人魚の章 八

 

 押し倒されて被さる重み。
 青褪めて身を捩るが、嘲笑う鋭い歯は逃げを許さない。
 胸をいたぶるように手が這い、仰け反れば首に絡みつく腕。
 近づく口を避けるべく背けたなら、顎下を舐められ首筋が吸われる。
「ひっ」
「ククククク……初心だねぇ。心配しなくとも、すぐ良くしてやるさ」
「や、やめっ!」
 身を起こした爪が襟首に掛かり、一気に服を脱がして、そのまま――
「お、丁度いいところに」
「ぎゃっ」
 鈍い音を響かせ、頭を払われた馬乗り相手は、そのまま壁へ激突。
 直前まで生き生きと蠢いていた指は、微動だにしなくなる。
 これを見届け、軽くなった身を起こすのも忘れて、危機を救ってくれた袴姿に安堵した。
「し、史歩……」
「相変わらず情けない。ランよ、お前の方が遥かに強いんだから、こんな女ぐらい再起不能にしてやれよ」
「こんな」で鞘の先端を蹲る人狼の腹に捻じ込む人間の娘は、「ぐ……」と呻く声が漏れたのを聞いて面白くなさそうな顔をした。
「さすが人狼。人間だったら間違いなく即死できる打撃だったんだが……気絶で終わりか」
「あ、あんたな……」
 起き上がりつつ、肌蹴た着物を直して、ランはうずくまる獣面の女を見た。
 雨だったにも関わらず、今日も今日とて同族の女に追いかけ回されていたラン。どこか身を潜めるところはないか探していたところで見つけた物陰に入ったなら、この女と鉢合わせてしまい、対処する間もなく襲われてしまった。
 史歩が偶然通りかからなければ、その内、他の女にも見つかっていたことだろう。そうなってしまったら、しばらくはまた、自由とは程遠い生活を送ることになる。
 とはいえ、史歩の言う通り、その気になれば女たちを払うことは容易い。
 それが情けないと評されてもできないのは、女に手を上げることをラン自身が良しとしないためだ。傍目で見て、それがどんなに惨いか知っているなら、なおの事。
 ゆえに、苦悶を浮べる女には自業自得と思いながら少しだけ同情し、史歩へは非難しつつも心からの感謝を述べた。
「何にせよ、助かった。ありがとう」
「――は、この際どうでもいい。言っただろ? 丁度いいと」
「へ? って、そういやあんたとワーズが一緒って珍しいな。何かあったのか……特にアレ」
 ランが指差した先には、へらへらふらふら不審に笑いながら、辺りを見渡す黒一色の男。
 いつも以上に気味悪い動きをいぶかしめば、史歩が嘆息混じりに答えた。
「……まあ、早い話が、泉が攫われたんだ、シウォンに」
「…………は? 泉って、従業員の?」
 理解しかねて史歩へ視線を戻したなら、鋭い刃に似た輝きを放つ目に凄まれ、ランは信じられないと金の眼を剥く。
「じょ、冗談だろ? 止もうが雨の日、それも昨日の今日だぞ? あの人らしくもない」
「昨日? それこそ冗談だろ? シウォンらしくもない」
「…………」
「…………」
 示し合わせて黙りこくる二人。
 そしてまた、同時に互いを指差し、
「本気? いやまさか、あの人に限って」
「本気? いやまさか、奴に限って」
 在り得ないと笑う。
 一転、顔を真っ青にさせた二人は、真逆へ歩を進ませた。
「俺はあっち探しとくよ」
「ああ。私は向こうを捜すとしよう」
 互いに顔すら見せず前だけ向いて、史歩はワーズを従え、ランは跳躍。
 瓦が軽い音を立てて割れるのも気にせず、シウォンが行きそうな場所をピックアップするランの頭に、自分を追いかけ回す女たちのことは綺麗さっぱり消えていた。
 あるのはただ、嘘だ、という焦燥感。
「……嘘だよな、シウォン。……じゃなきゃ、太陽なんて二度と拝めないよ、あの子」
 ――嘘であって欲しい。
 碌でもない己の想像に辟易しつつ、甘い声を上げて突然屋根へ出現した同族の女を瓦の代わりに踏みつけたランは、それを視認することなく、屋根から屋根へ跳んでいく。

