妖精の章 五十九

 

 泉の沈黙をどう捉えたのか、突然「待っていろ」と言い、立ち上がったシウォン。
 これを合図に泉の意識は現実に戻るのだが、黒い背中はすでに洞窟の出入り口へと向かっていた。
 このため、シウォンが何をするつもりなのか、問いかける機を逸した泉は、右往左往。
 追いかけるべきか、それとも言われた通り待つべきか。
 もしも今、一人残されては、先に待つのは死しかない。さりとてシウォンを追いかけるのは、依存が過ぎるし、何より彼に対する不信を露骨にするようで気が引ける。
 結局、どうすることも出来ず、自然と待つ格好に収まった泉は、出入り口付近で立ち止まった背中に、置いてけぼりはないと察して、一先ずの安堵を得た。
 ――そんな耳に、微かな音が届く。
(……何かしら? 今、ねずみみたいな鳴き声が)
 幼い頃に聞いた覚えのある、小動物のものに似た音。そう判断した目がシウォンから離れ、反対側、洞窟の奥の暗闇へと向けられた。
 薄暗い中で視認できるのは、ゴツゴツした岩壁ばかり。特別大きい突起はないものの、音の主が小動物であったなら、隠れる場所はいくらでもありそうだ。
(さっきまでは全然気にしていなかったけど……この洞窟、随分と広いような)
 小さな影を探すように目を凝らしてみたが、得られたのはそんな感想だけだった。これに引きずられるようにして改めて見回す洞窟内は、上にも横にも広い。奥に向かうにつれて緩やかに狭まっている造りは視認できるものの、段々と明るくなる周囲に反し、見通せる先はどこまでも黒で塗り潰されている。
(って、明るい?)
 暗闇に目が慣れたにしては、先程よりもはっきり陰影を刻む洞窟内。気付くなり光源と思しき背後を振り返った泉は、黒い影が白い光の玉を持つ姿に驚いて声を上げかけ、それがシウォンと分かったなら、光に目を細めながら別種の声を上げた。
「シウォンさん、それって」
「もちろん、雪だ。丁度いいからコイツを明かり代わりにと思ってな」
 言いつつリュックの前、洞窟の中央の位置に光の玉――丸められた雪玉を置いた。
(本当に、光るのね……雪)
 光力はたき火よりもやや強いぐらいだろうか。リュックの色がピンクと分かる明るさを確認していれば、先程と同じ位置に、先程より艶めいて見える青黒い毛並みの持ち主が腰を下ろした。
「どうだ。これで少しはマシになったか?」
「……へ?」
「それとも……明るくなったところで、俺がいては不安は解消されんか」
「ええと……」
 ちらりと向けられた緑の目が自嘲気味に喉を笑わせる。すぐさま他方を向いたものの、心なし三角の耳が伏せられているのを見つけた泉は、何の話か分からず、シウォンの真意を探る。
(私が不安って、何か言ったかしら?……覚えがないんですけど。言ったのでなければ、シウォンさんがそう思うようなことをしたってことよね?……もしかして、私が黙っていたから暗いところが怖いと思って、雪を?)
 そう考えれば「待っていろ」と言い置いた行動も、「マシになったか」の意味も繋がる。ついでに泉の芳しくない反応から、自嘲気味に笑った理由にも行き着いたなら、「フン」と鼻が鳴らされた。
「大きなお世話だったか……いや、待て? もしやお前、暗いところが苦手ではないのか?」
 どうやら知らない内に考えを口に出していたらしい。小さい音ならなおさら拾うという人狼の聴覚の話を思い出した泉は、とりとめのない考えを聞かれていたことに恥ずかしさを覚えつつも、当たりを引いたことを知った。そして恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻きかき、愛想笑いをしつつ答える。
「いえ、まあ、得意でもありませんけど、苦手というほどでも――」
「つまり、また俺は読み違えたのか……」
「し、シウォンさん?」
 何故か、これまでで一番愕然とした表情を見せるシウォン。今のやり取りのどの辺に、そこまで驚く部分があったのか、今度ばかりはさっぱり分からない。だが泉は、落胆するように伏せられた耳と落ちた肩に、あわあわ両手を動かしながら、励ますように言った。
「ほ、ほら、でも、やっぱり明るいと便利ですし! というか、ほら、シウォンさんがいなかったら、さっきの間欠泉で私、危なかったですし! だから、その、シウォンさんがいて不安とかは、全っ然、ありませんから! いえ、逆にいて下さらないと、困ります!」
