妖精の章 六十三

 

 後ろ手に掴むはずだった布はそこになく、宙を握り締める。
 これに僅かばかり目を見開いたなら、一瞬の浮遊感。
 終えて再び着いた地面に、常人であれば崩れる態勢をいとも容易く整えた史歩は、昼間から一変した暗闇を睥睨する。
(変動……か。久しぶりに巻き込まれたな。しかし、暗い)
 いくら待っても闇に慣れない目に、どうやらどこかの洞窟に飛ばされたと推測する。
 せめてもの救いは、一方向から流れてくる風から、閉ざされた空間ではないと分かることくらいか。
(いや、楽観できる風でもないか。かなり冷たい……冬山か? だが、あの冬にしては妙な温さがある)
 基本的に、騒山を構成する四つの山は季節の進みを一にする。
 これは季節を狂わせる変動を経ても変わらない、騒山においての常識である。
 例えば、直前まで居た場所が初夏で、飛ばされた場所が冬山だった場合、その季節の進みは初冬となる、といった具合に。
 しかし、史歩が今し方感じ取った風は、ここが冬山と仮定するなら、異常な程冷たさが足りなかった。
 史歩が変動前に居た秋山は、紅葉具合から察するに秋真っただ中。
 真冬の山の風に、こんな温さが混じるはずもない。
(かといって、他の季節にこの冷たさはありえん。それにこの匂い……)
 悪臭とは違う、温い空気に混じる濃厚な匂い。
 誰人も立ち入らない、森林の奥深くを想像させる、植物と土、水と影が入り混じったソレ。
 光のない洞窟で嗅ぐには些か不自然な匂いだが、史歩にはコレを発するモノに心当たりがあった。
(考えられる可能性は一つ、か)
 どれだけ神経を研ぎ澄ましても、脅威を感じ得ない暗闇にあって、それでも抜身を鞘に納めず、気を緩めることもない史歩は、空いている左の手の平を胸の前で上に向ける。
(……エン(煙)の奴、どこに飛ばされたか)
 束の間、掴み損ねた布の主に思いを馳せ、拳を握り締める。
 変動直前、綺麗に顔面からすっ転んだ医者は、妖精(ヤオシン)への牽制虚しく、勝手に史歩の手を離れてしまっていた。一応の義理で手を伸ばしたものの、この通り、変動に巻き込まれた拳の中には何も残っていない。
 せめて、指の一本でもエンの襟首にかかっていたなら、同じ場所に飛ばされたのだが。
(まあ、どこに飛ばされようともエンは無事だろう。妖精相手に立ち回るには些か心許ないが、アレで奴は山を熟知している。変動程度でくたばるとは思えん)
 エンが扱う薬品は、材料の大半をエン自身が騒山で仕入れている。
 息をするように詐欺が横行する奇人街では、そうでもしなければまともな材料が揃わないせいだが、それゆえにエンは幾度となく騒山に登っていると聞く。
 己の庭と評しても過言ではないほど通うエンに、案じなど無用だ。
 いや、元より知人程度、手の届く範囲にもない相手を、長々思える史歩ではない。
 あっさり気持ちを切り替えては、どことも知れない方角を警戒しつつ、言葉を紡ぐ。
『光蛍――主神の命、焔より生ずる鮮烈の玉、御身、我が祈り、聞き届け給え。か弱き神子を導き給え』
 静かに吐かれた声が途切れ、それと同時に史歩の左手から小さな光の粒が浮遊する。
 頼りない動き、儚い光だが、暗闇を照らすに十分な光量は、史歩の目の前に周囲の状況を浮かび上がらせた。
 白い光が見出したところで色の乏しいこの場所は、やはり洞窟のようだ。
 秋山の極採色とは無縁の空間には、灰色の岩壁と暗色の地面が続き、所々には壁と同じ色の岩が、大小様々に転がっている。
