妖精の章 六

 

 何度やっても堂々巡るエンとの会話に疲れ果て、そういえばと今更ながらに思う。
「あの、どうしてそんなに、私の……お嫁さん? に、なりたいんですか?」
「好きだから?」
 間髪入れず、何故か疑問符を付けて出された答え。
 とはいえ、ストレート過ぎる告白に、泉は目を丸くした。
「好き……って、どうして?」
「んーと……好きになるのに、理由って必要だっけ?」
 煙管の先が天井を向いて、不思議そうにあっちへふらふら、こっちへふらふら。
 何かを探す素振りに、問うた泉自身、そうかもしれないと思い直した。
 誰かを好きになるのに理由なんて、本当にあるのかしら……
 しかし、エンが“お嫁さん”を望んだのは、初めて会ってから物の数分だったので、せめてどの辺が好きに相当するのか、聞いておきたかった。
 これで、身体の部位を差され、「この辺が美味しそう」と言われたなら――
 止めよう、無駄に怖い。
 青褪めつつ、泉は首を振る。
 と、エンの顔が急にこちらへ戻ってきた。
 ぶんっと振られた煙管が沈んでは持ち上がり。
「そうだ、泉・綾音」
「な、何ですか?」
 絶妙のタイミングで戻ってきた声に、まさか、と声が上擦った。
 エンはこれにしっかりと頷き。
「やっぱり愛人で良いかな?」
「…………は」
 思っても見なかった言葉に目が点となった。
「んと、だってお嫁さんになっちゃったら、毎日ずっと、泉・綾音と一緒に居なきゃいけないんでしょ? お互いに食べさせ合って、背中流し合って、布団の中で遊んで――」
「……何ですか、その妙に偏ったお話は?」
「? おじさんから聞いたんだよ。ほら、私をお嫁さんにしようとしたっていう」
「……ああ」
 エンの言葉に、酷く納得してしまった泉。
 同時に“おじさん”の単語で思い浮べた姿は、息を吐いて違うと払い。
「でもね、私、お医者さんをやってるから、そんな一日中、泉・綾音と一緒に居られないでしょ? だから、愛人の方が良いかなって」
「…………ち、ちなみに、エン先生の中の愛人って、どういう人を差すんですか?」
 話を聞く限り、泉でも知っている夫婦の成り立ちを知らないようなエンである。
 そんな医者に掛かっていたのかと思えば、よく無事だったと自分を褒めてやりたくなる心はさておき、ごくりと喉を鳴らして泉は返答を待つ。
「んーと……今みたいな感じかな? 家に行って、お話して、撫でたりして」
 言いつつ、泉の頭を「いい子いい子」と撫でるエン。
 とてもではないが、さらりと人殺しを告白する男のやることではなかった。
 為すがままに揺れる視界で、呆気に取られるばかりの泉は、殊更深い息を吐き出し。
「……もう一つ尋ねたいんですけど、私が嫌って言ったら?」
「え…………」
 撫でる手はそのままに、ショックを受けた様子がエンから伝わってきた。
 良いかと問いはしても、断られる場合は考えていなかったらしい。
 ――まあ、これからも、奇人街に居る間はお世話になる人だろうし。
 前提に負傷する自分という項目があるため、手放しで歓迎できる相手ではない。
 かといって、これまでの経験上、己の無事な未来を想像出来ず。
 一寸先は闇で、易くすっぱり終われる、そんな想像もなかった。
 致命傷にならない、その直前で苦痛を強いられる、嫌な明日だけが脳裏を横切る。
 なんともなしに感じる気疲れで、泉は目を閉じて溜息一つ。
「どうぞ、お好きなように」
「わーい」
 途端、エンの両手が上げられた。
 あまりに幼い様子を受け、驚きつつも苦笑を示す泉。
 しかし、それも長くは続かない。
「じゃ、帰るね」
「へ?」
「店主、今までの診察料」
 コロッと打って変わった態度で、席を立ったエンがワーズへ手を出した。
「んー? 泉嬢の愛人なのに、金を取るのかい?」
「ソレとコレとは話が別。公私は混同しちゃいけないんだよ?」
 蔑む混沌の視線に、誰かの言葉を受け売りしたような返答が為される。
 しばらく、何も言わない二人の男。
 妙な緊張を泉が感じ始めたなら、ワーズの方が面倒臭そうに折れた。
「分かった。いつも通り、店の商品、好きなのを持って行け」
「うん、毎度。じゃ、泉・綾音、またね?」
「はあ……はい」
 片手を上げ、店側へ向かう背を見送る。
 あとはひたすら、好き勝手に物色するエンだが、決して料金以上の品は取らないそうで。
 証拠に。
「……ちっ。アレはどうして分別があるんだろうねぇ? 余分に取れば、猫の脅しだって出来そうなのに」
 奇人街最強と謳われる猫は、ワーズの飼いネコではないが、芥屋の猫と称されており、店に対する不正を爪一枚すら許さない厳格さがあった。
 そんな猫の目に留まらないのだから、強奪上等の住人にしては珍しい慎ましさを、あれでもエンは持ち合わせているらしい。
 別段、責められる謂われはないはず、なのに。
「ワーズさん……」
 見上げれば茶を手に、へらり笑ったまま、ぶつくさ愚痴るワーズ。
 近くに居るだけで高鳴る熱とは別に呆れたなら、今までエンが座っていた椅子をソファまで足で引き寄せ腰を下ろす。
 そうして泉に向き直ると、そっと唇へカップを宛がい。
「はい。お茶だよ、泉嬢。人肌まで冷ましたけど、熱かったら言うんだよ?」
「ふぁ、ふぁい」
 飲まない選択肢はないのかと思いつつ、赤らめた頬で、傾きに注がれる茶を口にする泉。
 口の端から零れる手前で、幾度も止まる茶の流れに、泉は全ての感覚をワーズに獲られた錯覚を起こし。
「ん………………ふ、あ…………はあぁ……」
 まだ物色を続けているエンの存在をすっかり忘れ、目の前で笑う男と似た、安堵を招く薫りの茶に酔いしれる。

