人魚の章 十一

 

「ラオっ、ラオっ、ラオっ、ラオっ、ラオっ……!」

 軋む音が聞こえそうなほど噛み締められた、剥きだしの歯。口の端からは泡が溢れ、赤い髭の上でも判別出来る朱が滲み始める。繰り返される声音は、深い憎悪そのもの。
 反して、響きはどこか機械的であり、口元以外に感情らしい感情が伴わない。
 虚脱とは違う無機質な光は、萎縮する泉を射貫きながらも、どこか別の場所を見ているように遠く、青い瞳は底なしの穴を覗くに似て昏い。
 人間、ではない。
 泉はキフが自分とは異なる種に属するのだと、まざまざと見せつけられた気がした。
 それも、自分より遥か上位に君臨すべき存在だと――。
「っか……!?」
 不意に、怯える泉の喉から生じた音。
「うわっ、す、すまない、お嬢さん!」
 途端、いつもの雰囲気を取り戻したキフが、顔色を青くしてこちらへ手を伸ばしてくる。
 両肩が掴まれ、泉の視界が大きく揺れた。
 まるで、ふらついた身体を支えられたかのように。
 否、現実に泉の身体は倒れようとしていた。
(なに、わたし……?)
 自分の身体のことだというのに、遅れて気づく、感覚の鈍さ。
 意識は驚くほど鮮明。なのに、勝手に震え始めた身体は全く言うことを聞いてくれない。
 知らず首を覆う両手は、口の端から涎が垂れても、そこに留まったまま。
 みっともない。
 そんな風に思ったなら、徐々に意識が遠ざかり、温かな闇が瞼を重くさせる。
 過ぎる、現在の時刻。
 正確な時間は奇人街において意味をなさないが、空の色は夜を知らしめていた。
(もしかして、思ったより遅い時間なのかしら。だから、眠い……?)
 結論づける合間にも、とろとろ堕ちる意識。
 そこへ切迫した声が届く。
「お嬢さん! しっかりしたまえ、息をするんだ!」
(……い、き…………)
 回らない頭に浮かぶ、腹式と胸式、二つの呼吸法。
 音楽の授業で唄を歌うなら腹式の方が良いと習い、試しに発声した時を思い出す。
 伸びやかに奏でられた音色。
 確かな手応えと充足感は、子どもの声量と侮った教師のしかめっ面に迎えられ、泉に人前で歌うことを止めさせた。
 それでも唄は好きだったから、誰も居ないところで一人、歌ったものだ。
 ――自分の存在を証明するように。
 記憶に喚起されて拳を握れば、闇の中でぺしっと軽く張られた頬。
「ぃっ……ぁっ!?」
 反射的にまとわりつく倦怠を振り払い、身を起こして上げた、第一声。腹から出したつもりだが、喘ぎが起こり、咳が続く。合間を縫い、新鮮な空気が次から次へと肺に送られる。その勢いに気圧され、地面へ手をつくが咳は収まらず、涙と涎が手の横を濡らした。
「あ、危なかった。……いや、本当にすまない、お嬢さん。おじさんの怒気に当てられてしまったんだね。でも、もう息もちゃんと出来てるし……。辛いかもしれないけど、すぐ楽になるから」
「……わ、たし?」
 ぜえぜえ息をすればするほど、鼓動に併せて頭が鈍痛を訴える。
 涙で歪む視界の中、キフが申し訳なさそうな顔をしているように見えた。
「すまなかったね。おじさんもまだまだ青くて。齢を重ねてきたはずなのに、感情のコントロールがなってないとは情けない」
「っぃえ! でも……、キフさんって……」
 絶え絶えに問えば、意図は伝わったらしく、強い困惑が返ってくる。
「どう言ったものか。……あー実はね、おじさん、自分の種族はあまり好きではないのだよ。今みたいに感情に流されると、周囲の行動を勝手に制限してしまうんだ。望むと望まざるとに関わらず、ね。しかも今回、奴を見た、お嬢さんの目を見て……見ることを強要して、他を許さなかったから、お嬢さんの身体が呼吸を失くしてしまった。本当に、すまない」
 酔っていたとは思えないほど真摯に謝罪し、頭を下げるキフ。
 呼吸が落ち着いてきた泉は、手を振ることでこれを宥め キフは不思議そうに問う。
「お嬢さん、君は…………何というか、恐れないのだね? 化け物と罵っても良いのだよ? 感情にまかせて殴ってくれても構わない」
 それは今更の話だった。
 奇人街に来てよりこの方、人間外の化け物にどれほど遭ってきたことか。
 けれどきっと、キフが言いたいのはそういうことではないのだろう。
