人魚の章 十五.五

 

 雑多な種が住まう奇人街において、一番多いのが人狼である。
 欲望に忠実な本性ゆえ、留まるところを知らず数増す彼らは、日中のほとんどを寝て過ごしている。
 理由は単に、本来の姿たる獣が夜を好むためだ。
 だが、群れ単位で行動する人狼にとって、奇人街は安息を得るに狭すぎた。
 広い路はあっても、人が多いせいか建物自体の規格は、一定を保っている奇人街の街並み。拡張するにしても室内の横幅が広がるだけで、もし仮に、路を圧迫する造りを実行しても、何のつもりか、本来であれば建造物に興味のない幽鬼が、路幅を確保するようにその部分を破壊してしまうのだ。
 ついでに、家を破壊された住人は逃げ場を失い、彼らの美味しい夕食となり果てる始末。
 ならばと数多く、群れたがりの人狼は、己が種の集う場を奇人街の地下へ求めた。
 地平を覆う奇人街とは異なり、大小様々な広さの空洞で構成されたそこは、洞穴と呼ばれる縄張りを作るのにも丁度良い場所。
 かくして地下を巡り、人狼の間で行われる、群れ同士の争い。
 それぞれの狼首から選ばれた地は、地上と錯覚してしまうほど広い、空洞の一つ。
 昼も夕もなく、そこで繰り広げられた戦いは、群れの狼首を幾度となく変え、また、離反・造反により、群れの数は終わりない争いを望むように増えていった。
 世の終わりまで続ける気概に陶酔しながら――

 けれど、何事にも終息は訪れる。

 ランタンを灯せば朱の霧と、ぬめる黒水が姿を現す、その中央。
 瓦礫のように積み上げられた屍を玉座とし、荒い呼気を鎮めた人狼は、他の狼首と対峙する。
 牙を剥き、また争おうとする彼らへ、けれど人狼は応じる様子なく、逆に旧友を向かえる風体で両手を広げ、問う。

 お前たちが欲しいのは、ココか?――と。

 それに対し、まず返されたのは笑い。
 次いで怒号と軽蔑。
 そして――――動揺。
 問われるまで、彼らはランタンが映し出した世界を見ていなかった。
 暗闇の中、地上から微かに届く明りだけを頼りに、血肉を沸き躍らせ酔う彼らが、その時になって初めて省みた空洞は、おびただしい数の同族の血と肉がひしめき合う、住まうには相応しくない場へと変貌を遂げていた。
 作り上げたのは自分たちであるにも関わらず、沈黙を保てば静寂しか耳を通らない死の世界に、彼らは本性のまま怯えてしまう。
 やがて一人がぽつり、言った。

 俺が欲しいのはココじゃない――と。

 初めの一人が出たなら、あとはなし崩しで続いてゆき、最後に残ったのは玉座の人狼と彼らの中でも年若かった男。
 残った彼を面白そうに眺めた人狼は、攻撃を仕掛けようとし、突然の平伏に驚いた。
 それがココ、虎狼公社と後に名付けられた洞穴の成り立ちであり、平伏した男は後に狼首となり…………

 そんな彼を己に重ねて、現在の虎狼公社の狼首と対峙する男は、若かった。
 だから何が何でも連れて行こうとする相手を宥め、自分からここに来た。
 自分の足、自分の意思で。
 器用にいなせる自信はあった。
 なにせ男は、あと一歩のところで、艶美な女を二人も自由にできたのだ。
 それに、原因は取るに足らない種の、それも彼の狼首が囲い女より遥かに劣る餓鬼一匹。
 最悪、骨を一本折られる程度だろう、と。

