人魚の章 十三

 

 問いが役に立つのは、相手が言葉の通じる相手で、且つ、答える気がある場合のみ。

「ひぇっ!?」
「ちっ、外したか」
 舌打ちする声はあれど、何故かそこに愉しむ色を感じて、泉は柵沿いを走りながら青褪める。
 振り返れば、遠く、歩み寄る人狼の姿がある。
 街灯の影で遊ぶのは、人狼の手の中を上下する石。
 それが大きく仰け反ったのを受けて、泉の身に緊張が走った。
 人狼の身体が元に戻った瞬間、宙にあった足を無理矢理斜め前へ着地させた。
 ほぼ同時に、ぼすっと穿たれた穴には、石。
 まともに当たれば、最悪骨折してしまいそうな投石は、同じ舌打ちをする人狼からもたらされたと察せるモノ。
 けれど、理由が分からない。
「……ううん、理由なんてないのよ、きっと」
 結論づけ、震えて止まりそうになる足を叩いて走る泉。
 緋鳥と別れてから一定のペースを保って走り、疲れては歩みに変え――程なく。
 前触れもなしに石が投げつけられ、今に至る。
 外しては舌打ちを繰り返すだけの人狼へ、問うことはしなかった。
 これまでの経験上、どうせ答えは得られない、と逃げに徹しているわけだが、問わない理由は他にもある。
 おかしいのだ、人狼の視線が。
 石の標的は泉で間違いないはずなのに、向けられる熱は泉を通り越した別にある様子。
 それでも執拗にこちらへ投げつけては、避けられ、舌打ちし――――
 理解できぬまま繰り返す動作は、次第に泉を別の疑問へと誘う。
(どうして私、石を避けていられるのかしら?)
 答えの出ない、内へ向けた問いの最中にも、投げられた石を勝手に避ける身体。
 不可思議な現象は、幽鬼に襲われた際にもあった。
 緩慢な動きながら避けることの難しい、その最初の一撃。
 死角から放たれたにも関わらず避けられた俊敏さは、今の己にはないもの。
 惰性の暮らしに慣れてしまった身には――
(しまったっ!)
 不意にそう感じたなら、肩に衝撃。
「っぁ!」
 詰まった声は空気を絡ませ、それでも走り続ければ、口笛が涼やかな夜風に乗って届く。
「おお、ようやく当ったりぃ! でも、しんどいなぁ。大体、身体つきからして女なのに、ただ殺すってのもな……とと、いけねぇいけねぇ。変な欲出したら、せっかくの御馳走にありつけねぇ――――そぉれ」
「くっ!」
 やる気のない掛け声の割に、投石は速さを増し、打撃ならではの鈍痛に呻きながら避ける。
「あっれぇ? また当たると思ったんだが……どうも上手くいかねぇ。本当に人間か?」
「…………」
 聞こえて来た内容に、束の間状況を忘れてショックを受ける。
 よりにもよって、苦手とする人狼から人間かどうかを疑われるなど。
 そう思ったなら、またショックが深まった。
 いつの間にか、人狼の位置づけが嫌悪から苦手に弱まっている。
 何故と己に問わずとも分かるのは、関われば関わるほど、奇人街という奇異な場所ゆえに、彼らが普通である認識を泉が持ってしまったため。
 ランのように同族を嫌い、面倒臭がりながらも助力しようとする者。
 シウォンのように強引に誘っては、勝手に寝腐る者。
 キフのように酔っ払い、かと思えば怒り、戸惑い、謝罪し、逃げる者。
 緋鳥のように恋を追いかけ、寄り道しては目的を忘れる者。
 害意があるかないか。
 紙一重の関係は、希薄であっても泉の元いた場所にもあり、度合いは違えど、変わらぬ根本の性質は気づけばとても新鮮で心地良く――――

