喪失の時 4

 

 痺れた足を引きずって、のろのろ無様にクローゼットから這い出たのは、金髪碧眼眼鏡のカノン。

 憂慮していたキースの目覚めは未だなく、ほっと一息――――つけるものならつきたかった。

 

 昇降機のために開いていた穴から流れる新しい風が心地良い。

 クローゼットという密室で纏わりついた熱が、全身から洗い流されていくようだ。

 外からの音も、聞き耳を本気で立てなければ聞こえない造りだったため、別の考えに没頭していれば問題なかった。

 問題は、躊躇い惑う視線の先。

「あー……その……お姉さん、大丈夫?」

 なるべく直視しないよう問うたなら、艶かしい腕が一本、ひらひら宙を泳いだ。

 それさえ耳を真っ赤にして目を逸らすカノンだったが、逸らし過ぎた絨毯の上で、散開した金銀の細工を見てしまった。

 ミリアの目によく似た深緑の宝石が無造作に放られていて、余計カノンを落ち着かなくさせた。

「うぅ……御免。ちょぉぉぉぉと、二人意識して、抵抗しちゃった……旦那様、反抗的な態度好むお方じゃないって、知ってたんだけど」

「いや、うん、こっちこそ、御免ね」

 他にどう言えば良いのだろう。

 意味なくうろうろ視線を動かし、身体を巡らせ、開けっ放しのクローゼットを見て、はたと気づいた。

 現在のこの状況、気絶続行の眠り姫ことキースが見たなら、物凄い誤解を招いてしまいそうだ。

 ――ヘイ、待てよ兄弟。落ち着いて考えてみろよ。なんでペーペーの僕が、お姉さんをどうこうできると思うんだい?

「ダメだ……おどけていったところでキース、最悪、怒り死んじゃうよ……そうだ!」

 弁解したところで、それはつまり、ミリアの“旦那様”を語るという、カノンとしては何が何でも避けねばならない話で。

 ならばとクローゼットを漁り、比較的露出の少ない服をもぎ取った。

 一応、キースがまだ死んでいるのを確かめつつ。

「お姉さん、これ――――おっとぉ!」

 ベッドの上でぐったりしているミリアを、うっかり見てしまったカノンは、慌てて手にした服を上へ放り投げた。

「カノン……何も投げることないでしょう?」

「いやいや、無茶言わないでよ、お姉さん。僕だって、まだまだお子ちゃまなんだから」

「あら、意識している時点でお子ちゃまはないんじゃない? それに、自分を子どもだって理解したなら大人だって聞くわよ?」

「いやいやいやいや。お子ちゃまはお子ちゃまだよ。大体、子どもって理解したら大人って、無茶だと思わない? じゃあ、大人はいつまで自分が子どもだって言い張る気なんだーってさ。いい年、なんて言われる奴が、俺まだ子どもなんだ、って言ったら引かない?」