* * *

 そろりと伸ばされる爪。
 対する泉は慌ててそれに手の平を押しつけ遮った。
「ちょ、ちょっと待ってください! ここがそういう場所ってことは……あー……つまり、そのぉ……私?」
 理解を拒絶し、先を言わずに自分を指差せば、シウォンはおどけたような仕草をした後で、顎に手をやり渋面を作る。
「前言撤回した方が無難か? 察しは悪くないが、この期に及んで及び腰とは頂けねぇ」
「この期にって、私が望んだわけでもないですし、逃げて当たり前じゃないですか」
「ほう? では訊くが、逃げられる算段でもあるのか、小娘?」
 完全に遊ぶ風体で、ぐいっと身を近づけるシウォンへ両手を翳し、仰け反った泉は首を振る。
「いえ、ないですけど、あなたが私相手にそんなことして何のメリットがあるんです? ワーズさんへの嫌がらせにしたって、あの人、私が死んだところで……傷一つつかないでしょうし」
 シウォンの所業に「困る」と言って笑うだけの赤い口を浮べては、酷く萎れていく気持ち。仕舞いにはバリケード代わりの両手すら下ろして、深いため息をつきうなだれた。
 それがどれほど無防備な状態か、分からないほど気落ちはしていないが、段々どうでも良くなってきた。
 抵抗して無事芥屋に着いたとしても、晩飯時、「やあ、泉嬢、おかえり」なんて、のほほんと出迎えてくれるに違いない。しかも、彼が作ったと思しき、食欲を減退させる料理が食卓に並んでいるのだ。「腹減ったでしょう?」と差し出すのは、植木鉢の説明に使った人狼のモノかも知れない。
 もう一度深く息を吐いては顔を上げ、何故か虚を衝かれたような顔のシウォンへ、憐憫の目を向けた。
(きっと、いや絶対、あの人相手じゃこの人の嫌がらせは報われない)
 そう思えば、なんだか似ているかもしれないと、自嘲気味な笑みが口の端に現れた。
 人間好きを豪語しようが個人としては見られていない自分と、えぐい嫌がらせをしても「やれやれ」で終ってしまうシウォンと。
「…………? 変なの……それじゃあまるで私……認めて貰いたいみたいじゃない」
 ワーズさんに。
 自分を。
 単なる人間ではなく、私個人として。
 そんな結論に至ったなら、獣姿だろうが蠱惑的な魅力を感じるシウォンを前にしても変化のなかった顔が、音が出そうなくらい一気に赤くなってしまった。
 慌てて俯いた泉は、拘束されたままの両手を頬に当て、熱を冷ますようにぱしぱし叩いた。どうしてこうも赤くならねばならないのか、全く理解できないままに。
 すると突然、手首の拘束が捕らわれ、つられて泉の顔が上がる。
 眼前、鋭く細められた鮮やかな緑に迎えられて息を詰めた。
 置かれている状況を忘れていた自分に対し、驚愕から悲鳴も出せない。
「メリット、だと? そんなもの、お前が知ってどうなる? 何にせよ、お前の道筋は決まっている。……実感が湧かないか? ならばコレを見るがいい」
 面白くなさそうにそう言い、捕らえた泉の手へ、シウォンはクッションの中から取り出した何かを乗せた。しかし、バスケットボール大のソレは、力を入れていない手に収まるほど軽量ではなく、ぽろっと零れ落ちて泉の膝の上に着地。
「………………ひっ!?」
 目でこれを追った泉、膝のモノを認めるなり手で払わず除けようと立ち上がりかけ、不安定なクッションと拘束にバランスを崩しては、シウォンに抱きとめられる。
 だが、構ってなどいられない。
 縋る相手が嫌悪する人狼であることや、芥屋の従業員を文字通り食い物にする輩であることも放り投げ、逃げるように必死でしがみついた。
「な、何なんですか、アレは!?」
 シウォンの頭を胸に抱き、極力ソレを見ないようにシウォンの首元で指差す泉。
 ソレ自体シウォンがもたらした事実を忘れた行いにからかう声はなく、代わりに泉の身体を支える片腕と爪が添えられ、労わるような力で引き寄せられる。
「何、か…………何に見える?」
「な、何って……そんなの決まってるじゃないですか! だ、だって、アレ、ひ、人の首」
「ああ。正確には腐りかけの、だがな」
 わざわざ付け加えられた説明に、一瞬の邂逅でしかなかったはずの鮮明な映像が、泉の脳裏に甦る。
 膜が貼る濁った目玉には虫が泳ぎ、ひび割れた唇から覗くのは、血を染み込ませた肉と褪せた骨。削げた頬は皮膚下の繊維を露わにし、鼻からは眦同様どろりとした痕跡が流れている。半分千切れた耳には小さな羽虫が這い、髪が抜けた先の闇には何かが蠢く。
 確かに腐りかけ。
 そして今なお――喰われかけ。
 なれど、
