喪失の時 2

 

 くーきゅるきゅるきゅるきゅる〜……

 

 悪夢でも見ているような煌びやかな雑踏には怯えつつ、漂う匂いにほだされて、自己主張を始める腹。

「キース」

 小声でカノンが窘めても、生理現象を自由自在に操るのは難しい。

 それでも無駄とは知りながら両腕で腹を隠してみた。

 ぐ〜……

 すると今度はこちらを睨みつけるカノンの腹が鳴る。

 じと目で見やれば肩を竦めてニヒルな笑み。

「フッ。食べ盛りだからしかたないのさ」

「無駄に偉そうだな、お前……」

 箱を盾に路地裏でのやり取りにキースはある程度、落ち着きを取り戻した。

 この光景が現れた理由は理解できないが、悩んでも仕方ないのは分かる。

 魔の森と呼ばれていたあの森は、現在の状況から察するに、果たして確かに魔の森であったらしい。

 散々、安易なネーミングセンスを笑ったものだが、こうしてみると申し訳ない気分になってくる。

 笑ってすみません、だから家へ帰して、と訴えたところで聞く者はないけれど。

 箱越しに見る、得体の知れない複雑怪奇な街並みと、おおよそ人間と表しにくい通行人たち。

 作り物にしては出来の良い姿から、ここは自分たちが知る場所とは全く違う場所なのだと結論が出た。

 だからと、すんなり納得できるほど子どもではないし、目の前の奇怪を否定するほど大人でもないので、のこのこ出て行ったりはしない。

 無邪気だろうが、尋ねるつもりだろうが、碌な目に合わないのは異様な雰囲気から感じ取れたから。

 同じく出て行かないカノンも、キースと同じ考えのようだ。

 こんな場所に繋がっているとはなんて森だろう。

 振り返っても薄暗く細い路地が続くのみで、出てきたはずの茂みが見当たらない、なんて。

 尤も、魔の森で起こった行方不明事件が、この場所に関係しているのかは知らないが。

 十年前の肝試し以降も、面白半分ふざけ半分で魔の森へ、同じ頃合に入っていった奴を知っている。

 ソイツは帰って来て後、しこたま父母から殴られていたが、好奇心を光らせる弟妹たちに対しては踏ん反り返って、魔の森には何もないと威張りくさっていた。

 その後、当時のメンバーで今は彼の恋人なんかやってる人は、キースにこっそり教えてくれた。

 ――あなたのお兄さん、ずーっと私の肩に掴まってブルブル震えていたのよ。

 それが件のボールの主なのだから、兄弟って色々理不尽だ、とキースは思う。

「……なあ、見てみろよ」

「?」

 所在無く過去へ思い馳せていれば、掛けられる声と示される指。

 追って見上げた、瓦屋根の合間から覗く空は、星の瞬かない真っ黒な空。

 月だけがぽっかり満月を模っていた。

「ふと考えたんだが、もしかしてここの時間、僕たちのいた所と同じ流れなんじゃないか?」

「は?」

 いきなり何を言い出すのかと思い、顔を向ければ腕時計と睨めっこする姿。

 兄弟の多いキースとは違うカノンの持ち物の多さは、毎度毎度人の神経を逆なでしている気がする。

 それでも得体の知れない場所で手は届かなくとも知った文明の利器。

 なんとなく、心強い。

「うん、やっぱりそうだ。時間と月の位置とか考えても――」

「でもさ、こんな妙なところの月、信用できるか?」

 ぽつり、呟いた何気ない言葉。

 けれどカノンのやる気を削ぐには充分だったようで、眼鏡の先を地に落としては項垂れるる。

「アア、酷いや兄弟。僕は少しでも現実をみようとしているのに。ほら、目安になるだろ? 無事、この変な場所から出られたとして、帰ってからどれくらいぶん殴られるか、とかさ?」