 騒山で一人きりなど、間欠泉の件がなくても先は見えている。
 勢い余った身体が、境界線のように置いたリュックを通り越し、両手がシウォンの手の甲を必死で掴む。そうしていないと今にも世を儚みそうなシウォンの空気に、泉は真剣な眼差しを向けることで、自分の言葉に嘘偽りがないことを証明しようとした。これを受けたシウォンは瞳を揺らがせると、掴まれた右手をそっと裏返し、手の平に乗り続ける体温を恭しく握り返しながら問う。
「……慰めてくれるのか。こんな俺を」
 傍から見れば甘えるようなシウォンの低音に、常であれば泉とて赤面の一つでもしただろう。だがしかし、今の彼女にあるのは、シウォンを元気付けなければという、珍妙な使命感のみ。シウォンが愛おしむように包みかけた両手をあっさり引っこ抜いた泉は、片手を腰に、もう片方を胸に当てると、深く頷いて断言した。
「もちろんです! シウォンさんを気にするなんて、私にはこれっぽっちもないこと――」
「……お前、実は慰めるつもりねえだろ」
「え……いえ、その……」
(あれ? 途中までは良い感じだった気がするのに、何か変なこと言ったかしら?)
 シウォンの一睨みを受け、勢いが急に萎んでいく。併せて元の場所へと後ろ向きに戻った泉は、消沈した気持ちで膝を抱えた。
 思い返せば、シウォンの見た目はただでさえ泉より年上であり、生きてきた時間に至っては元居た場所の基準を遥かに超えていると聞く。しかも奇人街の中で一番大きい人狼の群れの頂点に立つ者なのだから、励ますという発想自体が間違いだったかもしれない。
 シウォンを気にすることなんてない――言った割に悶々とする泉が、シウォンの自尊心を大いに傷つけてしまったと、後悔から深いため息をつく、直前。
 咳払いが一つ為された。
「それはそれとして、だ。何故、今が夜だと?」
「……え?」
 てっきり怒らせてしまったと思っていたシウォンからの問いに、俯いていた顔を上げる。迎えたのは獣頭の横顔。独り言を聞き違えたかと思っていれば、目だけがじろりと向けられ、条件反射で竦む身体に再度の問いが投げかけられた。
「明るさを気にした時に言っていただろう? 今が夜だと。桜の上に青空を見たくせに、何故、夜と判断した?」
「桜……シウォンさんも見たんですか!?」
 思わず上ずった声になってしまったが、無理もない。シウォンが口にしなければ、泉はあの美しい光景を、変動が見せた幻と解釈して終わるところだったのだ。それが実際に起こっていたことだと知らされて、不思議な高揚感が泉の頬を紅潮させた。
(もしかしたら、あの時の言葉も、人狼のシウォンさんなら――)
 一面の桜に魅せられ、呟いた言葉。声に出した覚えはあるのに、全く思い出せない、しかし、とても大切なことだけは分かる響きを、微かな音こそよく拾う人狼ならば聞き取っていたかもしれない。間欠泉で助けられるような距離にいたことを思えば、可能性は高いはずだ。
 そう思い、期待を多分に込めた瞳で問いかけた泉。
 だが眼前、横顔の鼻面に深い皺が急速に刻まれていくのを目の当たりにしたなら、本能的な恐怖から漏れそうになる悲鳴を飲み込むのが、やっとのことだった。
 この反応にシウォンは仰々しいため息をつくと、気を紛らわせるような舌打ちを一つ。懐から煙管を取り出し口に咥えては、低い声で唸る。
「小娘。質問を質問で返すな」
「うっ。す、すみません……てっきり白昼夢か何かと思っていたので」
(このやり取り、昨日も美津子さんとしたような……)
 昨日の今日で似たようなことをしてしまったと内で反省する泉を尻目に、彼女の言葉を受けたシウォンは、一転して訝しむように眉を寄せた。
「白昼夢、か……まあいい。そんなことよりも、だ」
 泉が自省している内に準備を終えたのだろう煙管が、一時細い煙を止め、併せてシウォンの姿が人間に似た姿へと瞬時に変化する。続け様、吐き出される煙を吸わないよう注意する泉は、ここに来てシウォンが人狼の本性を殺す煙に興じる意味を考え、桜の話はこれ以上しない方が賢明だと察した。
「ええと、今が夜だと思ったのは、シウォンさんが人狼姿になっていたからです」
 言いつつ視界に掠めた外の様子は、淡い光を放つ吹雪のせいで時刻を計れそうにない。となれば、やはり、夜という判断はシウォンの姿一つに尽きる。
 だが、わざわざ確認するようなことだろうか。
 解消されない桜の件も相まって、やさぐれた気分に陥る泉。対し、ようやく得られた答えにシウォンは満足そうに頷いた。
