妖精の章 六十四

 

 制止の声を踏みつけるように押し倒された身体。
 抵抗を試みるよりも先に、両の手首が頭の上で一纏めに縫いつけられてしまう。
 片手だというのに、もがくことを許さない力は強く、骨が軋みを上げる。
 逃れるべく起き上がろうと足をばたつかせれば、跨がれた腹部に伝わる熱と圧。
「っ!? やめっ」
 異様なソレに零れた悲鳴は、伸し掛かる相手を怯ませるどころか、怯える目に映る唇をいやらしく歪めさせた。
 こちらの苦痛を愉しむ様子に、サッと冷たいモノが背筋を通る。
 あまりのことに声が喉に張り付けば、構わないもう一方の手が少女の身体へと伸ばされ――
「何をしている!」
 指先が触れる直前、怒号と共に巻き起こる風。
 否、一閃か。
 先んじて動いた上が視界から消えれば、重みと熱が取り払われ、身を起こした先には抜身を構える袴姿の麗人。
 この状況下、決して望めないと思っていた助け。
 思わぬ安堵からふっと息をつき、その名を呼ぼうと開いた口は、しかし、返す切っ先で真っすぐ喉を狙われ、真一文字に結ぶことになる。
「答えろ、綾音。これは一体全体どういうことだ?」
 刃のように鋭い眼光はこちらを射たまま、その下の顎がくいっと周囲を指し示す。
 緊張を強いる空気に生唾を呑み込むことも出来ず、目だけを動かして示された方を見る。
 雪玉の光に照らされた姿は三つ。
 口をへの字に曲げた目深帽の少女、包帯の頭に煙管を差した男、そして、そんな彼に介抱されている人狼。
(答えろ、と言われましても……。私にも何がなんだか)
 険しい顔の剣士――史歩へと視線を戻した泉は、まさか彼女相手に「分かりません」とも答えられず、これまでの経緯を話すことにした。