*  *  *

 最近、ワーズは冗談を口にする。
 たとえば今だったら、バスルームへ向かおうとする泉へ、「一緒に入ろうか?」とか。
 これに勢い良く首を横に振ったなら、「そお?」と楽しそうに笑う。
 けれど。
 アレって、たぶん、私が元に戻っているかどうか、確認しているんだろうな……
 風呂上りの火照った身体を拭きつつ、泉は思う。
 以前の状態であれば、引き摺ってでも自分からソレを実行しようとした記憶のある泉。
 先程のやり取りとて、綾音泉としての意識が、少しばかり勝るがゆえに拒めたのであって、内実はかなり乗り気であった。
 危険過ぎる自分の考えへ、もう少しで終わる症状とはいえ、ひんやりした寝間着に袖を通す傍ら、泉は熱っぽい息を吐き出す。
 この症状に陥ってから、ワーズと接した記憶が告げていた。
 多少の語弊はあるが、泉をこんな身体にした当人が一番動揺している、と。
 感じ取ったのは、不安や戸惑い、恐れ。
 恋腐魚がどういう代物か、知った上で扱ったのだから、まさか症状に関してではあるまい。
 ……仮に、もし症状が原因なら、泉が居た堪れない。
 惚れ薬と称される品を使用したくせに、最初からこちらに関心がなかったと、言われているも同然の仕打ち。
 ワーズを不気味と思うことはままあれど、好き嫌いで表すなら、泉は決して彼を嫌ってはいないのだ。
 それなのに嫌うどころか、関心がないというのは、少し、否、かなり寂しいものがあった。
 とはいえ、相手は人間好きを豪語するワーズ。
 症状が比較的落ち着いてからは、細々お世話出来ると喜んでいる変人である。
 泉にじっとして貰うという彼の目的が、今のような状態を指すなら、動揺の原因は症状ではないだろう。
 では、一体何が原因か。
 関し、ある答えが泉の中に存在していた。
 気づいたのはいつだったか知れないが。
「ワーズさん、て……」
 廊下と脱衣所を仕切るアコーディオンカーテンを開けた泉。
 呟いた名に胸が疼けば、香ばしい匂いが鼻をついた。
「これは……ワーズさん、何か食べてるのかしら?」
 クンクン鼻を鳴らし、匂いを追い、下へ伸びる階段の前で瞬き数度。
 その頬が少しばかり赤いのは、湯上りのせいばかりではない。
 味覚ほどではないが、ワーズが関連する時だけ、他の感覚も鋭くなっていた。
 なればこそ、今現在、泉の鼻腔を擽る匂いは、単にワーズが食物を抓んだから香るのではない。
 食むことで漏れる、ワーズの呼気が届いての結果であった。
「…………」
 徐々に赤らむ泉の、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、中性的な美貌、不気味なほど赤い口内を秘めた、しっとりした薄い唇――
「っ!」
 途端、茹蛸よろしく赤く染まった泉、近くの壁で軽く自分の頭を叩いた。
 本当は何度も打ち付けたいところだったが、ワーズに気づかれるのは御免だ。
 どうしてこんなことをしたのか尋ねられたら、ぽろっと答えてしまいそうだった。
 あなたの唇を想像して、うっかり乱れそうになったから――と。
 そんな場面をまた想像しては、自分を罵って身を抱き締める。
 ぐるぐる火照る熱と艶かしい鼓動に、喘ぐような呼吸を重ね、弾む肩。
「う…………駄目、下に、行かなきゃ。た、竹平さんに会ったら……恥ずかし過ぎる」
 よろけつつ、元凶である男のいる居間へ向かう。
 階段に肩を預け、一歩一歩進む度、無駄にときめく心音が恨めしい。
 ついでに、匂いに反応して感じる空腹を知っては、情けない思いが泉を包み。