「だろうな。奇人街では人狼は昼と夜で姿が変わる。その理由については知っているか?」
 予想通りの答えだったらしい様子に、泉は更なる不満を覚えたが、続く質問には素直に頷いてみせた。
「人狼姿で奇人街の陽を浴びると、回復が追い付かないくらい傷つくから、でしたか?」
 以前、そんな話を教えてくれた時のランの姿を思い出す。あの時、奇人街の陽の下に晒された彼の腕は、説明通りの惨たらしい有様だった。まあ、苦しんでいた割には色々元気で、知りたくもなかったマザコン宣言も、その時に聞いたものだったが。
 そこまで思い出せば半笑いになってしまう泉を余所に、彼女の返答へ「そうだ」と頷いたシウォンが続けて問う。
「では、騒山では? 奇人街の中にはあるが、騒山と奇人街では陽の質が全く違う。騒山の陽は本性を傷つけることはない。だが、お前も知っての通り、俺達……いや、人狼は騒山の中にあっても昼と夜とで姿を変えていた。これについてはどう思う?」
 言い淀み換えたのは、登山中煙を吸っていたために、人間に似た姿を取り続けていた自身を思い出したためか。手にした煙管の先をくるりと回すシウォンに、泉は困惑から眉を寄せる。
「どうって……」
(尋ねたいのはこっちなんですけど。まるで授業するみたいな話ぶり。シウォンさん、どうしたのかしら)
 沈黙は、それはそれで居心地の悪いものだが、かといって、このやり取りは何なのか。
 それともこれは、彼なりの雑談のつもりなのだろうか。
 意図は分からないものの、答えを待つていで座ったまま身体をこちらへ向け、左肩と頭を壁につける姿は、男でありながら妙に色っぽく映る。思わずシウォンが煙管の吸い口を軽く咥えるところまで見惚れてしまった泉は、これに気づいた様子で「うん?」と発せられた目の前の低音に慌てふためいた。次いで誤魔化すように前を向いては、膝を抱えたまま前後に身体を揺らす。そうすることで、熱を払うと共に、問いかけの答えを探す。
「え、ええと、そうですね! 言われてみれば、騒山の陽は違いますもんね! でも、全然違和感なくて気づきませんでしたっ。あ、もしかして昼と夜とで変わるのも、特に理由がなくて奇人街で習慣づいていたから、とかだったり……」
 途中まで、わざとらしいほど明るく元気な声で考えを展開した泉。次第に熱が冷めていけば、この言い方と考えでは、人狼という種を侮っているようではないかと感じてしまった。途端に小さくなる泉の声に、まず返って来たのは煙を吐く音。ただ吐き出しただけにも、呆れているようにも、怒っているようにも聞こえるそれに、恐る恐るシウォンへと視線を戻したなら、思ってもみない笑みに迎えられた。
「当たりだ。ただの習慣。そもそも、騒山は目的がなければそう訪れん場所だからな。本性もわざわざそこに合わせたりはせん」
「はあ。当たり、ですか」
 当てる気のないどころか、逆に気に障ってしまったかもしれないと緊張していた分、引っかけ問題を受けたモヤモヤ感が残る。ついつい心情を露わにした表情を向けても、シウォンは全く意に介さず、楽しそうな調子で話を続ける。
「だが、騒山には奇人街とは反対に、人狼の本性を昼夜関係なく引き出す場面が存在する。どんな場面か分かるか?」
「さあ。全く分かりません」
 馬鹿正直に考えて答えた自分が馬鹿みたい――そう思った矢先の質問。なればこそ、これまで気にしていたシウォンの様子すら推し量るのも馬鹿らしい、と泉は投げやりに答えた。仮にこれでシウォンの機嫌が悪くなっても望む所だとすら思う。そのくらい捨て鉢な姿勢で吐いた答えだというのに、返されたのはクツクツと低く鳴る喉の音。
「……何がおかしいんですか」
「いや、すまん。お前の顔がな、楽しくて、つい」
「なっ……!」
 瞬間的に頭に血が上り、顔が熱くなった。膝を抱いていた手で握り拳を作り、シウォンの方へ身体を向ければ、座ったままくるりと背を向けたシウォンが「すまん」と言いながら肩を震わせる。
 完全に笑いのツボに刺さった格好に、元々ぶつける気のなかった拳を下げた泉は、「もういいです!」と荒々しく座り直した。
「どうせ、シウォンさんの顔に比べたら、私の顔なんて面白可笑しいだけでしょうよ!」
 ふくれっ面の目の端に、笑われた悔しさを滲ませながら捨て台詞を吐く――と。
「そうだな。俺の言葉一つ一つに変わるお前の表情は、心底楽しくて――堪らなく愛おしい」
「なっ……」
