幽鬼の章 三十六

 

「ホントにねぇ、いっつも突然なんだから。……おじさん、困っちゃうっ」
 窓を飾る花壇の雑草を引き千切り、分厚い唇に挟んでは青臭いその味を噛み締める。
 煙も酒も呑まない、赤いオールバックの中年キフ・ナーレンは、つまらなさそうに瓦屋根の上から、下の光景を眺めていた。
 青い目が静かに見つめる先では、生白い幽鬼の登場に合わせ、慄き叫ぶ声があちらこちらで聞こえてくる。
 混じる声に、老いも若きも、男も女も、分け隔てはない。
「まぁた、随分派手にやってくれちゃって。修理工はウハウハだぁねえ」
 そうぼやいたキフは、先だけ噛んだ雑草を吐き捨てると、やけに青い紳士服の腰に手を当て、上体を伸ばした。下の凄惨さなど知らぬていで、のんびりと柔軟を始める。
 最中、興味深いものを見つけたなら、ありもしない日差しを遮るように、手の平を額へつけてまじまじ眺める。
「おや、良さげな若人、発見」
 キフの視線の先では、夕日と夜の境で色づく空の下、白い影に追われる黒い点が四方に散ったところ。人間は元より、住人であっても詳細を知るには難しい薄闇の中で、キフは内一つに熱い視線を注いだ。
 べろりと唇を舐め、
「おじさん、ときめいちゃった」
 うふっ、としなを作ってウインク一つ。
 すると、遠方のこちらなぞ分からないはずの先の点が、タイミング良く身体を竦ませた。
 これを嗤い、俯いてはぼそりと呟く。
「死ななかったらお相手願いたいねぇ、是非とも。ご同類の彼には無下にされちゃったしぃー」
 指の全てに煌びやかな指輪を付けた両拳を口元に、イヤイヤと首を振るキフ。
 その内に、匂いが立ちこめてきたなら、気落ちしたていで頭を掻いた。
 イイ気分が台無し、などと愚痴る先では、定時には必ず点く街灯近くの影が、幽鬼から縦に払われたところ。
 上がる悲鳴で男と知って、キフの眉根が寄った。
「いまいちだね。おじさんの好みでもないし……あらま?」
 先の一撃によるものだろうか。男からは黒いモノが滴り落ちており、地に垂れるモノまであった。だが、所有者であるはずの男は、幽鬼がコレを踏んで千切ろうとも気づかない。気づかないまま、逃げていく。あの様子では、逃げ切れたところで助からないことにも、気づいてはいまい。
「なんとまあ、往生際の悪い。さっさと諦めた方が楽だろうに」
 何の感慨も浮かばず、くたびれたように言っては、また鼻に届く香り。
 血に混じった、不思議な香。
「!………………これは」
 やる気のない顔から一変、キフは酷く焦ったように目を見開いた。
 けれどすぐに頭を振り、違うと自身に言い聞かせる。
「そんなはずはない。そんなはずは……。だってあの子はもう、傷つかないのだから。傷つくはずがないのだから…………」
 額に手を押し当て、瞼を閉じ、震わせる。
 次いで顔を上げたキフは、三階の高さにある瓦屋根から躊躇いなく飛び降りた。

