妖精の章 六十

 

 芥屋の従業員が女であれば誘い、飽いては腸を食らう。

 そんな曰くつきの男は、会えばいつも泉を時に強引に、時に甘く誘ってきた。
 それはそれは、特別感溢れる接し方であり、泉とて揺らいだ覚えは幾つもある。
 しかし一方で、シウォンの誘いには常に手練れの印象が付き纏う。
 見目麗しい女たちを侍らせていたのも、少なからず影響しているだろう。簡単には靡きそうにない彼女たちがシウォンを恋い慕う様は、そのまま彼の性質をよく表しているように思えた。
 シウォンという男にとって女へかける誘いなど、戯れの内に過ぎない、と。
 現に泉は、芥屋の従業員だからこそ誘われ、猫との繋がりを見い出されては、それが目的で妻に望まれたのだと頑なに信じてきた。
 まさか本当に、泉目当てで口説かれているとは、夢にも思っていなかったのだ。
 ――今までは。
(いや、今でも十分、半信半疑ではあるのだけれど)
 こうして二人きり、交わす言葉の端々に寄せられる想いを聞いても、泉の実感は乏しい。
 昔からシウォンを知る者たちやニアから、彼の好意が本物だと聞かされた手前、頭から否定することはなくなったが、未だ困惑の方が強かった。
(そもそも、私を好きっていつから? シウォンさんって最初からこんな感じよね?)
 知り合って当初よりは、今の方が心持ち柔らかい口調になっている気もするが、泉自身の慣れも手伝ってのことと思えば、微々たる変化でしかない。
 いくら考えたところで、シウォンに好かれる理由も、いつから好かれていたかも判別できない。
 だが、一つだけ、これだけははっきりと分かっていることがある。

 シウォンの想いに応じる気持ちは、自分にはない――と。

 彼の容姿や言動に、見惚れたり、頬が熱くなったことはままあった。
 だが、そこから発展するような思いを抱いたことは、一度としてない。
(本当にシウォンさんが気になるなら、恋腐魚のせいでワーズさんに……べ、べったりだった時みたいになるんじゃないかしら? 方向性も程度もおかしいけど、たぶんあんな感じに。もしくは――)
 遠い暗がりに投影するのは、魅せられた桜の光景。
 一瞬の邂逅だったにも関わらず、思い浮かべただけで鮮やかに記憶が蘇っていく。
 あの時の感覚こそ、恋と呼ぶに相応しいだろう。
 確かに口にした、けれど憶えのない言葉を想えば、なおさら胸が苦しくなる。
 もう一度、言いたいとさえ思う。
 呼びたい、逢いたいとさえ――
(…………? 呼ぶ? 逢う?……誰を? 誰と?)
 ふわり、他のどこでもない、自分の内から浮かんできた想いに、泉は瞳を瞬かせた。
 けれど自問に対する答えはなく、それどこか浮かんだ想い自体が幻だったのでは、という疑いに駆られてしまう。
(ううん。そんなはずない。絶対に、私は知っている。分かっているはずよ。だから言葉に出来た……誰かの、名前を)
 気のせいで片付けようとする自身の奇妙な感覚に、言い聞かせるように断言する。追求が出来ない代わりに、誰かの名を呼んだ事実を自らに引き留める。
 そうして無事、捻じ曲げようとする自身に打ち克った泉は、奇妙な疲労感にため息をついた。
 いっそ、もう一度シウォンに聞けば、答えはすぐに出るのかもしれない。
 そう思う一方で、さすがにもう聞くことは出来ないと諦める。
 桜の話を出してから、シウォンが本性を殺す煙を吸い続けているため――だけではない。
 こんな風に冷静になってしまったなら、好意を寄せてくる者へ、自分が恋に近い感情を寄せているらしい何者かの名前など、気安く聞けるはずがなかった。
 ついでに言えば、現状、その手の話はナシだとも思う。
(もしもそんな、シウォンさんへの返事を言わなければいけない状況になったら――)
 正直に言えば、当然、身の保障はないだろう。
 かといって、嘘を言えばその場しのぎになる――訳がない。
 打算的かもしれないと思いながらも、我が身可愛さから恋愛話は知らぬ存ぜぬで通そうと、こっそり決意する泉。
(今までだって、似たようなものだったし、大丈夫よね。差と言ったら、シウォンさんが私のことをどう思っているか、気づいているかいないか、なんだから。……少しだけ、私らしくない反応になっても、きっと、大丈――)
「……らしくねえ」
「ぅ……?」
 不意にかけられたシウォンの言葉にドキリとする。
 まるで見透かされたような錯覚に陥り、また考えを声に出していただろうかと慌ててそちらを見れば、柔らかな流し目に迎えられた。思ってもみないソレを真正面から受けた胸が、不用意に高鳴ってしまう。
 反面、内心は冷や汗がダラダラ流れていた。
「ら、らしくないって、何が、ですか?」
 隠しきれない動揺が思いっきり上ずった声に出る。
 これへククッと笑ったシウォンは、穏やかな空気を壊さずに言う。
「無論、俺自身のことだ。こうしてお前と二人きりだというのに、どうでもいい話ばかりしているだろ? しかも、それを悪くねぇと思ってんだぜ? この俺が」
「は、はあ……そうでしたか」
 どうやらシウォンの色香に充てられた赤みのお陰で、こちらの動揺は別の物として捉えてくれたらしい。
 篭った熱と共に息をつけば、視線を外したシウォンが紫煙を燻らせる。
「だが、お前もらしくねえよな。……言うのも癪だが、お前の性格なら心配の一つでも口にしているはずだろう? 人間どもや他の奴ら、それに、ワーズの野郎とかな」
「そう、ですね……」
 思い更けるように鈍い動きで、シウォンから目を逸らした泉は、自身を落ち着ける傍ら、見据えた正面に変動直前の光景を思い出す。

