幽鬼の章 五十

 

「ん?」
 割烹着姿の史歩が、唐突に静かになった上をいぶかしむ。
 しかし、すぐに首を振っては、芥屋の食卓の上へ意識を戻した。
 なにせ相手は鮮度が命。手を休めている暇はないのだ。
 頭を白い三角巾、口と鼻を同色の布で覆った史歩の目の前には、幽鬼の死体がある。
 といっても食卓の上にあるのは、黄色い一つ目を剥き、短い舌をだらしなく垂らした頭部と、生白い腹を仰向かせた胴体のみ。四肢はすでに付け根から切断されており、簡易的なフックに吊るされ、下のバケツに血を落としていた。
 現在、史歩が行っているのは幽鬼の解体だ。
 ただし、これは泉を探し回った夜のモノではなく、昨夜出現した代物。切り伏せてすぐ芥屋の精肉用の箱へぶち込んだため、鮮度は昨夜の状態で保たれている。どういう仕組みかは知らないが、芥屋の食材が並ぶ棚や箱には、それぞれの食材に適した保存機能が備わっているらしい。容量も見た目以上で、十で数え止めた幽鬼を全て入れても、終ぞ溢れることはなかった。
 一夜明け、十分な休息を取ってから幽鬼を解体すること、やはり十以上。
 最後の一匹の胸下に包丁を深く突き入れ、ゆっくりと下方へ引いていく。内側から皮膚を裂く感触に布下を綻ばせた史歩は、溢れる血と臓腑と共に濃厚さを増す匂いで、自然と湧いてくる唾液を飲み込んだ。食材としての味わいもさることながら、生死問わず斬りごたえのある身体、酔いしれる芳香は、どれだけ狩っても、解体しても、史歩を飽きさせることはない。
 下腹部までを切り開いたところで、包丁を一度食卓へ置く。
 解体のため、居間のほとんどを覆った血染めのシートへ視線を移し、道具の一式を置いた中から黒い紐を一本取り出した。滑りやすい手袋の指先に紐を絡めつつ、幽鬼へ向き直っては、腑をかきわけていく。程なく、脂肪の塊を思わせる黄色い房が現われたなら、その上部を紐でキツく縛る。
 と、背後でガラス戸がガラガラと音を立てて開いた。
「うげ。史歩ぉ? アンタ、密閉空間で幽鬼の解体なんかしないでよ。いくら好物でも換気しなきゃ具合悪くなるわよ? それに、もし泉が起きてきたら――」
「倒れるのは確実だが、心配はない。シイの話では意識は戻ったそうだが、まだ熱が高いらしい。床上げには時間が掛かるだろう」
 知った鬼火の非難へ、振り向きもせずに答える。
 挨拶のないやり取りだが、ガラス戸が開く前から史歩は彼女の来訪に気づいており、彼女もそんな史歩の気づきは承知していた。
 なので、他では引けるだろう軽口も、彼女は難なく発してくる。
「あ、意識戻ったんだ。あれで存外、アンタより丈夫かもねえ」
「……言うな、クァン」
 ニヤニヤ笑っていると分かる口振り。史歩は苦虫を噛み潰した顔になりつつも、再度包丁を手にすると、縛り口から上に伸びる管を拳一つ分残して切断。そうして、房には触れないよう気をつけながら、上部の管を持ってシート張りの床に置いた。次いで臓腑の残りを幽鬼の肉から切り離すと、幽鬼の頭側へ移動し、その首を落としていく。
 これにより、こちらの顔が見えるようになったクァンは、芥屋の居間に腰掛け、想像通りのにやついた顔で止めたと思った話を振ってくる。
「確か一ヶ月、だったっけ? 来たばっかだから、アタシもアンタのことよく知らなかったし。だから、その間の世話とか全部――っ!?」
 終わりを待たず、床に置かれたクァンの手すれすれの位置を穿つ、血塗れの包丁。
「言うな……」