 ただし、広さは想定を上回り、壁側に近い位置を背にする史歩から見て、前には光の届かない闇があり、左右にも同様の闇が続いている。辛うじて光の届く天井も、見える分だけ高さが際立った。
 よくよく目を凝らせば、左右の闇にはそれぞれ、更に濃い部分が丸い穴を穿つように存在しており、洞窟全体がこの規模というより、ここが特別広い造りをしているのかもしれない。
 だが、明らかになった光景に史歩が柳眉を顰めたのは、この広さが原因ではなかった。
 地面と言わず、壁と言わず、天井すら問わず。
 史歩が這わせる視線のそこかしこに存在する、泥のような物質。
 宙を浮遊する小さな光を、水面に落ちる月光の如く反射するソレは、しかし、水とは決定的に異なる動きを見せていた。
 ――そう、「動いて」いるのだ。
 光が届く範囲の中だけでも、無数に散らばる泥の塊、そのどれもが絶えず蠢いている。
 意思があるのかないのか、まるで分からない異質な泥は、史歩の視界のあちこちで、光の下、あるいは薄闇の中、不規則に波打つ。
(鬱陶しい)
 同じ年頃の娘、例えば泉であれば不気味と感じ、恐れを抱くであろう光景を、そう切り捨てた史歩は、一通り見渡した視線を再び己の前方へと投じた。
 いいだけ飛び散ったていの泥だが、史歩の側に行くほど付着は小さく、逆に史歩が睨みつける前方の物ほど大きな塊になっている。
 だからこそ、史歩は刃のように鋭い眼光をそちらへと向け、その思考に添うべく小さな光がのろのろと移動していく。
 途中、丸みを帯びた、なだらかな坂が現れたなら、その分高度を上げて光は進む。
 やがて、史歩の見つめる先の全てが光の下に晒され、露わになる、ソレ。
 飛び散った泥と同じモノを所々抉れた箇所から蠢かせる、虫の複眼を髣髴とさせる深緑に覆われた、歪な物体。
(……やはり、山の主)
 何、という表現も出来ない外見のソレを、史歩は迷うことなく騒山で幾度となくやり過ごして来た山の主と判じた。
 元々、四つの山にそれぞれいる山の主は、同じ性質を持つ反面どれも似ない、そしてやはり何と表す事の出来ない姿形をしている。しかし、目の前で、状況から「倒れている」と思われるコレは、史歩が知る山の主のどれにも該当しない容姿をしていた。
 だというのに、史歩がコレを山の主と言い切れるのは、暗闇の中で感じていた、冬山にない温さと一向に薄くならない濃い森林の匂いゆえ。
 そして、もう一つ。
 現状から測れることが、史歩にはあった。
(不死の山の主をして、ここまで動きを封じる手合い……なるほど?“奴”が奥の山を目指したか)
 奇人街において三凶と呼ばれる史歩、その史歩をしてもやり過ごすのがやっとの山の主を、ただ蠢くだけの肉塊に留め置ける者――
 該当する人物は、史歩の知る限り一人だけ。
(……飛び散った角度から見て、奥の山はあっちか。変動後ならば秋山……さすがにソレはないと思うが、まるで変動が“奴”に合わせたようだな)
 詳細は知らないが、以前、“奴”本人の口から、奥の山の秋には並みならない想いを抱いている事は聞いていた。
「…………チッ」
 ついでにソレを聞かされた時を思い出した史歩は、忌々しいと舌打ちをする――
 直後。
「!」
 山の主の抉られた部位から、泥が大きく脈打った。
 史歩は、発した声に反応したのかと己の迂闊さを呪ったが、薄闇を探るように睨みつけた目は、別の理由を映し出す。

