妖精の章 五十七

 

 竹平が最初にソレに気づいたのは、泉が恋腐魚に脅かされている真っ最中のことだった。
 ――まだ寝てんのか?
 恋腐魚の症状が落ち着くまで、泉が使っていた二階の部屋を宛がわれていた竹平は、その日、正確にはその日から数日間ほど、起きている泉を見なかった。昼夜を問わず、どれだけ一階と二階を行き来しようとも、少女はソファで眠り続け、黒衣の店主は飯時以外そんな彼女をじっと見つめ続けるのみ。
 とはいえ、恋腐魚の効き目が絶好調の時であり、竹平自身は失恋したての時でもある。
 起きていれば傷心のこちらなど一切お構いなしに、黒一色の店主に延々ベタベタ甘え続ける姿を見せつけられるのだから、静かに眠り続ける様は、案じる以前に助かる気持ちの方が強かった。
 人間好きを豪語する店主が四六時中泉の傍にいるのも、そこまで気にせずにいられた要因だろう。もしもこれが命に関わることであるなら、生きている人間は如何様にしても生かすとのたまう店主のこと、こんな風にただじっと目覚めを待つ体でいるはずがない。
 ――ま、俺のいないタイミングで起きてんだろ。
 そう結論付けたなら、それはそれで、そこまで人を蔑ろにしたいのかと、無性に腹立たしくも虚しい思いに駆られた竹平。やっていられるかと眠る泉と見守る店主を放置した――のだが。
 ――……おかしくないか?
 竹平が再びソレに気がついたのは、泉が恋腐魚の効果から脱して数日後。人が寝静まったのを見計らって働く、絵本の小人然の動きもひと段落した頃だった。
 一日や二日程度なら、タイミングの問題で片付けられそうだが、三日目になっても姿を現さない泉に、竹平はようやく不審を抱いた。
 二階から降りてこない程度ならば小人状態が再開された、とも考えられるが、ここのところ食事の準備は店主が行っている。小人に扮してまで、店主のスプラッタな調理を防いでいた泉が、今になってこれを見過ごしているのは奇妙な話だった。
 しかも、どれだけ思い返してみても、竹平や自分の分の食事は用意するくせに、二階に篭っているであろう泉の元へ、ワーズが食事を持っていく様は一度としてなかった。その割に、食事時になればふらふら降りて準備をし、食事を終えれば竹平一人に店番を任せて、自分はふらふら階段を上る姿は毎食目撃している。
 早い話が、食事時以外はワーズも二階に篭ったままなのだ。
 当初は、なんやかんや言いつつ、二人でよろしくやってんのかと、多少なりとも浮かんでしまう下世話な想像に辟易し、見ないフリをしていた竹平。
 だが、物音ひとつしない静まり返った二階の様子に、別の想像が膨らんでいく。
 ――生きて、るよな?
 ワーズが傍にいるから大丈夫、という以前にあった信頼にも似た発想は、この時の竹平からはすでになくなっていた。
 生かすためなら手段を選ばない、強制的な食事を経験したことも一因ではある。しかし、もっとも竹平がワーズへの不信感を強めたのは、泉がいない時の彼の様子だ。
 何者をも寄せ付けない雰囲気、とでも表せば良いだろうか。
 こちらから声をかけることを躊躇わせる空気は、単なる食事の声掛けであっても軽減することなく、竹平に異様な緊張を強いていた。元々、不気味な配色やふらふらした言動から、取っ付きにくい印象を持っていたのは確かだが、泉の存在がないことで、ここまで顕著になるとは思ってもみなかった。
「ボクのモノ」――ワーズが度々、そんな風に泉を称していたことを思い起こせば、当然の反応かもしれないが。
 だからといって、同郷の、それも年下の少女の安否が気にならないわけではない。
 意を決した竹平が、食事を終えて去る黒い背中へ泉のことを問いかけたなら、肩越しに振り返ったへらり顔の反応は予想通りだった。
 ――シン殿は気にしないで。
 以前、竹平が元居た場所に帰れるなら泉もと言いかけ、「シン殿の範疇じゃない」と切り捨てられた言葉。あの時に似た冷たさに、ぐっと息をつめた竹平だが、深追いできなかった当時とは違い、用は終わりとばかりに向けられた背へ、一歩足を踏み出し腹から声を出した。
 ――ふざけんな! 気にしないでいられるわけねえだろうが! 付き合いは短くても、あいつは俺の同郷で、お前とは……っ!
 恐れと怒りとがない交ぜになった感情は、勢いのままに竹平にとっても予想外の暴言をワーズへ吐き出そうとした。
 お前とは違う。
 寸前で呑み込んだものの、余程鈍くなければ、あるいは、相手の言葉を自分の良いように受け取る一種の才能でもなければ、続く言葉なぞ容易に察せられただろう。
 そして、たぶん、ワーズは鈍くもなければ、そんな才能もありはしない。だが、存在の否定として受け取られても仕方のない言葉に、身体ごと振り向かせたワーズは、いつも通りの笑みを携え、息をついては右手の銃で自身の頭を掻くのみ。その銃をこちらへ向けることも、竹平の言葉に傷ついた様子もなく、それどころか、何を今更当たり前のことをと言わんばかりにへらへら笑って、言う。
 ――そだね。シン殿も人間だから気になっちゃうよねえ。泉嬢もそうだったし。
 付け加えられた言葉は、竹平の線引きに対する嫌味のように聞こえた。しかし、続け様に「史歩嬢はあんまり気にしなかったから」と加えられたなら、長年ワーズと交流のある剣士の感覚が、人間代表のような扱いを受けていたことを知った。
 つまり、「気にしないで」というのは、竹平を拒絶するものではなく、ただの返しでしかなかった――
 遅れた理解に、勇み足でワーズとの間に距離を敷いた竹平は動揺するが、ワーズはお構いなしに泉の現状について語り始めた。

