人魚の章 十五

 

 前に一度、同じ場面で、同じ情景を見たことがある。
 圧倒的な力で、不快をもたらした存在たちが駆逐されていく様を。
 けれどあの時は、遊ぶような無邪気さであったのに対し、現在繰り広げられるのは、酷く面倒臭そう。

「……いい加減さぁ、止めようよ。俺、暴力ってあんまり好きじゃないんだけど」
「くっ、う、うるせぇ! んな面しといて、不気味なことぬかしてんじゃねぇ!」
 つい先ほどまで、己へ危害を加えていた男の言葉ながら、心の中で同意してしまう泉。
 痛みを堪え、のろのろ起き上がった彼女の近くに、男たちの姿はない。
 それもそのはず、彼らはあっと言う間に、路地裏を形成する壁に叩きつけられており、辛うじて無事だった一人が、これをもたらした人物を睨みつけているのみ。
 その人物――泉にとっては救世主と評しても良いくらいだが、いかんせん姿形が助かったという思いを粉砕してしまう。
「くそっ!」
 捻りのない悪態をつきながら、そんな相手へ攻撃の一手を繰り出そうとする男だったが、長く逞しい足に、自分からつっ込んだと錯覚してしまいそうなほど、自然に顔面を蹴られ、地を数度バウンドして止まった。
 ひくひく痙攣する指先から、他の男ら同様、死んでいないと分かるが、再起までにはだいぶ時間を要するだろう。
「ひっ!」
 短い悲鳴を上げたのは、三人が薙ぎ払われる様を茫然と見つめていた人狼。
 無謀に戦う意思も見せず、身を翻しては一目散に逃げてしまった。
 取り残された人物は、困惑したように黒い爪で張りつめた耳の裏辺りを掻いた。
「おいおい……仲間置いていく奴があるか? 知らないぞ。後でボコられても」
 心底呆れた物言いは、やがて息を深く吐き出すと、泉の方をくるり向く。
「君、大丈夫か?」
「ひっ……」
 情けなくも人狼と同じ声を上げて、伸べられた黒い爪から逃れようとする泉。
 痛みに引きつる身体を引きずって辿り着いたのは、行き止まりの壁。
 元より逃げる体力のない身では、先があったとて、進めはしないだろう。
 恐怖と共に、無我夢中で走っていた時には感じなかった、身体の疲労が重荷のように圧しかかる。
 そんな泉の様子を不思議そうに見つめる、猫に似た金の眼は、彼の獣より恐ろしい。
「あ、あなた、何でこ、ここに?」
 ようやく搾り出した疑問は、目の前の人物を最初に見た光景を脳裏に呼び起こさせた。

 人狼――それも、他に比べようもないくらい凶悪な相貌は、キフに抱きつかれる前に見た姿と変わらない。

 泉の怯えっぷりへ、暴力嫌いという自己主張を即座に却下したくなる血に餓えた顔は、更に困惑した様子で鼻面を掻く。
 それすら、この娘をどう嬲り殺そうか考えているように見えて、泉はこのまま気絶したくなった。
 後に待つのが死であったとしても、この人狼への恐怖は、そこら辺に転がっている男たちよりも増して強い。
 逃げ道がないのだ。
 三人に押さえつけられようとも、泉にはまだ、ささやかな打算があった。
 何かの拍子で、振り切ることのできる隙が生じるのではないかと。
 けれど、この人狼を前にしては、諦め以外何も浮かばない。
 どんな目に合わされたとて、結果、無残に殺されようとも、仕方がないと思ってしまうほどに。
 仕方がない。ぞくりと粟立つ思いは畏怖の念を泉に抱かせ、再度黒い爪が伸べられたなら、その鋭さを簡単に想像させるというのに、彼女の手を伸ばさせる。
 きっとこの爪は泉の指を、手を、触れただけでズタズタに引き裂いてしまう。
 幻惑の痛みに眉を顰めつつ、それでも手は救い――抗えぬ死を望むかのように、爪へと触れかけ……

