人魚の章 二

 

 芥屋の一階が店舗含め縦に長いとすれば、二階は何故か横に長い。
 その二階、階段を背にして右端に位置する部屋を使う泉は、若草色の服に着替えて後、そーっとドアを開けた。
 細く開いた先には昼夜関係なく灯る、電灯に照らされた長いフローリングの廊下。奥の突き当りには、いい加減な補強跡がある。それ以外に目につくものはない。
(よし、いない)
 けれど、用心に越したことはないと顔だけ出して、もう一度廊下を探った。
 二階の部屋は階段を挟んで左右に二つずつ。どれも階段・店方向に扉があり、反対側には白い漆喰の壁しかない。
 泉の隣は店主であるワーズが使っているらしく、出入りする姿を幾度か目撃しているが、部屋の中がどうなっているのかは見たことがなかった。別段、興味があるわけでもないが、通りがかりに開いた際、ワーズが慌てて閉めるのは気になっている。以前それとなく尋ねれば、へらへら笑いに冷や汗浮べて「ごくごく普通の部屋だよ?」とのたまう。
 とても怪しい。
 が、ワーズ自体怪しいことこの上ないので、深く考えないことにしている。ヘタに想像力を掻き立てて、この街で唯一依るべき居場所を失くしては堪らない。
 肝心なのは今、この部屋のドアが開くかどうか。
 しばらく注視した泉は、開く様子がないと判断した。特に注意しなくても良さそうだ。
 そうして階段挟んですぐの、開きっぱなしの入り口へ目を移す。バスルームや洗濯機等の水周りが充実しているそこにも人の気配を感じられず、ほっと一息。
 最後に、泉のいる部屋から最も遠い部屋へ視線を投じた。
 空き部屋なのか、はたまた開かずの間なのか、一度も扉が開閉する様を見たことはない。 故に、これも大丈夫……なはず。
 充分確認を終え、小さく頷いて部屋を出る。
 ひょこひょこ壁伝いに、それでも音を立てないようにして、板張りの階段手前まで移動。
 ここからが勝負――意気込んだのも束の間、ひょいと身体が横倒しに持ち上がった。
 わざわざ向かずとも見えるへらりと笑う赤い口に、顔を赤くした泉は抗議のつもりで名を叫ぶ。
「わ、ワーズさん!?」
「おはよう、泉嬢。階段降りるんだよね? 駄目だよ、ちゃんと言ってくれなくちゃ」
 少しだけ眉を寄せながら笑う黒コート。
「い、いいえ、降りません! だから、降ろしてください!!」
 両手を用いて抱き上げられた己の身に、羞恥から否定を口にしても、ワーズは益々困惑を浮べるだけ。
「んーでも、もう朝だし、飯だし。やっぱり降りるでしょう?」
「だとしても、自分で降りられますから! 足だってだいぶ良くなって――っ!?」
 言い終わらぬ内に激痛が走った。目線と同じ高さにある左足に、ワーズの銃がぎゅうっと押し付けられている。
 息まで詰まる痛みからワーズの肩にしがみつき、制止を訴えようと涙ぐむ目を合わせれば、小首を傾げて笑う口。
「ほらね? 泉嬢、まだ完治してないんだから、足に負担かけちゃいけないよ?」
 負担かけてるのはあなたです! と叫びたいところだが、銃を離されても痺れる痛みに、声も出せず呻くのみ。
 これを了承と取ったワーズは、揺れる足取りで階段を降りていく。
 ただでさえふらふらしているのに、両腕で抱える泉の分だけ余計安定しなくなる歩行。
 頼りない上に恐ろしい。
(だから一人で降りたかったのにっ!)
 泉は羞恥に勝る恐怖から顔を青褪めさせ、落っこちないようワーズの両肩へ必死にしがみついた。


