妖精の章 六十八

 

 夢を見た。
 海を背に「さよなら」と笑う恋人。
 追いかけようと動きかけた矢先、大声量に名を呼ばれ、驚きに振り返れば伸ばされた手。
 助けを求めるソレに己の手を伸ばすも、届く前に相手ごと掻き消えてしまう。
 誰も彼もが自分の前からいなくなり、周囲の光景すら暗闇に呑まれたなら――……


 早朝。軽い食事を終えた竹平たちは、夏山の気温が上がる前に出発した。
 先頭は登山が始まってより変わらずワーズ。そこから数歩距離を空けて、竹平、美津子、ニア、司楼が一纏まりに動き、次いでフェイを背負ったラン、司楼たちから天青宮と呼ばれる男が続く。
 すでにぐったりしているフェイは、これでも一応、出発当初は自分の足で登ると意気込んでいた。緋鳥がいない以上、それにも増して、識の峰という場所に臨むのだから、今更であっても自力で登るべきだ、と。
 それが悪かったのか。急に出したやる気は、フェイの虚弱な心身に重責となってのしかかり、結果、彼は数歩も持たずに力尽きてしまった。見かねたランが手を貸す一方、ワーズはそんな彼らを鼻で笑うと待つことなく歩き出し、間で惑う竹平は、「先に行って大丈夫」というランの言葉に促されて黒コートを追う。
 そうして出来上がった順番において、ふらふらした背中を見つめる竹平は、ワーズを睨むようでいてその実、自分に対して頭を抱えていた。
 夢見が悪かったのは確かだ。
 目の前で泉が消えたのを、知らずかのえと被らせたせいで、あんな夢を見てしまったのだろう。どちらもが、竹平の常識の範疇を超えた理由で消えたが故に。続く暗闇は、そのまま竹平の心情を表していた、とも推測できる。
 ――問題は、その後。
「竹平君、大丈夫?」
 そっと背中に添えられた手の平。
 反芻を中断するソレに、跳ねかけた身体を押し留めた竹平は「ああ」とだけ応えた。ぶっきらぼうな返事に、手の主は「そっか。ならいいけど」とあっさり引き下がる。
 竹平は想定通りの反応にほっとする反面、温もりを惜しむ己を実感して、心の中だけで盛大にため息をついた。
 昨日までは――少なくとも、泉が消えるまでは、何とも思っていなかったはずだ。……まあ、からかいの中で、どうしようもなくくすぐられてしまった男心は別としてだが。
 それが今日になって変わってしまったのは、かつての恋人に似た、恋人よりも力強い声で「竹平君」と呼ばれ悪夢から脱せたから、だけではない。
 汗を拭う素振りで触れた、首に巻いたタオル。
 コレは目覚めた時、出発を告げながら水を渡してきた美津子が、わざわざ竹平の顔に汗拭き用だと被せてきた代物。起き抜けのふざけた態度に苛立ったものだが、引き剥がそうとタオル越しの頬へ触れた竹平は、そこで初めて自分が泣いていたと気づく。
 これを隠すための行動――そう考えが及んだなら、残りの涙をタオルへ拭う傍ら、どうしたって湧き起こる、悔しさにも似た胸を締めつける感覚。
(元々嫌っていたわけでもねぇし。まあ、鬱陶しくはあったが)
 ちらりと横目で盗み見る、どう見ても年下の、実年齢は年上の美津子。
「ん? 何かな?」
「……いや、何も」
「そう?」
 すぐさまこちらに気づいたのを素っ気なく返した竹平は、視線をワーズの背中へ戻しながら、自分の変化にこっそりため息をついた。
 恋だの愛だの言う気はないが、明らかに美津子を好意的に見ている自分がいる。ともすれば、昨日までのからかいさえ、竹平のことを慮ってのものだと錯覚するくらいに。
 思い返してみれば、同郷同性の泉よりも竹平の傍に居た気がする。
(もしかして、バレてたのか? いや、さすがにそれはないとは思うが……)
 人間に接するように住人と気安く会話が出来る泉と違い、必要に応じてしか彼らと接して来なかった竹平。端からは慣れて見えるよう取り繕い、そのお陰で、誰からも気づかれることはなかった。