 だが、狼首を前に張った胸はすぐに咽せた。

 男が案内されたのは朱の瓦屋根と柱が美しい色合いを織り成す屋敷の奥。
 この部屋に辿り着くまで、重厚な扉を一つ潜る度、天井を飾る豪奢な灯の細工に魅せられたのは確かだが、だからといって、緊張すべき場面で咳き込んだ理由はただ一つ。
 室内が煙いのだ。
「うっ……げほっ、げぇっ」
 胃の内容物まで吐き出す勢いの咳は、肺に新鮮な酸素を求めるが、どれだけ吸い込んでも入ってくるのは甘ったるい煙混じりの空気。
 堪え切れない咳に、男は両膝をついて頭を垂れた。
 するとその耳に、ぞくりと粟立つ声が滑り込む。
「クク……煙は初めてかい、ボウヤ。そりゃあ悪いコトしたなぁ? だが諦めて貰おう。なんせここは入り組んだ屋敷でな。風の通りがすこぶる悪い」
 次いで誘惑するような痺れを与える吐息が為された。
 至近で発せられたと錯覚するそれに震えては、男の心情を如実に表すが如く、「きゃぁ」と甲高くも小さな嬌声が遠くに聞こえた。
「……やれやれ。お前ら、向こうへ行ってろ。俺は大切な客人を迎えている最中なんだぞ? 馬鹿みたいに騒ぎ立てられちゃ、話もまともにできねぇ……なぁ?」
「はっ」
 伏せたままの眼には深紅のカーペットしか映らないが、声の主の周りには誰かいるらしい。そこから同意を投げかけられ、まだ咳を続けていた男は条件反射で応える。
「ほらな?」
 これに気分を良くした声音が届き、恐る恐る男が顔を上げれば、たっぷり距離を置いた先に、金縁深紅の長椅子へ身を横たえる、声の主と思しき美丈夫と、恨めしげな視線をぶつけてくる女たちがいた。
 男を客人と称したくせに、右手を青黒い髪に埋め、左手で煙管を宙に遊ばせる美丈夫は、鮮やかな緑の双眸を他方へ向けては煙を気だるげに吐き出すだけで、男の存在を忘れたてい。
 女たちの方は、種族は雑多に、それぞれに麗しい容姿を持ちえながら、一様の憎悪を含ませた視線だけで、男を腰砕けにしてしまうほど妖艶。
(これが……虎狼公社の狼首とその囲い女…………)
 比ではないと、床に尻を打ちつけた男は思う。
 同時に、囲い女の内の二人とのひと時の約束を悦んだ、己の愚かさを知った。
 虎狼の囲い女――自らの意思で囲われるからこそ、より一層華やぐ女たち。
 もしこの場で、あの二人が狼首に添う中で、男へ声を掛けたなら…………
 想像だけで、男の全身を暴力的な波が、吐き気を喚起する甘さを伴って駆け巡った。
 そんな内側の余韻に浸った、酔っ払っただらしない視界の中では、女たちが男の内面を見透かした様子で侮蔑混じりに笑い、次々と長椅子奥の扉へ消えていく。
 残ったのは侍女と思しき中年女が一人と長椅子の前で左右、しなだれる女が二人。
 そして美丈夫が――この部屋、ひいては虎狼公社の狼首が無論、一人。
 これに男を合わせれば計五名、しばし、沈黙が室内を行き交う。
 その間も、視界を妖しく遮り咳を長引かせる煙は、何度も吸うては吐かれるを繰り返す。
 見るともなしに見てしまった唇は、同性だというのに男の心をざわめかせた。
 ともすれば、先程の女たちの比ではないほどに。
 けれど願う情欲は、被支配の方向を示す。
 じろり、突然にその眼光が男を射抜けば、最初の自信はどこへやら、男は臣下のように平伏した。
 それだけで脈動はえもいわれぬ昂りを男へもたらす。
 向けられる、第一声。
「……で、失敗したそうだな?」
「…………はい」
 フーッと吐かれた息の方向を察して、外された視線をもどかしく思いつつ、男は呻くような声で肯定する。
 忘れたわけではない。
 咎められるべく、自分はこの場にいるのだ。
 それも、どういう経緯かは知らないが、たかだか人間の小娘を一匹、嬲り殺そうとしただけで。
 失敗、したというのに。
 思い返せば、男の心を陶酔以外の感情が覆い始める。
 純然たる恐怖。
 奇人街を闊歩する猫の仕業を噂だけでしか知らない男にとって、猫より恐ろしいと刻み付けられた、力を具現化した容姿。