「やあ、泉嬢。湯加減は良かったかい?」
「……はい」
 対峙した男は食卓の椅子に座って、店側を眺めつつ何かを口に運んでいた。
 小動物のように膨らんだ、咀嚼に動く頬を見て、泉は「あ、可愛い……」と思う重症な自分に辟易する。
 これだけ焦がれる熱で潤んだ視界なのだから、ちょっとくらい、自分のために泣いて欲しいとも思った。
 だが、黒一色のワーズを捉えた瞳は、泉の気持ちを顧みず、彼の傍へ近寄ることを身体に要求する。
 自分と一致する望みに抗うはずもない身体は、泉の意思を問わないまま、ワーズへ向かって歩み。
「……何を、食べてらっしゃるんですか?」
「…………」
 ワーズは答えず、若干、咀嚼のスピードを速め、手にしたモノを噛み切っていった。
 形状からして、干し肉だろうか。
 ごくり、喉が鳴った。
 ワーズが食す物は、なんであれ、美味しそうに見えてしまう。
 しかして、先手を打って彼は言う。
「駄目だよ、泉嬢」
「うっ……な、何がですか?」
 ちらりともこちらを見ないワーズへ怯めば、店に苦笑が為された。
「これは、ボクの食べ物だからね。大体、君こそなんだい、うっ、って?」
「…………分かってるくせに」
 ぼそっと口の端で泉は愚痴り、ばれたからには隠しても仕方ないと、千鳥足染みた運びでワーズに近寄る。
 お裾分けでもして貰えないか、そんな思いを抱いては少しだけ頬を膨らませた。
「……何のお肉なんですか、ソレ。すっごく、美味しそうに見えるんですけど」
「んー…………いや、だからこれ、ボクのなんだよ? 君はさっき、食べたでしょ?」
「ワーズさんだって、同じの食べてたじゃないですか」
 拗ねた口調と抗議に尖らせた唇。
 間髪入れず、ワーズは言った。
「ボクは良いんだよ、別に………………太らないから」
 爆弾発言をし、トドメとばかりに、ぱっくりワーズが泉へ向け笑いかけた。
 泉はこれを受け、強張り青褪めた顔で立ち止まった。
 次いで、自分の腹部を押さえ。
 目尻に涙を浮かべた。
「ま、また私、太ってきていますか?」
 そういえば、ここ最近、ワーズにべったりで、碌に運動もしていなかったような?
 ひと時我に返ったなら、流石にマズイと思ったらしく、こめかみを右手の銃でコツコツ叩いたワーズは訂正を入れる。
「あーいや。うん、大丈夫だけど……ほら、泉嬢は寝る前でしょ? ね? 良い子だから食べるのは諦めて?」
「…………ううう……ずるいです。ワーズさん、ご自分は美味しそうなの食べてるのにぃ。意地悪しないで下さい」
 重力の呪縛から開放された泉は、熱に潤みながらも非難めいた目でワーズを睨む。
 困り顔で笑ったワーズは、銃口を今度は上下に動かして頭を掻いた。
「あのね、泉嬢? ボクは、君に意地悪なんかしないよ?」
「さっきの冗談は意地悪じゃないんですか?」
 じと目で見やったのは、食事の最中、問うた肉を住人のかもしれないとうそぶいた男。
 今にも泣きそうな目の中で、ワーズはへらりと笑い。
「や、あれは冗談だよ、意地悪じゃないから、ね?――おっと!」
 十分な間合いを取った泉が手を伸ばせば、赤い口の中に、残っていた干し肉が隠されてしまった。
 よろけた姿勢で意地汚く睨んだなら、口をもごもご動かしつつ、両手で「もうないよ」とおどけたポーズを取る相手。
 ちょっとだけ、癪に障った。
「いいですよ、別に…………私は、こちらから頂きます」
 潤んだ恨みの視線はそのままに、正面からワーズの両肩を椅子に縫い付けるべく、がしっと掴んで押した。
 右膝を座る彼の太腿に乗せ。
「――――?」
 泉嬢?
 もぐもぐ尋ねる口。
