人魚の章 三

 

 今日は随分と新しい顔に会うものだ。
 そう思っていた泉だったが、現れた袴姿を見て、そんなこともないかと思い直した。
 店の入り口に腰掛けたまま、呑気にご挨拶。
「あ、いらっしゃいませ、史歩さん」
「……綾音よ。なんだその間抜け面は? 喧嘩売ってんのか、お前?」
 鞘に納まっているとはいえ、刀を担ぎ上げた神代史歩の「買うぞ?」という鋭い眼光に、泉は背筋を凍らせつつ、首と手を勢いよく振った。
「い、いえ! ただ、今日は初めて見る人ばかり来ていたので、知った人が現れると不思議な感じがして。……あ、そうだ! 消化剤、ありがとうございます。すっごく、助かってます……」
「そうか……」
 最終的に顔を背けて言ったなら、怒気から一転、憐れみが向けられる。言外に「お疲れさん」と告げられたようで、史歩へ向き直った泉の顔には苦笑が浮かぶ。
「ええと、お久しぶりです」
 次いでの挨拶は、起き上がれるようになってから、見舞いはおろか、買い物にすら来なかった史歩へのささやかな嫌味だ。
 何せ、史歩が来なくなったせいで、泉の療養生活はワーズに一切を牛耳られ、幽鬼に受けた傷は癒えても、精神的な疲労に苛まれる羽目になったのだ。
 ……まあ、実際には、人間である史歩を補助する名目で、人間ではない者の出入りを渋々了承していたワーズが、史歩の足が途絶えたことをこれ幸いと、彼女たちを出禁にしたせいであり、史歩が直接的に何かした訳ではないが。
 完全な逆恨み。
 それでも彼女が見舞ってくれたなら、えげつない食べ物を、消化剤が必要になるほど食べさせられる不幸は起きなかったはず。
 けれどこれを迎えた史歩の表情は、皮肉な微笑に彩られていた。普段、がさつな印象を与える行動しかしない彼女だが、不意にみせる表情は美麗な顔立ちだけあって、息を呑むほど魅力的――だが。
「言いたいことは分かってるさ。だがな、よっく考えてみろ? もしその状態のお前と猫が親しくしようものなら……生き残れる自信はあるか?」
 今度はきっちり刃の鋭さを持つ目を弓に歪め、乱切りの黒髪を用いては陰影をたっぷりつけて凄んできた。人間でありながら、猫へ並々ならぬ想いを寄せる史歩へ、どういう訳か猫に好かれている泉は愛想笑い。
「や、待ってくださいよ。史歩さん相手じゃ、怪我、関係ないじゃないですか。どっちにしろ私、生き残れませんて」
 宥めすかすような言だが、事実である。
 初対面にも関わらず、猫と一緒にいたというだけで切りかかってきた史歩の太刀筋は、僅かな動きさえ泉に許してくれなかった。
 しかし、史歩はこれすら笑顔で一蹴し、歯を食いしばって言う。
「いや。生き残れるさ。猫がお前を守ってくれるからな。だが、怪我の身であるお前が、無様によろけて頭でも打ったらどうする? しかもそれが原因で死んだら? 私は確実に猫に嫌われてしまうだろ?」
「…………」
 色々言いたいことはあるが、この状態の史歩を刺激するのは拙い。今は守ってくれる猫もいないし、進んで死にたいと思えるほど刹那的な生き方をした覚えもない。
 泉は笑顔だけを貼り付けて、沈黙を保つ。
 これをどう受け取ったのか、史歩は鼻を鳴らすと不機嫌も露わに顔を顰め、不意に視線を芥屋の居間へ向けては、呆れに転じさせた。
「…………何やってんだ、ラン?」
「……聞かないでくれ」
 そう言ったのは床に座り、巨大なボール一杯の、もやしに似た植物の根と芽をちまちま取る、情けない顔の男、ラン・ホングス。
 甘い声で追ってきた女たちを避けるため、ワーズの下へ身を寄せた彼は現在、その代償としてワーズから晩飯の下ごしらえを頼まれ――否、命じられていた。
 どこからどう見ても人間姿のランだが、人狼という泉が最も忌避したい種に属しているという。情けなさ過ぎる容姿と雰囲気、言動からして、どこら辺があの陰険且つ残忍な人狼なのか、泉には判別しかねる。
 それでも、人間好きを豪語するワーズから酷な扱いを受けているのだから、人間でないのは確実。どの辺が酷かといえば、巨大なボールがあと五つも待機しているところだろうか。しかも今は二階にいるワーズ、泉が店番へ戻る際、必要のない介助をしながら耳元で囁いたのだ。
 ――今日の晩飯、ビーフシチューだから。