「邪魔、ラン」
「ぐぅっ!?」

 どすっと鈍い音が響き、凶悪な面構えの人狼が脇腹を押さえて、地面をのたうちまわる。
 これを目で追っていた泉の手は、対象の爪を失って宙を彷徨うが、そっと冷ややかな感触に包み込まれた。
 姿は目にせずとも、声音と感触だけで、じんわり安堵が広がっていき――
「大丈夫、泉じょぶ!?」
「ワーズさん!」
 存在をもっと確かなモノとすべく、泉は頭から黒コートの腹へつっ込んだ。
 無様にも下敷きになった男は、縋りつく少女を宥めることもなく、激しい咳を何度も繰り返す。
 泉も泉で、そんなワーズを慮ることなくしがみついては、はたと気づく。
「ぐえっへ、い、泉嬢? な、何ていうか、その、大丈夫?」
 所々に苦しそうな咳を挟んだ問い。
 しかし、泉は顔を上げず、ただ一言。
「……御免なさい」
「んっ? な、なんで謝るのさっ? シウォンに攫われたのはっ、べ、別に泉嬢のせいじゃないでしょっ? それに、奴に連れ去られる原因作ったのっけほ、ぼ、ボクみたいなもんだし。ほら、植木鉢とか、さっ?」
 咳混じりの不快を呼び起こすような宥めだが、それでも泉は顔を上げず、
「……それは……もういいんです。ワーズさんだし」
「…………そう」
 頭上から降りた声は、不可思議な音色を含んでいたが、今の泉にとって肝心な事柄は別にある。
「じゃ、じゃあ、腹への一撃? 確かに効いたけど」
 尋ねた後に「ぐふっ」とおかしな咳が聞こえては、顔を上げかける泉だが、慌てて腹に埋めると謝罪を口にする。
「う……すみません。でも、御免なさいはそれじゃなくて」
 言いかければしゅるりと解かれる髪の拘束。
 間違いなくワーズと知れる無遠慮な仕草と解放に軽くなった頭へ、泉は緩みかけた気を持ち直して、言った。
「……ええと……コートに……は、鼻水が…………」
 耳まで真っ赤にした告白は、決して顔を上げないままに。
 対象のコートの男は、気の抜けたような息を吐いて、器用にそれを脱ぎ始める。