 ふ……と悪戯っぽく笑った泉は、こくんと喉を鳴らし、両手をワーズの後方へ滑らせる。
 身体を押し付け、腕で首を抱いては、もごもご動く唇を見て、自分の唇を舐めた。
 うっとりした面持ちで、次第に焦燥を浮べるワーズを見、ゆっくり、潤う唇を寄せ――
「ま、まっへ、泉嬢!」
「嫌。もう、待てません」
 だって、美味しそうなんですもの。
 その干し肉……何より、あなた自身が、とても。
 全部、食べさせてください。
 焦る吐息すら極上の食と、薄く開いた唇が内へと招き、味わう舌が痺れを熱に変えて全身に巡らせる。
 あともう少し。
 重なる――――直前。
「んくっ……これ、シウォンの腕だよ!?」
「し……うぉん……?」
 お預けを喰らった気分で、もう少しで触れられそうだった赤い口を眺める。
 過ぎる、緑の鋭い視線。
「――――っ!!?」
 途端に我を取り戻した泉は、羞恥と後悔でワーズから飛び退いた。
 一瞬、本気で誰だか分からなかった名は、宿敵であるはずのランを助け、腕を失った人狼のモノ。
 しかも、直前にはワーズの姿を目撃していた泉。
 訳合って泉はその場を離れたため、千切れた腕の行方は今日まで知らず。
 浮かぶのは、千切れた腕をそのまま自分の懐に納めた、黒一色の姿。
「な……んで、そんなもの、食べてるんです……か?」
 茫然自失のていで尋ねたなら、ワーズがへらりと引き攣り笑った。
「あの、ね? 泉嬢? 前にも言ったけど、奇人街じゃ住人は立派な食物なんだよ? ね、意地悪で言ってないって分かったでしょ?」
「だ、だからって……知り合いの、腕を? もしかして、あの時拾って……?」
 続く言葉はない。
 あの大変な時に、食べる目的で拾ったのかと、尋ねる意は声に含めていたから。
 これを汲んだ様子で、ワーズはいつものように笑い。
「うん、そう。ボクは食べたね」
 戸惑う泉にけろりと応じた。
 束の間揺れるこげ茶の瞳。
 ワーズの首へ回した腕が力を緩めたなら、白い左手が頬に触れる。
「泉嬢、覚えておいて? 奇人街の常識は人間にも当て嵌まるってこと。そして――」
 ――奇人街産の食物は、何でも美味しいんだってことを……
 囁きは、頬から顎へ伝う指により開かれた下唇、隙間をぬって口内に広がる。
 吐息だけを絡めて味わえば、美味なる肉の芳香が漂い。
「っ……」
 混沌と交わす視界が怯むなり、白い手が離れていった。
 合わせ、糸が切れた操り人形のように首へ回していた腕が落ち、黒い肩に泉の額が押し付けられる。
 荒い息が寝間着の肩を上下させても、黒い腕は支えもせず横に垂れたまま。
 泉は見開いた眼で黒衣を見つめ。
 冷ややかな温もりが残る下唇を噛み。
 きつく、目を閉じた。
 億劫そうにワーズの両肩へ手を置いては。
「くっ」
 一気に自分の身体をワーズから離し、立ち上がった。
 よろけつ、開いた目の先には、小首を傾げて微笑する白い面。
「――――ううっ……」
 泣きたい気分で、獣の呻きを零しては、ワーズ横の壁に向かい合い。
「泉嬢――」
「りゃっ!――――ぁだっ」
 真正面のソレへ、己の額を力強く打ち付けた。
「い、泉嬢!? 何してんのさ、君!?」
 慌てて椅子を離れる後ろの気配。
 涙目で壁を睨みつけた泉は、両手をそこへ叩きつけ、ワーズに静止を訴える。
「いいんです! 止めないで下さい! 私は今、自己嫌悪の真っ最中なんです!」
「自己嫌悪って……腕のことかい?」
「それもあります! だって、美味しそうとか、思いたくないのに思ってしまって」
 戸惑う空気を感じたなら、忌々しい結論へ至った額を壁に詰りつける泉。