* * *

 不気味な静けさを破るように、近くの路地から悲鳴が上がった。
 何かを引き千切る音も、同時に。
 和やかだった空気が一気に張り詰め、泉とシイは壁に身を寄せて息を殺す。
 じわり、奇人街の空気に鉄錆の臭気と夜の冷たさが滲む。
 と、通りから現われた人影が、勢いよく目の前、路地近くの壁に激突した。
 かなりの衝撃があったはずだが、呻く時間も惜しいとばかりに、その人物は壊れたように助けを連呼する。
「た、助け、助けて、助けてくれ、助けてくれ、勘弁してくれ――」
 静かにさせなければ、彼も自分たちも危ない。
 そう考えて声を掛けようとする泉。
「お、お前ら! 助けてくれ!」
 その前にこちらに気づいた男が、必死の形相で手を伸べ助けを請うてきた。
 年若い娘や子どもへ縋ることも厭わず、悲愴を露わに懇願する男。
 だが、泉も、シイでさえも近づこうとはしなかった。
 否、出来なかった。
 幽鬼の気配はしても、姿はまだない。
 けれど、こちらに手を伸べた瞬間、明らかになった男の状態は、二人の行動を遮るほどにおぞましいものだった。
 街灯に青白く照らされた男の腹は無残に裂かれ、絶えず流れる血と共に飛び出た臓物は地面まで垂れ落ち、裂かれた上方に脈打つソレは、紛れもなく――……
 助からない。
 一目で分かる惨状。
 しかし、男はなおもこちらへ手を伸ばす。
 足取りが覚束ないことにも気づかず、必死に指先を向けてくる。
 為す術のない泉は青ざめた顔のまま後ずさり、シイは見開いた目で男を凝視するのみ。
 その内に、影が一つ、街灯の光を遮った。
 はっと気づいて視線を男の背後へ向ければ、幽鬼の縦に裂かれた眼。
「ひぃっ!?」
 泉の視線の先を追った男はすぐさま逃げようとする。だが、一歩踏み出した先で自分の臓物に足を取られては、滑り転がり、仰向けで生白い身体と対峙したなら、その頭が地面に落ちた。
 失神――確認する間もなく、生白い身体から伸びた触手が、男の脈打つソレを無造作に引き千切った。
 一瞬だけ、男の身体が大きく跳ね、追うように多量の血が噴き出す。
 幽鬼は自身を染める朱には目もくれず、肉のない口へ痙攣する塊を迎えた。
 短い舌で受け止め、ゆっくりと噛み締める。
 どぷり……
 白い歯の合間から赤い液体が流れた。
 麻痺していた鼻に、新しい血の臭いが届く。
 満足そうに口の端を持ち上げた幽鬼は、動けずにいた泉へ黄色い一つ目を向けた。
 束の間、自分の姿を見て逃げない獲物を不思議そうに見た幽鬼だが、ソレが人間であることに気づいたのか、ぽかんとした顔から一転して深い笑みが浮かぶ。
 ぺたり……ぺたり……
 肉感のある足音に我を取り戻した泉。逃げるため、退いた足を更に後退させるが、視界の端に光を認めたなら、慌ててその名を呼んだ。
「シイちゃん!」
「なんで? ダメです……助けてって、助けてって言ったのに。どうして、やめてあげないんですか? どうして、どうして?」
 傷を忘れた歩み。止まっていたはずの血がシイの足元を染める。
 無防備に幽鬼へ近づく小さな背に血の気が引いた。
「シイちゃん!?」
 泉は、再度名を呼んでも反応を返さない、視線を決して幽鬼から逸らそうとしないシイの腕を思い切り引っ張った。簡単にこちらへ倒れたのを支えようとするが、腕の傷が重く痛覚を突く。
「うぁああっ……」
「お姉ちゃん……っ!」
 泉の低い叫びにシイが我を取り戻した。
 これを聞き、痛みに遠くなる意識を繋ぎとめる。
 心配する声音を無視し、激痛から開くこともままならない指をこれ幸いと、小さな腕を握りしめる泉は、幽鬼とは反対に位置する路地へ飛び出した。
 しかし――――
「うっ……そんなっ!?」
 抜けた路地で出くわしたのは、冗談染みた幽鬼の数。
 一瞬怯んだ泉は、どこかで上がった悲鳴に息を呑み、肩越しに後ろを確認。変わらずゆったりとこちらへ近づく生白い肌を見たなら、ごくりと喉が鳴った。
 進もうと退こうと、先に待つのは幽鬼。
 万はいる――実感して歯を喰いしばる。
(どうしたらいい?……どこかに、逃げ道は?)
 闇夜と痛みにかすむ焦げ茶の目がせわしなく動き、一点で止まった。距離にして数メートルもない頭上、柵が設置されただけの橋状の通路に幽鬼の姿は見当たらない。
(……死にたいわけじゃない。でも)
 人間の泉があそこまで辿り着くのは無理だ。足に怪我を負っているシイでは、泉を担いで跳ぶことなぞ望めまい。
 だが、シイだけならば。泉を連れていかなければ、シイが跳ぶのは可能かも知れない。
 殺され喰われるのは御免だが、自分のせいでシイまで喰われるのはもっと御免だ。
 決心した泉はシイに視線を落とす。が、何故か通り過ぎて地面と向き合ってしまった。不自然な光景に戸惑う間もなく、脇に圧が掛かり、背中を風が叩く。
 シイに抱えられ投げられた――そう理解が追いついたのは、上の通路の柵を越えた時。
 すぐさま襲う衝撃に腕を庇いかけたが、堪えた泉は身を起こして柵の下を見た。
 ずらりと並ぶ一つ眼の間を、小さな姿が足を引き擦りながら逃げ回る。一つ眼の中には泉に気づいた個体もいたが、上の通路では手が出せないと察したのだろう、どれもが目標を近いシイに変えていった。
(私を逃がすため、囮に……?)
 愕然とする事実に叫び掛けた泉だが、己とて決して安全ではないと思い直し、辺りを見渡した。
 程なく、路地裏では見えなかった芥屋の看板が、街の連なりの合間に見えた。何故かライトアップされた巨大な文字に、不思議と安堵を得る。
 しかし、行く手には幽鬼が、ゆったりとこちらに歩いてくるのが、生白い反射となって見えた。
 とにもかくにも、今は逃げなければ。
 幽鬼を恐れながらも、囮になってまで逃がしてくれたシイのためにも、ここであっさり死ぬわけにはいかない。
 それに、まだ手はあるはずだ。自分は元より、シイを助けられる手が。
 彷徨い歩いたあの晩、無力な泉は震え、依る場所もなく、帰ることすら望めなかった。もちろん、無力なのは今も変わらない。街のことだって、よく知らないし、知りたくもない。
 けれど、不安だったあの時とは違う、選び取れる先を描き、泉は迷うことなく走る。

 

 


UP 2008/06/05 かなぶん

修正 2021/05/04

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