幽鬼の章 三十四
瓦屋根の間から覗く空の色は、徐々に夜を迎えつつあるが、奇人街特有の喧噪は聞こえてこない。住人に会いたい訳ではないが、街の全てが死んだような静寂は不気味さが際立つ。
泉は試しに路地を覗こうとしたが、すぐさまシイに止められた。
「ダメです、お姉ちゃん。幽鬼がいる時は、じっと隠れてないといけないのです。幽鬼は一匹見たら街に万いると思え、です」
「そんなに? でもここだって、安全とは限らない。それに――――」
泉はシイの足を見た。
幽鬼が投げた手は、宙に逃げたシイの足を深く裂いていた。死人の回復力ならこれくらい大丈夫、そう笑ったシイの言葉通り、出血は完全に止まっていたが、開いた傷口は裂けたまま。
痛々しいソレに、泉は袖の余りを巻きつけた。
目に見える出血はなくとも、じわりと赤が滲む。薄青の生地は見る影もない。
それは泉が己の右腕に巻いた布にも言えることだが、この赤の大半はシイが出所だ。鼻の利く幽鬼を少しでも避ける効果があるのだと、飢餓状態に苦しみながらシイが乱暴に染み込ませ、泉に押しつけたモノ。
深い傷と、与えた血の量以上の出血に、泉の顔が顰められる。
「ちゃんと手当てしないと……」
「むう。そうですね。シイは死人ですが、お姉ちゃんは人間ですし。……痛くないですか?」
尋ねられて正直に「痛い」とは言えなかった。
種の違いはあれど、自分より幼いシイがより酷い怪我をしているのだ。
だからといって「大丈夫」と気安く笑えるほど、泉の顔色は良くない。応急処置はあくまで応急処置。風にしみるのを抑える程度だ。
加え、泉にとって夜の奇人街は、幽鬼関係なしに恐ろしい場所。
「……普通、かな」
「なんですか、それ?」
率直な答えに返されたのは、大人びた笑み。泉の思いを見透かすようなソレ。
けれど不快さはなく、不思議と不安が払われた。
同調するように頬を緩めた泉は、気を引き締めるべく、これから直面するであろう相手のことを問う。
「ねぇ、シイちゃん。クイフンって、何なの?」
ワーズからは聞いた。しかし、人間に教えること自体を喜ぶ彼の説明は、泉の聞く姿勢を待たないもので、詳細を覚えるには至っていない。しかも脅しが過ぎる語りでは、それが真実だろうとも、目の当たりにしない中で聞き入れるのは難しかった。
だからこそ、幼くとも奇人街の住人であるシイを当てに、改めて問いかけたのだが。
「シイちゃん?」
通常の枯渇に陥った死人なら、吸血でカサカサになって死ぬ――そんな話をあっけらかんと、ともすれば楽しそうに告げていた顔は、泉の問いかけに明らかに動揺していた。
名を呼べば、小さな身体が大きく震える。
だがシイはそんな自分を誤魔化すように、無理矢理笑顔を作った。
「幽鬼は……幽鬼は奇人街でも恐ろしい存在なのです。どこから来て何を目的とするのか、誰も知りません。ただ、現われて必ずすることが一つあります」
か細い声、顔も青褪めているのに、それでもシイは笑顔を作り続ける。
「人間を探しては食べるのです。人間がいなかったら……住人を。お姉ちゃんにはごめんなさいですが、幽鬼の攻撃に人間はすぐ死ぬことができます。けれど」
笑顔が消えた。輝きのない夜色が見開かれ、虚空を映す。
「住人は、人間より丈夫なんです。だから……だから、生きながら…………」
まるでその情景が広がっているかのように、シイは己の身を抱いた。
続く言葉を察せられたが、掛けられる言葉はなかった。
恐らくシイは、幽鬼に喰われる住人の姿を見てしまったことがあるのだろう。
先程幽鬼と対峙した時の震えは、その恐怖ゆえ。シイが幽鬼に抱く恐怖の源、その片鱗を知り、泉は自身の軽率な問いかけを呪った。
「……ごめん」
そう告げると、シイは震えながらも安心させるように笑む。
「だ、大丈夫ですよ、お姉ちゃん! お姉ちゃんのことはシイがちゃんと守りますから!」
いっそ泣いてくれれば良かったのに。
恐怖を思い出させた自分を責めれば良いのに。
強がりではない、弱い人間である泉を安心させようと、必死に引っ張り出す笑顔に、泉の方が辛そうな顔になる。
それでも、暗い顔はシイに失礼だと泉も笑顔を作った。
「うん、ありがとう。私も足手まといにならないように頑張るわ」
「はい! 大丈夫です! 足手まといでもシイは見捨てません!」
力一杯頷かれて口角が引きつる。
確かにそうだが、出鼻を挫かれた気分だ。
「ちょっとそれ、酷くない?」
「そうですね。ごめんなさいです」
急に神妙な顔つきになって、ぺこりと頭を下げるシイ。
しかし次に浮かんだのは紛れもない笑顔。震えも消えている。
良かった、と泉も釣られて笑う。
―――決して、長くは続かなかったけれど。
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