「げっ」

 状況が状況だけにすっかり忘れていた。

 ボールをなくしただけでも兄の拳骨が降りてくるのに。

「つ、つかぬ事をお聞きしますけど、カノン……今、何時?」

「うーん……六時かな? 僕は信用厚いし、町の治安もいいから門限十時だけど、君はどうかね?」

「……八時」

「オウっ! 厳しい!」

 額をぺしりと叩いて大袈裟なリアクションを取るカノン。

 ちょっとだけ癪に障り、文句を言いかけた口だが、襟首をひょいっと掴まれた。

 

 

 突然のことで反応できず、前を向けばカノンも似た格好で宙に浮いている。

 しかも、彼の金髪から見えるのは、毛に覆われた腕で――

「ほお、人間の餓鬼が二匹いやがる」

「っ!?」

 辿りついた先で嘲笑う声を向けてきたのは、犬の顔をした二足歩行の化け物。

 全身毛むくじゃらだが、マスコットのような可愛げは一切ない。

 近所のデカいムダ吠えするバカ犬の方が、比較できないほど愛らしく思えてくる。

 言葉を失って青褪めていたなら、キースを見つめ、

「茶色は……まあ、肉屋だな」

「に、肉って!?」

 次にカノンを見つめる犬顔は、笑みで模っているのか口元を大きく開け、

「こっちは身売りが良さそうだ。高値で買い取ってくれるだろう。いや、ついてるねぇ、俺」

「み、身売り!?」

 不穏な単語を聞いてじたばた暴れるが、犬顔の腕は抵抗を意に介さず、代わりとばかりゲタゲタ笑う。

「おいおい、人間、諦めが肝心なんだろ? 俺らも諦めるのは得意だからな、同じ性質同士、仲良くしようぜ? 売る前までは、な?」

 そう言って増して笑う犬顔。

 思った以上に酷い場所だと知っても、相手はビクともしない。

 それでも諦めず暴れるキースの顔はカノンより、混乱を色濃く映していた。

 身売り、という意味は分かる。だからカノンも青褪めて抵抗してるのだ。

 けれど、肉屋に売るとはどういう意味だろう?

 考えなくとも掠める答えは、最後の最後まで保留しておくつもりだったのに、暴れに暴れた結果、キースの眼が異様なものを捕らえる。

 屋台と思しき商品の中、当然のように籠から飛び出るソレは紛れもなく人の――――

 自分たちとは若干違うものかもしれないが、よく似た形は吐き気と共に、保留の肯定を促してくる。

「ぃ、いやだ!」

 つい叫んで襟首を掴む手を触れば、刃のように冷たい感触が伝わった。

「っの餓鬼! 食料は今、殺してもいいんだぜ!」

「!」

 言うが早いか、犬顔のキースを持つ手が振られ、路地裏の壁に叩きつけられる。

 息が詰まって喘ぐだけの頭が、ぐいっと持ち上げられた。

「ったく、少しは長生きしようとか思えよ、餓鬼。もしかしたら売られた後、逃げるチャンスがあるかもしれないんだぜぇ? そこの店の主人が間抜けならなぁ」

 言いつつ無造作に投げられる身体。

「キース!」

 カノンの悲鳴を聞きながら背から落ち、呻く間もなく腹を軽く踏まれる。

「ぅく」

 圧迫され軽く息が漏れた。

 痛みと衝撃で霞む視界の中、カノンの襟首を掴んだままの犬顔が唾を横に吐き捨てた。

 そしてこちらを見、鼻を鳴らしては、

「はっ、餓鬼。分かったか? 俺に逆らうんじゃねぇよ、人間風情が。弱者は弱者らしく、強者に屠られてりゃいいんだ――きょっ!?」

 犬顔の身体が仰け反り、ぼとっとカノンの身体が地に落ちた。

 

 

