妖精の章 六十五

 

 視力を奪われそうな、暴力的な白。
 けれども次の瞬間には洞窟の奥、蛾の集団がいた方へと、壁のように移動していく。
 ゆっくりゆっくり、人の歩みの速度で白い光が通過した後には、岩肌の黒い影だけが、洞窟入口から零れる雪の明かりに滲んでいる。
(あれは…………炎?)
 あまりにも白すぎる光の遠のく様を、茫然と眺めていた泉は、光が発した熱の残滓から、その正体を炎だと感じ取った。
 過去、知らず自ら起こした炎により、一人の鬼火を焼き殺してしまった泉にとって、強すぎる炎は、恐怖の対象。己の罪をまざまざと思い起こさせる、自分には過ぎた力の象徴。
 しかし、進むごとに蛾を焼いていったであろう炎には、不思議と恐れを感じなかった。
 炎とただ一言で表すには白すぎる上に、粘度を思わせるぬったりとした動きのせいか。あるいは、それを生じさせた者が、本来であれば傷を癒す者であったためか。
 ただただ、光が洞窟の奥を目指していくのを見送っていた泉だが、不意に怒声が洞窟内に響いたなら、ぎょっとしてそちらへ目を向けた。
 だがそれは、大声に驚いたからではなく、
「エン! ツェン・ユイ! お前、掃除の時は周りに気を配れとあれほど!」
(え……? 今、なんて……)
 炎を見れば、悔恨と共に思い出していた、鬼火の名。
 それを史歩の声でもって聞いた泉は、彼女が胸倉を掴んでいる医者を凝視する。
「うぎゅっ! く、苦しいよ、ジッポ・カムヒム……そ、それに、大丈夫だよ? 重度の全身火傷を負ったとしても、ちゃんと治すから! 全快するまで、私が真心を込めて!」
「真心込めて、じゃない! というか、嬉しそうに言うな!」
「あうあう」
 泉の動揺そっちのけで、サムズアップするエンを史歩がガクガク揺さぶる。
 普段なら止める泉だが、史歩の発した名に囚われた思考は、真実を追い求めることに精いっぱいで、包帯頭が前後に大きく揺れるのを見つめるのみ。
 と、その時。
「あ、不味い」
「あ?」
 悲鳴にも似た情けない声を上げ、揺さぶられ続けていたエンがそう口にしたなら、胸倉を掴む手はそのままに、史歩の腕がぴたっと止まった。すると、衣擦れに似た微かな音がしゅるりしゅるりと連続で聞こえるのに合わせ、エンの頭が形を変えていく。
「もおー、ピポ・ルルルイが揺らすからぁ、包帯が解けちゃったでしょお?」
「知るか。大方、先の炎でどこか焼いたんだろう。鬼火のくせに、相も変わらず炎の扱いがヘタだな」
 言って、史歩がエンを突き放す。
 よろけながらも姿勢を立て直したエンは、「むぅ、直すの面倒なのにぃ」と文句を言いながら、解ける一方の頭は後回しに、掴まれた胸元の皺を伸ばしていく。
 しゅるりしゅるり、その間にも頭の包帯は形を崩し――
「っ!!」
 薄闇の中、マフラーのように崩れた包帯上の相貌に、泉の息が詰まった。
 白い衣に負けず劣らずの白い髪はショートで、瞳は左右共に以前見た紫、柔和な表情と咥えられた煙管は、記憶にある姿とは異なっているが。
 その他の容姿全てが、忘れもしない美貌の鬼火、ツェン・ユイを象っていた。
 それでもまだ、彼本人と断定できない泉の混乱する頭に、ふと別の話が思い起こされる。
 エンの父親が殺されている、という情報。
「まさか、エン先生のお父さんが、ツェンさん……?」
「うん? 私のお父さんはヴェンだよ? ツェンは私、私」
 自分の顔を指差したエンは、泉の強張りにようやく気づいたようで、気遣うような表情で近づいてくる。
「大丈夫、スイ? なんか、初めて死体を見た人間みたいな顔をしているけど」
「で、でも、ツェンさんは死んで……わ、私が、殺したはずで……」