「それって誰かのお話? それとも一般論?」

「勿論、一般論さ。そんな愉快な奴、身の回りにいて欲しくないし」

「それもそうね……はい、いいわよ」

 声を掛けられては振り向き、カノンは思わず感嘆の声を上げる。

「ワァオ……すっごく似合ってるよ、お姉さん。いや流石は僕の選んだ服だ」

「…………選んでくださったのは旦那様ですけどね。素直に似合うって言えないのかしらこの子は」

 呆れた声を上げながら、ずりずり縁まで這うミリアは、スカートの裾を翻らせて床へ足を付ける。

 じゃらっと鎖まで一緒に落ち、音を聴いたカノンの心臓は一瞬だけ跳びはねてしまった。

 それでも表面上は平常心を取り繕い、今度こそキースを起すべく行動を起す。

 この部屋から抜け出すチャンスは今しかない。

 ちょこっと好奇心を出してしまったがために聞いてしまった、ミリアと旦那様との応酬の端々で、彼はそう時間を置かずやってくると知れた。

 で、あるならば、さっさと出た方が賢明だろう。

「このっ、いい加減、起きろキース!」

「ぁだっ!」

 今回はクローゼットという段差を生かし、少々乱暴とは思いつつ、引っ張ったキースの体をそのまま床へ落とした。

 意志のある声が聞こえたから、しばらくすれば立ち直るだろう。

 回復を待つ間、ふと思い立って何気なくミリアへ訊く。

 返答は期待せずに、

「ねえお姉さん? その……帰り方、って分かる?」

 帰れなかった彼女に対して図々しいかもしれないが、かといって普通に喋れる相手を得た今、訊かない訳にはいかない。

 けれどミリアはカノンの心配を放り投げるように、いとも容易く頷いた。

「ええ、知ってるわよ」

「だよね、知るわけないよね、変なこと聞いて御免ね、お姉――――はい?」

 知ってるならとっくに帰ってるだろうと、訊いた手前の勝手な想像で用意した答えは否定され、カノンは目をぱちくりさせた。

「知ってる?」

「ええ」

「でも逃げないってことは…………ああ、なるほど、その枷が邪魔で」

 半ば混乱するカノンの指摘を受け、ミリアは意味ありげにくすっと笑い、枷へ手を伸ばす。

 優しく慈しむよう撫でたあとで、軽い音を立て外される枷。

 今度こそ完全に混乱するカノン。

「え……お、お姉さん?」

 帰り方を知っていて、枷も外せて――

「そ、そうだ、それなら扉に鍵が」

「残念ね、カノン。ご期待に添えなくて悪いけど、鍵は掛かってないわ。じゃなくちゃ、君たち、この部屋から出られないでしょう?」

「あ、うん、そうだ……いや、そうだけど!」

 逃げない理由を探しあぐね、急に取り残された気分に陥るカノンは、クローゼットの前でよろよろ起き上がるキースへ目を向けた。

 まるで答えがそこにあるかのように。

 しかし、逃げのような態度にミリアから苦笑が聞こえ、カノンは視線を彼女へ戻した。

「カノン、言ったはずよ? 私は幸せだって。逃げないのは自分の意思よ。君は否定したかったみたいだけど。ホント、聡い子ね。だからってそんな落ち込まないで頂戴。私の選択にケチつけないでよ」

「それは……選択肢が他になかったからじゃないの?」

 ぼそり呟いた言葉だったが、自信満々だった緑の瞳を動揺させるほどの攻撃力はあったらしい。

 

 

 

 痛いほどの沈黙に耐え切れなくなり、ミリアから目を逸らしたカノンは、キースに近寄っては立つ手助けをする。

「……大丈夫かい、兄弟」

「ううう……すんげぇ頭痛ぇ……コブ出来てるみたいだ。カノン、何か知ってるか?」

「きっと昇降機から飛ばされた時だ。コブだけで済んで良かったと思えよ。ほら、あの鉄の塊見てみろ」

 さらりと促したのは調度品に隠れた奥。

 叩きつけられた昇降機は圧縮されたような拉げ具合を見せている。

 カノンにクローゼットから落とされた真実など知らないキースは顔を青褪めさせ、手を貸した元凶へ礼を述べて一人で立った。

 その際、ふらっと傾いだキースたが、再度支えようとしたカノンをやんわり退けて、ミリアの方へ近寄っていく。

 動揺から依然回復しない彼女をいぶかしむ余裕なく、服を着てても顔を真っ赤にしたキースが手を伸べた。

 ミリアの眼が正気を取り戻す。

「君は……キース……」

「逃げよう」

 耳まで熟したトマトのキースは、ミリアが自分の名を呼んだのさえ気づけず、騎士気取りで言った。

 ミリアへ動揺をもたらしたカノンだったが、内心では無理だろうと結論付ける。

 彼女は逃げない。

 キースの手前、気楽に言えないが、そう思った。

 だからこそ、その彼女がキースの手に手を重ねたのは以外で、つい。

「お姉さん……いいの?」

「…………ええ。試してみたいの。逃げられるかどうか」

「? 何の話だ?」

 意外な答えを聞いた気がして、目を丸くするカノンには親友の怪訝な顔は目に入らず。

 

 

「じゃあ、早速行きましょう、芥屋の店主のところに」

 

「……え?」

「シファンク?」

 どこかで訊いた言葉だ。

 聞きなれない響きなのに、一体どこで?