 泉の知っている食材とは違う姿形の中、一体どの肉を差して”ビーフ”というのか分からないが、そこで目にしたランの姿に合点がいった。
 彼がちまちまやる作業は、ワーズの嫌がらせなのだと。
 ビーフシチューにもやしを入れる経験のなかった泉は、深い溜息をついたものだ。
 もちろん、ワーズが去って後、一応相手は人狼と恐る恐る伝えたのだが、ランは疲労感たっぷりに微笑んで、「知ってる」と言った。
 人狼の耳は、露骨にこそこそひそひそされると、余計な音であっても勝手に拾ってくる性質があるという。通常は人間と変わらない聴覚だが、必要に応じて能力を伸ばすことも可能だとか。意識一つで感覚を操作できる――聞こえは良いが、咄嗟の判断を迫られた時、それこそ意識に踊らされ自滅する者もいるそうな。
 そんな説明を、もやし然の根と芽を取りつつ、懇切丁寧にしてくれたたランに対し、史歩は鼻を鳴らしては泉の隣に座った。
「ふん、また罰ゲームか?」
「また?」
「うっ」
 説明を聞いていた限りでは、人狼の耳の良さゆえ、ワーズの目論見を知った様子であったが。
「もしかして……前にも同じことが?」
 尋ねて見つめれば、妙な愛想笑いがランの顔に張り付いていた。
 その中で金色の瞳が挙動不審に揺らめく。
 いぶかしむ泉への返答は、呆れた溜息混じりで史歩が応じた。
「コイツ、同族嫌いのくせして同族の女にはやたらモテるんだ。で、何の因果か、追いかけられる度、住人誰もが嫌う店主んとこに逃げ込んでな。まあ、だから誰も芥屋までは追ってこないが……店主がアレだろ?」
「同族嫌い……ええと、つまり、ワーズさんにからかわれた方がマシってことですか?」
「からかう……ってほど、お手軽じゃないけどね」
 言いつつ作業を再開するラン。
 それなりに上背があるせいか、ちまちました動きが不思議といじらしい。
 もしくはやっぱり、情けない。
「あ、でも、じゃあ最近は本当に来てなかったんですね。私、初めて――って、どうかしました?」
「い、いや、何でもないよ」
 アハハハハと乾いた笑い声を上げるランの表情は硬く、顔色も悪い。
 気のせいか、眼も少し虚ろだった。
 これを見て何か察したのか、史歩がにやにや笑いかける。
「ほう? なるほど。捕まってたのか。で、四六時中励んでいた、と」
「いやちょっと待て、史歩! 励んでたって、誤解を生む発言は止めてくれ! 俺は別に自分で望んだりした憶えは!」
「ふむ。四六時中は否定しないか。さすが人狼。体力バカもここに極まれりってヤツだな」
「う、うるさい!」
「……………………………………………………ああっ!」
 完全に聞き手に徹していた泉、手をぽんっと一つ打った。次いで集めてしまった視線に気づいては、顔を真っ赤にして完璧な愛想笑いをして頬を掻く。
(真昼間から、なんて話題を持ってくるんだろう、この人たち)
 口には決して出さないがそう思い、これすら奇人街の常識なのかと考えては、自分の明日を見失いかけた。
 気を取り直すように、けれどどう見ても不自然に、もう一度手を打つ。
「そ、そうです、史歩さん! ランさん知ってるってことは、他の人も知ってるんですよね? ええと、ヒドリさん、とか」
「緋鳥? アイツ、来てたのか?」
「はい。ええと、取り分がどうとかって」
「ああ、昨日のアレか。なるほどな」
 一人納得する史歩は、泉が怪訝な顔をしているのを見て、ふむ、と一呼吸。
「明時は……まだ知らなかったな?」
「あ、はい。ヒドリさんの職業ですよね、確か」
「ああ、そうだ。簡単に説明すると……お前も知っての通り、奇人街ってのは一晩で一通りの犯罪が軒並み揃う場所だ。そんなとこで、好き好んで取り締まる奴はいないだろう? ここじゃ珍しい正義感振りかざしたところで、広大な奇人街、全部見回るのも骨だしな。けど、なんにしたって残骸は出るし、そのままにしておくのもあまり好ましくない」
「……はあ」
 好ましくないのは犯罪の方では?
 言ったところで変わるとも思えない事実に、泉はただ曖昧な返事をするのみ。
 それでも想像してしまった、血生臭い残骸が陽に晒された姿は、見慣れたせいで余計生々しく、静かに目を閉じて追い払う。
「そこで登場するのが明時。事が終った後で残骸を回収、良さげなとこにそれらを売りつけ買い取らせて処理するんだ」
