「し、史歩さん――――!!」

 夜、自宅で精神統一に禅を組んでいた神代史歩は、悲鳴に似た声に胡乱気な表情で振り返ったものの、二の句が告げられないほど、動揺してしまった。

 普段、彼女は動揺とは縁遠い生活を送っている。動揺は即、死を招く、というのが彼女の持論であり、ここ奇人街の夜の常識でもあるからだ。

 だが――――

「あ、綾音……その格好、どうしたんだ?」

 向かいの芥屋に住み込みで働く少女の姿に、史歩は途端にざわりと背筋が粟立つのを感じた。

 つい、近くに置いてある己の得物を手に取る。

 得物である刀同様に鋭い黒い眼に映る、綾音泉の姿。

 彼女が着用する、着物に似た数枚重ねの衣服は、無理矢理剥がそうとした形跡があり、破れはないものの、露になった肌には、乱れた褐色の長い髪が被さる。

 これを胸元に掻き集めて、涙ぐみながら駆け込む様子は、ただならぬ気配を感じさせた。

 いくら猫のお気に入りである憎い相手とて、こんな目に合わされて黙っていられるほど、無神経なつもりはない。

「誰にやられた!?」

 返答次第では、泉をこんな様子にまで追い詰めた輩を、斬り伏せようと身を乗り出す。

 短い髪がこれに合わせて逆立つ感覚。

 袴姿の華奢な体躯には似合わない、重厚な殺気が高められ、

「わ、ワーズさんが、着付けしてあげるって」

「はあ!?」

 一気に殺がれた。

 よくよく見やれば、泉が掻き集めた中に、綺麗な振り袖の布地。

 

 

 

振り袖

 

 

 

 芥屋の店主、ワーズ・メイク・ワーズは人間には、度が過ぎるほど甘い。

 反面、その生命を守るため、要望に応えるためなら、対象の人間がどう思おうが手段を選ばず――

 