「お姉さん、その、店主って?」

 考えている時間はないから率直に尋ね、けれどミリアは酷い困惑を引きつった笑みに乗せた。

「一応、人間……らしいわ。いっつも黒い服ばっかり着ててね。病的とは違う白い肌と血塗れみたいな口の」

「……その人ってもしかして」

 キースがカノンの方を見れば、カノンも同様の視線をキースへ向けてくる。

 犬顔から開放を得た要因だが、そら恐ろしくて逃げ惑った相手。

「人間にはすっごい、鬱陶しいくらい甘いんだけど、人間以外には物凄い嫌な男よ。内輪のゴタゴタで旦那様が私を預けた時も、あの方に対して失礼なことばかり――」

「旦那……様?」

「げ」

 帰る術を自分から退けていた事実に囚われていた聴覚が、衝撃的な単語を捉えた。

 カノンが妙な声を上げてもキースの耳には入らず、混乱の只中へ突き落とされる。

 旦那様――つまり、彼女にはもう夫がいるということだろうか。

 いや、まあ、十年前に失踪した年齢を考えれば……見た目変わった様子はないけれど、妙齢だから当然かもしれない。

 しかし、だとしたら、旦那様は相当な変態ではないか。

 あんな飾り立てた姿でベッドの上にいさせるなんて。

 でも、失礼云々言ってるから、彼女はそんな旦那様を愛してる……?

 じゃあどうして俺の手を取ったんだ?

 ああ、そうか。

「嫌気が差したのか」

「…………兄弟」

 結論付ければカノンが馴れ馴れしく肩を叩いてきた。

 慰めるそれを払っても、また叩かれ、払い、叩かれ――――

 段々むきになる二人へミリアがくすくす笑っては、ぱんっと手を打ち鳴らした。

「はいはい、二人の仲が良いのは充分分かったわ。でも早く行動しなくちゃね。この屋敷に勤めてる人たちも結構危険なんだから。私はまあ、顔が知られてる分、捕まっちゃうだけだけど、君たちは最悪そこで人生終っちゃうんだから」

「…………お姉さん、明るく言うところ間違ってない?」

 肖像画の彼女は儚い可憐さがあったのに、現物は異様なほどの強さが滲み出ている。

 それはこの、妙ちくりんな世界のせいなのだろうか。

 犬顔のような、変態旦那様のような奴がいるから、彼女は強くならざるを得なかったのか。

 だとしたら、とても切ない。

 そんな思いが顔に表れていたようで、キースを射抜いたエメラルドはふっと微笑んで、軽く頭を撫でた。

 夫がいようが、想像と違おうが、初恋の人の行動は柔らかく優しく、キースの頭をぐちゃぐちゃ掻き乱した。

 流石にキースの想いなど知らないミリアは、安心させるよう微笑む。

「深刻そうな顔しないの。大丈夫。お姉さんにドンと任せなさい!」

 

 

 