 脈打つ泥が柱状に伸びた先、山の主に群がるようにして飛ぶ、蛾の集団。

 泥の柱は山の主からだけではなく、山の主の近い泥の塊からも伸びており、蛾を捕らえてはその中に引きずり込むを無機質に繰り返している。
 捕食――
 考えるまでもなく、傷ついた身体を修復するための行動なのだろうが。
(……不味いな)
 蛾を捕らえる泥の柱は、史歩からはまだ遠い位置だが、伸びる回数に比例して近づいているのは確かだ。
 そしてその速度は、徐々に増してきている。
 史歩の舌打ち、これに真実気付いた蛾が、がむしゃらにこちらを目指すがために。
 今もって周囲を淡く照らす小さな光や、これを喚ぶための言葉に蛾が気づかなかったのは、元々使用者以外に見えない光の特性と、この世界にない発声法のため。
 だが、あれだけ気を張り詰めていた史歩が、この量の蛾に気付かなかったのは何故か。
 不審な泥が周囲に蠢いているせいで、見落としたか。
 あるいは蛾の鱗粉により、知覚を狂わされていたか。
 どちらにせよ、意識すれば小さくも耳障りな高い音は、前方から無数に、真っすぐ発せられている。
(チッ、面倒な)
 明らかに自分に向けられていると分かる音に、今度は胸内だけで舌打ちをする。
 一体一体では気にも留めないソレは、蛾が特定の時に発する鳴き声だ。
 空腹を満たせる獲物を見つけたと、喜び勇んで飛びつく声。
 状況から推察するに、この蛾の群れは越冬するために洞窟に潜んだのだろう。そして、この状態の山の主を見つけ、喰おうとしたか、暖を取ろうとした。そこへ響いたのが、史歩の舌打ち。かくして蛾は、確実に喰える方へと興味を移した、といったところか。
(ついでに、この蛾の声で山の主の本体が覚醒してしまった、と。冷静に分析している場合ではないが……)
 通常であれば、蛾がどれだけ群れをなそうとも、史歩の臆するところではない。
 刀で迎え撃つことも、巫術で滅ぼすことも容易だ。
 だが、山の主が覚醒した今、ヘタに動けば周囲に散らばる泥が、蛾を取り込んだように史歩へ襲い掛かって来るのは明白。
 覚醒前から繰り返してきた呼吸や瞬きが感知されないのは不幸中の幸いだが、濃厚な深緑の気配の中では、指の一つも動かすことは許されない。看過されない。
 山の主とは、そういう存在だった。
(一か八か、やるしかないか)
 どの道、このままでは蛾に喰われるか、糧として泥に取り込まれるかの二択。
 次々上がる泥の柱を前にして、意を決した史歩は心の中で小さい光を招いた。
(山の主……色から草木と見るには、ちと早計だが。弱っていると仮定すれば、あるいは。いや、効いて貰わねば)
 鳴らす喉も堪え、近づく泥の柱には注意を払いつつ、視界の左横へ移動した光へ。
(光蛍――主神の命、焔より生ずる鮮烈の玉、転身、蒼燕を乞う)
 祈りの言葉を心で告げたなら、終わりと同時に小さな光が渦巻き、青い炎を纏い始める。
 やがて、いつかの日、人魚を焼いた鳥の形へと転じた青い炎は、泥の柱へ向かって羽ばたこうとする。
 だが――。
(蒼燕……悪いが、焔へ)
「還れ!」
 一息に叫び動けば、周囲の泥から一斉に伸びる柱。
 長くなるにつれ、鋭い円錐へと形を変えた無数の先端が、史歩を貫こうと迫る。
 視界を狭めるそれらに、しかし史歩は怯まず、叫びと共に振り上げた抜身の切っ先で、青い炎の鳥の、彼女を守るべく向けられた小さな背中を切り裂いた。
キイイイイイィィィィィィ――――!!
 途端、発せられる、洞窟全体を揺るがす音。
 小さな身体に見合わない壮絶な悲鳴は、犠牲も顧みず突き進んでいた蛾はもちろんのこと、聴覚のない泥の動きまでも、その場に留め置く。
 最中、唯一人、自らが起こす結果を予測していた史歩は、それでも断末魔の叫びには顔を顰めつつ、振り下ろした刀をすぐさま返すと、切っ先で地を突き刺した。流れる動きで、刀身の細い影に隠れるようにしゃがみ込んで身を寄せる。
 これとほぼ同時に、青い鳥の裂かれた箇所から溢れ出た白い炎が、血のように滴り落ち、地面を叩いたなら――

 閃光。
 轟音。
 次いで、無音――反し、叩きつけられる暴風。

「っっ!!」
 地に刺した刀を支えに目を瞑って頭を下げるが、眩い光は瞼越しの眼球を灼くほどに白く、無音の中、あらゆる方向から吹き荒ぶ風は、狂ったうねりを伴う。
 暴力的なそれらに史歩の息が詰まった。
 しかして、束の間の事。
 程なく閉ざした目に闇が届き、布を叩く風が凪いだなら、史歩は光に怯える己の瞼をゆっくりと開いた。
(…………どう、だ?)
 青い鳥――蒼燕の小さな身体には、史歩が「主神」と呼ぶ存在の力が満ち満ちている。
 反面、巫術として制御できる力は「主神」への信頼の度合いによって決まっており、史歩はコレを苦手としている。元々、頼る事を良しとしない性格だったこともあるだろうが、奇人街に来てからは、より一層「主神」と呼ぶ者への信頼が薄らいでいた。
 いや、正確には奇人街に向かう直前か。
 いずれにせよ、蒼燕本来の力は強くとも、史歩を介して行使されたなら、その威力は激減してしまう。当然のことながら、史歩の巫術には、得意の刀ですら抑えきれない山の主を退けられる力なぞない。例えそれが残骸であったとしても、敵わないことは史歩自身、重々承知していた。

