喪失の時 3

 

 不可抗力だったんだ。

 そう言ったところで、起こったことは今更訂正できるはずもなく。

 席を立った友人を待って、暇つぶしにコイントスしていたのがいけなかったのか。

 自宅とは違う家の造りや家族の動きを考慮していなかったせいもあるだろう。

 まさか真昼間からシャワーを浴びる人なんて、節約中心の友人宅にはいないと思い込んでいたし。

 なにより、彼女を見つめる自分の想いがバレていたとは思いもよらず――。

 手から零れ落ちたコインは、今もあの家にある。

 釈明も許されず、バスタオルを慌てて付けた上気した肌を見てしまったのさえ、一瞬で。

 鋭い衝撃と音が頬を打ったのと同時に、カノンの心にもぽっかり穴が開く。

「このっ変態、マセガキ!」

 ガキと言われ恋愛対象に届いていないのを知り、だというのに変態呼ばわり。

 失恋と認識するにはあまりにナンセンスな現状を嘆く暇さえ与えられず、叩き出された先でカノンはぼんやり思う。

 BGMに、怒り狂う姉の猛攻を必死で回避する弟の声を聞きつつ。

 

 ああ、眼鏡が割れなくて良かった――――と。

 

 

 

 昇降機から弾き飛ばされ、意識を取り戻しては眼鏡の無事を確かめるカノン。

 ほっと一息つき、痛む身体を引きずるように起き上がり、自分のいる場所を確認する。

 一言で表すなら、無駄に豪勢な部屋。

 出入り口と思しき扉は重厚で、縁には金の飾りが映えている。

 窓はないが、代わりとばかりに壁を彩る絵画は、素人が見ても感嘆の息が漏れてしまう。

 その額縁は絵画を引き立てながらも、手を這わせて眺めたいほどの精巧さ。

 天井の明りは眩いシャンデリアだが、過度の嫌みったらしい華美な装飾性は見受けられず、品の良さだけが際立っている。

 備え付けられたテーブルや椅子も上品な装い。

 床に敷かれた複雑な模様を描く絨毯は毛足が長く、素足で踏めば心地良いだろう。

 尤も、室内で靴を脱ぐのは恥ずかしい行為と身に刻まれているから、自宅でもないこんな場所でそんな粗相は出来ない。

 脱ぐのはベッドとバスルームに入った時くらい――そう思ってもう一度自分のいる場所を眺めたなら、キングサイズのベッドの上。

 そろそろと見上げれば趣味は良いのだが、なんだかとても妖しい雰囲気の紅の天蓋。

 犬顔が「身売り」と言っていたのを思い出す。

 いやいや、昇降機の先がそんないかがわしい場所であって堪るか。

 もしそうだとするなら造りがいい加減過ぎる。

 昇降機が着いてすぐ、そんな部屋だなんて……

 ぶんぶんと首を振れば、これを肯定したがる別の思考が訴えた。

 部屋に通ずることで少しでも長く、愉しみたいのではないか――?

 碌でもない想像が掠め、どうして僕はこうなんだろう、だから変態と罵られるんだ、と過去の傷がぶり返した。

 いっそ現実逃避したい部屋の構造だが、カノンには一緒に落ちてきた大切な相棒がいるのだ。

 もう一回だけ頭を振って、茶髪の少年を探す。

 さっさとここから去りたい一心で。

 けれど、目を留めた先にいたキースの姿に安堵する間もなく、カノンは音がしそうなくらい動きを止めて固まった。

 月の光を思わせるウェーブがかった長い髪とエメラルドの輝きを秘めた優しげな眼差し。

 憂いを秘めた睫毛は長く、柔らかく赤らむ唇は清らかな微笑みを模る。

 驚くキースへ伸べた手はきめ細やかな乳白色の肌を持ち、そのプロポーションはまだ少女の域を出ないが、ぱっと見たキースの姉より整っている。

 滲み出る品の良さはその美しさを更に際立たせ、特に好意を抱かなかったカノンでさえ息を呑むほど。

 

 キースの初恋、肖像画の君、ミリア・ローディア。

 