 ――妖精だ!
 誰かがそう叫び、周囲が騒がしくなる合間を縫って、ワーズが「木に登るんだ!」と叫ぶ。
 これに押されるようにして近くの木へ向かいかけた泉は、視界の端に動かない黒一色を見つけ、こげ茶の目を見開いた。悠長に留まる彼に驚いてのことではない。
 その背後、秋に色づく草木から滲むように、真っ黒な姿が次から次へと現れたためだ。
 一見するとおとぎ話に出てくる、外套を羽織る腰の曲がった魔女のような姿は、ワーズ以上に黒に塗り固められており、色彩豊かな秋の風景の中にあっては、より一層不気味に映る。
 初めて見る姿だが、動きに併せてざりざりと鳴る音に、これが妖精だと理解した泉は、それと同時に悲鳴に近い声で叫んだ。
「ワーズさん――っ!」
 逃げて、と続くはずだった言葉は、途中で呑み込まれた。
 泉に気付いたワーズが、困ったように笑ったために。
 まずいところを見られた時のような、けれども仕方ないと言うような、諦観の笑み。
(え、どういう?)
 呆気に取られた泉が目を見開けば、その間にてっきりワーズを襲うと思われた妖精が、彼の横を素通りし、一直線にこちらへ向かってくる。
「泉、逃げろ!」
 緊迫した誰かの鋭い声に、意識が目前に迫る妖精へ戻り、いち早く行動に移した足が、声の主へ向けて駆け出す。
 しかし、泉の目は妖精を通り越し、へらりと笑う男だけを見つめていた。外套を広げるように妖精の影が広がっても、ただ一人、ぽつんと立つ黒一色がシルクハットを目深に被り直す姿だけを――。
「ぐえっ」
 それが悪かったのか、不意に襲ってきた背中の衝撃に、潰された肺から少女らしからぬ呻きが漏れた。お陰で妖精からは逃れられたものの、何がと視線だけ後ろへやれば、影の虎の顔が背中に埋まっている。
 落ちないスピードと、迫る木の上から伸ばされる竹平の手に、猫の考えを察した泉は木へと手を伸ばし――

