妖精の章 六十六

 

 今日までツェンを殺したと思っていた――

 自身で語れば、やはりつっかえるソレ。
 悪くなる顔色、辛くなる思いを引きずりながら史歩に伝えたなら、
「はあ? 奇人街なら当然だろう? それを悔やむとか、どれだけ阿呆なんだ、お前」
(うう……この台詞、どこかで聞いた気が……)
 しかもその時その人物は、今し方の史歩の言葉を例として挙げただけで、ここまで真っすぐに呆れ返った視線を向けてはこなかった。
 泉が身じろいだなら、当のツェンことエンも、柳眉を寄せて小首を傾げた。
「そんなに思い詰めているとは知らなかった。人間の事情はよく分からないけど、自分を殺そうとしている人を返り討ちにして後悔するなんて、生きてて辛くない? ごめんね、あの時ちゃんと殺してあげられなくて」
「ぬかせ。手加減できるほど強くもない分際で、たまたま殺せた風情が後悔だ? そんな自惚れも甚だしい軟弱者と、種単位で一括りにするな。吐き気がする」
(そ、そっちですか……)
 てっきり、エンのとんでも発言に目くじらを立てたのかと思いきや、呆れから侮蔑へと変わった史歩の視線が突き刺さる。
 更なる気まずさから、それとなく眼を横に向けた泉は、心の中だけで反論した。
(こっちだって、そんな簡単に割り切れる人と同じにされるのは嫌なんですけど。でも……やっぱりこれが奇人街の常識なのね)
 そんな風に及べば、少しだけ罪悪感が薄れた――訳でもないが、改めて思い知る自分の常識と奇人街の常識との差に、泉はこっそりため息を零した。
 直後、あることに気付いたなら、目は横に向けたまま、瞬きすること数回。
(……あれ? でも、それなら、史歩さんの元居た場所って)
「あ? なんだ?」
 知らず知らず、泉の目が史歩へ戻ったなら、喧嘩腰に迎えられる。刃のように鋭い瞳から放たれる圧に、泉が「いえ」と逃げに走りかけた直後。
「っべっくしょいっっ!」
 唐突にくしゃみの音が洞窟内にこだました。
 エンとは異なるくしゃみの主は、誰あろう目の前の史歩。
「……うぃいい、いきなり寒くなってきやがった」
 言ってぐずつく鼻を指の背でこね、「寒ぃ寒ぃ」と両腕を摩り、足をバタつかせる仕草は、とことんエンより豪快。容姿が整っている分、増して感じる野性味に、泉は逃げるのも忘れて呆気に取られてしまう。
 そんな彼女の心の中で、くしゃみの対比に持ち出されていたエンは、史歩の様子に眉を顰めるどころか、慌てた声を上げた。
「わわっ、史歩・神代、大丈夫?」
 そうして懐から、ポケットティッシュと思しきものを取り出したエン。一枚引き抜いた紙を史歩の鼻に宛がおうとしては、残ったティッシュごと強奪され、これ見よがしに鼻かみの音が盛大に鳴らされる。
 一つの礼もない史歩の行動だが、彼女を患者と診た医者には関係ないのだろう。
 乱暴かつ横柄な振る舞いを非難するでもなく、鼻をかむ史歩の姿をじっくり眺めていたエンは、はっと何かに気づいて言った。
「こういうの、オニのカクランって言うんでしょ? それとも、オニのソラネンブツ? あ、オニも十八、バンチャもデバナだっけ?」
「お前、どさくさに紛れていい度胸――って、おい、どこへ行く!」
「お外! 薪を拾ってくるから、そこにいてね! 大丈夫! 私は鬼火だから、寒さには強い子!」
「エン先生!?」
 言うが早いか、止める間もなく洞窟の外へと飛び出してしまうエン。
 突拍子のないエンの行動により我を取り戻した泉は、つられるように駆け出そうとし、
「お前は死ぬから止めとけ」
「ぐえっ」
 中の服ごと後ろ首を引っ張られ、あられもない声が出た。
 喉を押さえ、軽い咳を繰り返す泉に、さっさと手を離した史歩は呆れ声で言う。
「奴も言っていた通り、鬼火は寒さに強い。いや、気温の変化に強いというべきか。だから、そこの変態合成獣も、あんな格好でけろりとしていられる」