 頭の回転も乗じてのろくなる。

 目を剥いたキースも同じ気持ちだろう。

 なにせ、十年前に消えた少女が、ベッド上で起き上がれずにいるキースの前で、膝立ちのまま手を伸べ、そこにいるのだから。

 それも――――一糸纏わぬ姿で。

「う」

「う?」

 こてん、と傾げた白い首は、キースの顔が熟したトマトの赤さになったのも気づかず。

「キース……!」

 黒一色の時と同じ反応に、そのまま叫んだら危険だと小さく叫べば、ばっとこちらを向き様、素早く立ち上がり襲い掛かってきた。

 がばぁっと勢いよく抱きつかれ、ふかふかのベッドが鳴いた。

「ちょっ、き、キース!? おふざけでも、僕は君を押し倒そうなんて一回たりとも考えたことないよ! いっつも冗談なんだ! ぼ、僕は親友としての君が好きなのであって、そういう趣味はないんだって!」

 突然組み敷かれたパニックから、考えなしにぽんぽん言葉が飛び出す。

 それでも大声でない辺り、若干の余裕はあるらしい。

 そんなカノンの抵抗を受けて、必死で身体を押さえつけていたキースは、顔は依然トマトのまま。

「ばっ……バカか、お前! 俺だって御免だ! 違うよ、見るなって話だ!」

「あ、ああ。そ、そういう意味、ね」

 若い身空で――とまで口走りかけたカノンは、キースの否定で息をつき、大人しく拘束を受けることにした。

 よくよく考えてみればそうだろう。

 何せ、キースにとってカノンは親友だけれども、姉の入浴を覗いた前科者。

 嫌われた余韻で弁明さえ図らなかったカノンの信用など、特に異性へ対してのものではないに等しい。

 加えて彼女はキースの初恋の人。

 そりゃあ、見せたくない度合いは姉の比ではないのだと理解しとく。

 

 しとくが――――ちょっぴり悲しい。

 

 すると、カノンの気持ちを裏切るように、くすくす音色を奏でて笑う甘い声。

 つられてキースが振り向き、即行でこちらへ顔を戻した。

 直視したらしい。

 更に赤くなった顔で何も言えないキースを慮り、押し倒されたままのカノンが手を上げた。

「あのーすみませんけど、お姉さん。その素晴らしい肢体を隠しちゃくれませんかね。僕の友人、とっても初な可愛い子なんで」

「カノン!」

 初か可愛いか、もしくは両方か。言われて非難するキースへ、んべっと赤い舌を見せてやる。

 キースが壁となってこちらの様子は見えないにも関わらず、更に笑い声を強めた少女は、しばらくしてから「どうぞ」と促した。

 ようやく解放された身を起こし、キースと同じ方向を見たカノンは軽く呻いた。

 確かに見目麗しい少女は衣を纏っていたが、それは隠すというより劣情を煽るための薄い品物。

 キースとカノンに年齢や性格という制限がなければ、獲物と誤認してしまいそうだ。

 可哀相に思ってトマトなキースを見たなら、彼は以外にも彼女の姿をまじまじと見つめていた。

 エロガキ――――口をついて出そうになった言葉だが、寸でのところでカノンはごっくんと呑み込んだ。

 試しに青い裸眼の前でひらひら手を振ってみる。

 全く反応を示さない。

「……座ったまま気絶できるなんて、器用だな、君って奴は」

 けれどキースが気がついたなら、また視界を遮られてまともな話は出来まい。

 結論付けて折り合いをつけ、意を決してまた少女へ視線を戻す。

 先ほどはキースに押し倒されたため一瞬だったが、改めて薄布から覗く肌を見、カノンは眉を顰めた。

 耐性があるわけではないため凝視は適わないが、何も身につけていないと判断したのは間違いであったようだ。

 少女の身体は金銀や宝石を用いた細工で飾られており、一種の芸術品として扱われているように見える。

 それでも初なキースが直視するに耐えない姿なのだから、彼女はきっと――――

 想像力逞しい自分を呪ってカノンは心の中で首を振る。

 結論は急かない。後回しでも良い。

 今、尋ねるべきはもっと別の事柄だ。

 帰り道――――でも、その前に。

「……あの、貴女……ミリア・ローディアさん、ですか?」

 恐る恐る尋ねた後で、カノンは自分が酷く愚かしく思えてきた。

 目の前の少女の見目が肖像画に似通っていたから、十年前に消えたミリアと結び付けてしまったが……。

 

 十年前、なのだ。

 肖像画のあの少女が失踪してしまったのは。

 

