今から十年前、数人の少年少女が行方知れずになった。

 近くの森に遊びに行ったまでは、誰の記憶にもあったのに、その後、彼らがどうなったのかは、誰の記憶にもない。

 以来、その森には曰くの名が付けられた。

 すなわち“魔の森”と――

 

喪失の時 1

 

 夕暮れ空に白い放物線を描き、感嘆の声が上がったのも束の間、落ちていった先に、誰もが「ぐげぇ」と呻いた。

「な、何だって、魔の森に入っちまうんだよ………」

「そりゃあ君が暴投大好きだからじゃないの、キース?」

 茫然自失でボールが落ちた先を見ていた茶髪に青い瞳の少年は、ぽんっと肩に手を置く、金髪碧眼の眼鏡の少年を振り向く。

 キースと呼ばれた少年は次に辺りを見渡し、橙に滲む緑が生い茂る広場には、自分たち以外いないのを知った。

 これに眼鏡の少年は首を振る。

「残念だが、キース。責任は君が取るべきだ。皆、とっとと帰ろうって言ったのに、あと1ゲームと駄々を捏ねた君が悪い」

「は、薄情な奴らだ」

 確かに自分はもう1ゲームやろう、と誘ったが、無理強いをした覚えはない。

 キースの両親は何か特別な役職についてる訳でもないし、キース自身、他に類を見ないような横暴で人を従わせる少年でもない。

 偏に、多数決で決まったこと、だったのに。

 もう一度視線を、魔の森、と囁かれる森へ向ける。

 明るい陽のある内は、青々とした爽やかな木々の群れだというのに、この時間帯になるとざわざわと騒がしく揺らぎ、まるで手招いているような影になる。

 ごくり、喉が鳴った。

 一歩だけ森に進もうとすれば、肩をぐっと引かれた。

「か、カノン、離してくれ。お、俺の責任だろう? 取りに行かなきゃ」

 怯えながらもそう宣言する。

 しかし、眼鏡のカノンは首を横に振り、得策じゃないと掴む手に力を込めた。

「確かに君の責任で君が取りに行くべきだが………時間を考えろよ。十年前、まだ僕らがよちよち歩きだった時、丁度今時分に肝試しなんて企てた方々が失踪したんだぜ?」

 効果的に眼鏡が上げられ、自分の青褪めた顔が反射する。

 思わずよろけそうになったが、どうにか踏み留め、キースは首を振って答えた。

「だ、駄目だ。あのボール、兄ちゃんのなんだよ。無理言って貸して貰ったんだ……ちゃんと持って帰らなきゃ殺される、絶対。誕生日プレゼントだからさ………」

「オウ! なんてこったい!!」

 額を叩き、項垂れるカノン。

 ふざけた仕草にキースの眼がつり上がりかけ、途端に情けない形になってしまった。

 

 

 中流階級の家に暮らすキースだが、近所で噂になるくらい兄弟が多く、家計は毎度毎度、火の車。

 養いにいくらかかるなど知るような齢ではないが、自然と買い与えられる物が限られるため、妹が一人だけのカノンとは違い、兄弟間の物のやり取りが厳しい。

 特に今回のあのボールは兄が長年追い求め、与えられてからもそれはそれは大事にしていた品なのだ。

 明るくなってから取りに行く選択肢を選べば確実に、帰ってからぶん殴られる。

 

 記憶に乏しい失踪より、記憶に真新しい兄の拳の方が恐ろしかった。

 

 決意も新たに踏み出そうとすれば、またも肩に置かれる手。

 される度にくじけそうになるのだから、止めるなと払おうとして、溜息がカノンから漏れる。

「待てよ、兄弟。水臭いじゃないか。君の危機に、どうして僕が知らんぷりして帰れると思うんだい?」

「カノン………」

 振り向き呟いた顔には、感動ではなく、不審が浮かんでいた。

「姉ちゃんには絶対、取り持たないからな」

「オウ! なんてことを言うんだ、未来の弟よ!」

 伸ばされた両手をばしっと弾き、今度こそキースは森に向かう。

 

 

 

 

 

