妖精の章 七
にゅっとガラス戸から入って来たのは――
「……薔薇人間?」
ワーズに抱き締められたままの泉は、顔を覗かせた相手に対し、率直な感想を述べた。
似た種族がいるのかは知らないが、真っ赤な薔薇の塊がひとりで動く姿は、確かに泉の眼前にあり。
困惑して至近のへらり顔を赤くなりつつ見つめたなら、薔薇を捉える混沌の瞳が細くなった。
「花の匂いはキツいけど……お前、司楼・チオか?」
「はい、そうっす」
「……司楼、さん?」
なるほど言われてみれば、薔薇越しに聞こえるこの声は知り合いの人狼少年のモノである。
他の人狼がゆったりした着物を好むのに対し、スーツを愛用する司楼の姿を浮べた泉は、服に納まりきらなかった、寝癖のように飛び出る純白の毛並みに少しだけ笑い。
「すみません、ここに置かして貰いますね」
「はっ、人狼の持ち物なんか置かれちゃいい迷惑。止めてくれない?」
ワーズの嫌みったらしい言い方に、しかし、司楼は気にせず薔薇を置く素振り。
「まあまあ、いいじゃないすか。コレ、店主にじゃありませんし。店主には詫び状と腕一本、もう差し上げたでしょう?」
「……腕?」
どさっと音を立て、ガラス戸一杯に侵入してくる薔薇。
肝心の司楼の姿は未だ見えないが、泉の疑問へは答えが帰って来る。
「あれ? あん時、綾音サンもいたじゃないっすか。ほら、オレが親分引き摺ってった時、店主が箱を渡してたでしょ? あれ、親分の腕だったんすよ」
「……ちっ」
余計な事を――そう響く舌打ちにまたもワーズを見やるが、逸らされた視線は薔薇を射たまま。
拾って懐に入れた訳ではないと知った泉は、眉根を寄せて、黒い胸をぐっと押した。
容易く離れた身体に、一抹の寂しさが過ぎるものの、コレは自分の想いじゃないと頭を振り。
改めてワーズを見やれば、それでもまだ近い混沌の視線が向けられていた。
浮かぶ意は苦笑。
バレたかと悪戯っぽく映る笑みに、泉は瞬間的に頭を熱くし――すぐさま後悔に襲われる。
「それってつまり……シウォンさんからワーズさんに、ってことですか?」
交わした視線は逸らさず、蠢く薔薇の向こうに確認する泉。
「はい、そうっす」
間を置かない肯定を受けて、こげ茶の瞳が揺れた。
常時がどうあれ、拾った目的は食べるためではなかった。
……結果的に食べた事実は兎も角として。
問題は、疑うことなく、ワーズをそういう者と認識してしまったこと。
そして。
「泉嬢……君は本当にお人好しだねぇ? そんな申し訳ないって顔、しなくても良いのに。端的に言えば、確かにボクは拾って食べたんだ。シウォンの腕を、さ?」
何でもないことだと、肩を竦めるワーズ。
これを見て、やはり……と泉は思う。
やっぱり、この人は――
「ふひー……や、やっと出られ――って、あ、綾音サン!?」
「へ?」
沈む考えを押しのけ、悲鳴にも似た司楼の声が届いた。
向けば、薔薇から白い獣面を出した姿が、黒い爪で泉を指していた。
何をそんなに慌てるのか分からず、顔を身体の正面へ戻した泉は、
「わわっ!?」
いつの間にか座るワーズへ覆い被さろうとしている、彼の首へ回された自分の腕を知った。
どうやら注視した意識に、過剰反応を示した身体が勝手に動いた様子。
それならそれで、ワーズも何か行動を示してくれれば良いものを、何故か底意地悪い笑みを浮かべた黒い腕は、泉の背に回されており。
「で? お前はお取り込み中のトコに、何しに来たんだ?」
「うきゃっ!」
珍しく強引に引き寄せられた身体は、すっぽりとワーズの頭を抱いた。
シルクハットのツバに顎を乗せる形となった泉は、突然の動きについていけず、見えない襟元に冷ややかな柔らかさを感じては、顔を真っ赤に染め上げた。
次いで、司楼の驚愕の意を察したなら、否定を口にする。