 折角得た解放を喜ぶ素振りなく、逃げれば良いものを、カノンが駆け寄ってくる。

「キース!」

 上半身を支え起されて、キースは犬顔の足が腹から消えているのに気づいた。

 カノンへは無言で全然大丈夫ではないのに大丈夫と頷き、犬顔を睨みつければ、そちらはそちらで別方向を睨んでいた。

「っにしやがる、芥屋!」

 啖呵を切られた相手は、黒一色の姿で何やら銀色のものをこめかみに当て、傾いでいる。

「んー、蹴ったんだよ、腰を。分からない? にっぶいねぇ」

 逆光で顔はよく見えないが、ぱっくり開いた口は薄暗くとも分かるくらい真っ赤。

 まるで鮮血を彷彿とさせるような――

 ぞっとしても投げつけ踏みつけられた身体は動けず、咄嗟にカノンの腕を掴んだ。

「……カノン、逃げろ……お前だけ、でも」

「キース……!」

 非難する声。

 けれど転じてカノンはふっと息を吐いた。

「味な真似は君らしくないぜ、兄弟。僕らは一蓮托生、死なばもろとも、毒も喰らわば皿まで、だろ?」

「い、意味分かんねぇ……」

 それでも付き合いから分かる、梃子でも動かないカノンの意思。

 参った――思い、笑おうとすれば悲鳴が犬顔から上がる。

「な、なんで猫がお前と一緒にいるんだ――――がっ!?」

 次いで訪れたのは鈍く響く嫌な音。

 恐る恐る映した視界では、煌びやかな逆光の下、犬顔の上で何かが蠢いている様。

 届くどろりとした匂いが事の次第を明確に伝えてくる。

「あーあ、バカだねぇ? 猫は偶然通りかかっただけだってのにさ。ボクと一緒なんて言っちゃって……ま、どうせ人狼。腐るほどいるし、人間に手を出すなんて当たり前の結末だよねぇ?」

 至極楽しそうな、けれど奇妙に歪んだ低い声は、物言わぬ犬顔が啖呵を切った相手から漏れ、それはふらふらと動けないこちらへ近寄ってきた。

 こつこつ、時を刻むように等間隔でこめかみ辺りを小突きながら。

「じゅ、銃っ!?」

「やあ、大丈夫かい?」

 薄暗い中、ぼう……と白く浮かぶ手を伸べられても取らず、目は黒一色が先ほどから執拗に頭を叩くものに釘付け。

 キースやカノンが知る銃よりだいぶ小さいが、鈍い銀の形は紛れもなく、トリガーを引くだけで弾を吐き出し宙を抉る品。

 だというのに、伸べた手を引っ込めては、トリガーへ指をかけつつ頭を掻く様は異様で。

「こんばんは? 君たち、どこから来たんだい?」

 やたらとフレンドリーな雰囲気でも、言動が不気味。

 恐ろしくて仕方なく、犬顔から受けた痛みも治まってきたため、ずりずり後ずさる。

 カノンも同様に。

 けれど黒一色のそいつは怯えるキースたちの心情も理解できないのか、離れる身を追って近づいてくる。

「んー? 別にボクは何もしないよ?」

 そういう奴に限って何かするもんだ。

 言いたい言葉はぐっと堪え、じりっと下がれば、ぐいっと寄ってくる白い面。

 ぱっくり、開いた口は笑みを模ろうと真っ赤。

 ついさっき、人を喰ってきたような――――

 豊かな想像力は冗談として捉えられず、視線を少しずらせば屋台から覗く人の腕。

「ん? どうしたの?」

 ひょい、と遮る白い面はそれを隠したがっているようにも見えて。

「う」

「う?」

「うわあああああああああああああああああああああああああああああ――――!!」

 堪りかねてカノンの腕を取り逃げ出す。

「あ、ちょっと、君たち」

 すると追ってくる気配。

 ぎょっとして振り返ればふらふら駆け寄る影と、真っ青のまま引きずられて走るカノン。

 いつもの余裕が眼鏡の奥に窺えず、つられてどんどんキースの頭も混乱してくる。

 なのにまだ追ってくる黒一色が後ろにいて。

 全速力で路地裏を曲がりくねったなら、恐ろしくて仕方ない目に格子状の扉が見えた。

 慌てて入り、扉をがしゃんっと閉めた。

 しかし、追ってきた黒一色の姿はこちらへふらふら近寄ってくる。

 当たり前だった。なにせ格子状、中は丸見え。

 失態を悔やむ余裕はなく、「ひっ」と短い悲鳴を漏らして一歩下がった。

 そこで肘が何か硬いものを押した。

 がっこん……という音が振動をもたらす。

 分けが分からず、へたり込むカノンを見たなら、青褪めたままこちらへ問う視線。

 答えが欲しいのはキースも同じで。

 だが、それは勝手にやってきた。

 