 低く忠告したなら、笑顔を固めたクァンがコクコク頷いた。
 史歩は念押しとばかりに刃の目を細めると腹側に戻り、臓物を食卓の下に置いた壷へ落とし入れていく。ぼちゃぼちゃと音が鳴る度、濃密な血と花の匂いに酢が混じる。
 これにはゴクリと生唾を呑むクァン。
 お前のモノではないと窘める黒い目を向ければ、所在無く逸らされた空色の瞳が、ある一点を見て止まった。
「…………あれって、スエ、かい?」
「ああ、学者だな」
 つかつかクァンに近寄り、投げた包丁を引き抜く。
 深々と刺さっていた刃物を容易く引っこ抜いた人間の少女に対し、クァンは口角を引きつらせて問う。
「……なんだってあんなとこで寝てるんだい?」
 クァンのうろんげな目に映る学者は、台所近くのシート下に人間大の山を作っていた。
 これを一瞥だけして、幽鬼の肉と骨を分け始めた史歩は、面倒臭そうに答える。
「シイがな。アイツ、逃げてる最中に綾音の血を呑んだらしい。それが余計食欲増進させたようでな。ほら、枯渇すればするほど、理性が研ぎ澄まされる妙なヤツだろう? だから――」
「血を吸われた、と」
「ああ。理性がある分、一日数回に分けてじっくりと。店主は止めたんだが、猫が許したのさ。なかなか見物だったぞ。餓鬼に押し倒される大人ってのは」
「へえ……。見たかったねぇ。アタシも店が忙しくなきゃ、毎日来れたんだが」
「繁盛、大いに結構。芥屋もここのところ客の入りが良くて猫が喜んでいる」
 取れた骨は床へ放り、残った肉の皮を剥ぐ。
 熱を完全に遮断してしまう皮があっては、火を使う料理など望めない。それでも、死んだ後なら生で食べられるほど柔らかくなるため、きちんと残しておく。
「ふーん。なら、芥屋のはすっげぇ不機嫌なんじゃないかい?」
 楽しそうなクァンが示す黒一色を浮かべ、史歩も布越しで唇を歪めた。
 次いで肯定を述べようとし、床がもぞもぞ動いたのを受けて止める。
 すぐさま包丁ではなく、ソファに立てかけた相棒を鞘から抜き、切っ先を真下へ据えた。
 脂肪色の、蠢く房へ。
 一呼吸の内で突き刺し、引き抜けば、赤黒い液体が糸を引く。
 ぱちぱち拍手を鳴らすクァンを見返ることなく、鎮まった房をす……と切り裂いた。
 とぷり流れる赤黒い液体の中から現れる、赤子のような骨格に汚泥のような血肉が付着した姿。
 顔には黄色い一つ目。
「まだこの程度か……。いい出汁は取れそうだが」
 言って、首を切り落とす。サイズは小さくても幽鬼。手は抜けない。
 でろりと切断面から滴るのは特有の甘い蜜。
「この幽鬼、喰ったのは十人ってとこかい?」
「他を排出してなければ、だろうな。排泄器官も生殖器官もないが、代わりに喰らったモノで個体数を増やす。学者の仮説は仮とつくが、いつだって正しい。……ヤツ自体がアレな分、説得力に欠けるのが難だが」
 華奢な骨格を持ち上げ、ふと思い立っては壷の中へ放る。
「目が覚めたってなら、いい頃合かもな」
「何が?」
 物欲しそうなクァンを牽制するように、刀を一振り。
「綾音が食事を受け付ける頃には、コイツも良い感じに仕上がっているだろうからな。体力回復にも、怪我を治すにも持って来い、だろ?」
 血の払われた白刃を鞘に仕舞いながら、珍しく瞳を和ませて史歩は言った。

 

 


UP 2008/06/17 かなぶん

修正 2021/05/05

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