 だというのに、この少女は肖像画とほぼ変わらない容姿。

 もし仮に同一人物だというなら――元の場所へ無事辿り着けたとして、はたしてそれは自分たちのいた時間だろうか。

 そら恐ろしい事実に直面するカノンを余所に、少女は以外にもあっさり頷いてみせた。

「ええ、そうよ?」

「嘘だ!」

 咄嗟の否定は、家族にもう会えないかもしれない恐怖から。

「だって、そんなバカな話があるかよ! アンタが消えてから十年も経ってるんだぜ!? それなのにアンタの姿は肖像画と同じってそんな……そんな……」

 いつもは絶対使わない口調を用い、恐怖を振り切るため腕を払えば、ミリアが唇へ人差し指をかざした。

「落ち着いて頂戴。あんまり大きな声出さないで。誰かに聞かれたら事だから。旦那様へ告げ口されたら危険だわ」

「旦那……様?」

 項垂れた顔を上げると、ミリアの表情が苦笑を呈す。

「そうね。こんな言い方だと君たちの教育上良くないかもしれないけど……正しくは飼い主、かな?」

 言って上を向いたミリアは顎下の刺青を示し、次いで左足へ手を滑らせ、包帯が巻かれた足首の枷に触れる。

 愛おしそうに撫でる様から目を逸らし、枷から垂れる鎖を追えば、ベッドの柱に繋がっていた。

「所有の証よ。ほら、動物に首輪や鎖つけてゲージに入れてって」

「そんな……アンタは人間、だろ?」

「…………そういうところなの、奇人街は」

「キジンガイ?」

「そう、この街の名前。でもこういう扱いは人間だけじゃないのよ? 弱者は強者に。だから、ね? 泣かないで頂戴」

 そろそろと近づいては濡れた頬を撫でる指。

 一体いつ泣いてしまったのだろう。恐怖か、彼女の現状に対してか。

 恥ずかしい反面、母のように優しい手つきが尚更悲しい。

 同時に、どうか器用に気絶しているキースの耳が、彼女の言葉を聞き取らないよう祈る。

 

 

 

 

 

「十年か……どおりで久しぶりに常識聞いた気分だわ」

「久しぶり?」

 ごしごし目を擦ればやんわり止められ、仕方なく眼鏡を掛け直す。

 キースは未だショックから立ち直れないらしく、目が乾くからと瞼を閉じさせても為すがまま。

 この分だとミリアの声も聞こえてそうにないから、それだけが唯一の救いだった。

 嫌な部分は全部引き受けるつもりで、カノンはミリアの眼だけを見つめる。

「もし帰った時の心配をしてるなら安心して? ここでは人の時間は停滞してるけど、経過している時間に変わりはないから」

「停滞してるのに経過してるって……意味が分からないんだけど」

 眉を顰めたなら、ミリアもしかめっ面を浮べた。

「うーん……ほら私、成長してないって君、言ったでしょ? つまりね、簡潔に言うと、この街にいる者は人間も例外なく全員、不老不死に近い状態になってしまうのよ。絶対老いない、齢を取らないって訳じゃないんだけど。でね、人は齢を取らなくても、時間は確実に進んでる――って、分かる?」

「……つまり、僕たちが帰っても、ちゃんと同じ時間に帰れるってこと?」

 奇天烈な話はうまく飲み込めないが、生き証人がそこにいるのだから仕方あるまい。

 納得は難しいが、必要な部分だけを繋ぎ合わせて問うたなら、ミリアは嬉しそうな顔で手を叩いた。

「そうそう。まあ、こっちにいた分は流れちゃうけどね。でも賢いね、君。私なんか、最初聞いた時全っ然理解できなかったわ。やっぱり若いっていいわねぇ」

 うっとり微笑むミリア。

 カノンより少し上の年齢をした姿ながら、貫禄ある囁きにどう反応すればよいか分からず戸惑ってしまう。

「ま、そんな訳でね。旦那様の下へ来てからだいぶ経つし、服も着ない生活だったから、新鮮で新鮮で」

「服、ないんだ」

 つい、ぽろっと口をついた言葉に、ミリアはふっと寂しげに笑う。

「ない、わけじゃないわ。そこのクローゼットに数えきれないくらいあるもの。でも、ね。どうせ脱ぐなら……必要、ないでしょ?」

「…………」

 濁した言い方。

 失言を悟ってカノンは項垂れる。

 これに対し、ミリアが慌てた声をかける。

「あ、勘違いしないでね? これでも私、幸せなんだから」

「!」

 慰めるにしても、自らを貶めるような明るさへ、カノンは怒鳴り散らすため顔を上げ――押し黙った。

 迎えたエメラルドの瞳が澄んだ光を湛え、反論を許さないと静かに告げていた。

「……本当なの。別に言い聞かせてきた訳じゃないわ。勿論、最初は怖かったわよ? 旦那様のところへ来る前、品物みたいに並べられて、歯向かう素振りをしたなら……殺されてしまうんですもの」

