人魚の章 四

 

 視界がぼやけて巡る。
 荒々しい振動に何がどうなっているのか察しはつくが、出来れば逃避したい現実に、これは全て夢なのだと思いたかった。
「一緒よ……ずっと。次はずっと、一緒。離れたりなんか……絶対、しないわ」
 喘ぐように、熱に浮かされたように、ハンドルを握る少女が呟く。
 呪文めいたそれは、無免許の身で運転を開始してから、繰り返し繰り返し続いていた。
 こちらも負けじと縺れる舌を回した。
「止……めろ……死に……たく、ない」
 ようやく紡ぎ出した言は、しかし、スピードを緩めるどころか更に上げ、街灯のほとんどない暗い山道の視界を狭めていく。ライトで照らされた灰色の道は右へ左へ曲がりくねり、一体どこを目指しているのか、ゴールを定めていない車体が乱暴に揺さぶられる。
 出来うることなら抵抗したい。だが、薬でも盛られたのか、ままならない身体では、食い込むシートベルトをずらすことも難しい。朦朧とした意識の中でも色濃い恐怖が、痛みを感じている暇も与えてくれない。
 対向車が来ようものなら、間違いなく、そこで終わる。
 霞む先で見たくもないメーターを見やれば、法定速度とはなんぞやと問いかけてくるほど、馬鹿げた数値を示していた。
 と、不意に前方が開け、まるで空へ続くかのように続く一直線が視界に入る。ご丁寧に、それまでの暗さを忘れたていで、左右に等間隔で点く街灯。おかげで、ちらりとまた勝手に動いた目が、ベタ踏みされたアクセルを視認してしまう。
 青褪める間も背筋が凍る間もなく、くすりと漏れた笑みにのろのろ隣を見た。
 ハンドルは握りしめたまま、前を見るのを止めた少女が極上の笑顔で迎えてくる。
「ねえ、次はずっと、一緒にいようね」
 息を呑むほど美しい微笑み。
 けれど滲む影は、途方もなく暗く、少女が決して正気でないことを知らしめる。
 完全に惚けてしまう前に再度、訴えた。
「…………止めろ……死にたくない……!!」
 言い切れば、一瞬、虚を衝かれ、泣き顔。そして、また笑い、無邪気に近づく。
 足はそのままに、ハンドルから離された手が両頬を包み込んできた。
 唇に柔らかい感触と伝う塩気。
 受容も拒絶も何一つ、己の意思では行えない。
 狂気に晒されても億劫な身体では抗えず、せめてもの足掻きに交わした視線を横へずらせば、車の前方にガードレール。
 衝撃に柔らかな感触は離れ、浮き上がる感覚が襲い、視界が下を向く。
 待ち構える夜の海は、月を反射しながらも闇色の口を開け――意識ごと、彼を呑み込んだ。

