幽鬼の章 四十

 

 夜闇を下地に、明かりを受けて輪郭を描く街並み。幽鬼が徘徊しているせいか、逃げ惑ったあの日の煌びやかさは形を潜め、青白い光が寂れた雰囲気を醸し出している。
 ――その、上空。
「うっ」
「騒がないでくれる? 落っこちたいなら私は構わないけど」
 降りかかる冷ややかな声音に、泉は出しかけた叫びを丸呑みする。続いて視線を少しだけ上に向ければ、下からの明かりを受け、うっすら影として見える羽ばたき。足場がないことにぞっとしつつ、状況から想像するのは、背中を掴まれ飛行する自分の姿。
 思わず自分でも掴もうと女へ両腕を伸ばしかけ、右の激痛に襲われたなら、我に返って諦める。ヘタをすると掴んだ直後に煩わしいと払われ、真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。
「…………な、何故に私は、飛んでいるのでしょうか?」
 夜の空は地上より冷たく、高さからくる恐怖も相まって、震える唇で辛うじて尋ねる。
 鳥人の女はこの努力を嘲笑うように鼻を鳴らし、
「決まってる。餌さ」
「餌?」
「……うん、あそこが良さげ」
「何の」
 心の準備を促す声掛けもなく、またも一気に旋回し降下する景色に、許されたのは一つ。 おおおおおおおお――……と続いた母音は、べしんっと壁へ打ち付けられて止まった。
「い、いたい」
 当たった鼻は赤く、下をたらりと垂れる感触に慌てて袖を当てる。鼻血と思ったものの、袖口に残るのは湿り気だけ。鼻水と知ったところで喜べるものでもなく、羽ばたきを耳にしては壁を背にして振り返る。
「な、何なんですか、あなた!」
 壁直前で手を離した鳥人の女へ、ちょっぴり涙目の指を向けた。
 震えているのは、恐怖を凌駕する混乱によるもの。
 流れる汗は、上空より温かな地上の空気に触れたための生理現象。
 へたり込み、立ち上がれない情けなさは……慣れ親しんだ地上の質感に、もう離れたくないと留まる足のなせる業。
 これら全てを一笑に伏し、鳥人の女はいつの間にか携えていた矛で軽く地を突いた。街灯を受けてぬらぬら濡れていることから、幽鬼を貫いた棒の正体はこれのようだ。
 明かされた女の得物に恐れをなし、勢いを失った指を回収する。
「へえ?」
 泉のそんな動作など、やはり気に留める素振りのない女は、何かに頷くと目を細めた。
「さっきは暗くて分からなかったけど、その服……。あんた、芥屋の従業員じゃない。ふぅん? 芥屋に届けてやれば、それなりの報酬は見込めそうだけど……」
 一考するように嘴の下へ指を押し当てる。
 だが、すぐさま首を振った女は、構えた矛を泉のみぞおちへと定めた。
「ひっ」
「やっぱ、止めた。こんな夜に人間なんて、使い道は一つしかないじゃない? 私の痕跡だって、幽鬼相手じゃ残らないでしょ?」
 問いかけるようでいて返答を必要としない呟き。
「な、何を……」
 泉は逃れられない殺傷の気配に青ざめながら、絞り出した声で問う。どうせ聞き流される、分かっていても言わずにいられなかった。しかし女はこの声に片眉を上げると、矛はそのままに首だけで辺りを見渡した。つられて見た泉は、広場に似た、少しだけ道幅の広い路にいると知る。
「あんたさぁ、よく分かってないみたいだから、教えといてあげるわ」
 言って、女の細められた目がこちらに戻る。
「人間なんてね、幽鬼のいる時に持ち運ぶのは危険過ぎる代物なの。それなのに、私はあんたをこんな見晴らしの良いとこまで運んだ。餌として」
「餌……」
「そう、餌」
 くつくつ喉を鳴らす女に、目を細めているのは笑っているからだと理解する。
「幽鬼はね、凡庸な奇人街の住人じゃ相手にならないほど強いの。とっても美味しいのにさ。もちろん、美味しいって分かってるってことは、狩るヤツがいるってことで、そして今、あんたの前にいる私がそれね」
「…………」
「くくく……。よく分かってないって顔ね?」
 馬鹿にする物言いだが、至近で保たれた刃に立てられる腹などない。
「まあいいわ。でね、ただ狩るんじゃ効率悪いのよ、幽鬼ってのは。街に溢れるったって、奇人街自体が広大なんだもの。あんたも見たでしょう?」
 上下する刃先に促され、泉は顎を僅かに引いて頷く。
 望まぬ高見から眺めた奇人街は、地平の先まで街灯が続いていた。辛うじて確認できた芥屋から、デタラメな走りで脱出出来るような広さではない。人間好きを豪語するワーズでなければ、あの時の泉の行動は今もお笑い種になっていたことだろう。
「だからさ、一箇所に集めるための餌が必要なのよ。私の取り分を増やすために」
「つまり……私は、幽鬼を集めるための、餌…………」
「そう。ここだったら、あんた目当ての幽鬼、上からいくらでも殺れそうでしょ?」
 首を傾げる鳥人の女に合わせ、服越しに伝わる冷たさ。
 視線を落とせば身を貫く直前の矛があり、上げる声も後回しに壁へ身を寄せても、非情に距離を詰めてくる。
 今にも裂かれそうな腹に怯えれば、嬲るような女の目が更に細められた。
「くくっ。あんたね、おあつらえ向きに怪我してるけどさ、出血も結構してるみたいだけどさ、まだまだ、誘き出すには足りないでしょ? 餌に逃げ回られても面倒だから、腹、裂いちゃおうと思って」
 顔を上げた泉の目が大きく見開かれた。
 ようやく状況が呑み込めたの?、とでも言いたげに女は肩を震わせる。併せて矛が、服の繊維を削ぐ振動を伝えてきた。
 だが、泉の反応は女の言動が元ではない。
 そのことに気づかないまま、優位に立つ女は傲慢なほど周囲へ気を払わず嗤う。
「大丈夫大丈夫。出血多量ですぐ死ねるわ。人間だし、痛いってだけで終るかもしれない。内臓飛び出ちゃうから、綺麗な死に様じゃないかもしれないけど」
 最期には、きゃらきゃら嗤いながら背を逸らし、
「あ……? な、んで?…………いつ……間に?」
 四方から身体を貫かれ、惚けた顔で女が呟く。
 幽鬼のいる時に人間の近くは危険――自分で言っておきながら分からない様子の女は、察する暇も与えられず、思い思いに払われた触手によって霧散した。
 泉の目の前で血肉と羽が舞う中、甲高い音を上げて地面に転がる矛。殺傷力のあるその先端、泉の動きを止めていたソレを、生白い足が事もなげに踏みつけ、粉砕する。
 当然だ。
 顔を上げた泉と目が合った瞬間から、彼らが狙い定めていたのは、彼女だけ。
 それ以外、気に掛けるモノなど彼らにはない。
 泉とて、それは同じこと。
 近づく一つ目に思考の全てを奪われた身体は、矛の拘束を失っても地しか掻けず。
 泉を囲い、止まる歩み。
 見上げる格好になる泉を見下ろす同じ顔が、にぃ、と唇のない口を歪める。
 そうして、一様に腕を引き、一様に泉を捉え――