「…………」

 ミリアの言わんとするところを察する自分の想像力が妬ましい。

 十年前、失踪したのは彼女だけではない。

 彼女の他、数人の少年少女。

 全員が全員、このキジンガイとやらに来た訳ではないかもしれないが、遠くを見つめる緑の視線は、歯向かった相手が知人であったと語っていた。

 彼らがその後どうなったか――カノンには尋ねる勇気も無謀さもなかった。

 ただ、遠くの地で慣れ親しんだ人々の如く、息災であることを願い信じるのみ。

 そんなカノンの様子を知ってか、ミリアは緩やかに微笑んだ。

「聡い、子ね。辛くない? 時々」

「……辛い、かな、時々は……そのせいで知らなくていいこと、世の中には一杯あるんだって、こんな若い内に知っちゃってさ。絶対キースより損してるって自信はあるよ」

 キースの名を出せば、軽口がすぐ出てくる自分に苦笑する。

 これを好ましく見つめたミリアはからかう口調で言う。

「キースっていうんだ、その子。親友なのね。羨ましいわ」

「別に……まあ、親友だね。それはもう、魂からべったりと。……っと、そういや自己紹介してなかったっけ。コイツはご存じキース君。で、僕はカノンっていうんだ」

 羨ましいという声音に乗せられた思いは無視して、おどけた調子でお辞儀をするカノン。

 ミリアはくすくす楽しそうに笑ったが、はっと表情を改めた。

「まずいわ。お喋りが楽しくてつい忘れてしまったけれど、もうすぐ旦那様が来る頃合じゃない」

 飼い主云々言ってた割に、つい、で忘れるミリアの緊張にカノンのおどけも強張る。

 早く去らなければならないと、気絶中のキースへ往復ビンタを見舞った。

「どうしよう。絶対真っ直ぐやってくるわ。屋敷勤めの人達はここへ立ち入るのを禁じられているから、昇降機が落ちても来なかったけど、あんな大きな音、伝えない訳がないもの」

「おい、キース!」

 おろおろするミリアの横でぺちぺち叩いても、キースは起きる兆しすら見せず。

「ああダメ、旦那様がいらしたら、君たち危ないわ。私も完璧無事じゃ済まないけど、小さくても男の子、それも二人で人間なんて、酷い目に合ってしまうわ」

「うええっ! ほ、ほら、キース! 起きろ、起きてくれ!」

 次第に大きくなるビンタのふり幅。

 比例して大きくなる音と痛みを受けても、キースは死んだように動かない。

 呑気過ぎる様子に我を忘れ、カノンが手を振り上げ――矢先。

 等間隔で聞こえる破壊音。

「な、何!?」

「だ、旦那様の足音だわ」

「足音!? これが!?」

 ミリアのうろたえっぷりにカノンの顔が真っ青になった。

 勝手にほじくり返される記憶の中で、犬顔の所業が展開される。

 カノンは襟首を掴まれただけだがキースは容赦ない扱いを受けていた。

 出血沙汰にはならなかったものの、黒一色が割り込まなければ間違いなく魂の親友は死んでいただろう。

 急速に訪れる死の予感を感じとりカノンの手が止まってしまう。

 するとミリアがこれを取って、ぐいっと引っ張り上げた。

「諦めないでカノン。協力するから。キースと一緒にクローゼットに隠れて。手伝うから」

「う、うん」

 強い光に至近で射抜かれ、カノンは促されるがまま頷いた。

 くしゃり、頭が撫でられる。

「ん、良い子」

 微笑みはすぐさまキースの上半身を持ちカノンへ足を持つよう指示を下す。

 従い、クローゼットへキースを放り投げ、息つく暇なくカノンが入った直後。

 

 勢いよく開いた扉の悲鳴が聴覚を穿つ。

 

 


UP 2008/7/2 かなぶん

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