* * *

 幼虫騒動から幾日か過ぎ去り――

 一階、階段を背にするソファで茶を啜る泉は、居心地の悪さから視線を落とした。見つめるのは、緩く結んだ髪が流れるラヴェンダー色の服の、主に腹部付近。見た目は特に変わらないが、彼女自身はしっかりとその変化を感じ取っていた。
(……少し、キツくなった?)
 おもむろに摘まめば、掴める布の量が減っている気がする。
 いや、このままでは確実に、気だけでは済まない未来が待っている。
 若干だろうとも、崩れつつある体型を思い、やるせない気持ちを味わう泉。
 その左足が、前触れもなくぎゅっと掴まれた。
「!」
 思わず「痛い」と言いかけた声を呑み込み、飲み終えたカップを肘掛けに置いてから、引きつる頬で名前を呼ぶ。
「わ、ワーズさん?」
 困惑たっぷりのそれ。けれどワーズは我関せず、その後も泉の左足を握ってきた。繰り返されること数回、泉の前でしゃがんだまま、へらりと笑う赤い口と白い顔が上がった。
「怪我はもう大丈夫そうだね」
「お、お陰様で……」
 怪我の完治に喜ぶ黒一色の男とは裏腹に、怪我人であった泉はそっとため息をついた。
 早く治るから、と本来なら断固拒否する、ワーズの手料理が一日三食以上出され、全て完食せねばならない状況がほぼ毎日。起き上がれるほど回復しても、顔を少し顰めただけで部屋に戻されること数十回。もう大丈夫です、と少しの痛みに耐えれば、患部を容赦なく握られること十数回。
 走馬灯のように思い返される、献身的というより、嫌味なほど過保護に接せられた日々。
 もし左足を掴まれた時点で「痛い」と言おうものなら、またしばらくは軟禁状態の生活を強いられていたに違いない。
 厳しく苦しい試練をようやく乗り越えた気分を味わう。
 と、ワーズがまだこちらを見ていることに気づいた。
 怪我人扱いから解放されたと思っていた泉は、まだ駄目なのかと伺うように声を掛けた。
「ええと……?」
「泉嬢、少し太った?」
 握られた左足以上に前触れもなく、ぐっさりと刺さった言葉。
 今し方自覚し、落ち込んでいたというのに、あんまりではないか。
 しかも一因には、過保護なワーズも含まれるだろうに。
 絶句しつつも泣きたい顔で睨みつけたなら、大して効き目があるわけもなく、どろりと濁る混沌の瞳を細めてワーズが笑った。
「新鮮な空気でも吸いに行かない?」
「…………奇人街の日中は、空気悪いですよ?」
 口を尖らせ、街の短所を挙げて不機嫌に対応すれば、立ち上がり様に黒いマニキュアの白い手が差し伸べられた。
「もちろん、奇人街じゃないさ。行くのは凪海(なぎうみ)だよ」
「なぎうみ?」
 手を取れば立たされ、白い靴を渡される。
「そう。まあ、行けば分かるから」
「え、でもワーズさん、お店は……」
「平気、平気。猫のいる芥屋相手に盗みに入る奴はいないから。皆、命は惜しいもんね」
 笑いながら言うには物騒な話である。
 非難するように見つめる泉だが、気づかないていのワーズは自身も黒い靴を手にすると、そのまま階段を上がり始めた。てっきり店の出入り口から出て行くと思っていた泉は、慌てて付いて行きながら、
「……外に出るんじゃなかったんですか?」
「出るよ? 凪海は外にあるからね」
 では何故二階へ?
 不可解に眉を寄せつつ、ワーズに続く。
 登りきった黒い背中が左に折れ、水回りを通り越し、立ち止まったのはその隣の部屋。未だ開かれた場面を見たことがないその扉は、泉の部屋と変わらない造りをしているが、ここが外と通じているとでも言うのか。
 記憶にある限り、芥屋外観の二階部分には、大きく「芥屋」と書かれた看板があるだけで、そんな扉はなかったはず。……まあ、そう記憶した時の状況を思えば、絶対に正しいとは言い切れないが。
 泉が首を傾げている内にワーズが扉を開ける。何があるのか覗き込む間もなく、その場に腰を下ろしたワーズが両足を部屋へ入れた。
 それはそれは、おかしな光景だった。
 部屋にあるはずの足は膝から下がドア枠の、更に下へと消えており、ワーズの格好も相まって、椅子にでも腰掛けているようだ。
 床が抜けているのか。そうだとして、何故その場に座るのか。外に行くという話はどうなったのか。
 泉が尽きない疑問から呆気に取られていれば、持ってきた靴を履いたワーズが、「よし」と一声、滑るように部屋の中へ――落ちていった。
「わ、ワーズさん!?」
 突然掻き消えた黒い背を追い、部屋を覗く。迎えたのは、ワーズの眼によく似た、黒とも赤とも付かない不鮮明な空間。部屋にない広がりを感じさせる色合いは、泉の不安を掻き立て肌を粟立たせてくる。
 すると、そんな泉を呼ぶ声が下方から届いた。
 知った声音にそちらを見たなら、真下より少し離れた位置に白い面があった。
 認識した途端、先程より鮮明な声が届く。
「下りておいで、泉嬢」
 ひらひら銃と手を振るワーズの無事な姿にほっとしつつも、あまりの高さに逡巡。
 それでもワーズに倣い、その場に座って靴を履き、もう一度部屋の下を覗き込んだ。
「た、高い――!」
「平気平気」
 不気味な空間の宙に揺れる両足の向こうで、赤い口が笑っている。
 行くしかない、とは思うものの、二階以上の高さに竦んでしまう背中。
 これを温かいモノが撫でた。
 緊張していた分、過剰に身体が跳ねてしまう。
 一体何が、と肩越しに振り向けば猫がいた。
 住人が恐れる幽鬼を遊び半分で狩る、凶暴さは折り紙つきの猫だが、泉にとってはいつも助けてくれる頼もしい存在だ。自然と安堵の息が漏れる――が。
「わわっ!?」
 次の瞬間、泉の背中が猫の頭に押された。小さい姿でも力強いソレは、ギリギリの位置で座っていたせいもあり、簡単に泉の身体を宙へと放る。
 思ってもみなかった無体な仕打ち。
 一体自分は猫に何をしてしまったのだろうか。
 過ぎったのは、幽鬼から子どもを一人助けるために掴み投げた尻尾の、あやふやな感触。
 あれからも幾度となく、泉の前に現われてはいたが、
「やっぱり、恨んでるのかしら?」
「恨んでないさ。ただ、手助けしたかったんだよ。泉嬢は猫のお気に入りだからねぇ」
 宙に投げた声は、軽い衝撃に受け止められた。
 支えられながら、地面と思しき感触を足に受ける。
「んじゃ、行こうか。はぐれないように、ね?」
 へらっと笑う顔が前を行こうとするのに慌て、その腕にしがみつけば、ワーズが不思議そうな顔をした。
「そんなに怖がらなくても、凪海すぐだし、平気だよ?」
「へ、平気って無茶です。それに…………何かあったらワーズさん盾にしますから!」
 体重を指摘されたことを思い出して、高慢ちきに言ってやれば、
「ああ、なるほど。それはとても良い案だね?」
 心底楽しそうに微笑まれ、酷い罪悪感に苛まれてしまった。