 

 ワーズ曰く、泉には不定期に昏々と眠り続ける時があるらしい。この時の彼女は、食事も水も、何もかも受け付けないという。かといって衰弱するわけでもない、その不可思議な状態は病気の類ではなく、どちらかと言えばその逆で、彼女の心身を安定させるのに必要な行為だそうな。そしてこれには、芥屋という場所が必要不可欠であり、他の場所で起こることはない、と締めくくられた――

 

 美津子がそんな話を聞いたのは、夕暮れを迎えて辿り着いた広場でのことだった。
 きっかけは、ここで今日は休むというワーズに、詰め寄った竹平が放った言葉。
 ――本当にこのまま進んでいいのか? 泉は、一度眠ったら次いつ目覚めるか分からないんだろ?
 突拍子のない、初耳の話。驚きが先立ったせいで、すぐに理解に及べない美津子のため――ではないだろうか、竹平のこの言葉に対し、ワーズが披露してみせたのが前述の話である。
(だから心配いらない……ってもんでもないけど)
 聞かされた泉の状態は、非現実的で奇妙な話ではある。だが、今いる場所を思えば信じる信じないは二の次だ。それよりも考えるべきは泉本人の安否だろう。眠り云々の話は、彼女が無事であればこそ意味を持つ。竹平とて、それは分かっているはずだ。だからこそ、眠りについての心配はいらないと言われても、未だに晴れない顔で美津子の隣に座っている。
(……いや、私の隣っていうか、ワーズから離れた位置?)
 広場といっても昨夜より狭い空間の中心で、たき火を前に膝を抱える美津子は、右隣の少年をちらりと盗み見た。その目はたき火を見ているようだが、炎越しには黒一色の男が、少し離れた木に寄りかかって座る姿がある。
(なんてーか、竹平君、あれから妙にワーズを意識しているというか)
 正確には、警戒している。
 最初は泉を探さないという即断に反発しているせい、と思っていたのだが、眠りの話をしても晴れない、いや増して不信感を露わにする様に、これはもっと根深いものだと美津子は感じていた。ともすれば、眠りの話自体、ワーズから何かしらの反応を引き出すための法だったのではないか――とまで考えては、それはさすがに勘ぐり過ぎかと内心で払った。
 手持ち無沙汰に拾った枝をたき火へくべる。
 すっかり暗くなった空の下、唯一の光源の中で時おり爆ぜる音は、変動を経て減った人数以上の静けさに、よく響く。簡単な夕食を済ませた後ではこのくらいの炎で十分と、くべる手を止めた美津子は、途端に暇になった身体を伸ばしつつ、周囲をそれとなく見渡した。
 ワーズに竹平、夜になった瞬間に厳つい姿へと変わったランは、背後の木の根元で全体的に鳥っぽく見える少年と何やら話している。
 それと――美津子の左側に座る、三人。人間好きのワーズが、わざわざたき火から離れた場所に座る要因となった彼らは、これを気にかけることなく竹平同様たき火を眺めていた。
 昼は美少女、夜は犬っころのニアに、隈取のような白い毛が目立つ、黒い毛並みの名前の知らない狼男。そして、ぴっちりスーツから純白の毛をはみ出させる少年・司楼。
 新参の美津子に詳しい事情は分からないものの、着かず離れずの距離で行動を共にしてきた一団。時々こちらに混じっていたニアは例外として、それが同じたき火を囲っているのは、偏に司楼の提案によるものだった。
 臨時従業員になるから同行させて欲しい、と。