 言って史歩が顎で示したのは、エンが正体を明かして以降、泉たちと反対の岩壁で一人静かに佇んでいた緋鳥。彼女を狂おしいまでに慕っていたツェンの存在ゆえか、エンが話の中心になった途端、こちらと距離を置いた緋鳥だが、向けられた史歩の軽口には嘲笑を返してきた。
「殺しが趣味の変質者が何をほざく」
「ふん、お前も似たようなモノだろうが。いや、食い意地と性欲が加わる分、お前の方がなお性質は悪いか」
(趣味に異論はないんですね、史歩さん……)
 正直なところ、泉にとってはどっちもどっちだ。緋鳥は言わずもがな、史歩にしてみても、幾ら守ってくれるとはいえ、猫が絡めば誰よりも厄介な相手になる。
 しかしさすがに、これをそのまま言うつもりはなかった。
 かといって、洞窟の入り口と史歩の髪の先にしか明かりがない中、暗がりに響くいがみ合いに、小さく愚痴が漏れてしまうのは仕方あるまい。
「……何も、こんな暗い中で言い合わなくても」
「あ?」
「うん?」
 途端にこちらへ向けられる声。中でも、距離も近い怒気交じりの史歩に、泉は見えるか分からない愛想笑いを浮かべつつ、内心でうっかり口を滑らせた自分を呪う。
 けれども泉が弁明に走る間もなく、緋鳥からおかしな言葉が発せられた。
「暗い……ですか、綾音様?」
「え? ええ、暗い、と思いますけど……」
 答えながら辺りを見渡す泉。
 弱い光源しかない、薄暗い洞窟内を確認しては、緋鳥へ視線を戻して目を泳がせる。
(ええと、まさか、暗いと思っていたのは私だけ? でも、シウォンさんは暗いからって雪玉作ってくれたよね。それじゃあ、緋鳥さんの夜目が利くってことかしら?)
 そんな風に考えが落ち着けば、緋鳥が一つ頷いた。
「ふむ。言われてみれば、あやつの火に何やら蛾以外も焼かれた音がしていたか。となると、あれは雪玉が蒸発した音……。そうと分かれば、しばしお待ちを」
「あ、いえ、私が自分で――」
「だから、お前はウロチョロするな」
「ぇげっ」
 言って真っすぐ洞窟の入り口に向かう緋鳥を追いかけ、またしても史歩により無遠慮に引っ張られる首根っこ。
 再び咳き込む羽目に陥った泉は、今回ばかりは史歩を睨みつけるが、呆れ顔で迎えた彼女は、仰々しいため息をついて言った。
「冬山は危険だが、緋鳥はもっと危険だ。単身で近づくのはやめておけ。……まあ、言わずとも、お前はすでに経験済みだろうがな」
「うっ」
 逸らされる視線の意味は、確かに言われずとも汲み取ることができた。
 押し倒された陰、その中に見た卑しい笑み。
 性別の垣根もないソレに身震い一つした泉は、そう言えばと思い出す。
 いつだったか、見目麗しい少年が、同じ髪色の中年男に押し倒されていた図。
 一目見るなり帰っていた様は、苦手以外の何ものでもないだろう。
(そう言えば史歩さん、その手の話って好きではないんでしたっけ。いや、私もその気は全くないんですけど)
 浮かんでしまった情景を払うように頭を振る。
 そうしている間にも、洞窟内に明かりが取り戻され、新しい雪玉を地面に置いた緋鳥が、目深帽の後ろを掻いて笑った。
「いや、面目ありませぬ。我が眼が利かぬばかりに、綾音様に長く不自由を強いていたようで」
「…………え?」
 眼が利かない。
 聞き間違いかと思うほど、けろりとした物言いに泉の目が丸くなる。
 これに対し、「おや?」と小首を傾げた緋鳥、次いで「ああ」と頷いては目深帽を取り、目元を覆うように伸びる黒茶の前髪を掻き上げた。
「!!?」
 瞬間、大きく息を呑んだ泉は、悲鳴を堪えるように両手で口を塞いだ。
 新たな雪明かりの下、鮮明に泉の目に映る、緋鳥の目元。
 鬼火をその身に宿すがゆえの、額に並ぶ小さな角の、その下。
 本来であれば、こちらを映す瞳が存在していたはずの、部位。