「ど、どうして? ニオイもしなかったのに」
 それに対する答えは、泉の腕の中から為される。
「知らねぇのか、小娘。奇人街特有のニオイの在り方を」
「特有?」
「そうだ。どういう原理かは知らんが、奇人街のニオイには嗅ぎ取るための優先順位がある。この場合は食。虫や小動物程度ではなく、住人が喰らう、な。例外もあるが……ほら、この部屋のニオイを嗅いでみろ」
 近くに首があるにも関わらずそう言われ、眉を顰めては、見上げる緑と交わすこげ茶の瞳。泉の身体を支える腕とは別の爪が促すように頬を撫で、また不気味なほど緩む緊張から、鼻腔をくすぐる匂いに気づく。
 うっとりするほど気分を高揚させる香りは、抱き締められた時に感じたシウォンのものと分かるが、それ以上に馨しい、夜の暗さを知った空腹を揺さぶるこの匂いは。
「…………や、焼肉の匂いがするんですけど」
「だろ? 壁一枚隔てたって食が優先されるのさ。その姿はなくても、な」
 手触りの良い首の毛並みに指を沈ませたまま、ぐるりと辺りを見渡せば、天窓のほかにも存在した窓。そこから見える景色に、奇人街の夜を賑わせる屋台の華美な照明はなく、寂れた青白い街灯を呑みこむような闇があるのみ。
 シウォンの言葉通り、それらしいモノは隔てた先にす見当たらない。だというのに、鼻孔をくすぐる香りは、近くで肉の焼ける音がしそうなほど強かった。
 泉の頭に浮かぶのは、ワーズが調理した残骸の、見た目のインパクトに反して無臭だった記憶。
「で、でも、それじゃあどうして、血のニオイや幽鬼のニオイは……」
 食材として使われるから。
 不快しか呼び起こさないニオイを、そんな風に評されるのは嫌だと思いつつ尋ねる。
「言っただろう? 例外があると。危険だからだ。お前の言う血のニオイは生きた者から流された、死に近い香り。そして、幽鬼は死に直結する存在」
 身を引かれ、再度シウォンと顔を付き合わせては、自分から腕を回した人狼の首を認めることなく、泉の首が傾いだ。
「危険……なら、あなたのその香りも?」
「ほう? 俺が危険、か? 何故そう思う?」
 低く包み込むような声音に問われ、泉の頬が薄っすら赤らむ。
 言いようのない熱は瞳すら潤ませていき、けれど眉根は不快に歪んだ。
 知らず、首に回した腕が震えた。
「だってあの首…………けど、どうしてあんな顔をしているんですか?」
 今度は指差すことなく尋ねれば、シウォンの鼻面が首元に押し付けられ、自然と彼の頭に顎を乗せる形となった。
 頬ずりされても身じろがず、逆にその頭を抱く。
 ぼんやりした焦点の合わない視界で、記憶する微笑だけが腐れた輪郭に貼りつく。
「さあな? 興味もないが……俺はな、小娘。そこらの下っ端連中が好む方法は好かん。どうせなら、その身を捧げても構わないほど尽させて喰らう方が好ましい。聞いたことはないか? 苦痛を与えたモノより、イイ目にあったモノの方が美味いって話を」
「…………イイ目……美味い?」
 急に夢から覚めた顔をした泉は、シウォンの首の所在を認めるなり青褪め、彼に掛けていた両腕を上げた。次いでその肩に両手を押しつけると、なるべくシウォンから遠ざかるように身を逸らす。だが、どれだけ力を込めたところで、背中に置かれた人狼の手は、逃げを許しはしない。
「んん? どうした、小娘。いきなり離れるなんて野暮じゃねぇか。寒いだろ? もっと寄れよ」
「いえ、結構です! この首ですっかり抜け落ちてしまったけど、私って今、すごく危険な状態じゃないですか! あなたの匂いが何よりの証拠でしょう!?」
「証拠、ねぇ……言っとくが、別にこれは危険だから感じ取れるわけじゃねぇよ」
「へ?――ってぇ!?」
 思わぬ言葉に力の抜けた身体は、引き寄せる力から転じた押しつける力により、クッションの山へ沈む。錆色を所々につけたクッションが視界に舞えば、覆い被さる影。
 ころころ……、と思い出したくない物体が遠ざかる音を耳に、引きつった泉の顔が、両腕に囲まれ、乳白色の爪に撫でられる。
「小娘、三大欲求を知っているか? 睡眠・食・性――奇人街のニオイの感じ方はこれらを重視するのさ。重要度が高いほど、その傾向は強い……ということは、だ」
「うきゃっ!?」
 話の最中に抱き締められ、顔がシウォンの胸に押しつけられる。
 息苦しいと暴れれば力が弱まり、非難を込めて見上げれば、獣の顔がからかうように首を傾げた。
「小娘……ずいぶんと色気のない悲鳴を上げるな? だが、どうだ?」
「ど、どう……?」