 恥ずかしさを隠すコートをやんわり取り上げられ、困惑する前に鼻へ当てられたのは、ティッシュが数枚。
「はい、泉嬢、チーンして」
「…………ワーズさん……」
 へたり込んだまま、じとり睨めば、白い面が嬉しそうに歪んでいて、半ば自棄になって鼻をかむ。ほとんど幼子扱いだが、呑気に夕食を愉しんでいると思っていた手前、探してくれていたと知っては、抗議の言葉もない。
 最後にひんやり濡れた感触に拭われて驚けば、次いでアルコールのような匂いが鼻をつく。
「ウエットティッシュ……ワーズさんのポケットって……」
 探れば色々出てくる割に、スマートな身体の輪郭を崩さない、今は抱えられているコートのポケットに首を捻ったなら、ビニール袋へティッシュを捨てていたワーズがへらりと傾いだ。
 そのままポケットに入れられなくて良かった、などと思っていると、銃口を自分の頭へ突きつけたワーズが言う。
「ボクの服は特別でね。このポケットは芥屋の物置に繋がってるんだ」
 そうしてコートのポケットへ、ビニール袋を仕舞い込む。
「……って! ご、ゴミ! 物置直行させたってことですか!?」
 どういう作りでそうなるのか、など聞くだけ無駄だと決めつける泉は、あの不可思議な空間に漂う袋を想像して、晒し者にされた気分を味わった。
 けれど、すぐに否定がやってくる。
「んーん。違うよ? 右と左で物置とゴミ箱に繋がってんの。でもボク以外扱えないから、泉嬢は間違ってもこのポケットに手ぇ入れちゃダメだよ?」
 言いつつ、ビニール袋を入れたのとは反対のポケットに手をつっ込むワーズ。
 折り畳まれているため、どちらがどちらに繋がっているなど分からないが、世の中、知らなくて良いことはたくさんあるものだ。
 好奇心が全くないわけでもないが、ワーズがダメだとわざわざ忠告を入れるのだから、従おうと心に誓う泉。
 どこからこの奇怪な男へ寄せる信頼がやってくるのかは知れないが、少なくともワーズの言葉には、今まで偽りがなかった。
 決して、正直であり続けることが正しいとは思っていないけれど……。
 それでも、と半ば直感めいた誓いを再度胸に刻めば、ずるり、ポケットから引きずり出される黒がある。
「ぃっ…………こ、コート……ですか?」
 一瞬、人の髪かと思った黒いソレは、広げたなら見慣れた黒いコート。
「汚れちゃったからねぇ。まさか、着るわけにはいかないでしょう?」
「う…………ご、ご尤もです。すみません」
 あからさまに、そうはっきり言われると、人間好きを豪語するワーズとはいえ、やはり嫌なモノはあるんだと思い知る。
 汚れを汚れと認めず愛でるよりかはマシでも、それなりに萎縮して項垂れてしまう。
 と、羽音のような音と共に、身体が黒にすっぽり覆われた。
 ぽかんと顔を上げた先で、ワーズが混沌を細めて血の口で笑う。
「幾ら自分のでもさ、やっぱり嫌でしょう? 羽織るなんて。見るからに寒そうだしさ、泉嬢」
 白い手に促されて掴んだのは、泉の身体を包む、新品同然のコートの合わせ目。
 てっきりワーズ自身のために出したのだと思っていたコートは、薄手であるにも関わらず、外気に冷やされた泉の腕を柔らかく温めてくれる。
 加え、相も変わらず安堵を生む香りにほだされて目を閉じたなら、頬に心地良い冷たさが寄せられた。
「……泉嬢、もしかして、怪我してるのかい?」
 労わるように擦られてもひりひり痛む張られた頬。
「っ!?」
 途端、忘れていた痛みが戻り、泉の身が強張った。
 肩も足も頬も、打たれた箇所は去ることながら、無理に無理を重ねた運動量が、節々へ悲鳴を奏でて痛みを送る。
 けれど、これ以上ワーズに手間を掛けさせるわけにはいかない。
 勝手な想像で、彼の助けをないものとしていた自分が、安堵とコートまで与えられて、その上、何かをして貰うなど。
「……大丈夫です」
 遠慮ではない、意地だけで出来るだけ平静を装って突っぱねる。
 すると脈絡なく、両肩へ添えられる黒いマニキュアの白い両手。
「え――――っあぅ!」
 そのまま後ろへ倒されて、衝撃に捩った手が押さえるのは、右の肩と左の太腿。
 しかして痛みはそれだけに治まらない。
 庇うような行為すら、一度軋んだ骨には耐えようもなく苦痛を強い、喘ぎ走り抜いた肺と喉は、冷ややかな外気に侵されて干からびた咳を上げる。
「やっぱり、怪我してるんだね、泉嬢」
「ぅぐっ、ワーズさんっ……なんで」
 のほほんと呆れる声を睨んで叫べば、飄々としたていで肩を竦める。
「なんでって……それはこっちが聞きたいくらい。全然大丈夫じゃないのに、大丈夫ってさ。少しは迷惑考えなよ、泉嬢。君は変なとこで意地張るクセがあるみたいだけど、治した方が良いよ? 頼ったり利用したり出来るモノが近くにあるんだからさ?」
「!」
 知ったような口調に、地べたへ寄せたこげ茶の瞳が剣呑に揺らめいた。

 頼る、なんて――――考えちゃ……いけない……けど!