「うーん? その流れだと、私のお父さんを殺したのがスイって言いたいの? でも確か、お父さんはおじさんに殺されたって、私、ちゃんと説明していた気がするんだけど?」
「そ、それは……そう、でしたね……」
 じりじり後ずさる泉に対し、簡単に距離を詰めたエンが、包帯巻きの指でそっと泉の両頬に触れる。エンの言葉により、想像がただの思い込みであることを知った泉だが、それでも動揺した目は、エンを真っすぐ見つめながらも震えている。
「……もしかして」
 観察するような目つきで泉の表情を伺っていたエンは、何かに気づいた様子で美麗な顔に困惑を浮かべると、触れた時同様に泉からそっと指を離した。
「もしかして、スイ、憶えてないの?」
「お、憶えて……?」
「おい、話が見えんのだが? いや、そもそもスイとは綾音のことか?」
 何をだろう、そう泉が戸惑う様を見てか、怪訝に眉をひそめた史歩がエンに聞く。
「そう。名前が奇人街の文字に似ていたから、スイって呼ぶことにしたの。で、ざっくり説明するとね? 前に、スイが紅珠玉(べにしゅぎょく)で私を焼いたんだ」
「!」
 何でもないことのようにエン――ツェン・ユイ自身の口から語られる泉の所業。それでも、あの時のことを罪として抱えていた泉には、糾弾されているように聞こえて身がすくむ。
「はあ? 紅珠玉で焼く? コイツは巫術も何も使えん人間だぞ? 只人にそんな芸当……ああ、猫の力か」
(うっ……)
 しかし、史歩から嫉妬混じりの視線を受けたなら、真に迫る身の危険を感じ、咄嗟に左腕を右手で押さえて彼女から半歩後ずさった。
(あ、あれ? 史歩さんの髪、燃えてない?)
 今更ながら、この薄闇の中でも、史歩の殺気がひしひし感じ取れる理由に気づいた泉。
 先程の白い塊から燃え移った、と考えが及んだものの、史歩の顔の左側に灯る火が白ではなく青であることと、気にする素振りもない眼光から、違うのだと認識を改める。
 ではいつから、と思ったところで、現状では聞けるはずもない。
 そもそもこの状況下で小さな火を気にしたのも、真っ向から受けるには強すぎる史歩の目から、無意識に逃げた賜物であった。
 結局思考を逃がしきれなかった泉が、史歩としばし見つめ合い、睨まれること数秒。
「でね」
 そんなツェンの声で史歩の鋭い眼から解放され、泉は小さく息をつく。
「療養中に店主に呼ばれて来てみれば、そこに私を焼いた少女、スイがいたのです!……といっても、カルテがあったから、前に診ていたとは思うんだけど憶えてなくて……。まあ、それはいつものことだからいいとして」
「……少しは悔い改めろ」
 両手を挙げてぱっと顔を明るくしたかと思えば、急に落ち着いた調子で首を振るツェン。
 患者ではなくなった途端、片っ端から名前を忘れていくというツェンの特性に思うところがあるのか、史歩が頭痛を堪える素振りで額を押さえた。
 泉はと言えば、そんなツェンの動きに、包帯巻きの医者の姿と、コロコロ感情が移り変わる狂人の姿を重ねてしまい、どう反応したらよいのか惑う。一時的に史歩、というより、死の恐怖を味わわされたお陰で、ツェンのことを幾らか冷静に見られるようになった。
 だが、それで泉の行いがなかったことになるかと言えば、話は別だ。
 狂人であったツェン・ユイへの恐れも、拭い去るどころか、増して深まろうというもの。
 なにせ、ツェンは泉との因縁を忘れてはいないのだ。だというのに、今この時まで、己の正体を明かしてこなかったのだから――そう思っていれば、ツェンは言う。
「泉・綾音って名前と顔は、スイに教えて貰っていたからね。今度はばっちり憶えていたから、その時に、ツェン・ユイですって、改めて挨拶したのね」
「……え?」