* * *

 体温とは異なる、熱く狂おしい想いが吹き込まれる――直前。
「おおっと足が滑った!!」
「ぐっ!?」
 わざとらしい声が聞こえて来たと同時に、泉の視界からシウォンが消えた。
 鮮やかな緑の双眸に囚われていた思考は、急な解放に理解が及ばなかったようで、泉に二、三度瞬きを強要する。
 その間にも、泉を置いてけぼりにしたやり取りは進み、
「――ってめぇ! 何しやがる、緋鳥!?」
「だーから、足が滑ったと言っておりましょうが、シウォン殿。逆に貴公ともあろう方が、あの程度の蹴りを避けられなかったのが悪いとも」
「おい、今思いっきり蹴りと言ったな?」
「おっと失言」
「この糞餓鬼っ!」
 一貫して悪びれた様子のない緋鳥に、煙の効果が切れたのか、人狼姿となったシウォンが牙を剥き出して怒りを露わにする。
 こちらに向けられれば、身震いも出来ない程の殺気。
 だが、緋鳥はそんなシウォンに臆する様子もなく、黒茶の前髪の下で口元をニヤつかせると、僅かに身を屈めた。
 臨戦態勢とでも表すべきか。
 素人目に見ても一触即発の雰囲気に、思考を取り戻したところで泉にかけられる声などなかった。
 出来る事と言えば、現状把握だけ。
(ええと、シウォンさんが頬を拭っていたから、緋鳥さんが蹴ったのは、顔か頭? しかも話し振りからわざとじゃなくて、確信犯で……って、あれは?)
 泉から見て左側、近い緋鳥の背中と、向かい合うシウォン――の陰。雪玉の光から逃れるようにコソコソ動きながらも、隠しきれていない白い姿。そこから上がる煙に気付いたなら、泉が浮かべられる名は一つしかない。
 エン先生?――そう呟きかけた名前は、だが、外に出ることはなかった。
「はい、そこまで」
「だっ!? っの、何、しやがっ……る……?」
 シウォンの傍まで辿り着いた医者がそう告げたなら、時を置かず、激昂していた人狼の鮮やかな緑が、光を失いあらぬ方を向く。
 伴い、糸が切れたように崩れた黒い身体を抱き止めるエン。
 口を挟む暇もない一連の動きを見届けた泉は、惚けた様子でゆっくり立ち上がると、視線は白黒の二人に留めたまま、恐る恐る近づいていく。
「え、エン先生、何を?」
 急に倒れた身体を慌てもせず受け止め、寝かせ、と同時に診察を始める姿から、十中八九、シウォンが倒れたのは彼の仕業だろう。
 普段いかんなく発揮される、何もないところで転ぶ等のドジっぷりはどこへやら、本業に勤しむエンは、目線代わりの煙管をシウォンに向けたまま淡々と答える。
「即効性の鎮静剤をね。他の種族だとちょっと効き過ぎて危ないけど、シウォン・フーリは人狼の中でも頑丈だから大丈夫。……とはいえ、状態はあまり良くないかな」
「え?」
 思ってもみない言葉に、泉の目が丸くなった――その時。
「御無事ですかな、綾音様!」
「うひゃ!?」
 後ろからの衝撃に首だけそちらを向けば、ミリタリー柄の帽子が肩越しに覗く。自然と背後にする格好となった緋鳥が、自分に抱きついて来たのだと理解するよりも早く、前で何かが蠢き始めた。
 以前、ワーズを前にして暴走したニアによく似た――
「ぎゃああああっっ!!?」
 あの時よりも素早く上がった悲鳴。
 這わされた両手首を乱暴に掴んで引き剥がし、回された腕から逃れるべく身体を捻る。これらが離れたと同時に、逆方向へ、持てる力の全てを使って緋鳥の手首を放り投げた。
 そうして気色悪さの残る胸を両腕に隠した泉は、赤か青かもつかない色に顔を染め上げると、向かい合う形となった緋鳥へ非難を浴びせた。
「ひ、ひひひひひ緋鳥さんっっ!! い、いきなり何をするんですか!?」
「何とはもちろん、綾音様の御無事の確認をば」
「かか確認って、確認って、何の確認!?」
「それはもちろん……いやしかし、綾音様もそれなりにあるのですな。私めにも少しは分けて欲しいところです」
「何の話ですか!?」
 お椀を掴むような手の平を泉に見せながら、指を艶めかしく動かしていた緋鳥が、それを己の胸に重ねてのたまう。
 分かりたくもない内容に、緋鳥の手から遠ざけるべく更に身を捩れば、お椀型の手と自身の胸の隙間にため息をついた緋鳥が言う。
「もちろん、店主様の御寵愛を日々賜る、綾音様の御胸の御話で」
「変な言いがかりは止めてください!!」
「ああ、私もこの隙間を埋められる程の豊かさがあったなら、綾音様のように店主様に」
「続けないでください!!――んきゃあ!?」
 展開する緋鳥の妄想に、あらん限りの声で否定を叫べば、いきなり視界が回った。
 次いで背中に当たる硬質。
 押し倒された――そう判断出来たのは、足元の明かりにより逆光となった緋鳥が、その中でいやらしく笑んだ時。
「ひ、緋鳥さん、何を」
「やれやれ。先程から申しております通り、確認ですよ、確認。そこな人狼の年季の入った色香に惑わされ、店主様がお気に召すところの綾音様が傷物にされていないか、不肖、私めが確認して差し上げようと言うのです」
「け、結構で――った!?」」
 冗談ではない、そう払う暇もなく両手首が取られ、地面に縫いつけられた。
 泉より小柄な緋鳥だが、人間と異なる握力は体格差を物ともせず、華奢な手指は泉の手首に痺れを感じさせるほど食い込んでくる。
 ぞっとする痛みに、ようやく本当に「冗談ではない」と気付いた泉が顔を青褪めさせたなら、陰の中、緋鳥が自身の唇をペロリと舐めた。