 しかし、もし蒼燕の力が“何らか”の要因により、史歩を介さず発動出来たなら。

 白に眩んだ史歩の視界が最初に捉えたのは、変動直後に見た暗闇。
 これに目が馴染めば、これまでとはまるで違う景色が姿を現す。
 上下左右に散らばる泥はそのままに、その全ての上で揺らめく、青い焔。
 巨大な空洞の全貌を明らかにする青い炎の広がりは、史歩の前方を中心としており、史歩に近づくにつれて鮮やかさを増している。
(成功……いや、紙一重だったか)
 ――史歩の意向に添う手前で、蒼燕の身を裂く。
 これにより「主神」の力を暴走させた結果は、史歩の思惑通り、迫る蛾や泥の柱を、あるいは消滅させ、あるいは阻ませた、一方。
 術者の叛意に見境のなくなった力は、矛先を術者自身にも向けており、蒼燕の白い炎が落ちた場所を中心に、史歩を巻き込む形で周辺の地面が丸く抉り取られている。
 そんな中、史歩がしゃがみ込んだ地面だけが、抉られた丸の中にあって塔のように立ち、残っているのは、刃を蒼燕に向けて突き立てた刀のお陰だ。
 史歩の元居た場所でご神体として祀られていたこの刀は、「主神」の社にありながら、力の源を別としているそうで、あらゆるものを切り裂く性質を持つという。
 刀に関する知識は、史歩が一時師と仰いだ者の受け売りだが、暴走した強大な力さえ分断し、背後に控えた史歩を救った刀に寄せる信頼は、「主神」に向けるソレより厚い。
 かといって、少しでも動けば抉られた地面に習い、倒れるであろう足場では、次の行動に迷うところだ。
(倒れるのに合わせて、他へ飛び移ることは可能だが……幾ら燃えているとはいえ、あの泥に近づいて良いものか――っ!?)
 支えの一つになっている刀を抜くわけにもいかず、悩む史歩の視界で、青い炎が動く。
 不自然なソレに戦慄し、息を呑む史歩。
 先程にも増して身動きの取れない今、青い炎――いや、これを上に再び動き出した泥に対して、取れる打開策が何もない。
(チッ! 主神の力を持ってしても、一時怯ませる程度でしかないとは。森の主とはつくづく厄介な……うん?)
 この状態でも出来る事はないか、最後の最後まで諦めるつもりのない史歩は、ある事に気づくと訝し気に片眉を上げた。
 確かに、青い炎の下で動いてはいる泥。
 しかしその動きは緩慢で、青い炎を受けて無傷、という訳でもないことが分かる。
 何より、動きの目的も捕食時とは違い、地面を滑るように移動するものとなっていた。
 青い炎を背負う泥が、大小の違いもなく引き潮のように動き、目指し行くのは、史歩から遠い、山の主の本体。
(……効き目はあった、ということか。散開したままより、元の形を取ることで、青い炎の害を少なくしようと。いや、違うな)
 蒼燕の抉った地面を避けるように泥が動いたことで、通りがてら捕食されることもなかった史歩は、刀を抜くと同時に倒れる足場から泥の引いた地面に飛び移る。
 蛾の鳴き声や史歩の動きなど比にならない音が響くが、改めて見た青い炎の一団は、止まる様子もなく一ヶ所に集まっていく。
 これに対し、堅い地面へ無造作に刺しても、欠け一つ、傷一つない刀を一振り、鞘へと納めた史歩は、嘆息を一つ。
(効き目はあったが、害というほどではない。いや寧ろ、あの炎を喰うつもりか。泥では取り込めぬ、だが、山の主本体ならば)
 恐らく、この考えは間違いではない。
 証拠に、山の主に近づいた青い炎は途端に一度消え、また灯るを繰り返しているのだ。
 あれは貪欲な山の主が、自らの状態も顧みずに、青い炎という異質な力を取り込もうとし、失敗してはまた捕食する、を試みているのだろう。
 あの姿から元へ戻るのに、どれだけの糧が必要となるのかは分からないが、「主神」の青い炎が取り込めたなら、それは他と比べようもない馳走となるのは確か。