 そこには、幾重にも刻まれた傷跡だけがある。

「っ……痛く、ない……ですか?」
 執拗に、乱雑に、抉られ裂かれた傷跡に色はなく、泉の目にも古いものとして映ってはいる。それでも、聞かずにはいられないほど痛ましい姿に震える声で問えば、緋鳥は自身に刻まれた惨状を知らないていで、楽しげに頷いた。
「ええ、ええ、もちろんですとも。今はもう、幼き頃の名残でしかありませぬゆえ」
「…………」
 それはつまり、緋鳥の目は、彼女が幼い頃、物心ついた後で切り刻まれたということか。そして、「今はもう」というからには、この傷を負った当時は――
 想像だに出来ない過去に顔を青くする泉とは対照的に、緋鳥は明るく続ける。
「これは、嫉妬に狂いし我が母の所業にございます」
「お母、さんが……? どうして、そんな……」
 思ってもみない加害者に泉が慄けば、目深帽を被り直した緋鳥は何故か嬉しそうに言う。
「愛しい男に似た眼を持つお前が気に入らない、母上は常々そう申しておられました。しかししかし、それゆえに私めは狩人まで登りつめることが出来たのでございます。光が失われたがための研ぎ澄まされた感覚を得ては、母上に感謝こそすれ、何故に憎めましょう?」
「そんな……」
「もっとも、その母上も今は過去の者。綾音様が気にされるものではございませぬ。……ございませぬが」
 するり、伸びてきた華奢な手が泉の腕に絡みつく。
 緋鳥の過去に青褪める泉は、これを遠いものとして眺め、そんな泉の腕を恭しく持ち上げた緋鳥は、滴る涎を拭いもせず口を近づける。
「もしもこの身を哀れと思われるのでしたら、一口、ただ一齧り、お許しを頂きたく」
「!」
 生温かい息が指にかかった瞬間、唐突に泉の意識が取り戻される。
 哀れみに勝る危機から腕を取り戻そうとするが、取られた右腕は、左腕のように猫の力を感じさせることもなく、緋鳥の握力に屈してしまう。
 このままでは本当に喰われる、そう思った矢先。
「調子に乗るな」
 低い声と共に風が起こり、それと同時に腕を捕らえる圧が退いた。
「し、史歩さん」
 緋鳥に代わり、抜刀した史歩が視界に入ったことで、助かったと息をつきかけた泉。
 だが、その前に刃のような鋭い目に睨みつけられては、溜めた息をぐっと呑み込んだ。
「お前もいい加減、相手の力量と性質を考えてから行動しろ。同情一つ取ってみても、隙になり、弱みになるんだ。殺すことに一々躊躇するくらいなら、それ以前に、殺されないよう努力しておけ。殺すぞ」
「は、はい……」
 冗談のような物言いだが、その目に偽りはなかった。
 半ば強制的に頷けば、視線が逸らされ、抜身が鞘にしまわれる。
「やれやれ。血の気の多い殺人狂はこれだから」
 嘲りにも似た声にそちらを見れば、暗い時と似た位置に移動した緋鳥が、腕を組んで佇む。興が削がれたと言わんばかりに俯く姿勢は、こちらを拒絶するようにも見えた。
(緋鳥さん……どこか具合でも悪いのかしら?)
 史歩に忠告されたばかりだというのに、早速気にしてしまうのは、その目の傷を知ってしまったから、だけではない。
 そこまで親しくした憶えはないが、いつもの緋鳥であれば、もう少し史歩と軽口を叩き合っていただろう。いや、もっと言えば、騒山に来てからというもの、緋鳥の様子は泉が知る彼女よりも、かなり大人しくなっている。