「御免くだされ」
 少年とも少女とも付かない、そんな声が届いたのは一階に辿り着いた時。再び恐怖より羞恥が勝り始めるこのタイミングで、何の嫌がらせか、そのまま磨りガラスの戸を足で開けたワーズが、店側に立つ声の主と話し出した。
「やあ、緋鳥。来る頃合だと思ったよ。按配はどうだ?」
「それが中々――と、お楽しみ中でございましたか?」
「っ!? 違います!!」
 恥ずかしさに顔を背けつつ、ようやく出てきた声で力一杯否定しようとも、全く説得力のない状況に、助け舟は元凶からやってきた。
「ああ、泉嬢が足に怪我しててね。無茶して階段降りようとするからさ」
「む、無茶って!」
「なるほどなるほど。しかし……従業員様、羨ましい限りにございますな?」
 笑いを含む声音に、カッとなって相手の方を向くが、認めた姿に珍しいと目を見開く。
 ミリタリー柄の大きな帽子、同柄のジャケット、胸だけを覆う黒のチューブトップ、丈の短い青いスカート、レザーブーツ。
 スカートがなければ少年と言われても納得しそうな体形の、泉より背が低い少女は、奇人街において珍しく露出の多い格好をしていた。
 犯罪が一夜にして軒並み出そろう奇人街では、この手の格好は無駄に危険を招くとされている。このため、下着と見紛うドレスを愛用するクァンですら、面倒臭そうにデニム生地のジャケットを羽織っている。尤も、彼女をして襲おうとする者は、火を繰る鬼火(キッカ)の能力で燃やされてしまうだろうが。
 不意に浮かべた炎を操る姿に、泉はふと、目の前の少女の種族が気になった。
 人間以外を粗雑に扱うワーズの対応は、珍しくまともだったが、少女にはいくつか人間にはない特徴があった。
 笑みに現われる牙は血を好む死人と同じ鋭さで、爪は人狼を彷彿とさせる硬質。目深に被られた帽子の下で、更に目元を隠す黒茶の髪は、帽子の中で纏められているようにも見え、鬼火並みの長さを想像させる。探せば他にも、他の種族と似た部分が見つけられそうだ。
 何も言わず、不躾にまじまじ見つめる泉をどう思ったのか、緋鳥と呼ばれた少女は優雅に一礼をしてみせた。
「お初にお目にかかりまする。私めは合成獣(キメラ)の緋鳥と申す者。明時(あかとき)の末席として此度芥屋が店主様の下、馳せ参じた次第。以後、お見知りおきを」
「キメラ……アカトキ?……あ、ええと、私は綾音泉と申します。よ、よろしくお願いします」
 初めて聞く言葉に首を傾げつつ慌てて礼を返すが、抱きかかえられたままではどう頑張っても不恰好にしか頭を下げられない。
「わ、ワーズさん、いい加減降ろしてくださいっ」
「ん? もしかして痛かった? よっと」
 短い掛け声で一瞬浮いた身が再度、今度はしっかりと抱えられる。
 これで大丈夫でしょ、と言わんばかりに笑う顔。
 焦る泉に対し、緋鳥がクツクツ笑った。
「綾音様、お諦めくだされ。店主様は従業員様たる貴女様がいらっしゃるから、用件を済ませてお前はさっさと去ね、と暗に申されているのでございますよ」
 心底楽しそうに、自身を無下にした発言をする緋鳥。
 眉を顰めてワーズを見れば、
「分かってるじゃないか。で、今回は何体、芥屋に回ってくるんだ?」
 褒めちぎるに似た笑顔を浮べ、ワーズが首を傾げる。
 幾ら人間以外が嫌いとはいえ酷くはないか、と益々眉を寄せる泉を余所に、特に気にする素振りもない緋鳥が溜息を零した。
「何体どころか、全て芥屋の取り分となり申した。どうも猫の介入があったらしく」
「そう……猫が、ね?」
 にんまりと笑んだワーズは、緋鳥が「では」と一礼して帰るのを見送りって後。
「さすが泉嬢、ってところかな?」
「何の……お話ですか?」
 尋ねても返事は貰えず、困惑する泉を依然抱えるワーズは、居間に向き直るなり、後ろ足で戸を閉じた。