「私っ……私、ワーズさんを利用しようなんて……誰かを利用するなんて、思いたくもありません! 大体、迷惑だっていうなら、放って置いてください! コート、ありがとうございました!!」
 自棄っぱちで叫べば、拍子に浮かぶ涙がある。
 哀しいのか悔しいのか判別のつかない雫は、痛みと倦怠に囚われた手では拭えず、頬を伝っては地に染み入るばかり。
 惨めな自分を思っては増す涙から、泉は一人になりたいと願った。
 奇人街でそれを望んだ未来は、決して明るくないと知っていながら。
 けれど相手は人間を擁護する芥屋の店主。
 むざむざと人間である泉の身を危険に晒す、一人になどさせてはくれまい。
 そんな店主から大仰な溜息が吐かれては、泉の身体が情けない叫びをぶつけてしまったと後悔に震え――
「へ?」
 支え抱かれては、間抜けな声が痛みをまたも忘れて吐息混じりに外へ出た。
 疑問符の音に対する答えは得られず、促されるまま、よろけて立ち上がる泉。
 止まった涙の、土混じりの小汚い跡なぞ知る由もなく、上を向けば普段は気づかない、中性的な美貌の片眉が上がっていた。
「迷惑って、君の身体の話だよ? も少し労わって上げないと」
 言って、銃を携えた右手が柔らかく、張られた頬と涙の跡をなぞり拭う。
「なんたって君は、ボクの腹に一撃加えた挙句、鼻水までつけたんだからさ。その勢いでボクに全部任せてくれなきゃ。変なところで納得して妥協して切り上げられちゃ、人間が大好きなワーズ・メイク・ワーズとしては、手出しし難くて仕方ない。……まあでも? し難いだけで、否応なく干渉するけど、ね?」
 へらりへらり、気の抜ける笑みがワーズの顔に戻っても、泉の視線はぼんやりそれを眺めるだけ。
 これを了承と受け取ったワーズは、一層呑気な笑顔を深める。
「うん、良い子。帰ったら怪我、診せてね? じゃ、行こうか」
 最初からそれだけが目的だったのだと、自然に促された泉の意識には、ワーズ以外の存在はなく――
「って、待った! 幾らなんでも酷くないか? 人にコイツ等ふん縛るよう命令しといて、自分たちは妙ちくりんな雰囲気で帰るなんて!」
 突然、降って湧いた情けない響きが語る内容に、泉は自分の置かれている立場を思い出して青くなった。
 すっぱりさっぱり忘れていたが、この路地裏には伸された三人と伸した人狼が一人いたのだ。
 だというのに、妙ちくりんな雰囲気と称されても仕方ない状況に流されて至る、肩を抱かれた己を傍目で思えば、今度は恥ずかしさから赤くなる。
 自覚した分痛みを忘れて、黒一色の男から離れようとしても、いつもは面白いくらい弱々しい腕は、逆に泉の身を守るよう引き寄せてきた。
「……ちっ」
 あからさまな舌打ちがへらりと笑う口元から響き、泉の目が大きく開いた。
 そんな泉に気づいた様子もないワーズは、泉の身を労わり抱く力はそのままに、彼女からは窺い知れないほど顔を後方へ背けて毒づく。
「うるさいな。元はといえば、お前の種族のせいだろう、ラン・ホングス。それとも己の種を嫌悪するあまり、自分の正体も見失ったって? この、見掛け倒しが」
「み、見掛け倒し……人が気にしてることをよくも抜け抜けと」
 確かに声だけ聞いたなら、冴えない顔のランのモノだが、泉がちらりと黒い服の影から覗いた姿は、凶悪な面構えの人狼そのもの。
「…………あのぉ……」
「何!?」
 ワーズに蹴られた脇腹が未だ痛む様子の人狼は、金の鋭い眼にうっすら涙を浮かべて歯を剥く。
 幾ら見ても慣れない恐ろしさに「ひっ、御免なさい!」と顔を引っ込めれば、ワーズを挟んだ向こう側が酷く慌てた。
「や、悪い、別に君に対して怒ってるわけじゃなくて、人に縛れって命令しといて放置する魂胆が分からないって――」
「何を口走っとるんだ、お前は。聞きようによっては変質者だぞ?」
「史歩さん……?」
 弁明を図る言葉に重ねられた声は通りから聞こえ、そちらを見やれば些か疲れた風体の袴姿。