 ばすんっと思考を遮る音が耳朶を打つ。

「うう……余計なことっ、考えてる暇っ、ないっ――ぃたい……」
 じんわり滲む涙を瞬きの数度で払い、なおも走っては避けを繰り返す。
 目前、現れたのは、奇人街の夜を妖しい光で彩る屋台群。
 とはいえ、久々の眩さに、助かった、と感じられないのがこの街である。
「とっ」
 また投石の気配を感じて、肩の痛みに耐えつつ身を翻す。
「ごはっ!?」
 突然、そんな声が流した石の着地点に響いた。
 さっと青みを増した泉は振り返るが、石に当たったと思しき、こちらも人狼の男が睨むのは、石を飛ばした人狼の方。
「てめぇっ!」
「うわっ、ちょっと落ち着けって」
「黙れ! 青二才がっ!」
 さすが人狼同士というべきか、泉にはさっぱり分からない齢を罵倒に使い、殴りかかる被害者とへっぴり腰で避ける加害者。
 とばっちりを受けた被害者には悪いが、今の内に逃げた方が賢明である。
 なにせ、突如始まった喧嘩の華へ、野次馬が集中しているのだ。
 投石人狼が被害者から再起不能になるまで殴られようと、奇人街の、特に夜に息づく住人は危険極まりない存在。
 注意が逸らされている間に遠ざからねば、誰に捕まるか分からない。
 幸いなことに、誰も泉へ注意を向けず、中心たる暴力の響きへ吸い寄せられていく。
「…………これが、普通?」
 奇人街の普通を一応は納得したが、腑に落ちない点は数多あり、逃げながら独り言つ。
 人の波を数度乗り越えれば、今まで歩いてきた暗闇と街灯の列が続き、その斜め右に、ライトアップされたわけでもないのに、のっそりと生い茂る巨木の頭が見えた。
「ラオさん……もう少し!」
 逃げつ追われつやって来たため、目的の一つが視界に入ったなら、自然と緊張が解れるのは当然のこと。
 仕舞いには怒鳴り散らす声をバックミュージックに、安堵の息が吐かれ――
「緋鳥! 見つけたぞ!」
「いっ!?」
 いきなり横合いから伸びた手に、後ろへ振った右腕を取られて引き摺りこまれる。
 意味が分からず、痛みからの解放を得ようともがけば、ぎゅぅっと抱き締められた。
「ああっ緋鳥、私の可愛い小鳥。突然私を置いていってしまうから、捨てられたのかと思ったよ。さあ、家に帰って続きを愉しもうか」
「ぶべっ!? ちょ、待ってください! 私は緋鳥さんじゃありません!」
 厚い胸板から顔を上げ、埃っぽいニオイに咳き込めば、小さな角と長い髪を持った鬼火の男がいた。
 いつかの日に見た、人間の骨を部屋中に敷きつめた同じ種の男を思い出し、冗談じゃないと暴れても、鬼火は不思議そうな顔をするだけ。
 ジャケットのせいで緋鳥と間違われるにしても、かなり無理があるほど泉は彼女に似ていない。決定的に違う顔を見せつければ、本来あって然るべき驚きの反応があるだろうに、男はくてんと首を傾げると、泉を片腕で抱いたまま、その顎を持ち上げた。
「うん? 緋鳥、いつの間に人間になったのかな? 君は事ある毎に人間を弱者と蔑み嫌っていたのに…………そうか。新しい自虐の境地なんだね、その格好は。うん、とても似合う。可愛いよ、緋鳥」
「や、ですから!?」
 完璧酔っ払った物言いに泉が抗議すれば、鬼火の男は腰に回した腕を腹まで寄せた。
 さわさわと撫で回す感触がくすぐったくもいやらしく、泉は抵抗を試みるが敵わない。
「でも、さ。私は以前の君が好きだったな」
 いきなりの告白。
 予想だにしなかった展開についていけない泉。
 耳元に吐き出された吐息を拭うべく首を振ろうとしても、固定された顎が許さない。
 せめてもの抵抗に視線だけ男から逸らせば、その声だけが鮮明に届いた。
「そう、以前の、華奢で肉付きのよくない君が」
「っ!」
「がっ!?」
 百年の恋も液体窒素に浸された挙句、原子レベルで粉砕される続け様の告白に、泉の左拳が唸りを上げて男の腹を抉った。
 二つ折りになった身体を涙目で睨みつけ、解放を喜ぶに似た足取りで泉は巨木へ向かう。
 その際、ジャケットを男に投げつけて。
「私はっ、緋鳥さんじゃありませんっ!」
 鈍い痛みが右腕に生じるが、構わずそう叫んだ。

