幽鬼の章 三十

 

 泉の手を引いたのは、白衣の男・スエだった。
 突然のことに、当事者である泉はもちろん、店側で切り落とした腕を拾い、悦に入っていた史歩も気づくなり目を剥いた。
「学者! お前!?」
「あとは宜しく頼むヨ!」
「あとって――くっ」
 スエを追うべくこちらへ向きかけた身体は、別の幽鬼の攻撃によって阻まれる。眼前の敵を捨ててまでスエを止めようとした史歩の行動に、泉は抵抗を試みるが、狂喜に駆られた学者の力は強く、結局は傷つくのを良しとしない足が階段を駆け上がってしまう。
 どこへ連れて行こうというのか、考える間もなく上りきった身体が左に折れた。
 手を引かれる先には、補強を無残に破られた壁向こうの薄暗い通路。
 出来れば入りたくないスエの住処だ。
 右側の一部屋から漏れる赤い明滅と、左側に並ぶ窓の、ブラインド越しの僅かな光しかない不気味な廊下。これに加わる無数の粒子は、短時間の滞在でスエに纏わりついた埃とカビそのものであり、常であれば全力で足を止めていただろう。
 だが泉は、突然現われた幽鬼に意識を奪われており、声を荒げて叫ぶ。
「あの、スエさんっ、ワーズさんたちは!?」
「平気ネ! 殺したって死なない連中だ!」
 酷い言いようだが、史歩と猫の手並みならば十二分に納得できる。
 ――しかし、それならば。
(じゃあ、どうして私は、この人に手を引かれているんだろう? 皆と一緒にいた方が安全なんじゃ?)
 スエからもたらされる軽快な応えは、泉の困惑を強めるばかりだ。
 血走った眼に剥き出しの歯、生白い身体。交わした視線は一瞬でも、嫌でも印象に残る姿形は、この学者と二人だけで太刀打ちなど到底できはしまい。
 今もって分からない勢いに流されるまま、踏み入れたスエの住処は、その瞬間から埃とカビ、煙草のヤニと体臭が混じった、異様な臭いで泉の鼻を襲ってきた。
 思わず口元を覆う。
 幽鬼から漂ってきた甘ったるくも濃密な腐臭と、いい勝負になりそうだ。
 踏みしめた足裏の感触も然るもので、靴下越しでも分かる違和感が酷い。
 当のスエは、やはり自分の住処であるためか、肺を潰すような臭気に塞ぐ鼻もなく、爛々と輝く眼で、右に並ぶ扉の一つに泉を引きずり込んだ。
 そこでようやく立ち止まり、振り向く三白眼。口元から手を離せない泉は何事かと涙目と咳で問う。
「見たまえ、娘御。これがワシの発明した、幽鬼予報機ネ!」
 じゃーん、と言わんばかりにポーズを決め、スエが指し示したのは、暗い室内を赤の明滅で照らす物体。泉が寝泊まりする部屋より広い面積の、約三分の一を占拠するソレは、陰影しか分からず、また歪に折り重なっているようで、泉の目にはゴミの集合体にしか見えなかった。
 けれどもスエにとっては宝物に等しいらしい。いやそもそも、誇らしげに紹介したくせに、反応には興味がないらしく、やりきった顔でコレを愛おしそうに抱きしめる。
 ついて行けない世界に、泉の足がちょっと引いた。
 そんな彼女の様子など、やはり一ミリも気にしないスエは、頬ずりまで披露した後で物体の何かしらをがちゃがちゃ動かした。終えれば、それまで警戒を促すように明滅していた赤い照明が鎮まった。
 夕陽で更に鈍くなったブラインド越しの光を受け、赤に紛れていた空気の淀みがより一層鮮明になる。
「そして、もう一つ。これこそ、我が一大発明!」
 薄暗くとも滑らかな足取りで部屋中央へ向かったスエは、埃やらゴミやらに隠れていた布を取っ払う。尋常ならざる量の埃が舞うと同時に、姿を現したのは、大きな長方形の箱。
 泉は喘息を引き起こしそうな埃に咽つつ、一言で表した。
「……棺桶?」
「失敬な娘だネ。まあよい、見たまえ。これはあの猫ですら壊せない、画期的な防壁ヨ!」
 宣言と共に一気に開けられたその音は、聞くに堪えない錆び付いたもの。泉が防臭を捨ててまで両耳を塞ぐのとは対照的に、スエはけろりとした顔でおどろおどろしい悲鳴を上げた棺桶、もとい防壁をひと撫でする。
「つまりこれで、クイフン……を回避する、と?」
「うむ。なかなか察しの良い。では、さらばだ」
「へ?」
 言うなり、いそいそ防壁内へすっぽり納まる白衣。呆気に取られた泉は、さっさと蓋を閉めようとする姿に慌てて叫んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私はどうして連れて来られたんですか!?」
 別に狭そうな防壁に一緒に入りたい訳ではないが、これまでの流れは一体何だったのか。泉の問いかけに何故かきょとんと目を丸くしたスエは、当然と言わんばかりの口調で告げる。
 わざわざ史歩や猫から引き離してまで、泉を連れてきたその考えを。
「どうしてって、もちろん、生き残る確率の低い娘御に、ワシの素晴らしい発明を一目見せてあげようという――親切心?」
 絶句。
 その間にも防壁はしっかり封された。

 

 


UP 2008/06/04 かなぶん

修正 2021/05/04

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