 

 黒一色へ再度目を移せば間近にいて、声が出る前にその笑みが上方へ移動する。

「――――へ?」

 疑問満ちる声音はしゅるしゅると下がり続け、ついには黒一色の足をも上へ呑み込み、続くのは暗闇。

「な、なんなんだ?」

「……昇降機だ……たぶん」

 干からびた声音はようやく立ち直ったらしいカノンから。

 暗がりなので顔色は分からないが、きっとかなり悪い。

「昇降機って……だって、つまり、地下に向かってるのか?」

「うん、たぶんね」

「……にしちゃ、長くないか?」

 知らず知らず座り、触った床は一定の振動を繰り返すのみ。

「……長い、けど……こうなったら行き着くところまで行くしかないよ……それにさ、何とかなるかもしれない」

 ふいに、明るい声がカノンから聞こえて来た。

 明るいそれへ不審を目一杯乗せて沈黙を保てば、フッと偉そうな笑みを含み、

「さっきの奴ら、人間っていってただろ? だったら、他にも人間がいるかもしれない。もしかしたら帰り方を知ってる人がいるかも」

「でもよ、帰り方知ってる奴がなんでまだ、ここにいるんだよ」

「……おう、きょーだい。君って奴は、愛おしいくらい人のやる気を削ぐね。少しは現実逃避して良い方向を見出したまえよ」

「現実逃避って時点で、お前もそう考えてたってことだよな……あ、悪ぃ」

「フッ……未来の弟はキツくていけない」

「やかましい!」

 シスコンではないが、とりあえずコイツには間違っても義兄になって欲しくない、同い年のキース。

 調子を取りもどしたところで、突如、格子の外に景色が生まれた。

 上の雑踏よりはるかに華美な景色は、地下とは思えぬほど広大。

 ただし、織り成す光は美しいだけに収まらず、毒々しさを兼ね備えていると齢若い二人にも分かるほど妖しく。

「なんか……上の方がマシ、とかじゃねぇよな?」

「は、ははははは……ら、楽観的に行こうじゃないか、兄弟?」

 声を引きつらせて、よくそんな軽口を叩けるものだ。

 内心で感心していたなら、昇降機の先が格子から覗ける位置まで下がる。

 色鮮やかな光に照らされた先は、豪勢な屋敷。

 橙の瓦屋根にぽっかり開いた穴があり、そこへ辿り着くらしい。

 けれど、その前に一つ、問題を発見する。

「な、なあ、カノン……思ったんだけどさ、俺」

「うん、僕も思ったよ、兄弟。個人宅らしき屋敷に繋がってるってのに、鍵一つ掛けてない昇降機。これって、使われてないってことだよね」

「だ、だよな……しかも、レールが――」

「うん、昇降機のレール……先がないね。しかも脱出しようにも屋根の上、すんごい刺々しい。センス疑っちゃうな」

 あはははははは……

 渇いた笑いがどちらともなく漏れ――――

 どうしようなどとパニックに陥る暇なく、二人の身体は重力を失った。

 

 

 

「ぐっ」

 失った分だけ重力に押さえ込まれ、昇降機から投げ出されたキースとカノン。

 それでも呻く声があるということは生きている証拠。

 痛む身体を引きずるように立ち上がろうとしたなら、にゅっと手が伸びた。

 白い面の黒一色や犬顔といった恐ろしさを忘れ、つい、礼を言って手を取るキース。

「大丈夫?」

 綺麗な声音にそう問われては、大丈夫と答えるしかない。

 それが齢若い女のものなら尚の事。

 姉や妹は論外だが、キースはカノンをして女たらしと陰口叩かれるほど、良い格好を取りたがる面がある。

 本人が自覚していない分、救いようはなく、心配する相手を安心させるように、にっと笑って顔を上げ――

 

 ぎょっとして目を剥いた。

 

 


UP 2008/6/27 かなぶん

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system