 親しげに振る舞う下地に、化け物相手に気遣いなぞ無用、という考えがあるとは、誰も。
 美津子はそんな竹平の緊張を和らげるべく行動していた――さすがに好意的過ぎる解釈だろう。
(それに……誰にも気づかれてないっつっても、ワーズには無理だったしな。そもそも、見せかけでも親しくできる隙がねぇ)
 意識を前方の黒い背へ向ける。
 一寝入りしたお陰か、加えて美津子の存在があるためか、昨日より状況を客観視できるようになった頭。感情を先立たせて苛立つことはなくなったものの、ワーズへの不信感は今も健在だ。
 流れでとはいえ、泉の発案で始まった登山を、彼女がいなくなっても続けようとする反面、生死不明の現状においても普段通りの言動を崩さない様は、竹平には理解できないものだった。
 人間を語るのであれば、この状況に不安を抱くのではないか。
 少しくらいは動揺を見せても良いのではないか。
 かのえを失った竹平のように。
(……結局のところ、俺の勝手なんだよな)
 消えた泉の代わりに、ワーズの中に知った人間を見つけ、ひとまずの安堵を得たい――というのは表向き。
 本当は、なかったことにしたかっただけだ。
 それなりに世話になっていたにも関わらず、本心では距離を置いていた自分、その身勝手さを、同じ人間のくくりにすることで帳消しにしようとした。
 それすら勝手だと分かっていながら。
(完全な自己満足なんだよな。どっちにしたって、ワーズはどうせ気にも止めない)
 人間好きを豪語するワーズは、基本的に人間の為すことを受け入れる。自分への敵意も悪意も、人間が発したことなら嬉しそうに肯定するだろう。
 拒むのは、人間の自発的な死。
 一度冷静に認識を見直せば、答えは最初から出ていた。
 どう足掻こうが、ワーズには竹平の望む姿は見つけられないと。
 清々しい程の無力さに、自然とため息が漏れる。
 すると、近い距離から声がかけられた。
「大丈夫よ、竹平君。きっと、たぶん……いや、気休めしか言えないけどさ。あの猫? だって泉ちゃんのところに向かっているんだから。それにほら、一夜明けてまだ戻ってきていないってことは、もしかしたらもう、泉ちゃんと一緒にいるかもしれないじゃない?」
 余程暗澹としたため息に聞こえたのか。
 焦りながら捲し立てる美津子に、かといって別のことでついたため息とも言えず、「ああ」と返事するしかない竹平は、やはり自分を気にかける彼女にくすぐったさを抱き、
「猫はまだ、泉嬢を見つけてもいないよ」
 割り込むようにあっさりと否定した前方に頬を引きつらせる。
 分かっていても、場違いにへらりと笑う赤い口を睨みつければ、これを宥めるように美津子が重ねて言う。
「で、でも、泉ちゃんのとこに向かってはいるんでしょう? 泉ちゃんを助けるために」
 最中、チラチラとこちらを見る美津子に、竹平は気づく。
 美津子のこの必死さは、自分のためだと。
 ワーズの物言いに腹を立てた竹平が、例えばこの山の中、単独行動を取ることがないように、場を穏便に済ませようとしている。――要は、そのくらい美津子の目に映る竹平は危ういということか。
 些か自尊心を傷つけられたが、余裕のなかった昨夜の自分を思えば致し方ない。
 けれど、今更ワーズの言葉で無謀に走るつもりのない竹平は、美津子を止めるべく口を開けた。経験上、この手のフォローをワーズに託すと、碌な言葉が出てこないと知っていたために。
 だが、遅かった。
「んー……確かに猫は泉嬢を助けるつもりではあるけど、本質的に縛られるのは嫌だからねぇ。実のところ、こうも思っているんじゃないかな?」
 そう前置いたワーズの続く言葉に、美津子は絶句し、竹平はやはり碌なものではないと目を逸らした。

