幽鬼の章 二十六

 

 喉が渇く。
 飢餓が襲う。
 似通うモノを求めても得られる安らぎはない。
 真実、ただ一つが欲しい。
 生を謳うあの喉。
 横たわる身体に衝きたてる牙を思えば、真紅が現れる。
 まだ記憶に新しい、生温く通り抜ける赤い紅い朱い――――液体。
 今、ごくりと鳴る喉を通るは、干からびた己が肉の感触と焦がれる想いだけ。
 アレをもう一度自身のモノとするには、どうすれば良いのか。
 検討が付かない。
 渇いた歯で唇を噛みしめる。
 それでどうなるわけでもないが、気づいたのはその唇さえ渇き、自然と裂傷を起こしていたこと。
 ぺろり、舌で舐めとる傷口は、己のモノであっては何の感慨もない。
 試しに腕を口元まで持ち上げ、牙を衝きたてる。
 飢えから目を逸らすための、ただの自傷。
 それでも鋭く裂かれた腕から落ちる紅は、口内に溢れ、一筋の流れが顎下を伝う。渇きのまま啜ろうとも、ただ生温かく、ねとりとした感触が喉を過ぎるのみ。
 細まる瞳。
 笑みでも憤怒でもない、精彩を欠いた面が腕を解放する。
 すると噛み跡はすぐさま消え去り、袖を穿った事実のみが残った。
 潤さぬ液体など興味はなく、口内に残るそれを地に吐き捨て、荒々しく拭う。
 そして満たされぬ衝動のまま、拳を壁へ叩きつけた。
 陥没した壁を伝い、天井から粉が舞う。
「……………………欲しい……」
 搾り出し、渇望する音は宙へ溶け、余韻も残さず消えていった。