 今に至る。

(別に、心配していないわけじゃない……ただ)
 横を一瞥し、引き寄せた襟元へ吐息を零す。
 シウォンの前で彼らのことを語らなかったのは、ただ単にシウォンと彼らに接点がなかったためだ。正確には、心配を口にして案じが先に来る、そんな接点が、彼と彼らには、一切ない。
(それに、言ったところで、シウォンさんから言われることは、なんとなく分かるもの)
 欠伸をしながら語られた、売られた者の末路。
 殺めた後悔さえ「お人好し」と断じ、許さぬ姿。
 奇人街という場所柄、彼のその姿勢は正しいのだろうが、だからこそ、泉が彼に語れる他者への心配はない。
 それでもこうして聞かれたなら、答えない訳にもいかないだろう。
 答えられない話が別にあるなら、なおの事。
「心配……ないわけではない、ですけど。たぶん、皆さん無事だと思うんです」
 竹平が手を伸ばした時、傍には美津子の姿もあったように思う。ワーズが木に登るように言い、実行した二人ならば、きっと変動を切り抜けられたに違いない。
 人間たちがそうであるなら、奇人街を生き抜いている他の者たちに、泉が心配する余地はなかった。万が一、変動に巻き込まれていたとしても、切り抜けられない想像の方が難しい。
 猫が相手なら、なおさらだ。繋がりにより猫の全てを把握できる、という訳でもないが、無事であることは他の誰よりも確信できた。
 そして――ワーズ。
(妖精が素通りしたことには驚いてしまったけれど……もしかしたら、騒山生まれだったことと関係があるのかもしれない。変動もきっと、ワーズさんなら――)
 泉はそう思う反面で、ワーズ自身はそんな理解を望んではいないだろうとも思う。「一応、人間」と名乗り、徹底して人間にこだわる彼が、人間には到底できぬ芸当を喜ぶはずもない。
(それでもたぶん、ワーズさんは聞けば答えてくれるよね。物凄く嫌そうな顔で、かいつまんで、だろうけど)
 想像したなら鮮明に描けるワーズの様子に、思わず口元が綻ぶ。
 すると、
「嬉しそうだな」
「へ?」
 シウォンの声に目をぱちくり、そちらを見れば、面白くなさそうな顔とかち合った。
「そんなお前に更なる朗報をやろうか? 妖精は性質上、変動の影響をもろに受ける。ゆえに、奴らが留まった場所からは消え失せている、というわけだ」
 終始面倒臭そうに語り、最後は「どうだ?」と言わんばかりの皮肉な笑みで閉める。
 シウォンの言う朗報は、確かに朗報ではあったが、どういう反応を返すのが正しいのか分からず、泉はとりあえず礼だけ述べてみた。
「はあ、ありがとうございます」
「……妖精が活動できる範囲については聞いているか?」
 どうやら外したらしい。
 途端にムスッとした表情に戻ったシウォンが、煙管を吹かしながら別の話題を振ってきた。無理やり話を変えたというよりも、何かしら泉から引き出したいものがあるような雰囲気に、少しだけ警戒しつつ首を振る。
「え? いえ、特には。ワーズさんからは回避しかできないってことくらいしか」
「そうか。奴の説明不足は相変わらず健在な訳だ」
(何かしら? シウォンさん、どことなく嬉しそう)
 嘲るような言葉だが、吸い口に口付ける仕草には喜色が滲んでいた。
 言葉をそのまま受け取るならば、ワーズの健在を歓迎しているようだが、さすがにそれはないだろう。なればこそ、先程から判別しないシウォンの様子に泉は内心で首を傾げ、シウォンは打って変わった楽しそうな顔で話を続ける。
「妖精の活動は四季で異なる。春に生じ、夏は影に潜む。秋に活発化し、冬に絶える。そして、どの季節であろうとも妖精が動けるのは日中だけで、夜は休眠する」
「へー、そうなんですね。シウォンさんって、妖精博士か研究者なんですか?」
「何だそりゃ。まあ、奇人街でも一般常識って訳じゃねぇが、それなりに生きてりゃ耳に入ってくる情報ってのがあるからな」
 泉の感心には呆れながらも、満更でもない様子で悦に入るシウォン。
 彼の言う「それなり」の時間がどのくらいを指すのか、泉には全く分からないが、この言い方から察するに、妖精の活動範囲は昔から決まっているものらしい。
(春に生じて、冬に絶える……妖精って、一年草か越冬できない虫みたい)
 目にした妖精の姿は影そのものであり、無意識に実体のない存在と考えていた。それが意外にも生物らしい営みをしていることを知り、なんとなくほっとする。
 それはそれとして、今聞いた話と昨日聞いた変動の有り様を併せて整理すれば、ワーズ達とこちらの双方ともに、現時点での妖精の脅威は考えなくて良いということになる。変動により季節が一つ巻き戻るなら、秋だったあの場所は夏、こちらは冬。たとえ今が日中だったとしても、どちらも妖精が活動できる季節ではない。
 思わぬところで得られた情報に良かったと思う傍ら、泉は別件にも活路を見い出した。
(この調子なら大丈夫そう。このままの状態なら……たぶん、一晩くらいは、きっと)