 我が種、最強の名である狡月(こうげつ)を掲げし男、ラン・ホングス。

 ぶるり、震えた。
 決して醜悪ではない凶悪な相貌は、なるほど確かに目の前の狼首よりも同族の女を惹きつけるだろうが、纏う雰囲気は何者をも寄せ付けない孤高を感じさせた。
 ――最強ではあっても、人狼の群れを統率する狼首にはなれないだろう、とも。
 それは、群れなす人狼という種に属する男にとって、何よりも不鮮明な感覚だった。
 畏怖すべき、もしくは忌むべき、本性に反する独立性。
「しかもラン・ホングス……奴相手に。立ち向かいもせず逃げた……」
 男の怯えをなぞるように、せせら笑う声が響き、またも男の身体が勝手に震えた。
 今度は、目の前にいる狼首に対して。
 クツクツ喉を鳴らす音はさも愉快そうだが、気配に剣呑が滲み始めている。
 逃げるくらいなら死ね――今から下される咎めが死、以上のモノであると言外に伝わる。
 思い起こされる、ラン・ホングスと狼首との因縁が、その咎めを現実に起こりうるものだと男へ告げる。
だが、続けて放たれた狼首の言葉は、男の恐怖を止めた。
「ご苦労さん」
「……へ?」
 惚けた声で顔を上げたなら、白い姿が長椅子の中央に腰掛ける形へと変わった。
 そのまま煙管を咥えた狼首は、自由になった両手を左右に侍る女の頭へ埋めると、無造作に髪を引っ張ってみせた。
「「あぐっ」」
「!」
 くぐもった声を上げ、目に焼けつく白い首筋を晒すその顔。
 俯いていたために今の今まで気づかなかったが、青褪めた女たちの顔つきは、人間然の姿であろうとも分かる、男が得ようとしたモノ――二人の囲い女。
 狼首は驚く男を愛でるように彼女らの髪をゆっくり解放し、咥えていた煙管を離して溜めた煙を吐き出す。
「……本当に、ご苦労なことだ。コイツ等欲しさに自分の身を危険に晒すなんざ、俺にはできねぇ芸当だよ」
 しみじみ吐かれた言葉は真実を色濃くし、感嘆とも嘲りとも付かぬ印象を男に与える。
「と、そこで、だ。そんな”勇敢”なお前を見込んで、一つ、頼みがある」
「……え…………と、咎められるんじゃ」
 狼首の突然の提案に男が驚けば、おどけたような仕草が返ってくる。
「俺が? 何故? おいおい、違う群れとはいえ、俺はお前に敬意を表してるんだぜ? お前のその”勇敢さ”に……だからこそ頼もうとしてるんだ、”勇敢”なお前に。ああ、ああ、もちろんタダなんて野暮なことは言わねぇさ。まさか虎狼公社率いてる狼首が、”勇敢さ”に漬け込んで、おんぶに抱っこじゃ示しが付かねぇ……だろう?」
 探るような問いかけ。
 ぞくりと背筋を這う、自分よりも遥かに強い存在からの伺う視線に、男は酔ったような面持ちで頷いた。
「報酬は――コイツ等でどうだ? 好きにしていいぜ? どんな風に扱っても、コイツ等はお前に従う。なんせ保障は俺が付けるんだから、なあ?」
 優しい声音に、女たちの身が震え、呻きのような甘ったるい肯定が、艶やかな唇を這い――

 報酬に浮かれ、簡単な頼みに軽い足取りを添える。
 平伏して後、狼首となった彼と、同じ道筋を着実に辿りゆく、己に酔う。
 怯えた咎めなく、”勇敢”と評された意味も知らず。
 彼を淘汰し、狼首となった相手が誰とも知らずに。