 柔らかく尋ねる声から逃れるように額を胸へ寄せたなら、漂う不思議な香りに魅せられ、白い衣に皺を作る泉。勝手に熱くなる頬に戸惑い、眉を寄せたなら白布が揺れた。
 クツクツ苛む音色は、肌をぞくりとさせるほど艶めいていて、抗議のために顔を上げることすら恥ずかしい。その髪を梳かれてはビクンッと大きく震え、蠢く感触を受けては更に白い胸へ縋る。
 得体の知れない痺れから小刻みに震えていた身体は、軽く浮いた白服の主からやんわり引き剥がされた。惜しむように泉の両手が離れれば、人とは程遠いのに蠱惑的と感じる微笑が出迎える。
「まだ分からんか? よもや自らの性を忘れたわけではあるまい。求めているのさ、小娘。お前が、俺を。正確には、女のお前が男の俺を。だからこそ、香る……」
 にゅっと伸びる乳白色の爪。
 掬い上げたのは性懲りもなく反応した身体ではなく、褐色の一房。
「あ、髪」
 そう言って手を上げた先は自分の頭。
 突っ張った感覚と歪な形から、鋭い爪で器用にまた結わえられたと気づいた。
 はらり、持ち上げられた髪がしなやかな曲線を描いて落ちれば、顔に掛かった分だけ、シウォンの爪が這い払う。
 その動きが一々無駄に鼓動を高鳴らせ、泉の気を落ち着かなくさせる。
 けれどふいに降りて来た鼻面は、断固として拒否し、轡のように両手で押さえつけた。
「く……」
 これへ楽しむような、苛立っているような呻きが牙の合間から漏れ、泉は慌ててその手を離した。
 かといって解放を得た鼻面がまた寄ることはなく、鮮やかな緑が泉を捕らえる。
「……まあ、いい。明日の朝まで拒み続けていろ」
「朝……? あ、朝まで拒み続けたなら、私は?」
 芥屋に戻れるのだろうか?
 淡い期待を込めてそう問えば、身も凍るような嘲笑がシウォンの喉を鳴らした。
「ククククク…………まさか、芥屋に戻れるとでも考えたのか? この俺がわざわざ連れてきたお前を、親切丁寧にも戻すと? 面白い案だがあり得んな」
「じゃ、じゃあどうして」
 声は笑えど、一層光を増す緑の視線は冷たく、泉は引っくり返った声で再び問う。
 答えには多分な笑みが含まれる反面、目だけは昏く細められていく。
「分が悪いからさ。言ったろう? 俺が好むのは俺へ尽くす女だと。そのために俺はお前をモノにせねばならん。だが、人間相手にこの姿では、強引な手は多少だろうが使えんのだ。使えば拒んだお前が傷ついてしまうだろう? 傷のついた女は頑なだ。それが……好いてもない男がもたらしたものなら、特に。俺はな、お前を無傷で手に入れたいんだ。無粋な爪で傷を刻む趣味はねぇ」
「い、言ってることが滅茶苦茶なんですけど……」
 爪があるから獣の姿では強引なことは出来ない、というのはつまり、人間の姿を取れる日中ならそういう手を使う、という話ではないか。その場合、とてもではないが無傷はではいられないだろうと客観的に思う泉。
 主観で思ったなら、無防備にも気を失ってしまいそうだ。
 意味なく両手を胸の前で組み合わせれば、その上にシウォンの手が重ねられた。
「怯えるこたぁない。日中の俺には凶悪な爪も牙もねぇんだから。それに今の俺にすら反応したお前が、同族に似た姿形を拒む道理もない。好みは人それぞれだが……どうやら俺の面はお前ら人間から見ても、それなりのモンらしいからな。恐れずとも至極自然に、お前は俺に添うてくれる……だろう?」
 最後には双眸を和ませ、懇願する響きで熱い吐息混じりに語るシウォン。
 何と答えたものか考えあぐねる泉は、辛うじて引っ張り出した言葉を発する。
「さ、最終的に殺されて食べられるって分かっているのに、そんな相手、私が好きになるはず――」
 ないでしょう?
 続くはずの言葉は、再び押しつけられた胸に吸い込まれ、息苦しさにもがく泉の耳朶へはシウォンのやけに掠れた声が届いた。
「……それは、お前次第だ。お前の選択次第で俺の行動は決まる…………無闇に俺を拒絶するものではないぞ? 上手く手懐ければお前の益となる話だ。何せお前の香りは……俺の心を掻き乱して止まないくせに酷く、安らぐ……」
「…………ええと?」
 取り戻した声は、重みを増した身体に向けて。
 けれど、答えを持っている人狼は両腕を泉に巻きつけては、彼女の頭に顎を乗せ、規則正しい寝息を立て始めるのだった。

 

 


UP 2008/7/31 かなぶん

加筆・修正 2020/08/07

 

目次 

Copyright(c) 2008 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system