「ち、違います、司楼さん! 誤解です! わ、ワーズさんは私のことなんて、人間のひとくくりで好きなだけであって!」
抱き合ったままでは、全く説得力のない自分の言葉に、けれど泉は妙に傷ついた。
人間好きを豪語しようとも、ワーズは人間が自分の意思で望まない限り、そーいった手は出さないのだ。
ならばこの格好は? と問われれば、単に目の前の人狼への嫌がらせに過ぎず。
要はダシに使われたも同然の体勢なのである。
だというのに、分かっているはずなのに、泉の胸は無駄に騒いでしまい、ワーズの耳がその近くにあると知っては、居た堪れない気分が増すばかり。
なので代わりに力一杯、薄っすら涙を浮かべて泉は叫んだ。
「私自身に興味なんかないんで――すぎゃっ!?」
と、いきなりシルクハット下に引き摺り込まれる顔。
黒い胸を押し付けられては、あやすように背が撫でられた。
「泉嬢? 叫んだら喉を痛めちゃうよ? それにさ、先に言うんだったら、ボクがどうのこうのより、泉嬢がどう思ってるかじゃないの?」
言われてみれば確かにそうかもしれないが、今の泉、それどころではなかった。
程好く硬い胸に、勢いよく顔面が叩きつけられたせいで、鼻を強かに打ちつけてしまったのである。
「〜〜〜〜っ」
赤くなった鼻と涙目を司楼の方へ向け、痛みなのか痒みなのか判別のつかない波が納まるのを待つ。
せめてもの反抗とばかりに、黒衣を両手でぎゅっと握り締めたなら、背中の手が止まった。
「んで、人狼。さっさと用件を終わらせろ。泉嬢は見ての通り、もう少しで寝るとこなんだからさ?」
「あー、そっか。店主の色恋沙汰なんざ見たことねぇから、柄にもなく驚いちまったけど、綾音サン、恋腐魚を喰わされてたんでしたっけ。今の見る限りじゃ、もう少しで効果終わりそうっすけど……あーっと、こういう時なんて言やいいんだっけ?……お悔やみ申し上げます?」
声は幾らか冷静さを取り戻したものの、司楼の動揺はだいぶ酷いらしい。
訂正する言葉も見当たらない節で、白い鼻面を黒い爪で軽く掻き。
その際、白いガーゼが、司楼の頬に貼られていると気づいた。
毛皮の白さで見えなかったらしい。
怪我でもしたのだろうかと泉が首を傾げたなら。
「ん、と……ああ、そうだ、綾音サン。こんな時になんですけど、この花、親分からっす」
「ほやぶん…………ぅあ、し、しふぉんさんですか?」
「…………誰っすか?」
潰れた鼻のせいで中途半端な発音になったところを、些か呆れた顔に迎えられてしまった。
察して、さらりと受け流す、ちょっとした気遣いが欲しかった泉は、少しばかり苛立つ。
が、すぐに思い直し、慌てて言った。
力強い声に合わせて、黒い服を握り締めつつ。
「あの、シウォンさんに、御免なさい、って伝えておいて下さい!」
――あなたの腕を美味しそうとか思ってしまって。
自分がそう思われるのは、洒落で通用しない場所柄、特に御免なので、こげ茶の瞳にこれ以上ないほどの真を込めて述べた。
すると、どういう訳か、司楼の黒い目が大きく見開かれ、大きく一歩、スーツ姿が仰け反った。
白い三角耳が薔薇に埋められても気にせず。
「なっ……ま、マジっすか!? オレにそれを伝えろって?」
「へ……? え、ええ、はい…………あ、もしかして、私からちゃんとお伝えした方が――」
「そ、それは勘弁して欲しいっす。親分、再起不能になっちまう……」
再起不能?
告げられた物々しい言に、泉の眉が寄った。
プライドの高いシウォンのこと、人間の小娘風情に、美味しそうと思われては、立つ瀬がないのかもしれない。
そんな考えに至れば、直接言わない方が得策かと思い。
謝罪の経緯を述べていない自分に気付かず、泉はワーズの腕の中で、どうしたものかと悩んだ。
傍から見れば――
お断りしたのだから、相手が再起不能になっても知ったことではない、大体私にはこの人がいるのよ!