*  *  *

「……シイちゃん、大丈夫かしら?」
 しとしと降り注ぐ雨が止んで、一週間は経った頃――のはず。
 恒例行事のように、朝食後に振る舞われる茶で喉を潤わせた泉は、日数を胸内で数えながら呟いた。
 雨が終わった奇人街は陽にあっては淀み、夜にあっては騒々しい日常に戻っていた。こうなると意識しなければ時間間隔が曖昧となり、過ぎた日を数えることすら難しくなる。毎日毎日、同じことの繰り返し。自分の記憶さえおぼろげだというのに、カレンダーもない奇人街では、一ヶ月を数えるのも一苦労だ。
 当初泉は過ぎた日数を紙に記していた。保てない記憶を補うには最適だと考えて。しかし紙は、三日を記したところで、何の断りもなしにワーズがゴミ箱へ捨ててしまった。すぐに気づいた泉は、取り出そうとゴミ箱の蓋を開けたのだが、そこにあったのは、ぽっかりと開いた底なしの穴。ゴミ箱自体の大きさは一メートルもないのに、深さはそれ以上。仕組みは不明だが、奇人街のゴミ箱は焼却炉に直結しているらしい。奇怪な街の奇怪なゴミ箱システムの前では、追求を諦めるしかなかった。
 それでも、原因であるワーズに何故と詰め寄れば、「だって泉嬢、日数間違っていたから」と言われてしまった。どうやら毎日書いているつもりだった数字は、三日坊主を待たずして、奇人街の時間の流れに惑わされていたようだ。
 かくして記録を諦めた泉。
 けれど幾日経とうと、あの子どものことが頭から離れることはなかった。
 シイに関し、泉が最初に尋ねた相手は史歩。それがいつの間にか、あれ以来部屋に戻らず居間で怪しげな実験に精を出す、三白眼の白衣へと移行していく。研究だけが取り柄、もとい、生き甲斐と思っていた学者は、シイをよく知っているらしく、聞けば情報がぽんぽんと出てきた。
 その中で泉の心を捉えたのは、シイには家がないという話。
 どういう意味か問うのは躊躇われ、絞りに絞った声で聞いたのは、雨風を凌げるか否かの二択。けれどスエはしばし黙考して後、酷く曖昧に答えた。
 ――可といえば可、不可といえば不可、ネ。
 仕草や表情に変化はなかったものの、そう告げたスエの様子はどこか物憂げで、泉の目には心配と映るほど。
「泉嬢ってさ、お人好しだよね」
「へ?」
 ズズズ……と音を立てて茶を啜るワーズは、これまた例によってソファで寛ぐ泉の前に陣取り、へらり笑って見せた。
 考えに沈んでいたため惚けるだけの泉へ、言葉を重ねる。
「だってさあ、自分を襲おうとした相手、普通は気にかける必要ないでしょう? しかも人間じゃないのに」
 自覚はなかったが、しつこく尋ねていたためなしくずしで話してしまったシイとの出会いに対し、人間贔屓の店主は良い顔をしなかった。
 元々、スエの血を求めるシイを嫌悪していた様子のワーズ。
 どこまでも人間には好意を、これを傷つける人外には害意を抱く彼に、無駄だと知りつつも泉はフォローを入れる。
「襲うっていっても、スエさんの時みたいな強引さはないですし。選択の自由があったからこそ、私は血をあげずに済んだところがありますし」
「やれやれ。その時にあげときゃ良かったネ。そうしたらワシが襲われることも、シイがあの状態に陥ることもなかったヨ」
 こちらへ背を向け蹲り、何かに熱中していると思っていたスエが勝手なことを言う。シイのことは気がかりであっても、血をあげる、イコール喰われる式が頭の中で展開され、知らず眉が吊り上った。
「無茶言わないでください。あの時はそんな余裕なんか! 第一――」
 言いかけ、止め、言葉ごと茶を口に入れて呑み込んだ。
 不自然な途切れなど最早耳に入っていないのか、スエは小声で「なかなか解けんヨ」と呟き、作業に没頭している。そんなスエの、芥屋にいる間は辛うじて清潔を保っている髪を見つめる泉。
 正確には、ボサボサのくすんだ金髪に隠れたうなじを。
 訂正するなら、用があるのはうなじ本体ではなく、これを狙うシイのこと。
「…………狙われないのは、ありがたいくらいですけど」
 血を求めるシイの前でスエと泉が並ぶとして、まっしぐらに襲われるのはスエなのだと、ひょっこり顔を見せたクァンまでもが言っていた。その後、ワーズの嫌がらせで業火を撒き散らす彼女が映らないほど、ショックを受けた記憶は未だ新しい。
「分かるぞ、綾音。その気持ちは痛いくらいに、な」
「史歩さん」
 挨拶代わりの慰めを受け、視線を店側へやれば、今日はきちんと草履を脱いで上がる袴姿。へらり笑う店主を一睨みで退けた史歩は、彼が座っていた椅子には座らず、その近くの椅子に腰掛けた。
 露骨な行動に、ワーズは相変わらず気分を害した様子もなく、茶を入れた湯呑みを史歩へ出しては、台所の縁に寄りかかってこちらを眺めている。ふやけた顔からして、人間がいるだけで嬉しいのだろう。ただそれだけのはずなのに、配色が不気味なせいで何かを企んでいるように見えるのが何だが。
 おざなりの礼で湯呑みを受け取った史歩は、それに口をつけつつ、
「嫌だよな。きっちり風呂に入っている自分より、小汚い学者の血が美味いなんて。嗜好ったって、もう少し万人に通用するモノにして欲しいよな」
 しみじみ語る。
「若く健康的で清潔な女。こちとら人身御供にゃ持って来いの逸材だってのに。なあ?」
「…………はあ」
 指摘は正しいかもしれないが、発言が悉く恐ろしい。
 間の抜けた返事に片眉を上げた史歩はふっと笑う。
「なに、シイなら心配ない。好物は学者だろうが、他で満たせば済む話だ。それに、枯渇状態の死人(シビト)は大人なら猫に届くくらい強い。そう簡単に死ぬことはないさ」
「枯渇状態? シビト? 猫に届くくらいって……」
 話の流れから、シビトというのがシイの属する種族名と理解しても、その響きや前後の言葉と話は不穏に残る。
 感じたまま、泉が不安の表情を浮かべたなら、史歩が一つ頷いた。
「よし、ならば今日は死人について教えてやろう」
「あ、はい、お願いします」
 史歩のこの言葉に、彼女がこの時間帯、芥屋で茶を啜る意味を思い出した泉。
 一度自室へ戻っては、ノート状に纏めた紙とペンを取り、食卓の上へ広げていった。

 

 


UP 2008/06/02 かなぶん

修正 2021/05/04

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