 自分の足、自分の意思で、年若い男は先へ進む。

* * *

 ずるずると音を立て、血色の鎖が床を這えば、喘ぐような低い悲鳴が二つ上がる。
 これを背後に立ち上がったシウォンは、侍女へ煙管を預け、身体を伸ばした。
「くぁー……眠ぃな」
 男が去って後、換気された部屋が煙を拭えば、白い服の中身が艶やかな毛並みの獣へと変貌を遂げる。
 時刻はまだ、地上の街に朝を迎え入れていないのだから、人の姿で在り続ける理由もなし。
 次いで起こるのは、シウォンの命を受け、呼ばれた者たちが息を呑む音。
 どれもが乾いた喉を鳴らす中で、煙に隠されていたシウォンの怒気が、低い声と共に吐き出された。
「餓鬼が…………煙の意味も知らねぇで、薄汚ぇ咳なんぞしやがって」
 鼻面に皺が寄れば、誰もが目を逸らして命ぜられた作業に没頭する。
 けれど一人、白い人狼が近寄っては、シウォンに向かって咳を一つしてみせた。
「けほ、親分。当たり前じゃないっすか。煙は下っ端にゃ、手が出せない代物なんすから。大体、煙漬けなんて酔狂やるの親分くらいっすよ?」
「……………司楼……てめぇは何処の群れに属してるつもりだ?」
 頭一つ上からの、一層鮮やかな緑の射殺す視線に、司楼と呼ばれた人狼は、臆せず事なげに即答した。
「もちろん、親分の群れっす。けど、いいんすか、アレ? わざわざ本性消す、毒同然の煙使ってまで怒り抑えた相手だってのに、何もナシで。しかもあんなガキがするようなおつかいに褒美の約束って」
「なんだ? 羨ましいのか、司楼? 何だったらやるぞ?」
 そう言って鼻白むシウォンが顎で示したのは、背後で四肢の拘束を解かれている、二人の女。
 司楼もつられてそちらを見、くりくりとした黒い目で感慨もなく眺めた。
 逃げられぬようつけられた鎖が、貫き繋いだ両足から骨と肉を弄り、血と共に床に落ちていく。かと思えば、ソファにしなだれる形を取らされた両手を、深々と縫い止めていた装飾の剣が引き抜かれた。
 鋭さのない鎖と刃のない返しのついた剣は、女たちの手足を醜く傷つけていくが、彼女たちは呻きに似た悲鳴を上げるのみ。想像を絶する痛みがあるだろうに、気絶さえしないのは、シウォンがソレを許さないためだ。
 従い慕う狼首の恩赦をひと時、たとえ後に誰へ添わねばならぬとも、背かず隷属することで得ようとする――。
 その浅ましくもいじましい想いゆえに、女たちは苦痛を内に秘めて呻きを甘んじる。
 だが、司楼は彼女たちの想いを否定するように、ため息をついて首を振った。
「いりませんよ。オレは仕事が好きですし」
 断ち切る言葉を受け、拒まれたシウォンは「だろうな」と薄く笑う。
「まあ、あの餓鬼に言ったことが全て、偽りだったってわけでもねぇ。勇敢だと言ったのは本心からさ。あの小娘を嬲り殺そうとしたんだからなぁ? 俺じゃあ、とてもとても」
 心底呆れ切った調子で言ったなら、司楼がぽんっと手を打った。
「…………なるほど? つまり、娘を連れ去ったことへの芥屋への謝罪は、そういう意味で?」
「ああ。そういう意味さ。謝罪は俺の柄じゃねぇが……あの小娘に関して咎める権利があるのは――――」
 続く言葉はごくりと呑み込み、代わりに絡みつくような熱い吐息を吐き出すシウォン。
 これに対しては、今まで普通に接していた司楼の背を怖気が走り、意味を探る暇なく、鮮やかな緑の瞳が輝く。
「知ってるか? 奴相手に最長でどのくらい生きていられるか?」
 決して司楼を見ないその目は、殊更明るい様相を呈しながら、内に珍しくも恐怖を宿していた。
「「っぁ……」」
 鎖と剣が最後まで引き抜かれたのだろう。
 後方で女たちのすすり泣く荒い息を聞きながら、司楼は鼻面に皺を寄せて答える。
「最長……って、一瞬でしょう? 遊ばない限り――――っ、まさか?」
「そう、そのまさかだ。俺が知る内じゃ、最長で十日。弄られつつ、強制で生かされてな。ソイツは精神が先にイッちまい、自害しようとしたところを――と」
「そんな面倒臭そうなやり口を?」
「ああ。どうもソイツは爪一枚分、ちょろまかしたらしい。……な? 俺の咎めなぞ、入る余地もないだろう?」
「…………あ、れ? でもそうすると、親分も危険なんじゃ?」
 純白の耳を伏せた司楼は、はたと気づいてシウォンを見やる。
 これに肩を竦めただけの白い姿は、外へ通じる扉をくぐる。
 そんな親分の行動に一瞬キョトンとした司楼は、とてとてと後を追った。
「あ、あの親分? いいんですかい? 姐さん方、待ってらっしゃるんじゃ。それに、あの二人の処分も――」
「んん?…………ああ、忘れてた」
「わっ――て、親分……オレに全部押しつけないでくださいよぉ? 向こう行ってろ、なんて期待させといて、来たのオレだったら……イヤっすよ。あの人の二の舞は」
「……ランのことか?」
 司楼の言葉に過剰ともとれる反応を示し、シウォンは振り返っては鼻面の皺を深くした。
「あの若造……女の相手もまだ満足にできんのか? 親父似のクセしやがって、とことん真逆を行く……」
「親父……って、先代っすか。初代に媚びへつらって命拾いして、数代挟んでから狼首の座についた棚ボタの」
「お前、顔に似合わず……死んだヤツに鞭打つような真似は感心せんぞ?」
「でも事実でしょう? それに殺したお人が言う台詞じゃありませんぜ?」
 呆れ果てた部下にシウォンは「確かに」とおどけ、黒い瞳がじっと待っている様子を受けては、観念したような息を吐いた。
「分かった分かった。女どもはあの二人を解放した連中にでも任せておけ。好きにしろと。ただし、先にあの二人を捨ててからだ。わざわざ殺す必要はない。路にでも放っておきゃあ、勝手に消えるだろう。……そうそう、ヤツらにゃ今後俺の前に現れたら”落とす”、って伝言も忘れずにな」
 指示だけを残し、また歩み出す背中。
 頷き、踵を返した司楼が、ふとその背を振り返って尋ねた。
「あり? 親分、お帰りですか?」
「……ああ。眠くて堪らん」
 欠伸交じりの答えに納得したらしい白い人狼は、青黒い獣姿を見送ることなく、背を向けて離れた。


