の襟首を掴んで無造作に引っ張った。次いで彼女が「ぐえっ」と鳴くのも見ずに、史歩へ向かって首を振った。
「違いますよ。俺はただ、お嬢が身の程知らずにも神代サンに突っかかっていると思ったんで、止めに入っただけです。神代サンぐらい強いお人じゃ、殺す気で向かわなきゃ最初でバッサリでしょう?」
「なんだ、つまらん。……というか、そうまでして止めたくせに、お前が殺すのか?」
「え?」
 普段から冗談も言わない司楼の言葉に、史歩は自分の見当があっさり外れたことを残念がりつつ、件の少女を指差した。これにきょとんとした司楼だったが、止めた少女が酷い顔色でもがいていることに気づくと、引っ張っただけの襟首をそのまま捻っている自分の手に今頃思い至った様子。
「ああ。すいやせん、お嬢。今気づきました」
「っは……! げほっ、げほっ、っとに、貴方、はっ……!」
 言う割に反省の見えない司楼の言に、涙目になりながら咳き込む少女は、強い怒りを目の奥に宿す。途端、史歩の中で結ばれる、少女に似た男の像。
「んん? もしかしてお前、シウォンの血筋か?」
 ただ対峙しただけではピンと来なかった、誰かの影。それが少女の怒りによって理解に及ぶ当たり、史歩とシウォンの関係がどのようなものか知れるというもの。
 かといって、無闇に敵対するわけでもない相手、それも単なる血筋である。咳が納まるのを待ってやれば、最後に大きく咳払いをした少女が司楼をひと睨み、史歩へ向き直っては頷いた。
「言われてみれば、初対面、よね。ごめんなさい、自己紹介を後回しにして」
「いや……」
 奇人街の、それも人狼にあるまじき殊勝な態度を受け、史歩の足が無意識に後ずさった。 なまじシウォンに似ていると気づいてしまったことも手伝ってか、少女の礼儀正しさは史歩の背筋に言い知れぬ怖気を走らせる。
「私はニア・フゥ。お気づきの通り、シウォン・フーリの娘よ。将来の夢はパパのお嫁さん」
「やはりそうか。……うん?」
(今、何かしら可笑しい話を聞いた気もするが……)
 奇人街の誰もが恐れる猫に懸想する自身も、十分奇異に見られていることを棚に上げ続けている史歩は、ニアの将来の夢については聞き流すことにした。
「それで? 無謀な挑戦でもなければ、お二人はこんなところで何をされていたんすか?」
 タイミングを計っていたのか、ニアの自己紹介をきっちり待ったていで、司楼が問いかける。これに首を絞められた記憶も新しいニアは、邪魔者と言わんばかりに司楼を睨みつけた。史歩はそんな彼女たちの様子に、その関係性を改めて見直した。
(扱いは雑だが、お嬢と言うからには司楼はコイツのお目付け役といったところか。仕事をきっちりこなす司楼にしては、本当に、だいぶ雑だが……まあいい)
 頭を一振り、思考を切り替えた史歩は、返事を待つ司楼ではなく、最初にこちらの動きを問うてきたニアへ尋ねる。軽いやり取りを経たせいで、先程まであった刺はほとんどなくなってしまったが、聞くだけならばこちらの方が相応しいだろう。
「単刀直入に聞く。泉に何をした?」
「泉に?……ああ、そういうこと」
 史歩の問いに少しだけ意外そうな顔をしたニア。その目が史歩の後ろ、丁度泉のいる辺りへ向けられたなら、感情の読めない光がニアの瞳に宿る。
 父親によく似た、冷ややかな光。
 自然と刀へ伸びる左手を翳すに留めた史歩へ、一息ついてニアが言った。
「悪いんだけど、それについては何も言えないわ」
「ほう……?」
 待ってのこの返事。真意を探るように刃のような瞳を細めてニアを見つめるが、真っ向からこれを受けた少女は怯えることなく首を振った。
「凄まれても言えないし、言わない。でも、そうね。信用してくれなくていいけど、私は泉に敵意はないわ。――愛するパパに誓って」
「…………」
「たとえ泉が、パパを巡る恋の好敵手だとしても!」
「…………」
 未だかつて、ここまで史歩の殺る気を失せさせ、脱力させる台詞があっただろうか。
 いやない。
 あえて突っ込まず、聞かなかったことにしたのが悪かったのか。繰り返されるニアの告白に、史歩は頭痛を堪えるように眉間をもみもみ。
「でも、珍しいこともあるものね。神代史歩ともあろう人が、わざわざ確認を取りに来るなんて。私が知る限りの貴方なら、理由なんて聞かずに片っ端から叩き斬るところでしょうに」
 思う存分愛の宣誓が出来たからか、妙に晴れ晴れとした顔のニアが、悪びれもせず当たり前のことのように非道を言う。この認識には一言文句を言いたい史歩だが、確かに普段の己ならばそうするだろう。
「しかも泉の膝の上で猫が寛いでいるっていうのに、あっちじゃなくてこっちにつっかかって来るなんて、いつもの貴方らしくないんじゃない」
(確かに、コイツの言う通りではある。まあ、猫に関しては、わざとだがな)
 見れば羨ましさから泉の状態なぞ目もくれず、彼女に白刃を向けてしまいそうなため、面白くなさそうに鼻を鳴らすだけに留める。
「……らしくないのは認めてやろう。しかし、辞めたとはいえこれでも元芥屋の従業員で人間だ。世間で何と噂されようが後輩で同族の心配ぐらいして――うん?」
 言いかけて、はたと気づいた。
「おい、お前。初対面の割には随分と私に詳しいな? 他の噂ならともかく、私が泉をどう思っているかなぞ、そこまで知れ渡る話でもない……いや、そもそも“アレ”のことをどこで知った? “アレ”のことを知っている奴は極一部に限られているはずだが」