「…………それが、ヒドリさんのお仕事」
「ちなみに残骸ってのは誰かの元・所有物だ。芥屋に持ってくるなら、死体や千切られた一部ってとこか」
「……ええと、猫が介入っていうのは?」
 あまり聞きたくない流れを変えるつもりで尋ねれば、史歩が意外そうな顔をした。
「猫が? 珍しいな。本当か?」
 これに応えたのは、黙々と作業を続けていたランだ。
「ああ、本当だ。丁度近くを通り掛かったらしくて、彼女たち、一目散に逃げてったんだ。だから俺も逃げられたんだけど……あ、えと」
「彼女、たち?」
 逸らしたはずの話題を戻され、それどころかパワーアップした内容を知って、泉の眉間に自然と皺が刻まれた。情けない顔を更に情けなく歪めた男は、少女の眼差しにたじろぎ、助けを求めるように刃物のような黒い瞳に縋る。
 泉と近い年頃の史歩は、心底呆れた溜息をつくと、未だランを睨みつける泉へ言う。
「一応な、奇人街にも規則があるんだ。誰かが得た食い物は、ソイツの手中に納まるまで、手を出しちゃいけないってな」
「……なんか、在って無いような規則ですね」
「まあ、そう言うな。このお陰で幽鬼狩りする時、楽なんだからな。ぶった切るだけで、明時が後でブツを持ってきてくれる。こっちは殺り放題。な、良いだろ?」
 同意を求められても応ぜられる気概はない。
「…………うーんと、明時の人たちは、その、幽鬼にしても、誰が……倒したか分かるんですか?」
 なるべく殺伐とした言葉は使わないよう気をつけて尋ねる泉。
 奇人街の常識がどうであろうと、やはり使うなら心情的に優しいものが好ましかった。
 こんな場所だからこそ、かもしれないが。
 そして、史歩はそんな泉の思惑など全く無視して告げる。
「分かる。傷の形状、その場の状況……判別要因は様々だが、中でも一番は匂いだな。残骸とそれ以外の体臭。例えば、裂いた腹から臓腑が飛び散った状態でも、奴等の鼻は血の生臭さに紛れた相手の匂いも嗅ぎ取れる。なかなかに優秀だよな」
「…………」
 終始気軽な語り口の史歩へ、返す言葉も見つからず、泉はもう緋鳥について聞くのを諦めた。
 次いで、とんでもない場面に出くわした男を思い出す。
「あーっと……その、史歩さん? じゃあ、シウォンさんて人は――」
「シウォン!? あの人が来てたの!?」
 けれど食いついたのはランの方だった。
 素っ頓狂な声と共にボールを引っくり返しかけ、慌てて抑えては変わらぬ動揺のまま泉へ近づいてくる。突然のことに反応する間もなく、がしっと掴まれた両肩が揺すられた。
「だ、大丈夫だった? いや、なんで大丈夫なんだ?」
「ぃえ、と、あの?」
 がくがく動く頭では、舌がうまく回らない。
 だがランは、それに気づく様子もなく、揺する速度を徐々に上げ――問答無用で殴られた。もちろん、史歩に。
「落ち着け、ラン。それじゃあ綾音が喋れんだろうが」
「あ……わ、悪い」
「い、いえ。それに大丈夫も何も、そのシウォンさんって人、ワーズさんを尋ねて……って、どうかしました? 二人ともすごい顔してますけど」
「綾音……本当か、それ?」
 なんとも形容しがたい顔つきで史歩が確認してくる。不思議に思いながらも、頷くだけに留めていれば、似た表情のランが大袈裟に頭を抱えた。
「うわー、あの人がこんな時間に、わざわざワーズ尋ねて出てくるってことは、猫、よっぽど無茶したんだ。俺、知ってたら、脱出できなかったかも」
「だが、今頃のこのこ来るってことは、シウォンの奴、新しい従業員が入ったことを知らないのか? もしくは――」
 悩めるランを捨て置き、史歩がじ……と泉の身体を上から下まで眺めてくる。同性とはいえ、品定めするような視線は居心地が悪い。泉が身を捩れば、史歩が一つ頷いた。
「年が足りない、か。アイツ、不自由しない分、選り好みあるしな。綾音の様子からしても、見込みはないようだし、まあ、大丈夫だったって訳か」
「?」
 最後は「良かったな」と肩を叩かれ、何の事か分からず首を傾げる。
 と、その時、視界の端でランの胸を黒い何かが打った。
「ぎゃんっ!?」
「おい、ラン? 誰が手を休めていいって? ちゃんとやることやれよ」
「わ、ワーズさん……」
「げっ」