* * *

 最悪の目覚め。
 何が最悪かといえば、手にした温もりがいないことよりも、身代わりらしいクッションの、人型を想像しては頭部を喰いちぎられた無残な姿。
 身代わりだったからこうなったのか、初めてに近しいほどぐっすり眠れたゆえの寝相の悪さが為せる業か。
 図りかねて、それでも失われた事実に違いはなく、
「ちっ」
 拳をクッションの山へ押し付けたなら、衝撃を吸収できるはずのそれらは、一様に綿を飛び出させた。
 それだけでは飽き足らず、進行を妨げる球体を蹴りつける。
 壁に激突した球は、形を失くして染みを一つ作った。
 そうして憤りながらも思うのは、失われた温もりが向かう先。
(無事につけばいいが……)
 らしくないことを思い、鮮やかな緑が若干見開かれた。
 誘おうが跳ね除けられた身。
 逃げを予想してはいたものの、あくまで、予想。
 本当に逃げられるとは思ってもみなかった。
 己が無防備に眠る可能性も考えておらず。
 彼の娘に靴を履かせたのも、そんな外れるはずの予想がため。
「履かせない方が良かったか……?」
 そんな風に苦渋を示し、仰いだ天窓の光へ乳白の爪を翳す。
 他に勝る硬性と鋭利さを感じさせない、透き通るソレは、傾いた月を表すべく、じわじわと闇に呑まれてゆく。
 逆算して計る、寝入ってしまった時間。
 人間の娘の足であっても逃げるには充分と知る。
「…………今時分じゃ、人間でもあの爺ンとこまでは行ってるよな」
 靴がなければ、ねぐらからまだ出ていないだろうに。
 浅はかだったと思いかけ、それこそが浅はかと自嘲する。
 モノにする気はあったが、別段、傷をつけるつもりは最初からなかったのだ。

 娘には協力を――否、懐柔を求めていた。

 自信は、残念ながら、かなりあった。
 今まで大抵の女は靡いてきたし、靡かなかった女は、最初から異なる性癖を持つ者ばかり。
 中でもいい例が、神代史歩。
 人間の小娘でありながら、このシウォン・フーリと互角以上に渡り合える、抜き身そのものの存在。
 何の因果か猫にぞっこんという、人狼から見ても不気味な想いを抱く史歩は、芥屋の従業員という理由だけで誘うシウォンを鼻で笑って睨みつける。
 シウォンの方も、あれを女と見るよりは一介の剣客と認め、殺りあった方が愉しめそうだと結論付けた。
 交えた殺気はシウォンの身を幾度も震わせ、決して女を見出させない。
 しかして、眠るまで腕に抱いた娘は、ひと目はなくとも、容姿は具合の良い齢より若干幼かろうとも、確かによく知る女の反応を示していた。
 シウォンの種に並々ならぬ恐怖を感じている様子であったが、赤らむ顔、潤む瞳、逸る鼓動は心地良く、思い出せばシウォンの喉を勝手に鳴らす。
 摺り寄せた頭をこわごわ抱き締める拙さや、言葉の全てに一々反応する素直さ。
 包み込む甘美な芳香は、今まで嗅いできたどの香よりも酔わせ昂らせながら、反し、蕩けるような安堵を与えてくる。
 欲しい――と、シウォンをして思わせるほどに。
 理由など、決まっている。