 二人きりという事実が変わらない限り、危険は付き纏う。
 だが、今のような会話を続けていれば、当面は変な緊張状態になることなく過ごせるはずだ。この際、シウォンを教師役に、奇人街のことをあれこれ聞いてみるのも良いかもしれない。
(シウォンさんだって、どうでもいい話してるけど悪くないって言っていたし、これなら!)
 光明を見た気分で、早速何を聞くかを考える泉。
 すると程なく、話題はシウォンから、思ってもみない方向で訪れた。
「そういや、俺の腕は美味かったか?」
「……はい?」
 何の脈絡もなく投げられたソレ。
 理解する以前の話に思いっきり泉の眉が寄った。
 何を言っているんだと正気を疑う目で見たなら、何故かほんのり頬を染めている美丈夫。
 今の言葉のどこにそういう空気になるのか分からず、穴が開くのではないかというほど不躾にじろじろと見つめる。いや、睨み付けると言った方が正しいかもしれない。
「あの、すみません、ちょっと意味が」
「んん? ワーズの野郎から聞いてねぇのか? お前を危険に晒した詫びとして、俺の腕を喰わせてやれと一筆書いたんだが。人狼の肉は少しばかりクセはあるが、それなりに滋養があるというからな。干し肉として喰うのが一般的だが、幽鬼の血肉と併せて煮込めば、もっと効果が上がると――」
「いえ、そうではなくてですね」
 歌うような朗らかさで、実に楽しそうに自分の腕の調理法を語るシウォン。
 色々間違っている気がしてならない話を強引に断ち切ったなら、シウォンが不思議そうな顔をした。
「うん? どうした?……もしや、口に合わなかったのか?」
「いえ、そこでもなくて、ですねっ」
 ともすれば、「不味くて、すまん」と続きそうなうなだれ具合に、思わず立ち上がった泉は、それでも行き場のない感情を持て余し、両手を意味なく動かした。
「なんで、私が食べている前提の話なんですかっ!? どうして私がシウォンさんの腕を食べなきゃならないんです!?」
「そりゃお前――いや待て、もしかして喰ってないのか?」
「もしかしても何も、私には食べる気なんかありませんよ! 第一、シウォンさんの腕ならワーズさんがとっくに――っとと」
 恋腐魚の効果で危うく食べかけたものの、シウォンの腕と聞いては正気に戻ったのだ。だというのに、食べること自体を期待されていた様子に動揺した泉は、冗談じゃないと腕の行方を語りかけ、それはそれでおぞましいと慌てて口を塞いだ。
「ワーズ、だと? あの野郎、どこまでも俺の邪魔をしやがって」
「じゃ、邪魔って……どうしてそんなに……」
 いや、そもそもそういう問題なのだろうか。
 煙管を咥え、悔しさを多分に滲ませた拳を地面に叩きつける姿には、喰われたことへの恐れも怒りもないようである。
 これが泉だったら、十中八九、そんな相手には恐怖と怖気しか感じないところだ。
 しかし、やはりシウォンが問題にしているところはそこではないようで、再び煙管を手に取り煙を吐いた美丈夫は、苛立ち混じりの視線を泉へ投げてくる。
「どうして、だ? んなもん、決まってるじゃねぇか。千切れた己の一部、好いた女以外の誰に喰わせたいと思う?」
(思う? って、聞かれましても……)
 どうやら奇人街において、自分の血肉を食べさせることは、そういう意味を持つらしい。
 出来ることなら知りたくなかった話に、泉は口の端を引きつらせながらも小さく手を挙げ、心からの本音を告げた。
「すみません、シウォンさんがどうとかいう以前に、そういう発想、私はナシです」
「……そう、か」
 もしもここでシウォンの姿が獣面だったなら、間違いなく耳が伏せられていただろう。そのくらい、明らかに落ち込んだ様子に泉は愕然とし、内心で頭を抱えた。
(一時でも奇人街に慣れてしまったなんて、思うんじゃなかった……!)
 よくよく思い起こせば、誰かの食卓に知り合いが食材として並ぶことなど、日常茶飯事の奇人街である。
 何をどうしたら慣れるというのだろうか。
 今更ながらの後悔を抱え、仰々しくため息をついた泉は、元の場所に座り直すと、はたと気付いて固まった。
(そうよ。シウォンさんは奇人街の人なんだもの。前に食べるって言われた時は後でからかっただけって言っていたけど、さっきの話だと……いや、でも)
 思わず襟元を掴んだ泉は、未だに落ち込んだ様子のシウォンを横からじーっと見つめる。
「……どうした?」
 この注視に気付かないはずもないシウォンは、顔を上げるなり泉の様子に眉を寄せた。
「あの、シウォンさん。私、食べるのはご免ですが、食べられるのはもっと嫌です」
「…………………………チッ」
(ど、どういう意味の舌打ち!?)
 さすがに声に出して、「こういう意味だ」と実践されては堪らない。
 言いたいことを胸に留めた泉は、少しだけシウォンから離れるべく、視線を左隣の地面へ向け、そこに左手を置いて移動する――