 しばらく歩き、不気味な色合いにも多少慣れてきた頃。
「ワーズさん、ここって何なんですか?」
 赤黒い空間を眺めていた泉は、所々で妙なモノが浮かんでいるのに気づいた。
 見覚えのある雑誌やどこかの国の衣装、マンホールまで点在している。
「物置だよ。ほら、前に言ったでしょ? 奇人街のもう一つの通路。まあ、ここは他と違って、色んなところから物を失敬してくる、貪欲な空間なんだけど」
「失敬って……生きてるんですか?」
 恐ろしさにワーズの腕を更に締めれば、あっさり否定される。
「まさか。泉嬢って時々面白いこと言うよね」
 赤い口に笑いかけられ、バツの悪さにそっぽを向く。
 そんな泉の様子も気にせず、ぴたりとワーズが止まった。
「ああ、泉嬢、ここだよ」
 押し戸を開ける要領で、黒いマニキュアの白い手が前へ伸びる。伴い、扉ほどの大きさの四角い光が赤黒い中に現れた。
 躊躇なくその先を行くワーズに及び腰で続けば、耳に届く潮騒の音。
 踏みしめた大地は不安定な白い砂浜。
 昼を過ぎた頭上の陽は、青いフィルターを通して見たような鈍い白。
 見渡せば、真夏の陽に慣れた眼で暗い屋内に入った時のような、眩む色で構成された海辺が広がっている。
 奇人街の黄色く褪せた空と陽に慣れてしまった目には、とても新鮮な光景だった。
 惚けたままワーズを見た泉。未だ彼の腕にしがみついていたと気づき、慌てて離れる。
 そんな動揺など、やはり気にも止めないワーズは、へらへら笑いながら「ほら」と指を差した。
「沖に波がないでしょ? だから凪海って名付けられたんだけど、街の住人はこれ以外知らないから、海とだけ呼ぶね」
 説明を耳に、指の先へ視線を投じれば、確かに沖はどこまでも凪いでおり、磨かれた鏡のように陽を反射していた。浜辺では寄せて返す波があるのに、不自然なほど平らな海。
 ふと思いついて問う。
「湖……とは違うんですよね?」
「んー、たぶん? 上空から見ても、海沿いを歩いても、陸が囲っている訳じゃないって話だから。でも、舐めても塩辛くないし、泉嬢の知っている海とは色々違うだろうね。奇人街の生活用水も、ここから引っ張ってるんだよ」
 歩こうか、そう言ってワーズが先を譲る。
 凪海に意識を向けていた泉は、生返事をしつつ、砂に足を取られながら歩き始めた。
 右手に凪海、砂浜を挟んで、左手には小高い崖。砂浜と繋がる路はなく、崖上には木が密集して生えている。あの先には森が続いているのか、それとも防風林の一種なのか。
 とはいえ、海岸に吹く風は防ぐ必要がないほど穏やかで、柔らかくそよぐ程度。匂いらしい匂いもない、しっとりとした空気は、奇人街のものとは異なり、どこまでも澄み切っている。
 輪郭がぼやける薄青の景色は見慣れないものの、開けた空と広い海は、ほとんどの時間を室内で過ごしてきた泉に、これ以上ない解放感を抱かせた。
 自然と楽しい気持ちになり、唄が唇から零れ――途端、髪を解かれた。
「また!? ワーズさん、いい加減にしてください! どうして解くんですか!?」
 理由は分からないが、度々行われる悪戯。クセ毛ゆえの広がりを楽しむていに苛立ち、振り返った泉が睨む。これを受けるワーズは、紐をひらひらなびかせ、
「ん? ほら、ふらふら揺れてる髪とか見ると、つい引っ張りたくならない? でもそれやると、泉嬢の首、ぽろっと落ちちゃいそうでしょう?」
 訳の分からない理屈を並べ、赤い口が笑う。
 自分こそふらふらしてるくせに!
 抗議込みでそんな声を上げようとすれば、風に遊ぶ褐色の髪を一掬い。
「それに、こんなふわふわしている髪、無理に縛っちゃもったいないじゃない?」
 枝に引っかかったり変な髪と指差されたり、良い思い出のないクセ毛をそう評され、怒り以外の感情に泉の顔がみるみる赤くなる。
 黒いマニキュアの白い手から、するりと髪が落ちてもなお、柔らかいだのしっとりしてるだの、紡がれる褒め言葉。他意はないと分かっていても、思いつくままに吐かれる嬉しそうな声に、どうしたって動きはぎこちなくなる。
 恥ずかしさから視線を沖へ逸らしたなら、丁度良い具合に一艘の船を捉えた。
「ワーズさん、あの船は」
 意識を逸らすつもりで指を差す。と、タイミングよく船が揺らいだ。
 転覆しそうな傾きに驚いたのも束の間、泉は更に恐ろしい光景を目撃してしまう。