「え? アレって何の……って、ああ、貴方が処――ぶっっ!?」
「そうだ、その“アレ”だ」
 殺気立った蹴りに対する礼儀なのか、無言で史歩とニアのやり取りを見守る司楼。だからなのか、それともそもそも気にしていないのか、折角ぼかしたところを直球で言おうとするニアの口を、史歩は静かな怒りを湛えた手で、顎下から掬い上げるようにして潰した。
 それがどれ程の禁句なのか、しばらく行動で躾けてから離してやれば、ニアは開放を得た頬は擦るものの、司楼を睨みつけたような怒りを史歩へ向けることはなく、代わりにため息をついた。
「はあ……。パパにはあんまりいい顔されないけど、私ってパパほど強くないんだもの。足りない力を補うためには情報収集しなくちゃ。だから時々、この“糸”を張って、そこから伝わる音を拾うの」
 言って、先程のように右耳の飾りへ手を持っていき、指で軽く抓むような仕草をする。
「なるほど。それがさっきの糸の正体か」
 史歩は知らないことだが、耳飾りから引っ張り出された“糸”は、以前ニアが泉に見せた時と違い、一見では分からない本来の細さで伸びていた。にも関わらず、注視もせずにコレを正確に捉えた史歩に対し、今度は深々とため息をついたニアは、“糸”を耳飾りへ戻しがてら、拗ねたように口を尖らせて言う。
「言っておくけど、私が貴方の、その……コトを知ったのは、事故みたいなものだからね。その前ならともかく、後になってまで繊細なことだっていうのも知らなかったし……」
(突然なんだ? 命乞いか?)
 ニアの言葉により、司楼の前でも躊躇なく口に出来たのは、人狼の性質によるものだと察した史歩だが、今度は言い訳のような語り口に片眉が上がる。乗じてニアへの評価が下方へ移動しかけたなら、短く唇を結んだ後でその頭が下げられた。
「ごめんなさい。隠していたこと、ペラペラ喋っちゃって」
(命乞い……か?)
 しばらく待っていたが、ニアの口から出たのは謝罪だけで、続くような願いはない。いまいち史歩の常識の範疇にないニアの行動に戸惑っていれば、これをどう捉えたのか、顔を上げたニアが慌てた様子で取り繕う。
「その、本当に、さっき泉たちに喋ったのが初めてだから! 他の人には一切言ってないから! ああでも、猫の恋敵なんだっけ? わわわわわっ、ど、どうしよう? どうしたらいい? ここはもういっそ、そんなことないからって、猫に弁解した方がいいかしら!?」
「……落ち着け」
「だっ!」
 どうやら命乞いではなく、本当に謝罪しているらしい。史歩相手に自分の命の危機に気づかず、それどころか彼女を案じて策を練ろうとする珍妙な生き物を前にして、史歩は無造作に彼女の頭へ鞘を振り下ろした。可能な限り手加減したとはいえ、人間に似た姿だろうとも頑丈な人狼を一発で黙らせたなら、疲れ切った面持ちで首を振った。
「いい。弁明も何も、猫は知っていることだ」
「へ? そうなの?……人間って、難しいわね」
 何故そうなる。
 痛む頭を擦り擦り、眉間に皺を寄せて悩むニアに、今度こそ戦意を丸々喪失させられた史歩は、今まで何も発さず、いつもの無表情で佇む司楼へ目だけで問うた。
 コイツ、いつもこうなのか? と。
 けれども司楼はニアを一瞥しただけで何の答えも返さず、おもむろに史歩の後ろを指差しては言った。
「そろそろ親分たちが出てくる頃でしょうから、話はこの辺にしやせんか? 芥屋の店主もあの通り、帰ってきたみたいですし」
「ああ」
 ちらりと肩越しに振り向けば、ふらふらとした黒が東屋に近づいていくところが見える。何かしら違和感を覚えないでもない様子だが、店主に関して違和感がない日なぞないことの方が珍しい。
 ニアの指摘と珍妙な生物との邂逅と。
 それらの要素が合わさって、普段らしからぬ自身の行動と共に他者への警戒に疲れ切った史歩は、芥屋連中が集う東屋へ踵を返しかけ、ふと思い立っては司楼に問うた。
「そういやお前、ずいぶんと上がるの早かったな?」
「はあ。まあ、ゆっくり浸かる性分でもないんで。それに――」
 司楼の三白眼が、未だ人間の難しさに頭を抱えるニアを見る。
「大切な仕事がありますんで」
 そこには邪推した恋の色も何もなかったが、真摯で真剣な光は宿っていた。
「そ、そうか」
 人間以外を無下に扱う店主が、詰りながらも認める医師が、仕事中毒と診断した少年。そんな診断結果そのままの姿に、コイツも十分珍妙かと認識を改めた史歩は、二人の人狼を背後に東屋へと歩き始める。
(ともかく、だ。あちら側の思惑がどうであれ、私はいつも通り行動すればいい。害があるなら叩き斬るだけ。……らしくないのでは、いざという時、使い物にならんからな)
 一時過ぎる、遥か昔の情景。
 感情のまま払った刀は、常であれば見破られたはずの幻を切り、容易く相手を見失った。誘われるように追いかけ辿り着いた奇人街では、長きを生きても未だ相手には届かない。ならば、次の機会を逃すわけにはいかない。その次があるとは限らないのだから、感情のままに動くわけにはいかないのだ。
 自身の内で律するに留めた史歩は、腹を決めると同時に顔を上げ――
「……げっ」
 東屋に近づく店主の違和感の正体を目の当たりにしては、軽く呻いた。

 

 


UP 2017/10/19 かなぶん

 

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