人魚の章 九

 

 童話では腹に石を抱えて井戸へ落とされる狼。
 これを平然と子どもの前でやってのけた母ヤギには、幼いながらも恐れを抱いたものだが――

 現在、泉が欲しいのは石より大きな岩かもしれない。

 顔に押しつけられた胸からは、心地良い香りに紛れて獣と男の匂いが漂う。酔いしれてしまいそうなソレに戸惑い、なんとか解放をと動くが、男女差に種族差も相まって、どれも無駄な抵抗で終わってしまう。
 力尽きて大人しく埋めたなら、頭が撫でられた。
「…………んー……」
 聞こえて来たのは、先程まで偉そうな語り口だったシウォンの、心地良さそうな寝息。
 ……段々と腹が立ってきた。
 匂いの優先順位云々の話が本当だとしても、泉が男女のアレコレでシウォンの香りを感じているという話はさておき、では、この男は一体何のつもりだろう。
 考えて出てくる答えは、三大欲求の上に居座る、睡眠欲。
 そして、今現在の泉の状況は、完全なる抱き枕。
 とすると、イコールで出てくる結論は――
 触り心地が良いのだろう。
 色のある話ではなく、ただ単に、増量中の泉の、筋肉ではない部分が。
 中でも――――胴回りが。
 抱き枕で想像した形状が寸胴だったため、輪をかけて気分が悪くなる。
 怒りが沸々と湧いてきたなら、白い胸を力任せに押した。
 僅かに開いた隙間へ、縛られた両足を捩じ込み、力一杯腹を蹴る。
 ドンッと思ってもない良い音が響いた。
 けれど。
「いっ〜〜〜〜〜〜!!」
 尋常じゃない硬さに足が痺れ、それに集中したがために、また身体が引き寄せられて、今度は足が乗っけられた。
(お、重い……!)
 身動きの取れる余裕がなくなり、痺れた両足にかかる圧に呻けば、背に回された爪が宥めてきた。
「……悪あがきは止せ。俺は眠いんだ。寝惚けてお前を殺したら嫌だろう? 良い子だから、朝まで大人しくしていろ。そうすりゃ、悪いようにはせん」
 それこそ寝惚けと思しき言い草と低い声音を用い、シウォンは泉へ身体を摺り寄せる。
 まるで至福を味わうように、悦に入る吐息を零して。
 腕の中の存在を確かめるように動いた身体は、やがて静かな寝息と取って変わるが、慈しむように触れられた鼓動は、密接する身体に響きそうなほど大きく早くなっていた。
 危険だと、忙しない信号機のように顔色を変えながら泉は思う。
 今の、人狼の本性たる姿のシウォンを拒む自信は、ある。
 どんなに声や香りに惑わされようが、獣面への嫌悪は未だ根深く残り、ともすれば泉の心を凍らせるほど恐怖をもたらしてくる。
 しかして、人間姿のシウォンに迫られ、拒めるかと問われれば――即時否定できない。
 ひと目見て惚れる、ということはなかったが、泉とて一端の娘である。
 艶ある美丈夫と認めながら本気で嫌うのは、至難の業といえよう。
 しかもシウォンの誘い方は、土壇場で真面目くさったものになるから始末に終えない。
 搦め手の混乱に乗じてキスの一つでも受けてしまったなら、なし崩しで彼に靡いてしまいそうな自分が残念ながらいるのだと、泉はある程度は冷静に分析していた。
 身動きが取り難い中で顎下を指先で撫でる。
 ワーズに消毒と称して擦られた痛みが引いて後、毒と評された感触が完全に拭えたかといえば、否、だった。あの時は確かに不快でしかなかったはずなのに、触れるか触れないかの距離を指で辿ったなら、起こる感傷は足の痺れなど忘れるくらい、甘い余韻を与えてくる。
 反射的に流されてはいけないと胸内で首を振る。
 許容したが最後、待ち受けているのはどう足掻こうが、死、あるのみ。
 と思いつつも、流されてしまっても……、と不埒な考えに傾ぐ性根の腐った部分も、確実に泉の中に芽生え始めていて、
「ぅううう……ワーズさん、私、どうしたら良いんですかぁ?」
 小さな声でへらり顔を思う。
 だが、それは長く続かなかった。
「ぐげっ!?」
 突如として強まる拘束は、背骨を折る勢いで力を増していく。
「うっ……く……かぁっ…………ああっ――むぐっ!」
 仰け反ろうにも頭を押さえつけられ、捩ろうにも身体に回った腕と足が許さず、容赦ない圧迫だけが襲いくる。耐えろと言われて耐えられるほど易しくない締めつけは、気を失うことすら許してくれそうにない。
 このままでは、朝を待つことなく死ぬだろう。
「っめて……さいっ…………シ……ウォン……さんっ!」