 不味くはないのだ、不味くは。
 けれど。
「…………どうしてワーズさんは、ゲテモノが好きなのかしら?」
 幽鬼ではないが、朝には重い、内臓類の炒め物。
 否、口当たりは非常にさっぱりしており、胃にも優しい絶品である。
 しかし、台所のまな板の上、包丁で四肢と首をピン止めされた鳥とも獣とも付かない生き物が、空洞の裂かれた腹を晒しているのだ。気分を害するな、という方が無理な話。何より不気味なのは、そんなえぐい代物が同じ部屋にあっても、血の臭気は一切なく、美味そうな香りだけが漂うこと。
 煤けた赤いソファの背もたれに、気分の悪さを全部預けるつもりでいれば、黒いマニキュアの白い手がカップを差し出す。
「…………ありがとうございます」
 礼を言いつつ受け取り、せめて血の匂いでもあるなら備えることもできるのに、とそれはそれで気分の滅入る状況を思い、
「……あれ?」
「んー? どうかしたかい、泉嬢?」
 へらへら笑うワーズの問いには答えず、しきりにカップの茶の香りを嗅ぐ。
 安堵の得られる不思議な香り――だが。
「まさかゴミでも入ってた?」
 自身のカップを食卓に置き、慌てて近寄る黒コート。
 泉の持つカップを取ろうと伸ばされた手を避け、代わりに空いている手でワーズの胸倉を掴んで引き寄せた。
「ぃ、泉嬢!?」
 珍しく焦った声など気にせず、顔を擦り付けるように、そのまましばらく考え込む。
 かなり無理な体勢を強いているらしく、緊張が伝わってきても離す気は更々ない。
 もう少しだけ引っ張ったところで、ガラス戸の開く音が聞こえた。
「邪魔す――……」
「い、やぁ、シウォン……。い、泉嬢、お客さんだから……」
「あ、はい、すみません」
 ぱっと離せばいそいそ黒い背中が店側へ向かう。追えばガラス戸を挟んで、得体の知れない化け物でも見たような顔の美丈夫がいた。
 青黒い髪と鋭い緑の双眸。ゆったりとした白い衣から覗く身体の線は、屈強な印象を与え、荒々しい雰囲気と相まって、蠱惑的な魅力を醸し出している。尤も、滲み出る傲慢さにより、その魅力の半分も泉には届かず、頭を軽く下げて挨拶するに留まった。
 シウォンと呼ばれた男は、そんな泉につられたように頭を沈めかけ、はっと我に返っては渋面をつくり店側へ戻っていく。
 どうしたのだろう、と首を傾げる前に、ガラス戸がワーズによって閉められた。
 取り残されたていの泉は、残った茶を口にし、面白いことを発見したとくすくす笑う。
 ――が。
「あっ!」
 理解しては立ち上がりかけ、左足の痛みに顔が歪む。
 けれど構ってはいられない。
 出来る限り素早く、ひょこひょこガラス戸まで近寄ったなら、こちらが開ける前にガラス戸を開けたワーズとかち合う。
 へら……と笑おうとした口端が、少しばかり引きつっているのは仕方ないとしても、
「あの、さっきのシウォンって人……口、堅い方ですか?」
「さあ?……ところで泉嬢? さっきのあれは一体?」
 頭を銃口で掻きつつ、動揺と困惑を混ぜ合わせた顔に、乾いた笑いを返す泉。
 あの手のタイプがそこまでお喋りとは思えないが、先程の状況は傍目から見るに、きっと怪しく映ったはずだ。
 ――どうか、あの人の口が軽くありませんように。
 妙な誤解を招きかねない己の行動を恥じながら、心の中で祈った。