「お久しぶりです、お陰で禁断症状を脱せたんですよーって」
「え? え?」
「ああ、その様子じゃ、やっぱり憶えていないみたいだね。まあ、あの時は恋腐魚の効果がかなり強い時期だったから、仕方ないと言えば仕方ないか」
 初耳の話に目を丸くしたなら、ツェンが苦笑した。
 泉の記憶にないツェン・ユイの柔らかな表情に、束の間見惚れてしまう。
「おい。お前らだけで話を完結させるな。それで結局、コイツは何故、お前の姿を見てこうもおかしな様子を見せる? 何か、妙な事をしたんじゃなかろうな」
 そんな二人の様子に、依然として怪訝な顔の史歩が表情そのままの声で問うた。
 猫のことを差し引けば、大方泉を案じてくれる史歩。
 包帯を解いただけで、何も変わらないエン――ツェン。
 この二人により、泉の中の混乱と警戒が、次第に薄まっていく。
(ツェンさんは私のしたことを忘れていない……でも、名乗って、その上でエン先生として接してくれていた。肝心の私がそこを憶えていなくても、仕方がないって笑って。それなら私は、私がするべきことは……)
 ぐっと息を呑み、小さく吐く。
 人を殺めたと、最後に誰かへ告げたのはいつだったか。
 実際に殺してはいなくとも、今日、エンの正体を知るまでは、確かにツェンは自分が殺した相手であり、その悔恨は生存を知ってなお、今も泉の中に留まり続けている。
 殺したと、そう言葉にすることさえ、恐ろしい。
 それでも、この場において泉の思いを語れるのは、泉しかいない。
 軽く息を吸い、史歩を見つめる。
 私、ツェンさんを殺して――そう告げるべく口を開いた泉だが、
「妙な事? ああ、そう言えばあの時、スイのこと、監禁して飼育しようとしたり、身体目当てで焼き殺そうとしたりしたんだっけ。ごめんね?」
 泉が発声するよりも早く、そんなことをのたまった挙句に、軽く謝罪してくるツェン。
「……ほお?」
「ツェ、ツェンさん……」
 途端に史歩の目が鋭く細く、剣呑な輝きを見せる。心なしか彼女の髪の先に灯る青い火も勢いを増した様子。そのせいで、いつもより苛烈に映る史歩の姿にうろたえる泉は、彼女とツェンの顔を交互に見た。
 二人のこの様子に対し、当のツェンは警戒心薄く、ぷくぅと頬を膨らませると、包帯の手で泉を指差す。
「えー、駄目だよ、スイ。君は私のことをエンって呼ばないと。私はスイのこと、スイって呼んでいるんだから、君もエンって愛称で呼んで! なんたって私は、君の愛人なんだからね!」
「そ、そんなことを言っている場合じゃないんですけど……」
 胸を張り、そこをポンと拳で叩くツェン改めエンに、ますます冷ややかな視線を送る史歩。
 泉は、一方的な一触即発の雰囲気に焦り、意を決しては史歩の前に身体を滑らせた。
「あの、その、史歩さん、違うんです。いえ、全く違うのでもないんですけど、私が変な感じだったのは、ツェンさん、じゃなかった、エン先生のしたことがどうのってことじゃなくて……いや、もちろんどうかとは思いますけど、そういうことではなくてですね」
「綾音」
「はいっ!」
「要点だけを掻い摘んで話せ。これ以上無意味な言葉を連ねるなら、お前も斬る」
「は、はい」
 泉を思っての行動を、他ならぬ彼女自身に遮られたのが癪に障ったのか。
 有言実行の気配をひしひしと感じた泉は、先程までの苦悶が滲む決意はどこへやら、史歩を宥めるべく、眼前の殺気に躓きながらも、自分が“殺めた”鬼火と、それゆえに今日まで抱えてきた後悔をあくせく語り始めた。

 

 


UP 2019/2/28 かなぶん

 

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