 奇人街の中でも、特に異質な種族――それがキフの属する種。
 そう理解は及べど、結局のところ、泉の考えは変わらない。
 少なくともキフは、泉を、その声を、言葉を、厭う者ではないのだから。
 あの一度の発声を境に、泉を音楽から遠ざけた教師とは違う。
 彼ラトハ――――
 沈む思い出に囚われた口元へ、肌触りの良い布が当てられる。驚いて視線を向ければ、全指に色とりどりの指輪を嵌めた無骨な手が、白いハンカチを握っていた。
 辿った先で、しゃがんだ中年が苦笑する。
「やれやれ。おじさんは女性には無害のつもりなんだが。……思い返せば君には酷いことをしているね。服にしてもかんざしにしても。果ては窒息寸前まで追いつめて、唾液塗れにして泣かせて」
「…………そう、ですね」
 続きそうな謝罪を遮り肯定すれば、わざとらしくキフの太い眉がハの字を描く。
「ああ、本当にお嬢さんはつれないねぇ。しかも、とても良い子だ」
 ハンカチが押しつけられ、受け取ったなら軽く叩く仕草で頭を撫でられる。
 労わるソレに、思わず泉は言ってしまった。
「キフさんて……なんだかワーズさんに似てるんですね――――って!」
 慌てて口を塞ぐが、時、すでに遅し。
 キフが人間ではないと理解した上での発言にしては迂闊が過ぎた。奇人街の住人の中で上げるにしても、絶対喜ばれない、寧ろ殺意を抱かれそうな人名だろう。ワーズの嫌われっぷりを思い起こせば、ラオの比ではすまない。
 けれど、中年の顔に生じたのは、驚きと苦笑と――表せない何か。
 ごちゃ混ぜの感情を恥じるかのように赤い頭頂部が向けられ、その肩がクツクツ揺れた。
「あ、あの……」
 困惑しておろおろ手を伸ばせば、キフが勢いよく立ち上がる。
 俯いた表情は目元に置かれた手で見えなかった。
「ふむ…………お嬢さんは、なかなか面白い子のようだ。さすが、おじさんの娘」
「いえ、あなたの娘になった憶えはありません」
 そこはきっぱり否定する泉。
 のろのろ立ち上がり、ふと手元のハンカチへ視線を落とす。
 弱々しい街灯に浸食された闇間で、ナメクジが這ったような跡が光る。
「うわ……。すみません、キフさん。これ…………あれ?」
 恥ずかしいが、言わないわけにはいかない。そう思って顔を上げたなら、そこにいるはずの中年の姿は、遥か遠くの闇の中。辛うじて分かる、上げられた両手には、泉の服であった布がはためいていた。
 今更叫ぶ気力もなく、茫然と見つめる泉。
 ふざけた格好は、いつかの幽鬼に追われた際、パパと呼ぶよう強要しておきながら、泉を一人置いて逃げた姿によく似ていた。
(まさかっ!?)
 遅れた気づきに急いで振り向く。しかし、そこに生白い裸体は見当たらず、幽鬼が出現した時の異質な静寂も耳には届かず、ただ遠い喧噪が夜気に紛れるのみ。それでも用心するに越したことはないと、念入りに周囲を見渡してみるものの、キフがあんな格好で逃げゆく要因は分からないまま。
 はてなマークを余すことなく頭に浮べた泉は、再度キフが去った方を振り向き、
「わわっ!? い、いつの間に!?」
「む……? おお、これはこれは」
 先ほどまでいなかったはずの小柄な影が、背中に生えた羽を折り畳み、泉へ顔を突きつけた。驚いて身を竦めれば、目深帽の下で、牙を持つ大きな口がにぃっと笑む。
「綾音様……に、相違ありませぬな?」
「そ、そういうあなたは……緋鳥、さん?」
「然り」
 言って背後にステップを踏み、くるりと回ってそのまま一礼。
 踊る優雅さに目を瞬かせた泉は、意味もなく感嘆の声を上げて拍手をした。
 これを受けて緋鳥は再度礼の形を取り、解いて後、こてんと首を傾げた。
「はて? 綾音様、斯様な時刻に人狼どものねぐらでいかがされましたか?」
「じ、人狼の、ねぐら?」
 不穏な響きに、泉は建物から一歩、柵へと身を寄せた。
 シウォンのいる場所からだいぶ離れたと思っていたが、緋鳥の言葉をそのまま受け取るなら、ここはまだシウォン――人狼の縄張りということになる。言われてみれば、代わり映えのしない景色、いつまでも遠い街の喧騒は、この場所をひと括りに分類できそうなものだが、それが人狼のモノとは。