 視界を塞ぐ枝を拾った枝で払い除け、その度に後ろから間の抜けた口笛が鳴る。

 幾度か止めるよう言ったが、陽気なカノンは真面目そうな外見とは裏腹に、にやりと悪戯っぽい表情を浮かべ、キースの姉との仲を取り持ってくれたら良い、という。

 胸内で、マセガキめ、と同い齢の少年に悪態をつく。

 カノンとキースが知り合ったのは、キースが五歳の頃。

 近くの家に、カノンの家族が越してきたのがきっかけだ。

 そうして何度か遊びに来ては、カノンの目的が実は友ではなく、恋にあるのを知った。

 

「………大体お前さ、想い人の着替え、覗くなよ。あの後、姉ちゃんに叩かれまくったんだぜ、俺。参るよな、見られたところで、どうってことない体のくせしてよ」

 八つ当たりに強く払った枝が、折れずに襲い掛かるのを避け、後ろをちらりと見れば、多少なりとも項垂れる姿。

 少しは反省したかと思いきや、拳を握りしめて、笑みが上がった。

「ふ、ふふふ……キースはまだまだ子供だな。今も彼女の肢体は僕の目蓋に焼き付いて離れない!」

「気持ち悪いんだよ、お前は!」

 つい、手にあった枝を投げても避けず、にやにや笑うカノンは物憂げに溜息をつく。

「だが、気付かれたのは失敗だったな。お陰で君の家に来るのを禁じられてしまった。アア、僕の唯一の楽しみ!」

 最後は身を抱いて、いやいやと身を捩る。

 

 正直、ついていけない。

 

 日常的に兄弟喧嘩が勃発するキースの家では、勿論、姉とも壮絶なバトルを繰り広げることがある。

 しかも最近、力のついてきたキースに対し、姉は禁断の技を用いるのだ。

 攻勢で使うには、女なら尚更敬遠しそうな技を。

 人の急所を容赦なく蹴り上げる姉に、何故カノンがここまで入れ込むのか、さっぱり分からないし、この様子を知っては分かりたくもない。

「……初恋は実らないって、聞くぜ?」

「ふふふ……心配はご無用! 僕の初恋の人は前住んでた場所にいるからね。今でも手紙が来るよ、私のファーストキスを返せってね」

 そういや昔、引越す直前に近所の女の子の唇奪った、とか言ってたな。

 これ以上この話を続けるのも段々馬鹿らしくなり、キースは再度森の奥へ進む。

 その背へ、

「いやしかし、初恋は実らない! アア、なんて説得力のあるお言葉なんだ。ね、キース君?」

「何の話だよ」

 言いつつ、びくりと体の動いたキースは、内心でドキドキしていた。

 自分の初恋をカノンへ語ったことはない。

 まして、すぐに破れてしまったことも――

 けれど的確に、カノンは紡ぐ。

「ふふふ……僕が知らないとでも思ったか? 君が僕の家に来ては、眺めてたじゃないか、彼女のことを、さ?」

「!?」

 声にならない声を上げ、羞恥に顔を真っ赤にして振り向けば、にやにや楽しそうなカノンの顔に出くわした。

 一呼吸たっぷり置き、

「マセガキ」

「お、お前がそれを言うか!?」

 先程胸内に留めておいてやった言葉をそのままなぞられ、キースは動揺に怒りを混ぜる。

 気にせずカノンはにやつく笑みで迎え、

「いやいや、君には脱帽するよ。流石の僕でも、肖像画に恋はしないし」

「み、見てたのか?」

 頷かれ、がっくり肩を落とし、今度こそ、奥を進む。

 

 

 その肖像画を初めて見た瞬間、キースは恋に落ちた。

 相手は肖像画の中の少女なのに、絵描きが上手かったのか、はたまたモデルが良かったのか。

 兎に角、自分より幼い兄弟たちに聞かせていた、御伽噺そのもののお姫様のように愛らしい少女の姿に、キースは完全に心を奪われてしまう。

 この人は実在する人なのだろうか。

 気になって気になって、カノンが席を外した際、物置に隠れていた肖像画の裏面を見る。

 思った通り、そこには名前があり、けれど同時にもう会えない人なのだと知る。

 

 肖像画の少女の名は、ミリア・ローディア。

 

 魔の森にて、当時で数えれば五年前、現在なら十年前に失踪した内の一人。

 唐突に思い出したのはカノンの住む家が、ローディア家の所有する物であったこと、彼女の失踪がきっかけで一家が離散したこと、彼女の生存を信じ、残っていた父親が自殺したこと。

 全て、キースが物心つく前の話。

 とはいえ、知れば死者の息遣いが聞こえてしまいそうな家、肖像画に、キースは恐れをなし、あれから二度と物置にも、カノンの家にも入ってはいない。

 