 それらは全て、猫という存在がゆえ。

 人狼の中でも最大の群れを率いる狼首――シウォンでさえ恐れるべき猫を、彼の娘が操れる話があるからだ。
 でなければ、たかだか屠るだけの人間、しかも小娘一匹に、何故、数多の女を溺れさせてきた己が執着せねばならない…………
「全ては、猫を自在に操らんがため……」
 けれど、状況は確実に失敗を告げていた。
 だからこそ、シウォンは苛立ちに任せて扉を破壊し、外へ出た。
 弄る涼やかな夜風に巡る熱を沈めるべく目を閉じる。
 急に研ぎ澄まされる感覚が、立入を禁止した内側に二つの気配を捉えた。
 しかも記憶した憶えのあるこの気配は、狼首たる己の命に従うべき群れのもの。
「…………どこのどいつだ?」
 自分でも驚くほど、機嫌の悪い声が絞り出された。
 計画の破綻による苛立ちが、命令を破った気配へ向けられる。
 と、同時に、熟達でなければ察せないスピードで、音も立てずに移動。
 前方に、こちらへ背を向けた女と思しき二つの並ぶ影を認めては、そのスピードのまま、両方の肩を抱く。
「あぐっ……」
「がっ!?」
 各々、思い思いに呻きを上げ、項垂れようとする首を持ち上げて、睨みつける眼光を左右で受け止めた。
 それが徐々に驚き、恐れへと変貌し、揺れるのを嗤ってから、更に首を上げ――解放する。
「かはっ……くっ、か…………」
「ひっぃぐ……ぐぅ……」
 面白いほど別々の声を上げて個を主張しながら、狭まれた気道を確保しようと、同じようにへたり込んで咳き込む女たち。
 無様なその姿に溜飲を下げつつ、俯く両方の頭を側にしゃがんで掴み上げた。
「よぉ? てめぇら。誰の赦しを得てここにいる? 伝わってなかったのか、今晩、ここは使えねぇと?」
 優しくいたぶるネコ撫で声で覗けば、獣面の女たちに同族にしか分からない赤らみが宿る。
 痛めつけられて何が嬉しいのかさっぱり理解できないシウォンは、内心で舌打ちし、女たちの頭を投げ捨て立ち上がった。
 すると向けられる、潤んだエメラルドと薄茶の瞳。
「も、申し訳ありません、フーリ様」
「す、すみません、フーリ様」
 地べたに獣の毛に覆われようとも豊かな肢体を伏せ、項垂れる女たち。
 しおらしさは求めていないが、同族。
 不遜な陰に嗜虐的な好色が滲んできた。
 他種族であれば、ふとした拍子に腹を裂き腑を喰らいかねない情動だが、皮膚からして爪や歯に耐えうる同族ならば、発散しても問題あるまい。
「ほう……? 素直じゃねぇか。だが悪ぃと思ってるなら、罰を与えねばなるまい?」
 その言葉に、女たちが弾かれたように顔を上げた。
 恍惚に歪んだ顔つきを見て、シウォンはおや? と片眉を上げる。
 罰と言ったなら、大抵の奴は意味をそのまま捉えて青褪めるのだが、女たちの様子はシウォンが与えるといったその内容を理解しているらしい。
 男なら、言葉通り。
 女なら、モノによっては言葉通り、もしくは真逆の効果を受ける、罰。
(前科者か……なら、加減は必要ねぇな)
 もとより手加減なぞするつもりはない。
「くっ……」
 一つそう嗤えば、打ちひしがれていた姿はどこへやら、女たちは艶かしくシウォンの身に添うた。
 しなだれかかる重みが鬱陶しいと肩を抱いて剥がせば、片方の女の顔に、異様な紋が刻まれているのに気づく。
「……やっぱ止めだ。お前は咎めん」
「へ?――――っ!」
 惚ける身を引き、解放した手で女の頬を張った。
 無造作に払った力は女を跪かせ、乱れた赤毛の髪から傷ついた相貌が覗く。
「どうして……」
「どう、だぁ?……お前、俺に奴の足がついた顔で触れる気か? 大方、本能に突き動かされて、ランを誘ったんだろうが……薄汚れた面で近づくんじゃねぇよ」
「そ、そんなっ」
「ふふ……顔、洗った方がいいわよ?」
 忌々しい人狼の若造を浮べて睨めば、優越感に浸った女がシウォンの身にへばりついた。
 罰を与えるというのに、悦ぶ姿を認め、シウォンにふつりと皮肉な笑みが沸き起こる。
 余裕ぶっていられるのも今の内。
 ヘタすりゃ狂死しちまうかもしれねぇってのに。
 それほどまでにシウォンの気が立っているとは知らず、豊満な肉体を主張する甘えが嗤えた。
「――――っによ……何よ!」
「んん?」
 そうして女を残し、もう一方を連れ帰る気でいたなら、足跡女が殺意を漲らせる。
 シウォンではなく、しなだれかかる女へと。
「あああんたっ! あんただってそんな資格ないでしょ!? あんな男使ってさ!」
「っ! や、やめて」
 唾と共に吐き出される言葉へ、過敏な反応を示す女。
 青褪めてもなお図々しく、シウォンの肩を宥めるように手が這い、当のシウォンは傍観者気取りでこのやり取りを眺める。
「アイツ! 殺そうとしたくせに!」
「あんたも乗ったんだから同罪じゃないか……ね、ねえ、もうやめようよ」
「んん? 何の話だ? 俺にも聞かせろ。アイツって、誰だ?」
 気弱な声に煽られて首をつっ込めば、激昂していた女の顔から色が消えた。
 あからさまにほっとした女は、シウォンから離れて足跡女へ掛けようとし、
「おっと、逃げるんじゃねぇ。お前は俺と一緒に来るんだろう?」
「ぁんっ」
 その腕を引っ張り込んで抱き、さも女にしか気がないように見せつける。
 女も気丈に払えば良いものを、悪ノリが過ぎて艶かしい声を上げ、気づいた時にはもう遅い。

「アイツ……従業員、いたぶり殺せって言った――――――っ!」
「ば、バカ――――――!?」

 続く声音は息を詰めて失くし、代わりに地と壁に叩きつけられた埃が舞う。
 投げ捨てた女たちをつまらないと鼻白むこともせず、無表情のまま芥屋の方向を射抜くシウォン。
 神出鬼没な猫すら察知できる感覚を伸ばしても、彼の娘の気配は察せる距離になく――

「どういう経緯か……説明して貰おう」

 一層低い威圧を受け、瓦礫の中で女たちは萎縮する。

 

 


UP 2008/9/3 かなぶん

加筆・修正 2021/02/11

 

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