 臨時従業員とはワーズが店主を務める店に、人間以外の者が勤めた場合の呼称だと、自らも現在臨時従業員だというランが教えてくれた。ついでに、人間以外を粗雑に扱うワーズの下、好き好んで臨時従業員になりたがる者はいない、とも。
 とどのつまりは、わざわざ申し出るだけの理由が司楼にはある、ということだ。
 そしてそれはあっさりと「綾音サンの状態を確認したいんす」と彼の口から告げられた。
 この広い山で彼女一人を探すのは難しい。しかし、猫の動きから察するに、ワーズにはその術がある。ならば、同行させて貰いたい。その代わり、自分たちは人間を守る――と付け加えて。
 終始笑う口元を除き、渋い顔をしていたワーズは、拒絶する前に加えられた「人間を守る」の一言を前に、それでも悪態を二言三言添えてから、忌々しげに同行を許可――
(してはいないわね、うん)
 再び歩き始めたワーズが司楼の提案に対して示した態度は、無視だった。その後を司楼たちが続いても、見もせず咎めもしない、徹底した無視。
 きっと、人間以外を嫌う彼なりの、最後の抵抗なのだろう。先んじて打たれた一言のせいで、嘲りも蔑みもできなかった腹いせ。
(……なんというか、ねえ?)
 竹平に習うように炎越し、眠っているのか座ったまま俯く白い顔をちらりと眺める。次いで再び司楼たちを見やっては、視線をくべるように目の前の炎へ止めた。
 こんなにも不満を露にしているワーズだが、彼らの内情は心得ている、と美津子は呆れながら感じていた。でなければ、泉の状態を彼らが知ることに何の意味があるのか、ねちねちと尋問のように聞いていたはずだ。
(それに……泉ちゃんの“無事”、じゃなくて“状態”、だもんね)
 美津子が推察するに、司楼たちが知りたい情報は、彼らの中心にいた美丈夫絡みなのだろう。見た通りの関係性ならば、彼は司楼たちが属するグループのトップにいる存在。そして、飽きもせずに泉を熱心に見つめていた様子から、随分と彼女にご執心だったと思われる。それはたぶん、彼らのグループを脅かすほどに。
 だからこそ、泉の“情報”が重要になってくるのだ。
 彼女が生きているか――死んでいるか。
(竹平君には、ああ言ったけど。正直なところ、私も彼らと同じ意見なんだよねえ)
 黒い靄を引き連れた獣が、脇目も振らずに一方向に走っていったのは、本当だ。
 だが、竹平にかけた泉に関する言葉は、彼への気休めに過ぎない。
 もちろん、美津子とて泉が無事であれば良いとは思っている。しかし、元居た場所の登山中、パーティを離れた者がどうなったのか。少なからず経験してきた末路を思えば、楽観できるわけがなかった。それもこんな得体の知れない山、目の前で人が掻き消える現象が起こり得るような場所では、尚の事。
(でも、竹平君はここにいて、生きている。せめて彼だけでも前に――っと?)
 暗い結末を振り払うように自然と竹平の方を向きかければ、直前でこちらへ寄せられる赤い頭。思わず、座ったまま軽く仰け反る美津子だが、目だけは店主に固定したままの竹平は気づくことなく、珍妙なことを聞いてきた。
「なあ……ワーズの奴、変じゃないか?」
(お姉さん的には、君の方が変だとしきりに思っているところでしたが)
 即座に返したい言葉は心の中だけに留め、黒い瞳をぱちくりさせた美津子は、促すような雰囲気に再度ワーズを視界に納めた。
 先ほどと変わらぬ黒一色の装いに、病的とは違う白い肌、赤い笑み。行動を思い返せば、ふらふらした動きに、けだるげな声音。
(あの銃だって、最初はおもちゃかと思ったけど、どう見ても本物だし)