ザパッ……

 遠い沖のはずなのに近く聞こえた、海を裂く音。併せて、巨大な魚が船の真上まで飛び跳ねる。指を下ろすことも忘れて凝視していれば、宙の魚はカパリと口を開き、船を丸呑みにしながら海面に消えていった。
 薄っすらと聞こえた悲鳴に、泉は目の前で起こった出来事が信じられず、ワーズに無言の訴えを起こす。
「あーあ。食べられちゃったね。ここの魚は美味だけど、大抵巨大なんだよ。だから気をつけないと自分がご飯になるんだ」
 あっけないね、と笑うワーズに、泉は視線をもう一度、鎮まった沖へ戻した。
 奇人街に来てから、血溜りの死が身近になってしまったとはいえ、慣れるものではない。
 例えそれが、夢と見紛うような一瞬の出来事であっても。
 加え、
「…………あ、あの、ワーズさん?」
「ん?」
「前に、従業員は店番の他に、食料調達もするって言ってましたよね。じゃあ、いつかはあんなのも取りに出かけなきゃいけないんですか?」
 店番は何度かやっているものの、紙幣価値が未だ覚束ない身では、職も何もあったものではない。もう一つの仕事だという、食料調達くらいは頑張ろうか、などと少しは殊勝な心がけをしていたのだが。
 確実に調達される側になるのでは?
 浮かんだ己の末路に青褪めたなら、ワーズが右手に持つ銃でこめかみを掻く。
「そうだねぇ……芥屋には結構勝手に物が入ってくるから、そうそうないんだけど。ほら、なんだか突然無性にアレが食べたい! って時、あるでしょ? そういう時に芥屋になかったら取りに行く、かな」
「つまり、ないとは言い切れない……」
「全くないってことはないけど、でも大丈夫。ここの調達は臨時従業員使うから」
「臨時……?」
 眉を寄せる泉に対し、ワーズは初めて見る、酷薄な笑みを浮かべた。
「そう、奇人街の住人を二、三人、うまい具合にちょろまかしてね。多い時なら十人くらい、かな? これなら従業員は安全でしょう?」
 同意を求められても返答などできはしまい。
 クツクツ嗤う様から逃げるように波打ち際まで近づき、ワーズから距離を置く。何を思い出しているのか、身体まで折る姿に背筋が寒くなった。
 と、靴底に波の感触。
 まさかあの巨大な魚がこんな浅瀬にまで来るはずもないが、何事もないと言い切れないのが、泉にとっての奇人街。今し方の惨劇に恐れをなして、海水から一歩退く。
と、その直前、波が足元の砂を攫い、僅かだが体勢が不安定になった。立て直すため、もう一歩後退する泉。