 座ったまま見上げれば、へらりと笑う赤い口――なのだが、泉の目と意識ははランを蹴り飛ばしたワーズではなく、その手に握られた物体に張り付いていた。
 うにうにむにむ。
 艶かしく動くそれは、絶妙な力加減で握られているらしく、どれだけ暴れてもワーズの手から逃れられずにいる。
「どしたの、泉嬢?……ああ、これ? ちょっとね、部屋で見つけたからさ、拾ってきちゃった。おやつに丁度いいかなと」
「遠慮します!」
 ばっさり言い切り、視線を逸らせばそこに史歩の姿はなし。
 さすがの彼女もこういうのは苦手らしい。
 先ほどの呻き声は史歩のモノだったのかと理解すれば、それを吹き飛ばす奇妙な感触が頬に触れた。途端、ぞわっと這い上がった悪寒から、痛む足を無視して立ち上がり、振り返る。そこには裏返された物体が差し出されており、青筋を立てる泉は頬を思いっきり擦って拭う。
「な、な、な、何をするんですか!?」
「何って、もちろん、食べて貰おうと」
「だからいりません! しかも生って!」
「イタタタタタタ……あ、美味そう」
「はああ!?」
 蹴られ転がされた痛みを克服したランの呑気さに、泉は思わず声を荒げてしまった。
 しかして仕方あるまい。
 どこかの民族が食す場面はそういうものと納得して見ていられようが、実際、間近にあって食べたいとは思えない。
 生理的に受け付けないのだ。
 ワーズが手に持つ、巨大な幼虫は……。
 似た形状で上げられる種類は、カブトムシやクワガタ。実は子どもの手の平サイズなら今でも触れたりする泉。だが、何を食べてここまで大きくなったか知れない幼虫なぞ、爪で触れることすら御免だ。
 しかも目の前のへらり顔は、そんな物体を人の顔に寄せてきたのである。
 踊り食いを強要するなぞ、どんな嫌がらせだ。
 それにこの男、先ほどさらりと自分の部屋から拾ってきたと言わなかったか。
 ワーズがひた隠しにする自室の品は、泉の知りたくない心を増長させ、ともすれば芥屋から史歩のところへ身を寄せてしまいたくなるほど。
 元々、一応人間の異性であるワーズとの生活には、少なからず抵抗を感じていた。案としては幾度か頭を過ぎった、同性で同じ年頃の史歩との生活。結局人に頼るしかない辺り何ではあるが、一人暮らしの結末は容易に知れており、その後の処理は新たに得た緋鳥の肩書きによって為される始末。
 もう一つの案にクァンの名も上がったりするが、従業員以上に住人と親密に関わりそうな接客業の場に身を寄せて、唄だけで済むかどうか。実のところ、泉の中でクァンへの信頼度は史歩よりだいぶ低い。種族云々言う前に、クァンの場合、何かしら泉に期待している節があるのだ。それこそ、裏切ったならどう出るか分からない、不鮮明に濃い期待が。
 かといって、本当に史歩のところへ身を寄せたなら、猫を巡って今以上にスペクタクルな日常が展開されそうだ。刺激には事欠かないだろうが、常に死の芳香漂う緊迫した日々など、想像だけで胃に穴が開く。
 そんな考えに耽りつつワーズの動きを警戒していたなら、視界の端で、ランが物欲しそうな顔をしているのに気づいた。
「珍しい……そんなデカいの、しばらくお目にかかってないよ」
「そうかい? でもお前にはやらないよ、ラン。これはボクと猫と泉嬢で頂くから」
「いえ、いりませんて! 私の分はランさんに是非、差し上げてください!」
 空恐ろしい宣言へ、冗談じゃないと首を振ったなら、ランが申し訳なさそうな顔をした。
「あ、悪い。横取りするつもりは」
「そんなつもりないです! 本当に食べてくださいってお願いしてるんです!」
「泉嬢……コレ、ひんやりしてて美味しいんだよ?」
「知ったことじゃありません! おやつなんですよね!? 別に食べなくても良いですよね!? 私は絶対食べませんから!」
「そんな……遠慮しなくて良いのに」
「してませんて!」
 ちょっぴり涙目になって抗議すると、どういう思考回路をしているのか、ワーズどころかランまでも幼虫を食すよう促してきた。

 その後、巨大幼虫を誰が食したかは――――各人しか知り得ず。

 

 


UP 2008/7/14 かなぶん

加筆・修正 2020/06/23

 

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