 

 

「……そういえばあれからだよな、お前、俺に家で遊ぼうって言わなくなったの」

 この辺だとアタリをつけて、草を掻き分け白いボールを探す中、キースがぼそりと呟いた。

 聞こえない、と思っていたような小さな声は、意味を寸分違えることなく、カノンの耳に届く。

「そりゃね。青褪めて震える君の姿が見えたら、さ。あの肖像画に君が恋してたの前から知ってたし、どんな思いかは……ちゃんとは分からないけど、分かるさ」

「カノン……」

 手を止めてこちらを見つめる気配に、カノンはやれやれと息を吐く。

 ――どうやって、コイツの気を持ち上げようか。

 そんな捨てられた犬みたいな目で見られたら、思わず襲いたくなっちゃうだろう?

 手を休めるなら、それは僕が変わりにやっておくよ。

 彼女の失踪した森だし、もしかしたら会えるかもね――――

「いやいや、流石にそれは言えないな」

 首を振って考える。

 

 

 口が裂けたって言わないが、カノンにはキースに絶大な借りがあった。

 

 前の家でも、今の家でもそうだが、カノンには妙な噂が纏わりつく。

 本当に、あの家の子供だろうか、と。

 似てない、とは自分でも思う。

 両親にも、最愛にして最高にムカつく妹にも。

 彼らの黒みがかった茶髪と、青くても緑がかったキースとは違う色の瞳。

 これで貰われっ子ならば近所の眼とて、多少は違ったはずだ。

 同情も与えられたかもしれない。

 けれど、一族が勢ぞろいしたなら、誰もがキースは彼らの子供と納得するだろう。

 キースの配色は父方の隔世遺伝だった。

 生まれ、育ち、共に上流階級であった父は、けれどやはり隔世遺伝で他の親族連中とは段違いに暗い色彩の持ち主。

 身分違いの恋で母と手を携え家を捨てたため、勢ぞろいで見せ付けてやる機会はない。

 それを残念に思うのは、貰われっ子と誰かに言われた際、必ずと言って良いほど母が気丈に自分の子だと言い張る時。

 母の庇い立ては、自分の立場を両親の子供で良いのだと安心させるものだったが、そのせいで不義の子として大人に認識されてしまうのだ。

 自分は良かった。それでも。

 だが、母にまでそんな不審の目を向けられるのは耐え難く、大人の歪みを受けた子供らが、妹にまで侮辱を投げるのは赦せなかった。

 前の家はそれで引っ越した。

 信用を第一とする父の会社へ、馬鹿げた抗議の手紙が寄せられ、結果、この片田舎へ飛ばされたのだ。

 知り合いが一人もいないのが唯一の救いである、片田舎へ。

 それでも不審な目を向ける挨拶回りで、最初に汚い手を差し出したのがキース。

 両親や妹を紹介しても変な顔一つせず、貰われっ子みたいだろう、とこちらから言えば頭を思いっきり殴りつけ、至れり尽くせりな格好のクセに馬鹿にしてるのか、と罵倒された。

 何の事か分からず呻いていれば眼鏡を指差して、子供にんな高価なモン与えるのは立派な親馬鹿だ! と再度殴られる。

 あまりの痛さににっこり笑って礼をし、握手と見せかけて引き寄せ、顔面に拳を捩じり込んだのは、懐かしい思い出。

 そんなキースのお陰で、周囲の眼も和らぎ、友達と呼べる奴らまでカノンの周りに溢れたのだ。

 

「オウ、そうか兄弟! 気持ち悪かったんだ、僕は君が」

「何を唐突に……本気で気持ち悪いのはお前だろう?」

「いやいや、君の方が気持ち悪い。人の家来て絶望貼り付ける君が、あまりにも気持ち悪かったんだよ!」

 なんてこったい、僕としたことが今頃気付くなんて、と額に手をあて宙を仰げば、ムッとした表情がキースに浮かび、ボール探しを無言で再開する姿が端に映った。

 してやったりと笑い、自身も捜索を続ける。

 心の中で、君は元気な方が良いのだ、と怒れる体にエールを送りつつ。

 

 

 

 

 