 絶え絶えに訴え、白い衣に短い爪を突き立てる。服と毛皮に覆われた皮膚へ届くか否か、それだけが自分の命を救う手段と必至に足掻く。
 すると、一瞬にして締めつける腕の力が抜けた。
 弛緩と言っても良いくらい、腑抜けた具合。
 対する泉は、咳き込む間も惜しいと、緩んだ腕から芋虫の如く這って、シウォンから少しでも離れようと必死にもがく。そこにはもう、不埒な考えも腐った性根もなく、純粋に命が助かる方向だけを目指す意志だけが宿っていた。
 けれど、温もりを失うのを恐れるかのように、再度シウォンの爪が泉の身体へ伸ばされ、
(変わりにコレでもどうぞ!)
 決して声には出さず、近くにあった程良い大きさのクッションを身代わりにする。
 ぱふっと爪が受け止めたクッションは、そのままシウォンに抱かれ、狼の顔には柔らかな面差しが浮かんだ。
 やはりこの人にとって自分は抱き枕だったと、思いもかけず見せつけられて、助かった反面、やるせない気持ちが泉の胸を衝く。
 だが、物思いに耽る悠長な時間はなかった。
 逃げるなら今しかないのだ。
 もしもこの場面でシウォンが起きれば、泉の明日は決まったも同然。
 その結末には漏れなく、先程の締めつけが加えられている。
 圧迫の痛みと苦しみにゾッとする背筋を宥めながら、更に動こうとした泉の目が、はたと気づいて手首に落とされた。
 縛られたままでは動けない。
 せめて、この手だけでも自由にせねば。
 そうして目に入ったのは、逃れたばかりの乳白色の爪。クッションに嬉しそうに埋められた鋭さを求め、声は出さずにうねうね動き、シウォンの耳元へ唇を寄せた。
 曰くある獣面に近づくのは恐ろしかったが、風を感じてぴくんと可愛らしく反応した、犬のような耳へは笑いを堪えつつ、
「……ええと、シウォンさん。その、良い子にしてるんで、せめて片方の爪だけでも避けてくれませんか? あの、私を抱くだけなら片手でも充分ですよね?」
 言っててどんどん赤面していく泉。
 良い子にしてるだとか、抱くだとか、普段なら絶対言わない言葉の羅列が寒く、恥ずかしい。
 そんな泉に対し、当のシウォンはふにゃりと相好を崩すように犬歯を見せ、クッションから腕を一本外した。不意に見せられた鋭い犬歯にひくつく泉だったが、思い通りにことが運び、つい、くすりと笑んでしまった。
 途端、鮮やかな緑が薄く開かれ、泉は思いっきり仰け反ってしまう。
 ばふっとクッションに倒れ込み、恐怖から動けずじっとする。
 が、一向にシウォンが起き上がる気配はない。
 これを寝惚けただけと理解し、早速拘束を破るため身を起こせば、その顔色が急激に悪くなった。シウォンの片手は解放されたままで、手首の布を切り裂くには持って来いの角度。
 なれど――――
 腰を引き寄せるように、優しくクッションを抱くもう片方の腕はともかく。ギザギザした歯で、がぶりと甘噛みされつつ舐められている、泉の頭部があったはずの箇所は……
 見なかったことにしよう。
 結論をさっさと出して、爪に近寄り布をゆっくり裂いていく。
 意識して意識外へ持っていった光景なぞに、自らの身を重ねることほど愚かしいことはない。ぷちっと最後の繊維が裂かれるなり、泉は急いでシウォンから離れ、月明かりが届く位置まで移動すると、今度は足の拘束を解くべく、自由になった手を伸ばした。
 しかし、両足を見た瞬間、その手はピタリと止まってしまう。
 拘束する紐の結び目が、あまりに芸術的な美しさを持つゆえに。
 対象は自分の足であるにも関わらず、セットで取っておきたいと思ってしまうほど、月明かりに映える結び目。
 しばし見惚れてしまったなら、目の端でちろりと動くものがあった。
 心臓が大きく跳ねる。この衝撃で我に返った泉は、シウォンとは違う方向と理解しつつも、そちらへ恐る恐る視線を向けた。
 そこにいたのは、鼠大の身体に触手のようなヒゲを生やした、奇怪な生物。
 淡い月光の下、てらてら妙な具合に濡れた生物は、泉と目を合わせるなり、小さな足をばたつかせて逃げていったが、泉はその鼠がつけたと思しき足跡を逆に辿っていく。
 はたして、先に待ち受けるのは例の腐れた首。剥げた髪の先の暗闇に続く、小さな足跡。
 ――ここに朝までいた者が迎える結末の、なれの果て。
 認めるなり、泉は狂ったような動きで芸術的な結び目を解くと、暗い壁に手を這わせて出口を探す。