 と、史歩が見ている先で、青い炎が空洞の半分を埋め尽くしたなら、別の動きが山の主から起きた。
 反射で構える史歩だが、山の主から伸びた泥とは違う黒い何かは、こちらなどそもそも眼中にないようで、地面に転がった岩を引き寄せていく。
 一瞬、岩も山の主の食となるのかと目を見張る史歩。
 けれどもその考えは、視界が狭まり始めたことで、間違いだと知る。
(なるほど? この場所は“奴”が通る前、ただの通路だったわけか。つまり、この場所自体が、山の主の仕掛けた罠)
 少なくなる光量の中、遠くに見えていた左右の穴が、山の主が組み立てる岩壁により延伸し、こちらへと近づいてくる。このままいけば、丁度史歩のいる辺りで左右の穴から伸びた通路がつながるだろう。
 そうして出来た見せ掛けの通路で、本来ならば通行者を岩壁で圧死、あるいは捕らえて捕食する――それがここに座す山の主が作り出した罠。
 訪れるモノの少ない通路では、些か労力に見合わない気もするが、他の山の主の縄張りがもう少し広いことを鑑みれば、この罠は冬季限定だと考えられる。
 自身の熱でもって、寒さに震えるモノをおびき寄せ、喰らう。
 冬を迎えた山において獲物を探すのは、さしもの山の主も骨が折れるといったところか。
 見るともなしに造られていく通路を見る史歩の目に、蛾の数匹が映った。
 先程までの襲い掛かる様子とは違い、助けを乞うように向かってくる、儚くも愛らしいその姿。
 蛾の本質を知っていても、この容姿ゆえに飼う物好きもいる、そんな話をふと思い出す。
 しかし、史歩にとって蛾は、どこまでも害虫の域を出ないモノ。
 冷めた目で眺めていれば、青い炎の空間から蛾が脱する直前、岩壁が退路を断つように最後の穴を塞いだ。
 小さく、キィ……と鳴く声を聞いた気もするが、どうでもいい。
 通路がつながったことにより再び暗闇に包まれた史歩が、仕切り直すように「さて」と呟けば、仄かな明かりが灯った。
 史歩の肩口で乱切りされた髪、その左側。
 顎近くを垂れる髪の一筋の先端に、蝋燭のような青い明かりが一つ、灯っている。
「これは……」
(まだ、傍に在るというのか。私には……適う才などないというのに)
 蒼燕を斬りつけた時、史歩は覚悟していた。
 幾度となく史歩を助けた巫術との決別を。
 巫術において頼りにする主神に刃を向けるのだから、この先助力を求められなくなるのは当然だと。
 それなのに、青い炎は史歩の周囲を照らすように身に寄り添う。
「…………」
 この事実に言葉もなく、青い火へと手を翳せば、小さな明かりがふるりと揺れた。
 途端に伝わる、今はすっかり隠されてしまった空洞の様子。
(この炎が全て喰らい尽くされるまで、巫術は使えない、か。この明かりは目安。巫術が使えないひと時、神子を慰めるための……)
「……クッ」
 思わず喉を笑わせ、青い火を握り締める。
 一時的に暗くはなるものの、焼けもしない拳を開けば再び灯る明かりに、史歩は何とも言えない面持ちになった。
「私は、あの時から増して不信しか抱けぬというのに。主神、彼方様は――っ!!」
 呆れたような呟きは、微かに耳に届いた声により呑み込まれた。
 遠く、“奴”が向かった先とは逆方向から聞こえて来た、悲鳴のような声。
 それも、史歩が知る中でも、今、最も気にかけなければいけない――
(チッ、間に合うか!?)
 思うが否や地を蹴った史歩は、小さな明かりを頼りに、暗い洞窟内を駆け出した。

 

 


UP 2018/5/29 かなぶん

 

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