 一瞬の事だった。

「……え」
 体重を乗せた左手に、指に煙管を挟んだ手が被さる。
 突然のことに驚き、慌てて右を向けば、至近の緑に射竦められた。
「あの、シウォン、さん……?」
 どうにか引っ張り出した声で名を呼べば、雪玉の光を背後にした陰りの中で、より輝く瞳がくるりと揺れた。
「今のは、どういう意味だ? 言葉のままか?」
「い、今のって……」
 囁くような低音が唇を弄るように問う。
 これにより、自身の吐息も同じように相手に掛かっているのだと下手に意識してしまった泉は、逃れるべく身を捩った。しかしシウォンは許さず、その分を詰めるように右腕と岩壁の間へ泉の身体を固定すると、更に密着する形で問う。
「喰いたくねぇ、喰われたくねぇってのは、血肉のことだけかと聞いている。……それとも、俺自身を拒むということか?」
「そ、れは……ひゃいっ!?」
 返事をしてはいけないと、別の話題を探して目線を外したなら、左の顎下から頬にかけてを艶めかしい舌が這う。不快とは言い切れない感触に肌を泡立て、眦に涙を溜めた泉は、抗議を口にしようとシウォンを睨みつけるが、勝る強い眼差しに喉を詰まらせた。
「逸らすな。……いや、逸らしてもいいぞ? その分、気を引かせて貰うがな」
「っ!」
 ニヤリと笑んだ唇を舐める死角で、左手を覆う手が、甲を包み込むように形を変え、指を絡ませていく。
 そのどちらもが、煽情的に感じられる中で、否応なく羞恥から頬を染めた泉は、目を逸らさずシウォンへ訴えた。
「い、いきなり何なんですか!? さ、さっきまで、話すだけも悪くないって!」
「らしくねぇとも言ったよな? それにやはり、こちらの方が俺らしい。お前と二人きりで手を出さん方がどうかしている。そう思わんか、んん?」
「そ、そんなことっ」
「あるだろ、泉。俺たちの関係は、どうせ最後にはこうして添うことになるんだ。会えばこうして肌を触れ合わせ、舌を這わせ……」
「それはシウォンさんだけで、私を一緒にしないでくだ――やっ!」
 否定を叫んだところで、頬にしっとりと落とされる口づけ。
 話を聞かず押し進める様子に、危機感と腹立たしさを抱いた泉は、顔を青くしながらも怒気混じりにはっきりと告げた。
 シウォンが望む、己の気持ちとやらを。
「私はっ……私には、あなたの気持ちに応えるつもりはありません」
 それでもいくらか語気を鎮めたのは、泉なりに真摯に答えようとしたため。こんな目にあっても、未だそこまでの悪感情を持てずにいる相手への、せめてもの礼儀のつもりであった。
「あなたが私をどう想おうと、この気持ちに変わりは――」
「……上等だ」
 だが、シウォンは途中で遮ると、これまでよりも一層強い、なおかつ感情の読めない視線を向けてくる。
 熱病に侵されたように潤む緑の奥に燻る、得体の知れない何か。
「シウォン、さん……?」
 今まで感じたことのないソレに、泉は純粋な恐怖を抱く。
 限られた中で頭を岩壁へ摺り寄せれば、これを一気に詰めたシウォンが言う。
 今にも唇が触れ合うような距離で、歪な笑いを含ませながら。
「試してやるさ、何度でも。ここにいるのはお前と俺の二人だけ。変わらない? たかが小娘風情がこの俺の前で、いつまで意固地になれるか。……見物だな」
「!」
「お前が俺をどう想おうと知ったことか。俺はお前を愛し続ける。この想いは生涯変わらん」
 ぞっとするほど低い声はいたぶるようにそう宣言し、震える泉の唇へ、甘く告げる。
「俺を……存分に味わってくれ、泉」
 熱い吐息が唇を擽り、緑の歪な揺らぎが妖艶に弧を描く。
 泉は魅入られたように目を逸らせず、せめてもの抵抗に自由な右手で男の胸を掻くが、制止に及ぶはずもなく――

 

 


UP 2018/4/13 かなぶん

訂正 2019/05/22

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