 ランという例外はあれど、何かと因縁深い種族を浮かべて建物をちらりと見たなら、先ほどまでなかった威圧感に喉が鳴った。心なしか、街灯に照らされた外観が、一回り大きくなったようにさえ思える。
 そんな泉に対し、一つ頷いた緋鳥は、人狼の爪を持つ人の手を伸べてきた。
「え……と?」
「濡らして参りましょうか? その口元、不快でございましょう。幸い、水路はすぐそこ。我が羽ばたきなれば、容易く水を含ませられますゆえ」
「あ…………はい」
 人狼と聞いて竦んだ身体はあまり考えず、ハンカチを緋鳥へ渡す。
 一層笑みを深めた緋鳥は、「では」と言ってまた羽を展開するが、建物に釘づけとなっている泉の目には映らない。
 彼女の頭を占めるのは、ただただ、人狼のことのみ。
 種としての気性の荒さや、個としてのランやシウォン、力としてのキフが現れる前に見た人狼の凶悪な雰囲気。ねぐらと言うからには、それら全てを内包しているのが当然で、知らず知らず奥歯が鳴り始める。
 その肩に、ふんわり、重みが乗った。
「え?」
 微かな温もりを持つ感触に戸惑いながら触れれば、鋭い爪が顎を捉えた。
 咄嗟に振り払おうとするが、くいっと上に背けられた先で、タンクトップ姿の少女を逆さに認めて泉の目が丸くなる。
「緋鳥さん……?」
 ではこの肩にあるのは、彼女が着ていたジャケットなのか。
 上を向かされている現在、確かめようもないが。
「しばしのご辛抱を」
 柵の上にでも立っているのだろう、緋鳥に背後から覗き込まれ、ジャケットを落さぬよう掴んで身動きを忘れてしまったなら、唇に触れる、柔らかく濡れた感触。
「ひゃっ!?」
 しっとりした冷ややかさは、意地汚い店主が舐め取り食んだモノに酷似しており、濡れたハンカチと分かっていても、段々泉の顔を染め上げてしまう。
「ほほう? 綾音様はこの手の攻め方を好まれる体質ですかな? 辛い姿勢を強要されつつ頬を蒸気させるとは……さしずめ被虐性愛者、いわゆるマゾ」
「違いますっ! どうして書体も違う奇人街にそんな言葉があるんですか!?」
 顎を捉える爪を払い除け、顔を真っ赤にして否定する泉。
 緋鳥は柵から地へ降りると、ハンカチをごそごそ仕舞いこんではにんまり笑う。
「さて? どうしてと問われましても、私めは若輩ゆえ、存じませぬが……しかし、こうも必死に否定されますと、図星と確信しますが、如何でしょう?」
「違いますっ!」
「では、その顔の火照りは如何な理由で?」
「これはワーズさんにされたことを思い出しただけで、別に苦しかったからじゃ」
「…………ほっほう? つまり……あの方から接吻を受けた、と?」
「せっ!?」
 自分でどう解釈していようとも、他から指摘されれば狼狽えるしかない。
 絶句ついでに益々顔を赤らめて俯いた泉は、緋鳥の怪しい動きに気づかず。
「そのご様子では、真実と推察しますが……ふむ」
「…………」
 追いつめられた気分で何も言い返せない泉は、地に這わせた視線をせわしなく動かすばかり。嘘でも良いから否定すれば良いものを、初動を間違えては肯定したも同然だ。
 と、その腕をジャケット越しに突然掴まれ、何と思う暇もなく、身体がくるりと回り、柵を背にして押し倒された。
「ひ、緋鳥さん!?」
 ようやく名前だけを口にしたなら、生暖かい吐息が唇を湿らせた。
「ふふふふふ……綾音様。ハンカチは頂きましたが、口元の不快は払拭されましたでしょう? それでおあいこ」
 渡しただけのつもりだったが、知らない内にハンカチはあげた物として、緋鳥の中で処理されてしまったらしい。
 あげた物でもなければ、泉の物でもない、そう口にする間もなく緋鳥は続ける。
「……なればそのジャケット、献上致しまする。ですから」
 泉に添うた小柄な身体が重みを増したかのように、こちらの身体を地へ縫いつける。
 両腕は緋鳥の両手に押さえつけられ、指が辛うじて動くのみ。
 そんな状態で、至近に迫る緋鳥の口元には、涎が溢れ出し、いさめる舌がべろりと自身の唇を舐めた。
「御身に注がれし店主様が御好意、私めにも一つ、賞味の機会をば」
「ひ、ひぃっ!? す、ストップ緋鳥さん! あ、あなた女の子!」