 ――いっそ、死んでくれたらいいのに。

「え……?」
 背後からかかる声に振り返った泉は、緋鳥の口元がニヤリと笑むのを見た。
 いつ、と断言するには吹雪と光る雪のせいで定かではない時間。シウォンの姿が人間に似たものへ変化しているため、夜でないことは確かだが。出発の前にたき火の後始末をする史歩から、少し離れたところでこれを見ていた泉は、離れてしまったワーズたちのことを考えていた。
 それがいつの間にか声に出ていたらしい。
 虚弱体質のフェイは緋鳥なしでも大丈夫か、緋鳥もきっと心配だろう――
 呟きは決して大きくなかったはずだが、合成獣である緋鳥には人狼の特性もあるのかもしれない。
 思考に突如加わった声への驚きと、それを上回る内容に大きく息を呑めば、泉の反応を楽しむていで間を置いた緋鳥が再度言う。
「いっそ死んでおれば気が楽になる、と申しました。そうすれば、アレの生死を気にする必要もなくなりましょう?」
「それは……」
 返せる言葉もなく口ごもる。言わんとしている意味を理解できないわけではないが、肯定できるものではない。泉は首を振りかけ、
「だーから! コイツには気安く近づくなと言っただろうが!」
「ぐげっ」
 コートの首根っこが後ろに引かれ、袴姿の背後に回される。
 首は絞まらないまでも、そこそこの苦しさから咳き込む泉を余所に、刃に似た鋭い眼光を緋鳥へ向ける史歩。たき火の光を失った洞窟内で、頬に掛かる髪の先の炎に照らされた横顔は美しいが、凍てつく怒気に寒々しい場所と色も相まって、空恐ろしい。
 これを真っ向から受けた緋鳥は、しかし、元々視力がないためか、それとも別の思惑があってか、そんな史歩を鼻で笑うと、洞窟の壁際まで去っていく。その近くでは、シウォンを介抱するエンが、心配そうに緋鳥を見つめていた。
(なんだか……昨日より空気が重いような)
 一通り咳をした泉は、姿勢を戻しながら史歩と緋鳥、二人の様子を伺う。
 仲が良くない、いや、とても悪いことは昨夜のやり取りで十分思い知った。けれど、今この場に流れている空気は、昨夜のソレよりも増して息苦しい。
 一体いつ、ここまで悪化したのか。
 考えるまでもなく、泉が眠った後というのは分かるのだが、理由についてはとんと見当がつかない。
「……さてと。で、どうする、綾音?」
「…………へ?」
 仕切り直すように話を振られ、泉の目が丸くなる。
 どう、とは? と言わんばかりのソレに柳眉を寄せた史歩が、呆れた声で言う。
「お前……もしかして、何も考えてなかったのか? 珍しく真面目な顔で思案していると思ったんだが。いつものようにぼーっとしていただけか。まあ、この状況下でそれが出来るってのは、それはそれで大したもんだが」
「考えるって……ええと、何をでしょうか?」
 どさくさに紛れて貶されたことには引っかかりを覚えつつも、史歩の口振りでは、泉には何か考えて然るべき事柄があったらしい。かといってコレというものもなく素直に問えば、ますます眉間に皺を作った史歩が言った。
「これからのことだ。簡潔に言えば、芥屋に戻るのか、それとも店主との合流を目指すか」
「え……それって私が考えること、いえ、決めることなんですか?」
 正直、この中で一番発言権がないと思っていた泉。何せ自分は騒山のことを全く知らず、一人で切り抜けられる術も持っていない。
 そして、そんな泉が頼れるのは史歩だけだ。シウォン、緋鳥は言わずもがな、エンとて明かされた正体抜きにしても、興味を引くものがあればそちらへ熱中してしまうのだから、助けは望めないだろう。
 頼る前提の自分が、勝手に決められるものなどあるものか。
 しかしそんな泉の返答に史歩が変な顔をした。
「お前以外の誰が決めるんだ? エンか? シウォンか? 緋鳥か? 嫌だぞ、私は。奴らのことなぞ知ったことか」