* * *

 天井に並ぶ裸電球の光に煽られ、絢爛豪華な色彩が煌く。狭く雑然とした店の雰囲気を払拭するそれらを、台越しに遠目で眺めていた指が素早く動いた。
「そうだねぇ。あとは、コレとコレとコレ――ああ、そっちもおくれな」
「ヘイ、毎度!」
 手もみする獣面の男がだらしない視線を寄せても、逆に挑発するが如く長い白髪を掻きあげたクァンは、吐息を一つ零すのみ。
 この店へ買い物に来た回数は覚えきれないが、接客はいつも男の妻が行っていた。それが今日を入れて三度前から、いかがわしい顔つきを隠そうともしない男へと変わった。男の話では妻は療養中だそうだが、疑わしい限り。
 何でもありの奇人街では、経営者の交代は珍しいことではないが、夫が妻を、というのは些か興ざめするところ。気の強い彼女の夫をそれまで続けていた男の苦労は涙ぐましくとも、クァンは彼女を気に入っていたのだ。
 どうか、彼女のその時が安らかであったようにと密やかに祈る。
 仕舞いに憂いを帯びたため息がクァンの艶やかな唇を湿らせたなら、彼女を無遠慮に眺めていた他の視線までもが、生唾を呑み――――
 一同に燃えた。
 悲鳴を上げ、方々へ逃げる群れを見もせず、元凶の鬼火は鼻で笑う。
「ひっ」
 これに怯える唯一無事だった屋台の男へ、クァンはにっこり微笑みつつ、片眉を上げて言った。
「いい加減におしよ、この下衆。アタシゃ、見世物になった憶えはないんだからね? そんなに拝みきゃ、狩人(タリシ)にでもなってウチに来るこった。尤も、アンタ程度がなれるもんなら、って話だが」
 凄惨に笑えば、ただただ怯え続ける男。
 情けない様子に笑顔をピキッと凍らせたクァンは、男がバリケード代わりに使う台を蹴り倒し、下敷きになった男を堂々踏みつけると、店の中を物色し始める。
「ク、クァン? それって泥棒、ううん、強盗なんじゃ……」
 しんみりした空気から打って変わり、生き生きとし出したクァンの背に、恐る恐るかかる澄んだ声。ずっと黙って後ろを付いてきた少女の、おっかなびっくり止める手を振り返ったクァンは、一瞬きょとんとした顔を浮かべ、すぐさまニッと少年のように笑って見せた。
「へーきへーき。堅いこと言いっこなしだよ。大体、客の前で商売の手ぇ休める腑抜けは、モノを売る資格がないのさ。不埒な想像にかまけている時間があるなら、売り上げ貢献の技術でも磨けってね」
「で、でも……」
「いいんだって。ここは奇人街。金を払う気なくさせた方が悪いんだよ。……それより、ちょいとおいでな。アンタに似合いそうなドレスがあるよ」
「う、うん」
 楽しそうなクァンに手招かれ、少女は渋っていた割にクァン同様、いやそれよりも強く、倒れた台を踏みつけた。
「ぅげっ――――くそっ!」
「きゃっ!?」
 途端、クァンに踏みつけられた時は大人しくしていた男が、乗られた台ごと少女を跳ね除けて立ち上がった。崩された体勢から地面に尻餅をつく少女へ、男は獣面の歯を剥き出して吼える。
「人間の小娘風情がっ! この俺をコケにするたぁいい度胸――――」
「ほほう? コケにした憶えはないが……風情と言われて無視するのも、礼儀に反するなぁ?」
「げっ!?」
 唾を吐き散した男の声は引きつる呻きに変わる。