 それから幾らもせず、苦痛を耐えた先の絶望を謳う重奏と、悲鳴に似た無数の嬌声を聞き、シウォンはやれやれと首を振った。
 彼が認めた側近の中で、誰よりも若いくせに、誰よりも物事に動じない、忠実な白い人狼へ向けて。
「仕事……ねぇ。俺も大概酔狂の部類だが……お前にゃ負けるよ」
 評された部下は、けたたましい声をけろりとした表情で聞いているだろう。
 もしかしたら、二人の廃棄を若さを理由に押しつけられているかもしれないが。
「ふぁあふ……」
 訪れる欠伸を堪え切れず行えば、鮮やかな緑がうっすら涙に潤う。
 けれど充分な睡眠は得られまい。
 他の誰もが察することの出来ない猫を感知できるシウォンの能力は、強すぎる本性が怯えるゆえに為される業。
 そんな猫の諍いへの介入は、眠りを妨げるほど能力の範囲と効果を広げ――――
 つい先程までの怒りも騒々しさも留めない脳裏に浮かぶのは、脆弱な人間の小娘。
 猫を操る術を持つと噂される、自身には何の力もない、弱く儚い存在。
 だというのに、得られなかった分、更に高まる本性の猫への恐怖を植えつけた相手。
 猫は地下へ降りられないと知っていても、能力は広大な虎狼公社全ての状況をシウォンへ、逐一無駄に送り続けてくる。
 この状態から回復するのに手っ取り早い方法は、小娘の死だ。
 シウォン自ら出向く必要はない。
 下っ端に命じて小娘を殺させ、ソイツの一生を虎狼公社で匿うよう配慮すれば良いだけだ。しばらく上は猫に蹂躙されるだろうが、群れの連中を引っ込めさせれば良いだけの話。
 人狼の狼首にとって群れ以外の者の安否なぞ、知ったことではないのだから。
 実に簡単――――だが、シウォンは終ぞ、その選択は下さず。
「礼は…………まだ返してねぇぞ、小娘。俺は狙った獲物をそう簡単には諦めん」
 ランにせよ……ワーズ・メイク・ワーズ、従業員たる小娘の主にせよ――。

 

 


UP 2008/9/11 かなぶん

加筆・修正 2021/02/23

 

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