「ワーズさん、奇人街にお正月はないんですか?」

 何気ない疑問。

 少しばかり考える素振りで唸り、シルクハットとコートの黒一色に身を固めた男は、

「泉嬢、お正月をやりたいの?」

「……やるものなんですか? 来るものじゃなくて?」

「奇人街の時の概念は、他と違うからねぇ……よし、じゃあやろうか、お正月」

 へらっと白い肌に映え過ぎる、赤い口でぱっくり笑み、泉の返事もお構いなしに、準備に夜を二つほど割く。

 かくして、その次の昼には、食卓にお節料理が並び、驚く泉にワーズは言った。

「明けましておめでとう、泉嬢」

「…………あけましておめでとうございます……」

 他にどう返せというのか。

 いつもの黒コートではなく、羽織袴姿のワーズに、泉は頭を押さえる。

 シルクハットと左手の銃はそのままという出で立ち。

 おかしな格好にも関わらず、ちっとも変と感じない辺り、ワーズの奇異さが際立つ。

 その肩を、ちょいちょい突かれた。

 今度は何事かと顔を上げれば、先ほどまではなかった振り袖をワーズがひらひら振る。

「どうかな、これ?」

 薄桃に薄緑、薄紫のグラデーションを下地に、春めいた花びら等の刺繍が施された振り袖に、困惑気味だった泉の顔が綻んでいく。

「とても、綺麗だと思います」

「そう、良かった」

 笑い、これを泉に羽織らせた。

 何をしたいのか分からず黙っていれば、振り袖を自分の手に戻し、

「うん、サイズも良いようだ。じゃあ、泉嬢、着てみて?」

 はい、と渡されて思わず受け取ってしまったが、泉が着物の類を最後に着用したのは、七五三の頃。

「私の……? 有難うございます。けど私、着付けってしたことなくて。こんなに綺麗なのに、残念です」

 苦笑しつつも返そうとすれば、ワーズはなるほど、と頷く。

 腕を伸ばし、てっきり振り袖を受け取るのかと思いきや、両肩に手が置かれた。

「なら、着付けしてあげるよ」

 変わらぬ笑みに小首を傾げる暇もなく、服が肩から一気に腕まで下ろされる。

 止める間さえなかった行動に、慌てて泉は服を元に戻す。恐怖より羞恥が先に立ち、顔は火を吹きそうなほど赤くなった。

「――――んなっ! なにするんですか!?」

「何って、勿論着付けだけど……」

 簡潔過ぎる答えの間にも、ワーズは躊躇うことなく泉の服を剥ごうとする。

「や、止めてください!? 服が破けてしまいます!」

 問題はそんなことではないのだが、唐突な出来事に混乱してしまいまともな言が紡げない。

「でも、着付けるにはこの服邪魔だよ?」

 呑気に応対しながら、ワーズは決して剥ごうとする手を緩めず。

 とうとう涙目になって逃れようとする泉に、安堵させるように微笑みながら、

「大丈夫だよ? 服は破かないように気をつけるから」

「も、問題はそこじゃありま――あっ!?」

 逃げるのに夢中でソファの存在をすっかり忘れていた泉は、まるでワーズに押し倒された形で寝転がってしまう。

 慌てて起き上がろうとする素肌の肩に、ワーズの手が置かれる。

 傍目からは襲われているようにしか見えない情景を察し、人肌の感触に顔色を失くしてしまう。

 どうにか逃げ場はないものかと、見渡せば、近くに猫の姿。

「猫! ワーズさん、なんとかして!?」

 大抵懇願すれば叶えてくれる猫だが、どういうわけか、この状況を楽しんでいる風体で「みゃう」と泉に鳴くのみ。

 絶望的な気分を味わいつつも、一向に止める気のないワーズへ。

「わ、私、女です!」

「うん、知ってるよ?」

「ワーズさんは男性でしょう!?」

「こんなナリで女性だったら、中々シュールな展開だよね?」

 泉が現在着用しているのは、薄布を着物のように重ね、帯で締めた服だが、流石は製作者というべきか、ワーズは宣言通り破ることなく剥いでゆく。

 外気が近づくのを隠れた肌で感じ、一層青褪める泉だが、ワーズの手が帯に伸びたのを認め、真っ白になる頭で叫んだ。

「着付けなら、史歩さんに頼みますから!」

 ぴたり、ワーズの動きが止まった。

 次いでへらりと笑ってみせる。

「あ、そうか。史歩嬢に頼めば良かったんだ」

 銃口で掻きながら、泉の上から除ける。

 これに脱力しながら起きて、服を調えようと手をかければ、ワーズがおやっという顔を浮かべた。

「泉嬢? 史歩嬢のところで着付けして貰うのに、服、戻すのかい?」

「…………仕方ないです。こんな格好で短い距離とはいえ、奇人街を出歩くわけには行きませんから」

「夜だしねぇ……じゃあやっぱりボクが着付けて上げるよ」

 そうして再度伸ばされる腕に、

「ワーズさん! 私は別に振り袖なんか――」

「でも、お正月といえば着物だからね。折角作ったのだし、着れないと泉嬢も残念でしょう」

 抵抗虚しく露になる肌に、慄いて泉は史歩の元へ駆ける。

 「いってらっしゃーい」と、無防備な姿で出て行く背に、被さる元凶の声はどこまでものんびり。

 

 

 

 一部始終を聞き終えた史歩は、がしがし頭を掻いた。溜息混じり、呆れ混じりで、

「店主は……あれの性質は仕方ないとしても、だ。綾音は無防備過ぎやしないか? 店主は一応男だぞ? そんなんじゃ、いつか手篭めにされてしまうだろうに」

「そんな!? ワーズさんに限って、ありえません!」

 では、剥がされた袖口で涙を拭う姿は何なのか。問いただしたいところだが、奇人街において泉には依るべき者がワーズしかいないのを思い出す。

 保護者が危ういと認識させるのは、酷かもしれない。

 悪態をつきたい衝動に駆られながらも、

「…………仕様のない。着付けてやる」

「っ! 有難うございます!」

 勢い良く下げられたつむじに苦笑がもれる。

 

 

 着付けが終わり、迎えにやってきたワーズは、泉の姿を認めるなり、破顔する。

 似合うだの可愛いだののたまう男と、一々頬を赤らめる少女に辟易していると、ワーズが何を思ってか泉の髪を結い上げ始めた。

 鮮やかな手さばきで上げられた髪を触り、茫然とする泉だが、驚きは納まることなく、結われた髪になにやら差し込まれる棒。

「かんざしだよ。うん、やっぱり良いねぇ」

 まじまじと眺められ、顔を赤くする泉。

 駄賃と渡された肉を頂戴してのち、しっしっと手を振る史歩に、ワーズが笑いかけた。

「実は史歩嬢の振り袖もあるんだけど」

「却下」

 短い返答なれど効果は抜群。

 泉の時のように言い募ることもなく、ワーズは泉を先導して帰っていく。

 嘆息一つ。

 また禅に戻る史歩だが、その表情には苦笑に似た響きが表れていた。

「何であそこまで信頼できるかね?」

 自称・人間の店主を男としてみていないのか、はたまた――――?

 不要な邪推は嘲笑で払い、取り戻した静寂の中、史歩は瞳を閉じる。

 

 


あとがき
着付けって難しいと聞いたものでこんな話。
扱いアレでも、ワーズには一切、下心はありません。
この後スエが登場、ワーズが羽織袴を着せますが、スエの関心はお節のみという展開。
しかも着替えは泉の見ている前で行われたり。
確実に正月がトラウマになりそうだ;

2008/1/6 かなぶん

修正 2008/4/24

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