(もしかしたら、エン先生のせい、だけじゃないのかもしれない……ここには、フェイさんがいないから)
 鳥人が種単位で守るという神童。
 ゆえに、合成獣である緋鳥と彼の関係は全く分からないものの、その繋がりは決して浅くないことだけは、二人に流れる空気から察することができた。
 ――と。
「ぃっくしょいっ!」
 思考を分断するようなくしゃみに泉の身体が小さく跳ね、続けて鼻をかむ音が響く。
 出所はもちろん、史歩だ。
「史歩さん、何か羽織れる物ないか、探しますね」
 明るくなった分、気づきやすくなった、冬山の寒さを凌げるとは到底思えない袴姿。
 人間好きのワーズのこと、もう一着ぐらいリュックの中に防寒具があるだろうと動く泉だが、
「いらんぞ」
「へ?」
 リュックを掴んだ途端、素っ気ない声が向けられた。
 薄着なのに何を言っているのか。
 そう思って史歩の方を見たなら、白い着物の懐から薄地の布を取り出す姿にかち合う。藤色の布は柔らかで、見るからに手触りが良さそうだが、肝心の防寒性はないに等しい。
 そんな布を史歩は宙に広げ、頭を覆った。
 ――もちろん、髪の先に小さく灯る、青い火も構わずに。
「あ!」
「あ? なんだ?」
 思わず声を上げる泉に、史歩が煩そうに柳眉を顰めた。
「いえ、その、火が……」
 新たに得た光源により、見えにくくなった火だが、消えた訳ではない。だというのに、青い火は薄地を焼くことも消えることもなく、ただそこに在り続け、それゆえに泉はどう続けて良いか分からず、尻すぼみになってしまった。
 だが、そんな言葉でも十分だったのだろう。
 青い火に一瞥をくれた史歩は、「ああ」と頷くと、懐に手を入れながら言った。
「コレが私を焼くことはない。まあ、ちょっとした目安だ。コレがここにある内は、巫術を使えないという、な」
「ふじゅつ……?」
 泉が首を傾げる間にも、白い手袋を取り出した史歩は、これを身につけると落ち着いたようにため息を一つついた。白く上がる息は、洞窟内の寒さを表しているが、史歩の様子は白いコートを着込んだ時の泉に似ている。
 薄地の布と手袋だけで、泉と同程度の防寒ができたと言うのか。
 俄かには信じられない話と、聞き慣れない話に、ますます泉の眉間に皺が寄れば、今一度、鼻をかんでから史歩は言う。
「そういや、お前には見せたことも話したこともなかったか。……いや、その前に、お前の居た場所にはそういう力はないのか? 空を飛んだり、火を操ったり」
「……そう、ですね」
 一瞬だけ浮かぶ、飛行機やライターといった道具の類。
 しかし、きっと史歩の言う「力」とは別物なのだろうと思い直した泉は、首を振りつつ答えた。
「そういう話は、おとぎ話とか、そういう物でしか聞いたことはないです」
「やはりそうか。いや、創作でもそういう話があるならまだいい方だな。そうでなければ、一から説明せねばならん」
 自分に言い聞かせるように頷いた史歩は、「エンの奴が戻って来るまでの暇つぶしには丁度良いか」と前置くと、泉に座るよう促した。

 

 


UP 2019/3/31 かなぶん

 

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