――と、暗に語っていることも知らずに。
そしてその傍を信じた司楼は、泉の悩みが解決するのも待てず、わたわたした動きで懐から一枚、封筒を取り出した。
これをそのまま泉へ向け。
「は、早々と返答下さるより、こっちを先に読んで貰えませんか?」
駄目モトでも――黒い瞳に込められた思いは、泉へ伝わりはしたものの。
馬鹿にしているのかしら、と彼女は感じ。
「え……と、すみません」
素気無く払った。
がっくり肩を落とした司楼は、嘆きの声を上げた。
「そ、そんな。ようやく傷も完治してきたってのに……しかも断りなんか親分に伝えたら、今度こそ殺されちまう」
「殺され?……司楼さん、その怪我って、もしかしてシウォンさんが?」
泉が自身の頬を差して尋ねたなら、頬の白いガーゼを押さえた白い人狼は力なく首肯する。
「ええ、まあ……親分、最近荒れてるんすよ。恋腐魚のせいと分かって、だいぶ落ち着いたんですが、それでも万が一が在るかもしれないと。だのに、猫にマークされているから自分は行けない。で、オレに花と手紙を託されて……なのに、読んで貰えない」
ここで司楼は天井を仰いで嘆く。
「なんて……なんて可哀相なんだ――――オレ」
過剰演出だが、言葉には正真正銘の悲哀が含まれていた。
愚痴混じりの経緯は察せないものの、泉はもしかしてと思った。
もしかして司楼さん、忘れているのかしら?
意を決し、恥を暴露する面持ちで、おずおずと告げた。
「あの司楼さん? 私、奇人街の文字はまだ読めないんですけど……それに以前、文字が分かったとしても達筆だから、シウォンさんの手紙は読めないって」
「……あ。そういや前に、そんなことを聞いたような…………」
途端、戻ってきた白い獣面は、気まずそうに耳の裏を掻いた。
* * *
シウォンから贈られた巨大な花束は、結局、置き場がないという理由により、芥屋の商品となった。
贈られた泉と苦労して持ってきた司楼は、やるせない顔を浮べたが、提案した店主は「じゃあ捨てるかい?」と笑う。
「流石にそれは……」と濁したなら、「どっちも変わらないと思うんだけどねぇ」と返されて言葉を失った。
人間の身体は慮っても、心を考えないワーズが、元より気遣わない人狼の心を汲むような言を吐いたので。
言いようのない気まずさを感じた泉と司楼は、顔を見合わせて、どちらともなく一礼。
司楼の姿が見えなくなって後も、青果棚へ赤い花を並べるワーズを尻目に、泉は店の外を眺め続け――
「泉嬢?」
名を呼ばれると同時に閉まるガラス戸。
ねこだましの要領で、ぱちくり、目を瞬かせたなら、顎がくいっと掬われた。
「あ…………」
斜め上の口付けするような至近に、へらりと笑う白い面。
再来する火照りを感じ、逸らそうとした額が、冷たく硬い物に遮られた。
滑る前髪。
「あーあ。やっぱり赤くなってる。タオルで冷やすから、ソファに寝て?」
銃を携える親指の腹に撫でられ、潤んだ瞳が小さく頷いた。
離れて数歩、少しだけ覚束ない足取りに、黒い腕の支えが現れる。
支えられたところで、ふらふらした彼の動きに変わりなく、別の具合の変化を泉は味わい。
ソファに寝転んでは、皺くちゃの黒コートが掛けられた。
「待っててね」
白い大きな手に、軽く頭を撫でられる。
子どもに対するものとよく似た行為に、多少の不満が過ぎった。
そんな珍妙な自分の思いを払うべく、泉は別の話題を水の流れる音へ向けた。
「シウォンさん、まだ諦めてなかったんですね、猫のこと」
手紙の内容は、いつぞや猫を自由に操らんがため、泉を妻にと望んだ時と変わらず――否、アレよりだいぶ濃い文章で形成されていた。
掻い摘めば、泉への愛を存分に語った後で、叶えられない想いゆえに他で重ねてしまった事柄を懺悔、最後は縋るように逢いたいという想いが綴られており。
これ、本気だったらすっごく――――重い。
ぞぞぞと粟立つ背筋に、泉は相変わらず艶めかしい文章構成へ赤面。
司楼へ伝言を頼もうとしたなら、手紙でして欲しいと言われ、ワーズに代筆を頼んだ。
シウォンの手紙、その返事は。
“あなたの願いを叶えるつもりはありません”
猫に何かを頼む気はない。
そういう思いを書いて貰った泉。
けれど、司楼ばかりかワーズまでもが、「うわぁ……」と言いたげな顔つきになったのは気になった。
ひんやりとしたタオルが額に落ちる。
礼を言おうとしたなら、椅子の背を前にして座る、件の顔つきを笑いの中に浮かべたワーズが視界に入った。
誰かに対する同情を思わせるソレ。
まるで、嘲るような感覚に襲われ、泉は潤む瞳でムッとした表情を作る。