 たまたま通りかかった袴姿は、足元で転がる少女に気づく素振りもなく、青筋を立ててすらりと刀を抜いた。
 刃を思わせる美貌には、怒号に泡立った男の唾が張りついていた。
「ちょっと待て、俺はあんたに言ったんじゃなくて!」
「問答無用!」
 一閃。
 止めるべく翳した男の腕が宙を舞う。
 一拍遅れ、噴き出す血に男がぎゃーぎゃー泣き喚く。
 この様子に袴姿は口の端を笑ませ、腰を落とした。
 確実に仕留めるその動きに、クァンは物色する手は休めず声をかける。
「あ、史歩。一応ここ、アタシのお得意だから。殺しはナシで頼むよ」
「ん? クァンか」
 名を呼ばれた史歩は峰を用い、逃げようとした男の頭を無造作に払った。そうして、嫌な音が響こうとも我関せず、横倒しになって泡噴く身体を草履で踏み躙り、呆れた顔のクァンへ歩み寄る。
「アンタ……やり過ぎよ? 出血大サービスで死んじゃったらどうしてくれんのよ。ここの装飾、結構気に入ってんのに」
「悪いな。何せ私には縁遠い店だ。生死に興味はない。が、何だったら医者でも呼んでやるぞ?」
「いいわよ別に。言葉のアヤだし。この程度でくたばるタマでもないしねぇ」
 すでに血を止めた先のない腕を視界の端に、クァンは凶行に青褪める少女を手招いた。
 立ち上がって服を払い、駆け寄る姿を見て、初めて少女の存在に気づいた様子の史歩が、無遠慮に彼女を指差して問う。
「クァン、コイツは?」
「ああ、海で拾ったんだ。歌が上手くてね。……言っとくけど、この子の意思でアタシんトコ来たんだから、芥屋のに茶々入れさせないでよね」
 クァンは少女に見繕ったドレスを、その身を隠すように宛がって釘を刺す。
「ってことは、人間か」
 これに全く動じない史歩は、少女の姿を上から下まで眺めてきた。史歩より年上に見える容姿と綺麗な黒髪は、そこまで珍しいものではないはずだが、何故かしばし少女に見入った史歩は、眩しそうに目を細める。
 珍しいその様子に、クァンの目が警戒から戸惑いへ変われば、はっと何かを思い出したように史歩が問うてきた。
「あ、そうだ。クァン、シウォンを見かけなかったか? もしくは綾音とか」
「いや? 見てない、けど……なんだい? その不穏な組み合わせは?……まさか!?」
 とさっ……と軽い音を立てて、少女へ宛がっていたドレスを落とすクァン。
 青褪めた表情に史歩は、ふむと一つ頷いた。
「その様子じゃ本当に知らんようだな。お前の店は奴の系列だから、知っていようが教えんと思ったが」
「いや、確かにその通りだけど……いいやっ、こうしちゃいれないよ!」
「クァン?」
 急にわたわた動く白い鬼火へ、少女は不思議そうな声をかけ、これに少しだけ正気を取り戻したクァンがその両肩を掴んだ。
「悪いんだけど、先、帰っててくんない? 来た路は分かるだろ? 護身にコレやるから」
 そう言って素早く少女の手を取り、その上に握らせたのは、赤い珠。
 鉄を高温で熱したような、凶悪な赤さである。
「熱っ!?」
 途端、顔を顰めた少女がコレを落としてしまった。
 そのまま手を庇うように蹲る。
 間を置かず、何かが焦げついたニオイが漂ってきた。
「わっ、悪い! 保護しとくの忘れて……だ、大丈夫かい!?」