 手には団子の串が握られており、泉の腹の音が鳴るともなしに、くぅ〜と間抜けな悲鳴を上げた。
 これに素早く反応した史歩は慌てて団子を背後に隠した。
 泉としてはそこまで意地汚くないとちょっぴり傷つく。
 けれど、史歩が慌てる原因は別にあったようで、聞いてもいないのに、べらべら言い訳をする。
「いや、違うぞ? これは走って汗かいて疲れただけであって、別に随分時間が経過したから手遅れだろうと見切りをつけて、団子に舌鼓を打っていた訳では、断じてない!」
「……あんたこそ、何口走ってるんだ?」
「それに、走って汗をかいた後は、水分と少量の塩分を摂るのが良いんじゃ…………」
「うぐ……い、いいじゃないか。私が最初に綾音が危ないと伝えたんだし……そう! 見つかったんだ、結果良ければ全て良し!」
 最後には何やら一人で納得し、だれかれ憚ることなく団子を口にする史歩。
 いっそ清々しい様子に緩みかける頬が、もう一度、背後へ問う。
「あの、ランさん……なんですか、本当に?」
「…………まあ、そうだよね。昼と夜じゃ違い過ぎるもんな、俺の姿。同族じゃなきゃ、一目見て分かんないし……」
 はっきりとした肯定はないが、声音と項垂れる雰囲気は正真正銘ランのものだ。
 どうやらギャップのある容姿に、かなりのコンプレックスがあるらしく、ワーズが何事もなかったかのように歩き始めても気づく気配がない。
「わ、ワーズさん、ランさん置いていくんですか?」
 そんな状況に追い込んだ責任を感じて言ったなら、ワーズは苦笑を浮べる。
「いいんだよ。アレは、ああいう風に自分を追いつめるのが好きなんだ。それに命令っていうけどさ、ボクはお前は邪魔だからアイツらの相手してろって意味で言ったんだよ? なのに始末どころか縛り上げるだけなんて……手ぬるい」
 へらりとした口元のどこかから、軋む歯の音が低く響く。
 ぞっとするほど無情なソレに泉が動揺を浮べたなら、急に顎が背けられた。
 合わされた刃のように鋭い目が怜悧に細まり、咥えられた串が横へ吐き出される。
「……綾音。この頬、どうした?」
「っ……」
 感情なく史歩に問われ、詰まった声の変わりに後ろ手で縛られ、座らされて固まる三人の男を見やった。
「そうか……」
 先程までの雰囲気をがらりと変えた史歩が離れれば、嫌な汗がどっと背を伝い、肝が冷えた。
 訳も分からずのろのろと袴の背を追うが、丁度三人の前に差しかかった当たりで、少々乱暴に黒い胸で視界が遮られる。
 文句を言おうにも押しつける力は強く、息苦しい安堵へ噛みつくように上を睨めば、肝心の白い面は史歩の方を見ていた。
 端に描かれた血の赤が、残酷なほど上に釣り上がったのが辛うじて、泉の視界に焼きつく。
「史歩嬢……ソイツら、追いかけっこが好きなんだってさ」
「そうか……」
 嗤い混じりの音色に被せられるのは、人らしからぬ、かといって金属とも違う、からくりめいた響き。
 次いで上がるのは、風が舞う音、水が弾ける音、地を穿つ止んだはずの――雨音。
 安らぎの隙間から漂う、鉄錆の濃密さは噎せかえるほど、乾いた肺に染み入る。
 酷い車酔いに襲われた時のような眩暈を感じて膝から崩れれば、ひょいっと身体が宙に浮いた。
「泉嬢?……ああ、疲れたんだね。いいよ。お休み? 後はボクに全部任せて――」
 恐ろしいほど力の入らない身体を持て余し、外へ逸れる頭。
 投げ出されたそれを回収するように、黒い肩へ誘われる間、重くなる瞼の向こうからぼんやり覗いたのは、いじける人狼を他所に項垂れる三体の身体。
 彼らを縛っていたはずの縄は足元に両腕ごと落ちており、肉塊のような身体が止血を始めた傍らで、血に染む袴姿が白刃の血を払い――

 軌跡の円を追いながら、泉の意識は眠りに沈む。

 

 


UP 2008/9/8 かなぶん

加筆・修正 2021/02/14

 

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