* * *

「――そこへ、史歩さんが駆けつけてくれたんです」
 シウォンに迫られたところへ緋鳥とエンが現れ、解放されたと思ったら拘束された――
 あえて詳細を省き、簡潔に、あったことだけを伝えると、喉元の切っ先が引き下がった。
 これにようやく身の安全を得た泉が軽く息をつけば、視界の外で緋鳥がやれやれとため息をつく。
「全く、濡れ衣も良いところでございますな。従業員様である綾音様を、私がどうして害そうというのか。ちょっとしたお茶目、戯れでしたのに」
「黙れ。お前の遊びは、人間には死しかもたらさん」
「ふん。従業員崩れの人間風情が。知ったような口を聞くな」
 史歩が抑揚のない声で凄み、緋鳥が聞いたことのない冷淡な口調で応じる。
 思わず二人を見つめたなら、シウォンと緋鳥が対峙した時よりも、遥かに強い緊張が感じられた。
 あと一つ、ひとかけらでも何かの要素が加われば、このまま殺し合いに発展しそうな、冬の冷たさとは異なる張り詰めた空気。
(史歩さん、はいつも通りだけど……そういえば緋鳥さんって、従業員以外の人間には厳しかったわ)
 思い起こされるのはいつかの日、竹平へ向けられた殺意。
 あの時かけられた声は気安いものだったが、反して向けられた害意は、その対象でなくとも恐ろしかった。
 それと同じか、いや、あの時以上のものが今、目の前で展開されようとしている。
 分かっていても止める術を持たない泉は、おそるおそる立ち上がると、いつでも逃げられるよう態勢を整えた。
 一度戦いの火蓋が切られようものなら、これが日常茶飯事の奇人街の住人でもない、猫の一部を取り込んでいようと人間であることに変わりない泉は、ひとたまりもない。
 そもそも、こうして準備したところで、逃げ切れる保障はどこにもないのだから、一人自衛に走っても良いではないか、とどこの誰とも知れない者へ内心で言い訳をする。
 ――その時。
「くちゅんっ」
「……へ?」
 緊迫した状況下、何とも間の抜けた音が洞窟内に響いた。
 史歩と緋鳥も同じ心境だったのだろう、怪訝な顔を音のした方へと向けている。
 同様に、泉もそちらを見たなら、肩を竦めて頭を下に傾がせる包帯男がそこにいた。
「今のって」
 エン先生? と続く間もなく、「くちゅんっ、くちゅんっ」と音が続き、併せてエンの身体がその都度揺れる。
(もしかして、くしゃみ? しかも……)
 泉が行うよりも可愛らしい音である。
「うう……? なんだろう、お鼻がムズムズする。……くしゅっ」
 どこからどう見ても怪しい不審者然のエンの、意図していない仕草に、何かしら負けた気分を味わう泉。
 意識を逸らすように視線をエンから外したなら、自然と彼の傍に横たわるシウォンに目が留まった。
 途端に思い起こされるのは、緋鳥に絡まれる直前、エンが独りごちていた「状態はあまり良くないかな」という言葉。
「シウォンさん……大丈夫かしら」
「はあ?」
 ぽつりと漏らせば、間髪入れずに咎める声が史歩から上がった。
 まさか聞かれているとは思っていなかった泉、慌てて史歩へと視線を戻したなら、史歩ばかりか緋鳥までもあんぐりと口を開けている。
 両者とも、先程までの剣呑な雰囲気はなくなったようだが、代わりとばかりに向けられる、呆れを多分に含んだ様は居心地がすこぶる悪い。
「綾音、お前……そこまで来ると、お人好し通り越して阿呆にしか見えんぞ」
「神代史歩なんぞと同じ意見を持つは虫唾が走る、が……事シウォン殿に対しては綾音様、こやつの言う通りですぞ? 私めが間に合わなんだら、今頃手籠めにされていたでしょうに」
(いや、緋鳥さんにはさすがに言われたくないんですけど……)
 似たようなことを仕掛けたくせに、すっかり過去にしてしまった緋鳥へは半眼になる泉だが、指摘については自分でも尤もだと思う。
 けれども泉には、シウォンに対して負い目が一つあった。
 想いには答えられない――そのことではない。
 はっきりと示され、ぶつけられた想いが本物と思い知った今だからこそ、どうしたって気になってしまう、失われたシウォンの左腕。状態が良くないと聞き、真っ先に浮かんだ部位でもあるソレは、思い返せば失われた経緯自体、特殊だったと記憶している。
 宿敵のランを庇った結果ということも然ることながら、強靭であるはずの人狼の肉体が、たかが投擲一本で腕の切断まで至った不自然さは、奇人街の知識を多少持つなら引っかかって当然だろう。
(……たぶん、あの時の炎のせい。私をツェンさんの炎から守ったせいで、大火傷を負って、だから簡単に切り落とされてしまった)