 茶の原料を尋ねると店の踏み板に座らされ、理由を言えば、ぽかんとした表情がワーズに浮かんだ。
「ボクの服と匂いが同じ?」
「はい。……って、気付いてなかったんですか?」
 自身の袖口の匂いを嗅ぎつつ、
「んー……ボクには分からないけど。……でも良かった。一瞬泣きつかれたのかと」
「泣く理由ない……いえ、ありますけど、泣いてたわけじゃありません」
 脳裏を掠めた朝方の解体ショーに、眉を一度顰めてから笑いかけた。
 これを受けて、ようやくいつものへらへらした笑い顔に戻ったワーズは、青果棚横の、乾物が並ぶスペースの前に立つ。そこから乾燥した植物を手に取り、葉がぱらぱら落ちるのも構わず、泉の隣へ置いていく。
 数度繰り返される動き、その都度並べられる植物は、話の流れから茶の原料なのだろう。だが、種類は想像以上に多い。同じものを揃えろと言われたなら、比較的特徴のある三種類が限度かもしれない。
 すると、その三つを持ったワーズが、まず面を作れそうな大きさの葉を掲げ、
「それぞれ色々な効果があるんだけどね。例えばこの、恵明(ケイミョウ)の葉なんかは、夢も見ないでぐっすり眠れるでしょ。んで、佳月(カガツ)の花には、楽しい夢を見られる効果があって」
 くるくる回る花。
「ええと? それじゃあ一緒にすると、どっちの効果になるんですか?」
 効果に生じる矛盾へ問いを投げかければ、ワーズは少しだけ考える素振り。後、もう一つの植物、葉も花もない、細い枝のような茎を示した。
「んとね……確か、恵明と佳月を一緒にしても、どちらの効果も得られないんだけど、もう一つ何かしら効果のあるのを入れると、それを倍増させてくれる、んだったかな?」
「すっごいうろ覚えなんですね?」
「いやぁ、だいぶ前に教わってやったからさ。……で、この是医(コイ)の茎は、安らぎをもたらしてくれるんだ。まあ、他にあのお茶には色々入ってるけど、大本はこの三種かな?」
「ケイミョウに、カガツ……コイ?」
 最後のコイに引っかかっていれば、ワーズがポケットからメモとペンを取り出し、すらすらと書いてみせる。
 泉が読み取ったのを見て取り、
「で、それぞれ面白い言葉があってね。例えば――」
「か、匿ってくれ!!」
 本当に嬉しそうに説明を続けようとしたワーズ。
 だが、突然やってきた男の貧相な声に遮られてしまっては、もの凄い嫌悪を露わにする。
 断りもなく泉の前、鮮魚箱の陰に納まった男は、そんなワーズよりも外を気にしつつ、唇の上に指一本押し当てて言う。
「頼むよ、追われててさ」
「ラン……。最近来ないから、どこぞでくたばったか、監禁されたかって期待してたんだけどな」
 ワーズは面倒臭いとこめかみを銃で掻き、仰々しいため息を吐き出した。
 これに泉は驚いた。
 灰色の短髪、猫に似た金の瞳ながら猫と違って覇気のない、冴えない顔立ち。あまり見ない髪や眼の色はさておき、薄青の着物姿の男は、どう見ても人間としか思えない。
 それなのに、人間贔屓のワーズがここまで不機嫌になるとは。
 実はこんな為りでも酷い輩なのか、と警戒していれば、
「ホングス様ぁ?」
「どこにいらっしゃいますのぉ?」
 艶かしい女たちの声が聞こえ、その度に目の前の、ランと呼ばれた男がビクビク跳ね上がる。近付いてきた声は、店前の陽の中、美しく色気のある娘らとなって表れた。
 甘ったるい声で似た誘いを口にしては、つまらなさそうに溜息一つ。
 こちらに気付いたなら高圧的に眉を顰め、ワーズを認めては、
「げっ」
 と呻いて足早に去っていった。
 間を充分取って、後。
「…………なんか今、すっごい顔してましたね、あの人たち」
「まあ、ワーズ・メイク・ワーズは大半の住人には嫌われてるからねぇ、嬉しいことに。――で、コラ?」
「ぎゃんっ!?」
 かたかた震えるランの脇腹に、容赦のない黒い革靴が埋まる。突然のことに目を丸くした泉だが、悶絶するランを更に蹴ろうとする動きを察し、慌ててコートを掴んだ。
「わ、ワーズさん!? 人間相手に何を!?」
「へ? 人間? これが?」
 これ、と差す時にもう一度、男の尻を靴裏で足蹴にし、
「泉嬢、前に説明しなかったっけ? 昼は人、夜は二足歩行の獣……これ、人狼だよ?」
「え!? この冴えない人が!?」
 恐れよりも、笑えない冗談を言われた気分が先立った。泉のこの反応を受け、分かったでしょ、と行動で示すように再び蹴ろうとするワーズ。
「や、ダメですって!」
 トラウマの依然残る種族とはいえ、何の脈絡もなく行われる無体な仕打ちを、黙って見ていることは出来ない。
 今度は足を掴む勢いで止めたなら、
「さ、冴えないって、酷くないか?……自覚はあるけどさ」
 うるうると真実冴えない、情けない、猫と同じ色とは思えない金の瞳が、ワーズではなく、泉の言葉に傷つき呻く。

 

 


UP 2008/7/10 かなぶん

加筆・修正 2020/06/17

 

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