「クァン……何を慌ててるんだ、お前。紅珠玉(べにしゅぎょく)なぞ、鬼火でなけりゃ扱えん代物だろうが。保護したところで人間の肌では耐え切れんぞ?」
「や、だって、でもさっ!」
 しゃがみ込み震える少女を持て余しながら、言い募ろうとするクァンへ、史歩が大仰なため息を吐いた。
「皆まで言うな。お前のことだから、シウォンが手ぇ出す前に綾音確保しときたいってんだろ? 全く……何故そうまでして、アイツに執着するかねぇ?」
 半眼でじろりと問われれば、クァンは唇を噛み締め、少女の呻きを聞いては顔を青くして手をこまねく。
 腕を飛ばされ殴られ倒れた男はクァンにとって、この店の維持に必要な道具でしかないが、少女はクァンが保護した相手。歌い手以前に、差し伸べた手を取った可愛い娘を、芥屋の店主ほど過保護ではないが、大切に思う気持ちは強い。それが自分のせいで傷ついたのだから、いつもはカラカラに乾いた空色が潤んできた。
 さすがの史歩も見かねたようでクァンに言う。
「心配するな。綾音は私が確保しておくさ。まさか地下はあるまいし、手当たり次第に奴の寝床を衝けば見つかるだろう。問題は朝になったら、だが……。まあ、店主もいることだ、アレでも何かしらの役には立つはず。シウォンと一番因縁深いのは奴だし――」
「店主? 芥屋のがいるのかい……?」
 少女の苦悶には青褪めても、ワーズの存在を聞いては、気遣いを止めて少女を後ろに隠すクァン。傷ついた人間など見つけたなら、たとえクァンのところを少女が選んでいたとしても、彼の店主は強引に彼女を連れていってしまうだろう。そうなると最終的には従業員扱い、仕舞いにはシウォンの毒牙にかかること請け合いだ。
(冗談じゃない。第一、せっかく仕入れた歌、そう簡単に手放してなるものか!)
 そう固く決心するクァンだったが、路地へ視線を投じても、映るのは半壊した店と転がる男、何事もなく過ぎ去る呑気な住人の群れだけ。
「…………どこに?」
 黒一色の忌まわしい男の姿は見当たらない。
「どこにって――――っ! 店主!? おいおい嘘だろ?」
 クァンの言葉に促されて振り返った史歩が、大股で路地へ戻り、見渡す素振りをみせる。
 しかし、件の店主は史歩にも見つけられなかったようで、普段刃のように鋭く隙のない目が、困惑に揺れていた。
「な、何なんだ、アイツ?……猫が留守番主張するまで渋ってたくせに、自発的に動くのかよ……。ああもう! くそっ、じゃあな!!」
 当人にしか分からない怒りを吐き、史歩はクァンへの挨拶もそこそこに、雑踏の中に消えていった。
「……だ、大丈夫かね、アレ。泉、無事でいておくれよ」
 完全に置いてかれたクァンは、手の負傷に動けない少女を支えて立たせ、祈るように目を閉じて――後。
「っとと、そうだそうだ。帰る前に、貰っとくモンは貰っとかなきゃね」
「ク、クァン……」
 呆れた声を上げる少女を壁に預けたクァンは、見繕ったドレスや装飾品を店の袋へ詰め込んでいくのだった。

 

 


UP 2008/8/1 かなぶん

加筆・修正 2020/08/14

 

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