「然り。そして綾音様は女人。しかしてそれが、何の憚りとなりましょうや。なに、ご心配めさるるな。私めは男女も齢も種も、受け攻めもこなせる器用者。見たところ初なる綾音様におかれましては、多分にご満足いただけるかと。もちろん、玄人でも自負するところではございますが」
「め、滅茶苦茶……いや、でもっ、そ、そういうのはやっぱり、本人同士の同意があって初めて行うべきであって!?」
 ハアハアと、眼前から零れる変質者の高い声に、シウォンが近づいた時でさえ極端には変わらなかった顔色が真っ青に染められる。
 短い悲鳴を上げても逃げられず、最後にはぎゅっと力一杯目を閉じる泉。
 けれど、その時はいつまで経っても訪れなかった。
 助かった、と思いたい反面、油断させて、という可能性を捨てきれない泉は薄く目を開ける。
 最中、布の裂かれる音と共に、泉の膝下が涼しくなった。
「なっ――――った!?」
 驚いてそちらへ目を向けようとするが、抉るような痺れに襲われては、身を仰け反らせ、背後の柵へ頭をぶつけた。幸か不幸か、結わえられた髪が衝撃を吸収したが、今度はぞくりとさせる感覚が泉を襲う。
 頭を抑えつつ、今一度、その場所へ視線を投じたなら、泉の膝を口づけながら舐めとる緋鳥の姿があった。
「!」
 言葉を失くして足を引っ込めようにも、執拗に口づける緋鳥の爪が許さない。
「な、なななななななにをしてるんです、か……ひ、緋鳥ひゃんっ!?」
 青褪め赤らみ、混乱の合間を縫ってやってくる感覚に身を捩り、柵へ縋りつく泉。
 どう見ても自分より年下の少女の、色々危ない舌遣いに翻弄され、変な声が出てしまう。
 痛かったり痒かったりくすぐったかったり――
 最終的に爪が白くなるまで柵を握り締めつつ、口にはもう片方の手を当てて堪える。
「ふむ、なかなかの味わい。……おや?」
 ぺろりと舐めて顔を上げた緋鳥は、泉の様子を始めて知った素振りで首を傾げた。
「どうかなさいましたか、綾音様」
「ど、どうって! ひ、緋鳥さんこそ、人の足で何を!?」
「……おっと、失礼致しました」
 ぱっとようやく爪から解放された足を引きずり寄せ、羞恥から潤んだ目を膝へ向ければ、擦り傷らしき痕がある。見覚えのないそれは、触らなければ分からぬほど些細な痛みを伝えてきた。
 舐められたがための……
 途端、冷たいモノがさっと背筋に落ちる。
 そんな泉へ、緋鳥は満足そうに口元を拭った。
「いやいや。所詮は人間と侮っておりましたが、綾音様は美味なるお方なのですな? 芥屋の店頭に貴女様がお並びになられれば、バラで売って欲しいと思う輩は相当数出てきましょう。ううむ、芥屋の食材に人間がないのを心底悔やむ日が来ようとは」
「…………」
 もう、満足に言葉も発せられない。
 ぱくぱく開いては閉じるを繰り返す口は、緋鳥が立ち上がったことにより、歯を盛大に打ち鳴らして止まった。
(こ、殺される――――ううん、食べられちゃう!?)
 人狼の爪を持つ緋鳥だ。
 捌くのはその身一つで簡単に為せてしまうだろう。
 違う理由から、またも柵へ縋れば、緋鳥が深々とため息を吐いた。
「いやしかし、店主様が従業員とお決めになったお方なれば、手の出しようはありますまい。例え……彼のお方がいなくとも、綾音様に手出しはできぬ。他なれば――……」
 独り言の割に大きい声だが内容は最後まで聞き取れず、泉が眉を顰めたなら差し伸べられる手。ほとんどまな板の上の鯉状態の泉は、拒むことなくそれを掴み、立たされては放された。
「…………へ?」
「むむ? 如何されましたか、綾音様?」
 てっきり何かしらの危害を加えられると思っていただけに、あっさり手放した緋鳥が信じられずに、つい。
「私……食べられちゃうんじゃ」
 すると、緋鳥は一瞬、惚けたように口を開き、やがては深い凄絶な笑みを刻んだ。
「ほう?……それは即ち、貴女様を食しても構わぬという許し、ですかな?」
 じゃきっと不要な効果音を立てて天へ向けられる爪先と、じゅるじゅる垂れゆく涎。
 それを認めた泉も一瞬惚けて後、思いっきり首と手を横に振り、否定を叫ぶ。

 

 


UP 2008/8/29 かなぶん

加筆・修正 2020/11/21

 

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