 その足に、しゅるり、何かが巻きついた。

「――――!?」
 何、と確かめる暇もなく、巻きつかれた足が強い力で海へと引っ張られた。
 砂に投げ出される身体、耳朶を打つ激しい水音。
「泉嬢!?」
 異変に気づいたワーズが駆け寄り、すぐさま引き上げられるが、足にはまだ何かが巻きついたまま。ワーズにしがみつきながら足元へ目を向ければ、紙のように薄っぺらい手が見えた。それだけでも気味の悪いものなのだが、おののく瞳は、その源であるソレを捉える。
 歪む水面の中で、にたりと笑う顔。
 美麗ではあるが、故におぞましい女の姿。

ぱんっ

 乾いた銃声が鳴り響く。
 逸らせぬ泉の視界の中でソレは笑みを濃くするが、足から手を離すと海へ消えていった。
 けたけた笑う鮮明な声が、海水にくぐもることなく、泉の耳に届く。
 その、ぞっとする冷たさ。
 張りつく服の不快さなど忘れ、恐怖から必死に身を寄せれば、抱き取るワーズが忌々しげに吐き捨てた。
「人魚(メイリゥニ)め……」
「メイリゥニ……」
 震えて呟けば、説明より案じがもたらされる。
「泉嬢、戻ろうか。いくらなんでもこのままじゃ、風邪引いちゃうよ」
 コートに包まれ、ぽっかり開いたままの空間へ戻ろうと促される。
 ショックから喋る気力もない泉は、肩を抱く腕に頷くと、震える足で歩き始めた。
 だが、視界の端に映るモノを認識したなら、更なる動揺からワーズの胸元をぐっと握りしめた。
 突然の行動に面食らった様子のワーズだが、泉の視線の先を追うなり、頷いた。
 先程まではいなかった、波打ち際に倒れる人影。
「……泉嬢、一人で歩けそう?」
 問われ、支えられていることに思い至った泉。両足で砂を踏みしめると小さく頷いてみせた。これを受けたワーズが、波打ち際で倒れる人影の元へ、ふらふら走り寄っていく。そうして、しばらく何事か調べるような動きをして後、その人物を抱き上げては、こちらへ戻ってくる。
(…………あれ?)
 最中、泉はワーズが抱える少年に、見覚えがあることに気づく。
 濡れた赤髪が張りつく顔色は精彩に欠けてはいるが。
「…………この人……」
「紛うことなき人間だよ。かなり冷えてるけど、辛うじて生きてるみたいだ。急いで芥屋に帰ろうか」
 うわつく様子で空間へ戻ろうとする背を茫然としつつも追う。
 どことなく嬉しそうな様を不謹慎だと思う一方で、記憶を探れば出てきた少年の名は、泉とは縁遠い世界の人間。ただし、今の彼は眉目秀麗は変わらずとも、泉が知る姿より背が高く、大人びた印象がある。
 驚きから、呟きが勝手に漏れた。
「どうして芸能人がこんなところに?」
 別段、彼のファンではないが、それでも遠い世界でしか接したことのない相手に、泉はただただ黒い背から覗く頭を見つめた。

 

 


UP 2008/7/17 かなぶん

加筆・修正 2020/06/30

 

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