 あの時は、全てはシウォンが猫を手に入れるための行為と頭から信じていたため、申し訳なさはありつつも、そこまで引きずることはなかった。
 しかし、こうして想いを知った今では、認識を改めざるを得ない。
 シウォンの想いがいつからのものかは定かでないが、そこまで長く接してきた覚えもない以上、あの時点ですでに好意はあったのだろう、と。
 つまり、あの時負った大火傷は、紛れもなく泉の身を案じたものであり、ランを助けたのもまた、ツェンを殺して動揺する泉をこれ以上傷つけないため。
(考え過ぎ……ではないと思う。シウォンさんって人狼だけど、不思議と気の付く人、だものね)
 なればこそ、今更かかる良心の呵責と、史歩と緋鳥の無言の圧に耐えかね、そそくさとシウォンとエンの方へ近寄る泉。
「あの、シウォンさんの腕、やっぱり悪いんですか?」
 突き刺さる二人の呆れに焦りつつ尋ねたなら、鼻をかみ終えたエンが、ぐしゅっと鼻を鳴らしながら首を傾げた。
「うん? 腕? 何の話?」
「え? いえ、先程シウォンさんの状態が良くないって」
 思わぬ返しに後ろを忘れて目をぱちくりさせる泉に、エンはポンと両手を叩いた。
「ああ、もしかして左腕のことだと思った? 違うよ。人狼は回復が早いから、例え腕が千切れても、後でそこから腐食することはないんだ。残念だけど」
 腕の状態の話ではないとあっさり明かされ、少しだけほっとした泉。
「…………そ、それじゃあ?」
 では何が良くないというのか、最後の本心ダダ漏れの声音には触れないように気をつけつつ先を促せば、シウォンへ煙管を向けたエンが、咥えていたそれを手に持った。
「ちょっとね、吸い過ぎ。スイも知っての通り、煙は人狼の本性を殺す。で、シウォン・フーリが吸う煙は、その作用が働くものの身体への負担は他より少ない、特注の高級品なんだけど……山に入ってからの吸い方が、私並なのは頂けない」
「はあ……」
(それって、エン先生の吸い方にも問題があるってことでは?)
 自分のことを棚に上げる発言に気の抜けた返事が出た。
 再び煙管を咥えたエンは泉に向き直ると、まるでその心を読んだように続ける。
「私はもう、煙を吸っている方が通常で、吸わない方が駄目になるから良いんだけどね」
(……良いの?)
 ついつい正気を疑うような目を向ける泉。
 気にしないエンは更に続けて言う。
「シウォン・フーリは人狼だから、煙中毒になると弱点が出来てしまうんだよ。本性を抑えつけていた反動で、当分の間、毛の少ない姿にはなれない。要はね、奇人街の陽に昼夜関係なく当たってはいけないってことになってしまうんだ」
「それは……大変なんですか?」
「大変だよ? シウォン・フーリは日中ほとんど外に出ないって話も聞くけど、陽に当たれないってこととは別問題だからね。何かの拍子で虎狼公社に陽が差してしまったら、彼に逃げ場はない。陽に焼かれ、爛れ、死ぬことになる。ただでさえ狙われやすい頂点だ。弱点なんてないに越したことはない」
「…………」
 以前、陽に当たったランの腕が脳裏に過ぎる。
 それが全身ともなれば――次に浮かんだのは、ツェンの姿だった。
 火を自在に操る鬼火だというのに、泉のせいで同族の火に炙られ死んだ、殺された――泉が殺した、無残な死体。
 その火に炙られ腕を切断されるに至ったシウォンも、泉に想いを寄せていなければ煙中毒の危険に晒されることもなかっただろう。シウォンが煙で本性を抑えていたのは、泉を本来の姿で傷つけないためだと、他ならぬ彼自身が過去に告げていたのだから。
 全部が全部、泉がいなければ起こり得なかったこと……
「まあ」
 はっとして顔を上げる。
 暗い考えに耽ったせいで下がっていた頭に、しかし、煙管を向けていたエンは追求することなく、再度シウォンの方へ向き直って言う。
「まあ、幸いにして、彼は回復力の高い人狼で、お医者さんの私もここにいる。このまま眠らせておけば、明日の朝には煙の効果は解毒されているよ」
「そう、ですか」
「うん――ふきゅっ! あうう……」
 普段とは違う、穏やかな声音は泉の心を幾らか落ち着かせたが、最後の最後で起きたくしゃみが、色々と台無しにした。
「だ、大丈夫ですか?」
 敗北感から一時的に目を逸らしていたエンのくしゃみ。
 目の前で再開されたそれに、泉はここに来て初めての声を掛けた。
「うーん? なんだか、急にお鼻がムズムズしてて。他の季節ならともかく、冬山なのになんでだろう?」
「他の季節なら不思議じゃないんですか?」
「うん。特に春と秋が駄目だね。花粉とか細かいモノが飛んでるから。それでもまだ、外だったら何ともないんだけど、こういう洞窟みたいな狭いところに入ると、どうしても――」