「……あの、さっきから何なんですか、その顔は。私、変なこと言っていますか?」
半ば挑戦的な態度で接すれば、苦笑の面持ちが、銃口でこめかみを小突いた。
言葉を探す素振りが数秒続き。
「んー……泉嬢ってさ?」
「はい?」
「恋腐魚の効果が残っている状態で聞くのも難だけど」
「だから何だって」
「誰かを好きになったことある? 勿論、恋に分類されるような好きって意味で」
尋ねられた事柄に、まず起こったのは絶句。
ワーズの口から色恋云々が吐かれる日が来るとは思わなかった。
次いで思い返される、過ぎ去った日々。
長い沈黙。
経て。
「…………………………わ、ワーズさんは?」
逆に問うことで逃げた。
ファーストキスは、ある意味間接的にワーズから受けるずっと前、元居た場所で経験していた泉。
しかして、詳しい状況は一切思い出せないでいる。
相手のことすら――
このため、それ以外に恋の感触を知らない泉は、問われても上手く答えられる術を知らず。
「ボク?………………たぶん、あるよ」
「!」
思いがけない言葉と柔らかな混沌の眼差しに、泉の息が詰まった。
まさかあるとは思わなかった――失礼極まりない話だが、泉はワーズをそういう目で見ていた。
特別に見つめる存在など、彼にはいない、と。
「そ、ですか…………でも、たぶん……?」
上擦る声、震える喉に、恋腐魚の効果のせいで自分はショックを受けていると判断する。
仮初の患う想いが、ワーズの言葉を認めたくないと、恋しい人の他方へ向けられる想いを拒否しているのだと。
自分自身の想いと、この動揺は関係ない――
至らせた結論に泉は知らず知らず、己が手を握り締めた。
そんな彼女へ、ワーズは僅かに柳眉を寄せ、静かに俯いた。
一瞬だけ見てしまった寂しげな微笑に、泉の瞳が開かれても、ツバの陰に隠れた混沌は何も捉えはしまい。
低い声音が血色を秘めた薄い唇を割る。
「たぶん……なんだ。ある、っていうより、あった、だから…………でも、そう、たぶんボクは」
ふと、上がった顔。
なのに泉にはその表情が見えなかった。
伸びる白い手の輪郭さえぼやけ。
額のタオルが少しだけ重みを増して、下にずれた。
乗じて閉じられた瞳から、暖かいモノがじわりとタオルへ滲んだ。
暗い中、軽い圧迫を感じる眼球の外で、耳朶に響く音がある。
「今でも彼女が好き……なんだろうねぇ?」
どくり、無機質に穿たれる心音。
耳を塞ぎたい衝動に駆られる熱は、しかし払われ、泉の意思でぎこちなく動いた両手は、タオルの上にある手へ重ねられる。
ビクッと震えが伝われば、自然、泉は口にしていた。
「御免なさい、ワーズさん。訊いてしまって……想い、出させてしまって」
うわ言のように、繰り返し繰り返し。
泉の耳が、小さく吐かれた息を捉えるまで。
繰り返し、ワーズへ謝罪の言葉は綴られた。
「ねえ、泉嬢?」
呼ばれて噤む唇。
下唇を薄く噛めば、両手を擦り抜け、タオルから頬へ滑る手が、やんわりと自虐を制す。
「彼女はさ、とても唄が好きだったんだ」
驚くほど温かな声音に、身体から力が抜けた。
タオルはそのまま、両手だけ下ろしたなら、席を立つ音の後で黒いコートの内へと招かれる。
傍らに膝をつく人の気配。
ふんわり撫でられる髪に涙が零れた。
すると、コレを吸い取ったタオルが外される。
闇に慣れた視界は、歪んだ光を映し。
「だから君はなるべく……特に、ボクと猫が居ないところでは、絶対――」
唄わないで?
その声は、音として届かず、光景として泉の脳裏に焼きついた。
酷く穏やかな混沌の眼は、意思と意思に寄らぬ熱の合間で疲弊し、眠りに落ちる寸前の彼女へ告ぐ。
まじないのように。
もう、唄ってはいけないよ。
もう、ささやかな音色さえ、奏でられる安全な場所はないから。
あれだけ騒ぎ続けて、気付かない『ヤツ』じゃない。
『アレ』は今でも君を忘れていないんだ。
『アレ』は今も、君を探しているんだ。
『アレ』は尚も、君を望んでいる。
だから、ねえ?
唄わないで。
君の唄は招いてしまうから。
誰も望まない『禍』を。
――でも。
憶えておいて?
ボクのキミ。
キミの唄は嫌いじゃないんだ。
だけど。
嫌いじゃないけど。
キミが唄ったなら。
ボクらは決して、キミを守れない。
だって。
ダッテ、ね?
仕方がナイんだよ。
守れるハズもないんだ。
だってサ。
だって。
ぼくハ。
キミを。
必ズ――……
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