 世界中の山を登るに辺り、護身用にと銃にも触れたことがある美津子。結局は手に余るものとして断念したが、そこで得た知識はワーズの右手に握られた銃が、間違いなく本物であることを示していた。弾の有無はさておき、そんなモノで気軽に頭を小突く辺り、すでに普通ではない。
 元居た場所で出会ったなら、百人が百人、不審者と呼ぶに相応しい逸材だ。
「変って、ずっと変だけど、あの人」
「そりゃ……じゃなくてよ」
 改めてじっくり吟味し、何一つ変わらない事実を告げたなら、がっくり落ちる竹平の頭。
 きっと、泉がいないことによってワーズに何かしらの変化があると、そんな話をしたいのだろうが、美津子の目から見て、その辺のことはよく分からなかった。先ほどから感じている、竹平のワーズに対する不信感が、彼の目だけにワーズを特別おかしく見せている可能性はある。だが、もしかすると本当に、付き合いの長さで分かる変化があるのかもしれない。どちらにせよ、美津子には知覚できない話ではあるが。
(っていうか、変には違いないけど、ワーズって竹平君よりよっぽど分かりやすいけどね。たとえば――人間以外に接している時の気持ち、とか)
 項垂れる竹平に、胸の内だけでこっそり手を合わせておく。
 それと同時に思うのは、竹平や司楼たち、そして竹平には見えるワーズ像の、各々の心に置かれている少女のこと。
(あんまり楽観するのは得意じゃないけど、無事なら無事で、あのナイフが役に立ってくれれば……別の用途で使われたら、って考えるのはナシナシ)
 一瞬浮かぶ、泉がナイフを首元に押し当てる図。そんな子ではないはずだと考えを払った美津子は、取り成すように息をつく。どう転んでも今、泉のことを考えるのは不毛だ。それよりも考えるべきは、ここにいる自分たちが為すべき、今後のこと。
 珍味を探しに奥の山を目指すことに変わりはないが、その前に寄った方が良いと司楼が提案がてら示した場所があった。奥の山まで行くならば寄って損はない、と。人間たちの護りを強固にできる、とまで付け加えられたそこには、司楼の親がいるという。
 ――イコルパの庵。
 司楼の提案の中でもその名前を聞くなり、殊更嫌な顔をしてみせたワーズ。怯まぬ司楼が「丁度緋鳥サンもいないことですし」と付け加えたなら、その顔は口元の笑みが僅かに保たれるような、更なる渋面を刻んでいた。
 緋鳥というのは確か、鳥っぽい少年と行動を共にしていた小柄な少女であり、数少ないワーズの接し方を見る限り、人間ではなかったはず。だというのに司楼の話しぶりでは、ワーズが緋鳥を慮っている様子が伺えた。
 人間以外を嫌うワーズが、人間以外のために回避するような場所。
 それでも人間にとって都合が良いというのは本当なのだろう。夕食時、ワーズは司楼たちには一切目をくれず、イコルパの庵へ寄ることを告げていた。それはそれは、何とも形容しがたい表情をへらり顔に載せながら。
 ここまでワーズが嫌がるとは、一体どんな場所なのだろうか。
(まあ、考えるだけ無駄よね。とにもかくにも、最優先は現パーティの安全、ですから)
 調子だけは明るく、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた美津子は、その他の考えを切り離すように、新しい薪をそっとたき火へくべた。

 

 


UP 2018/2/10 かなぶん

 

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