 その時だった。

「!? 史歩さん? 緋鳥さん?」
 エンのくしゃみに殺る気を削がれ、泉の言葉に呆れ果てていた二人が、突然、泉たちを背にして構えを取った。
 何事かと二人の背中越し、彼女たちが睨み付けているであろう場所を見るが、映るのは洞窟のでこぼこした岩肌と奥に続く暗闇のみ。
 泉はただならぬ雰囲気に気圧されながらも、意を決して尋ねた。
「史歩さん、緋鳥さん、どうしたんですか?」
「どう、か。さて、どうしたもんか。さすがに全てを防ぐのは無理だろうな」
「鬼火も我が内にある種なれど……合成獣たる私めでは、自在に操れる炎は僅か。綾音様」
「はい?」
「善処致しますが、多少肉を削がれてしまうかもしれません。御覚悟を。なに、死までは至らぬでしょうから、ご安心を」
「…………は?」
 問いに対する答えは置き去りのまま、上乗せされる不穏な言。
 一瞬聞き間違いかと緋鳥の帽子を見たなら、そこから更なる不穏が発せられた。
「私も口惜しいのです。私よりも先にあれらが綾音様の血肉を口にするなぞ、実にうらやま……いえ、妬ましい!」
(言い直しても、あまり変わってない気がするんですが)
 ついでに緋鳥からじゅるっと涎を啜る音が聞こえ、心持ち彼女から離れる泉。
 とはいえ、史歩と緋鳥の背に狭められた範囲では身じろぎにしかならず、改めて泉が前方へ視線を向ける、直前。
ぴちぴち、きちきち……
(? なに、この、耳障りな音? さっきのねずみみたいな音にも似ているけど、もっと数が多いような)
 微かに耳に届いたかと思えば、どんどん大きさと広がりを増していく、甲高い音の群れ。
 徐々に近づいてくるソレに不快を感じ、眉を顰めた泉は音のする前方を注視する。
(何? なんだか今、暗闇が動いたような――――ひっ!?)
 認めた途端、泉の全身に鳥肌が立った。
 蠢く暗闇が広がり始めたと同時に、そこから無数の小さな翅が闇を掻く姿。
 虫の大軍を思わせる動きだけでも気味の悪いところへ、一塊が雪玉の光に露わとなれば、史歩と緋鳥の言葉の意味が嫌でも分かってしまう。

 ソレは蛾の集団だった。

 しかも、どれもが愛らしい容姿とは裏腹の、飢餓に狂った顔をしている。このままこちらに辿り着いたなら、史歩と緋鳥がどれだけ活躍を見せても、全くの無傷は望めないだろう。
 いや、それどこか五体満足で切り抜けられれば良い方だ。
「方向からして、私が来たあの奥の、更に奥にも居たというところか」
「ほほう? つまりはお前が連れて来たか。ならば責任を取って喰われ死ね」
「ぬかせ。何故私が奴らの行動なぞ管理せねばならん。お前の方こそ羽渡が入っているのだから、首から下を差し出せば良いだろ。少しは時間を稼げる」
 本音に近い軽口染みたやり取りだが、史歩と緋鳥の口調は終始硬い。
 否が応でもかなり分が悪いと察せた。
 無駄と分かっていても生存本能からか、青褪めた顔の泉は守るように身体を丸め、近づく蛾の群れを凝視する。
 すると、そんな目の端で白い何かが揺らめいた。
 警戒していた分、余計に跳ねる心臓に瞠目し、反射で横へ顔を向けたなら、今までしゃがんでいたエンが煙管を蛾の方へ向けて立つ姿がある。
 ただし、どこかおかしい。
 元々全身包帯姿の、言動がちぐはぐな男であるため、どこと正確には表せないが。
「え、エン先生?」
 呼んでも反応しない身体は、どこぞの店主よろしくフラフラした動きで歩き出した。
 危ないと思って手を伸ばしても衣はするりと逃げて捕まらず、「お、おい?」と突然の動きに戸惑う史歩と、何も言わずに身を引いた緋鳥の間を抜けて、向かってくる蛾の前にその身を晒すエン。
 その間にも、更に近づいていた蛾の先陣が、もう少しで届く獲物を前にして、我先にと小さな手を無数に伸ばす光景の中、戸惑う背後を置き去りにして医者は気だるげに言った。
「ぐしゅ……なるほど。こいつらのせいか。この数の蛾の鱗粉が舞っているなら、ムズムズして当然。なら、解消するには掃除するしかないよね」
「そうか! その手が……いや、不味い! 伏せろ、綾音!」
「えっ!?」
 言うが否や、エンの言葉に明るくした顔を、すぐさま白くさせた史歩が飛びついて来た。
 肩を強引に押され、しゃがむ史歩共々泉の膝が強制的に崩れたなら、追って緋鳥も似たような恰好を取って隣に納まり――

 瞬間、視界が眩い光に染まった。

 

 


UP 2019/1/31 かなぶん

 

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