「いえ、そうではなくて史歩さんが」
「何だって私が決めねばならんのだ」
「ええっ」
 あっさりと放棄された決定権。
 思わず一歩後ずされば、史歩が面倒臭そうに薄衣越しの頭を掻く。
「あのな。言っておくが、私はお前らを追って騒山に登ったんだぞ?」
「へ? どうしてそんな?」
「そりゃお前――いや、それは今どうでもいい。とにかく、そういうわけで、お前が行くところが私の行くところになるんだよ。分かったらさっさと決めろ。分からなくてもさっさと決めろ。決めないなら斬り捨てる」
(な、なんて滅茶苦茶な……)
 話したくないことがあるのか、手間だと思ったのか、それとも両方か。
 判別はできないものの、柄に添えられた手の動きは、間違いなく抜く直前のソレであり、泉は先に挙げられた二択を思い浮かべた。
 そして、選択する。
「それじゃあ、ワーズさんたちと合流で」
「ほう?」
 選択だけではダメらしい。
 興味深そうに片眉を上げた史歩だが、その手は柄から動かない。
「ええと、ほら、変動に巻き込まれたって言っても生きてますし、もしかしたら、影解妖探し続けているかもしれないじゃないですか。それなのに、私一人が芥屋に帰っちゃうのは悪い気がして」
「すでに死んでいると思われているかもしれないぞ?」
「それならそれで良いんです。……いえ、少しはショックですけど、先に帰っているよりはいいかなーって」
「軽いな。言っておくが、後で変更できると思うなよ? それでなくとも騒山は厄介なんだ。コロコロ目標を変えられては対処しきれん」
 青い炎を受け、いつもより鋭く光る刃に似た瞳。
 探るような物言いは、泉の考えが揺るぎないものか、確かめるためだったらしい。
 理解しては、頷く。
「はい」
 そっと触れる、コートの胸元。
 心音を確かめるようでいて、手袋越しにひんやりとした質感を思い、告げる。
「たぶん、ワーズさんは探していると思いますから」
 予測を頭に置いた言葉だが、泉の声に迷いはない。
 これを受け、ようやく刀から手を引いた史歩が頷いた。
「よし、ならば店主との合流を目指そう」
 やけにはっきり言い切る史歩に、泉が怪訝な顔になった。
 今更気づく違和感。
「あの……決めてから聞くのもなんですけど、史歩さんはワーズさんたちと合流できる場所に当てがあるんですか?」
 一度として史歩の口からワーズたちを「探す」という言葉は聞いていない。
 そのことを指摘したなら、史歩がふっと口元を笑ませた。
「ああ。変動が起こって秋山が奥に移動した。その状態で影解妖を求めるならば目指す場所は一つ。騒山最奥の渓谷、世の果てだ」
「世の、果て……って、あれ!?」
 言葉の響きをなぞっていれば、史歩の足が洞窟の奥を進もうとする。
「あの、史歩さん、こっちから行くんじゃ」
 そう泉が雪が降り積もる明るい出入り口を指差せば、史歩はちらりとこれを見、次いで自身の左頬を照らす炎へと視線を向けた。
「いや。本来ならばそうだが、今はまだ、使える路がある。上手くいけば、雪の中に出ることなく秋山へ行ける路がな」
「それって……」
 昨夜史歩が語っていたことを思い出す。
 詳細を理解するには至っていないが、史歩の髪の先の炎は、史歩をして面倒と言わしめる相手に本体を喰われている最中だという。これが消えるのは、本体が完全に喰われた時。
 そんな炎を確認し、「今はまだ」と時間が示されたなら、泉の言葉を待たず進み始めた史歩、その先の闇に、冷気とは違う寒気が泉の肌を粟立たせた。

 

 


UP 2021/04/05 かなぶん

 

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