「いや、それはボクのせいでしょ? 君が嫌うなら自分じゃなくて」
「いいえ! 美味しそうって思ったのは私の判断です。誰がどうかなんて関係ありません。しかも、ワーズさんは止めてくれたのに、あんな……あ、あああああんなっっ!!」
 思い出すのは、先程、自身が取っていた体勢。
 泉は壁にぶつけるべく、頭を大きく振りかぶった。
 そうすることによって、よからぬ過去の情景を消し去ろうとし。
「ちょっ!? い、泉嬢! 流石にソレは痛いから!」
 仰け反った身体が後ろから羽交い絞めにされた。
 背中に感じるワーズの体温へ、高鳴る胸はあれど、凌駕する意思が手足をばたつかせ。
「後生です、ワーズさん! 離してください!」
「放したら、打ち付けるつもりだよね? 折角、治ってきた身体を痛めつける真似、このボクが許す訳ないでしょ?」
「いーんです! ワーズさんの許しなんか要りません! ワーズさんは人間好きで、人間の意思を尊重するんでしょう!? 死のうとしているんじゃないんですから、離してください!!」
「駄目だってば! 幾ら自分の力とはいえ、打ち所次第では死んじゃうかもしれない! 大体、君の身体は君一人のモノじゃないでしょ!?」
「!? な、なに、変な事言ってるんですか!? 在らぬ誤解をご近所さんに――――おわっ!?」
 ワーズの思わぬ発言を受け、バランスを崩した泉は、足を滑らせて後方に倒れ込む。
 受け止めた黒い胸は、倒れた身体を留めきれず、共に倒れていった。
「ぅげろ」
 変な声で、泉の下敷きになったワーズが鳴いた。
 反射で慌てて起き上がろうとした泉は、これを追う腕と身体により、座る彼の胸へと閉じ込められてしまう。
 盛大な咳が頭上を通る最中、与えられた暗闇に縮まった泉は赤面硬直を始め。
「い、泉嬢――ぅげふ……お、落ち着いた、かな?」
 症状が軽減されたとはいえ、この状態では、たとえ平時の自分だったとしても落ち着けない。
 馬鹿正直に、落ち着けるものか、と首だけを泉が振ったなら、身体に回された腕の締め付けが増した。
 先程より密着する格好に、壁へ打ち付けた以上の衝撃が、泉の頭を襲った。
 そんな内情なぞ露知らず、甲斐性無しのワーズは、乱れた泉のクセ毛を柔らかく梳き。
「泉嬢はボクのモノなんだから。たとえ傷つける相手が君自身だったとしても、ボクはそれを止めるよ」
 疲労感満載の溜息が微かな笑いと零され、くたびれた様子の顎が泉の頭に乗っかった。
 次いで、薄い唇が髪に埋められるようにして、頭へと落とされる。
「泉嬢。傷つけたいならボクにして。すぐ、外に出して? 内側に封じ込めてしまったら、堰が決壊するまで誰も気付けない。……ココは、奇人街なんだ」
 深く染み込ませるような声音が、頭蓋を揺らす振動となって届いた。
 聞き入る泉の熱はそちらへ向けられ、続くワーズの言葉をはっきりした意識が捉える。
「あの場所に居た時のように、自分を抑える必要はないんだよ。不平不満も口にせず、普通を演じる必要もない」
「ワーズ、さん……?」
 言われた事を理解するまで数秒かかった。
 そろそろと泉が顔を上げれば、至近にへらりとした赤い笑みがあり。
「どう……して…………?」
 続く問いかけは。
「あの、お取り込み中のトコ、済みませんけど」
 がらりと開いたガラス戸の向こう、そんな呼び掛けで遮られてしまう。

 

 


UP 2009/3/16 かなぶん

修正 2012/8/9

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