 一様に、頭が爆ぜた。

 一拍遅れて地面へと突き刺さったのは、鳥人の女が持っていた槍と同じタイプの棒。
 空からの攻撃。
 けれど、彼女の仲間と結びつける余裕はなかった。
 間近に迫った死から一時的に解放された泉だが、未だ目を逸らせぬモノがあったのだ。
 ぼたぼたと、失われた幽鬼の頭部から滴り落ちる甘い匂い、金色の蜜。
 遠い記憶の底で、赤い口がへらりと笑って告げる。

 ――幽鬼の蜜だよ。

 温かなミルク、仄かな甘味。
 あの時思い描いた、蜜入りの壷を常時抱いてる鬼の想像は、壷を頭に乗せて陽気に笑う鬼へと変化。仕舞いには、頭に蜜を入れた生白い姿へ。
「あの、蜜の正体って、クイフンの…………………………………………」
 脳?
「うぐっ」
 迫り来る不快に萎えた足が力を取り戻す。
 噎せかえる極上の甘い香りから無我夢中で逃げ出した。
 泉と目が合った幽鬼は幸いなことに空からの攻撃で悉く絶命し、襲われる心配がない。 それは、良いのだが。
「なんだって、頭を潰すのよ!!」
 歩を進める度、卵の殻を砕いたような軽い音が至るところで響き、ペンキをぶち撒けた異様な水音が続いて、濃厚な蜜の香りも増し――――

 ついでに混じる血の腐臭を嗅ぎ取っては、純粋に泣けてきた。

 

 


UP 2008/06/12 かなぶん

修正 2021/05/04

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