 笑いを落ち着かせながら、最後に紡がれた低音は、先程とは別種の熱を泉の頭と顔にもたらした。慌てて身構えるようにシウォンの方を向けば、文字通りの雪明かりに照らされた横顔は、穏やかな笑みを目の前の薄闇へ浮かべていた。
「騒山において、本性が働くのは今のような冬の時期だ。昼だろうが夜だろうが、凍てつく気温に晒されたなら本性は姿を変える。人狼姿であれば降り積もる雪が肌に触れることもないからな。判断材料と目星をつけたところで悪いが、今この場で俺の姿が本性を取ったとしても、夜とは言い切れん。悪ぃな」
 まるで何事もなかったかのように述べられる、人狼についての語り。
 その落差に、たっぷり一呼吸置いてから理解が追いついた泉は、振り回されている現状には不満を抱きつつも、変化した話題に内心で安堵の息をつく。
 次いで怪訝に眉を寄せては、棘の抜け切らない声で疑問を口にした。
「それって……それならシウォンさん、寒いんじゃないですか?」
 肩越しに振り向けば、離れたところにある出入り口の先は未だ吹雪いていた。どの季節だろうと音を立てる気のない騒山だが、入る風の冷たさはコートを着ていても感じられる。だというのに人狼姿ならいざ知らず、見た目厚いとは思えない黒い衣を纏うだけの、人間に似た姿では寒くないはずがない。
(それに、シウォンさんは腕が……)
 ゆったりとした黒い衣で隠れているが、シウォンの左腕は途中でその形を失っている。人狼の治癒力は人間の比ではないとはいえ、この寒さでは傷に障るのではないか。
 これまでの様子から全く考えて来なかった、シウォンが感じているだろう寒さに、今更ながら考えの及んだ泉は、何か他になかったかとリュックへ目を向けた。
 すると、これを遮るようにシウォンは言う。
「……お前が俺を案じてくれるのはとても心地良いが、この姿は人間のソレとは根本的に違う。一種のまやかし、目くらましだ。確かにこの姿には爪も牙もねぇが、この皮膚、力は人狼時となんら変わらん。無論、寒さを感じるものでもない」
「そう、ですか」
 良かった、と安心する。
 気休めなどではないだろう。証拠に、言葉の端々には少しだけ棘が感じられた。泉がどうという部分は別としても、己の種を人間と同等に見られるのは屈辱だと言わんばかりのソレ。弱肉強食が基本である奇人街における人間の地位が、他の種と比して底辺に近いことは知っていたが、それがこんな気分をもたらすとは不思議な話である。
 けれどもそんな泉の様子が気に入らなかったのか、続け様、皮肉たっぷりにシウォンが言った。
「それ以前に、姿一つで温度調整できんなら、夏の夜ン時も昼の姿のままでイイはずだろ。陽がなくともそれなりに暑いってのに」
 最後に鼻で笑うように占められたなら、流しかけた不満が泉に戻って来た。
 ただ気にかけ、心配しただけなのに、何故こんな言い方をされなければならないのか。
「悪かったですね、無知で。何なんですか、さっきから。私は人間なんですから、人狼のことなんて知るわけないじゃないですか。それなのに、どう思うかとか、分かるか、とか。私に教えてどうなるものでも――」
「そりゃ、知って欲しいからさ。お前に、俺のことを。他の誰でもない、人間のお前に、人狼の俺のことを、余すことなく全て、な」
「っ!」
 カチンと来た勢いで投げた言葉が思わぬ形で返され、泉の息が詰まった。
 しかもこちらへ向けられたシウォンの顔は、口説くというよりも、当たり前のことを言っているだけと言わんばかりで、余計にたちが悪い。
 ここに来て、先程からシウォンのペースで事が進んでいることに気付いた泉は、己を取り戻すべく岩壁を背に、洞窟の薄闇を前に座り直した。

――シウォンさんと二人きりは危険すぎる。

 いつだったか、そう判断した自分は正しかった。けれどその時危険と感じていたのは、自己解釈でこちらの気持ちを捻じ曲げる行動であって、今のように泉を揺さぶる言動ではなかったい。
(しっかりして、泉。流されては駄目。考えてみればシウォンさんは私よりずっと年上で、色んな経験がある人で、だから――)
 言葉の端、行動の度に見え隠れする、想い。
 違えてはならないと自らを律し、泉は隠しきれぬ熱に頬を淡く染めながら、己が腕を抱く。

 

 


UP 2018/3/15 かなぶん

 

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