 どれくらいの時間、中腰でいたのか。

 薄闇に紛れてきた手元に痺れを切らし、起き上がっては腰の痛みに呻く。

 ついでに辺りを見渡せば、しっとりとした闇が広がっていた。

「………ヤバい、よな?」

 キースから漏れた声に、カノンも静かに頷き、

「そりゃあ、もう、すんごく、ね。魔の森以前に、こんな遅くまで家に帰らないでいたら、僕は兎も角、君のご家族、全員でタコ殴り参戦だね」

「いいや、お前の母ちゃんだってすげぇぜ、きっと。俺さ、お前ん家の父ちゃん、殴り飛ばされたの見たことあるんだが……大家族じゃない分、激しいのな」

「はっはっはっ……嫌な事思い出させないでくれよ」

 思い返されるのはカノンと妹が、結婚記念日だから何かプレゼント買ってきなよ、と父を唆し、母を感動のどん底へ突き落とすはずが、遅い帰りに嫉妬を舞い上がらせてしまったこと。

 しかもそんな遅くまで探し求めたプレゼントは、母の一撃を喰らって父の胸の中で粉々に砕けてしまっていた。

 結果として我に返った母とより一層仲睦まじくなった父だが、顔にまで喰らった青痣を浮べる度に、カノンと妹は胸に誓う。

 自分は絶対、母の機嫌を損ねないでおこう、と。

「……帰るか」

 思いつめたようにぼそりと吐かれた言葉に、カノンは少なからず目を見張った。

 まるで心を読まれたタイミングに、眉を寄せながら、

「いいのか? 兄さんに殴られるぜ?」

「……いいよ、もう。どっちにしろ殴られるなら、兄ちゃんだけで。家族全員なんて、冗談じゃねぇ」

 身を抱いてぶるり、震えてから、キースは頬を掻いた。

「それに、よ。お前まで付き合わせちまったんだ。おばさんとかお前の妹とか、心配してる頃だろう?」

「キース……有難う、男でいてくれて。女だったら間違いなく押し倒してたよ」

「っ! だからよ、お前、本当子どもらしくねぇのな!」

「いやしかし、やっぱりお礼のキスくらいは――」

「寄るな、気持ち悪い!」

 両手を広げて近寄れば、大きな音が静かな闇間に響く。

 

 

 

 

 

 言い合い、殴り合い、わいわいがやがや、陽気に元来た道を帰る二人。

 怒鳴ったり、笑ったり勤しむ内側の隅には共通する思いがあった。

 魔の森への恐怖。

 生まれも育ちも片田舎のキースは元より、引越してきたカノンでさえ、幼い頃より聞かされ続けてきた恐れは、本人たちが考えている以上に大きかった。

 一度口を噤めば呑まれそうな静寂に、声は段々と高く、大きくなり――

 

 突然、灯りが見えた。

 

 それは、彼らが知る広場の灯りより、明るく、妖しく―――

 

 しかし、不審など感じず、二人は顔を見合わせてほっと安堵する。

 魔の森から抜け出せる喜びの方が、大きい。

 駆けるように我先にと進み、あと少しで出口という頃になって、ようやくキースが歩みを弱めた。

 

 

「変だ……なあ、なんでこんなにうるさいんだ? ここって、夜でもこんなに明るかったか?」

「……確かに、ちょっとおかしいな……」

 恐る恐る、しげみに隠れて灯りの先を覗く。

 暗がりから解放された眩しさに細まる瞳。

 過ぎ去る人々の群れに首を傾げた。

 この時間にこんなに広場に人が集まる予定はない。

 広場で行われる、ささやかな祭りの時期でもないのに。

 息を忘れて、よくよく、見る――先。

「なっ――ぐ」

 キースの声をカノンが慌てて塞ぐ。

 抗議のために背けようとした目の先で、獣面の男がこちらを見もせず通り過ぎた。

 解放され、息をつくキースが、体を隠すしげみに触れ、

「……箱?」

「箱だ……」

 てっきり音の鳴る草の感触を想像していた手に、木目の荒い堅い感触が返ってくる。

 嫌な予感にキースがカノンを見れば、カノンも似た顔つきでキースと視線を合わせた。

「質の悪い、仮装大会?」

「いや……それにしちゃ、出来過ぎてるぞ」

 もう一度、視線を戻す二人。

 

 眼前に広がるのは、見たこともない複雑怪奇な街並みと、数奇な運命に翻弄されたとて出会う機会があるとは思えない、異形の群れ。

 

 


UP 2008/6/25 かなぶん

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