 重そうな扉へミリアが手を当てる直前、カノンが言った。

「あのさ、お姉さん。僕ら、その店主って人に会ったみたいなんだけど」

「ああ、なるほど。で、逃げてきたわけね。うん、すっごく分かる、それ」

 こちらを見もせず肯定だけした彼女は、見掛け倒しの扉をうまく調節して薄く開けた。

 てっきり扉の向こう側も部屋同様明りが灯っていると思ったのに、キースの目に映る隙間はしんと静まり返った闇。

「よしっ! 今なら誰もいないわ」

 軽く喜び、扉から身を滑らせたミリアは二人を素早く手招いた。

 キースとカノンも意を汲んで、出来るだけ音を立てないよう後に続く。

 二人の身が闇を纏ったのを見計らって、ミリアが静かに扉を閉じた。

「……勝負は十分。屋敷を出るまでね」

 ぼそり呟かれた言葉。

 闇に慣れない目で先を行くミリアを追いつつ、キースが問う。

「何の話?」

「いや、言い忘れてたんだけど、私ね、発信機がついてるのよ」

「は?」

「間違って出ちゃったりした際を考慮して、約十分の猶予はあるんだけどね。それを過ぎると警報が鳴っちゃうんだ。屋敷出ても同様」

「なにそれ……」

「何って聞かれてもねぇ……ちなみにこの廊下が真っ暗なのも、私を逃がさないため……っていうのは自惚れが過ぎるわね。他の人たちもいるのだし」

「…………」

 不倫、という単語をキースは知っている。

 一時期そのせいで父母が不仲になり、離婚の危機に瀕していたから。

 結局、勘違いで終わった話だが、ミリアの今の言動はそれとは違う響きを持っていた。

 なので次に浮かんだのは、ハーレムという一夫多妻の形式。

 なるほどそれなら嫌気が差しても仕方ないと納得し、そんな形式を選択した旦那様に呆れた。

 姉や妹たちを見る限り、妻がたくさん欲しいとは到底思えないキース。

 大半うるさい彼女らの中には大人しい者もいるが、それはそれで逆に怖かったりするのだ。

 そんな訳で元々泡でしかなかった初恋が完全に消えた今、一生独身でも構わないとキースはぼんやり考える。

 と、思考を遮るようにカノンの軽口が耳朶を打った。

「もしかして、お姉さん一緒の方が僕ら危ない?」

「か、カノン! お前、何言って――」

 逃げようと手を差し伸べた手前、思ってもみなかった話を窘めれば、前方がくすくす笑った。

「まあそうね。でも、こんな真っ暗じゃ出口分かんないでしょう?」

「そうだね。でもさ、どうしてお姉さんは見えてるの?」

「…………それもそうね。何故かしら?」

 ミリアの口振りはどこまでものんびりとしていて、含まれる意図が全く読めない。

 対するカノンは答えを打ち切られて沈黙を保つばかり。

 取り残されたキースは前方の気配を追うことしか出来ず。

 

 

 

 暗闇の中をいつしか走る二人は、ミリアの制止でこれを止めた。

 がちゃがちゃという音が響いて後、干からびた悲鳴を上げて煌びやかな街並みが口を開けた。

 しばらくぶりと錯覚するほど眩い明りを受け、目を細めたならミリアが言う。

「さ、二人とも先に下りて頂戴。ここ、二階だけど足場はちゃんとあるから」

 地下で二階の高さというのもなんだが、下を覗いたなら、確かに一階と思しき屋根がある。

 そのすぐ下には柵が続き、庭の広さは昇降機から見た屋敷の大きさと比例していないと気づく。

 自宅と比べれば広いが、屋敷と比べればネコの額ほどしかない庭。

 立地が地下であるせいか、庭と評するには寂れた地面を眺めつつ、まずはカノンが窓から降りた。

 続いてキースも降り、振り返ればミリアが柵の外を指差した。

「先に行って頂戴。私が出たら警報が作動しちゃうから。変な顔しないで。別に逃げないって訳じゃないんだから。私ね、これでも足の速さには自信があるの。トレーニングだって毎日積んでるから、君たちには絶対負けないわ」

 えっへんと暗闇の中で胸を張る。

 そう言われても引き下がれなかったが、カノンに袖を引かれ、キースは仕方なく先を行く。

 気をつけねば音を立てる屋根に四苦八苦しつつ、縁まで辿り付いて一息ついた。

「……で、どちらが先に降りる……いや、落ちる?」

 ミリアが来るまで待つつもりだったキースは、下を覗くカノンの声に眉を顰めた。

「……カノン、お前、もう少し言葉選べよ」

「ほうほう、では君が先だね、キース君」

「何でそうなるんだ? 大体、ローディアさん、待たなくて良いのかよ」

「ローディアさん、ね。思い切ってファーストネームで呼べば? もう二度と機会はやってこないかもしれないぜ?」

「は? 彼女は逃げるって行っただろ? それともまさか、ここでサヨナラだっていうのか?」

 下へ視線を投じたままのカノンの表情は、街の明りを反射する眼鏡が邪魔で読み取れない。

 その代わり、首を振ったのはよく見えた。

「いいや。お姉さんは来るだろうね、このまま。でも、ここで僕たちが詰まってちゃ進めないだろう? やっぱり先に降りておかないと、さ」

 言うがいなや、キースの手をきゅっと握ったカノン。

 やけにさらさら乾いた手の感触は、カノンの緊張を物語っていた。

「うん、じゃあ、一緒にせーので落ちようか、キース」

「は――――わあっ!」

 宣言したくせに合図なく、カノンに引っ張られるまま、キースの身体が落ちた。

 硬い地面の衝撃を予測して着地場所を見たなら、丁度人が通り掛かった。

 危ない――――と声をかける暇なく。

「ぐげ」

 嫌な感覚が足裏から、耳には蛙をひき潰したような声が伝わった。

 下敷きにしてしまったと後悔が過ぎる。

 慌てて退き、同じく下敷きにしてしまったカノンを避けて、倒れ伏す男の安否を確かめた。

「……良かった。息してる……って、あれ?」

「オウ? どうした、兄弟」

 介抱を人任せに埃を払っていたカノンが、惚けるキースの横から男の顔を覗きこんでは同じ反応を示す。

 どうして――――言いかけ。

 

 突如、屋敷からけたたましい音が直撃した。

 

 それがミリアの逃走の合図だと察するより早く、男の上に影が乗る。

「とっ!」

 上を向くと同時に避けた二人は無事だったが。

 遠くから射た力強い矢の如く、標的と化した男へ突き刺さる足。

 裸足だからまだマシ、なんてことはなく。

「うげろ」

「……あれ? 芥屋の店主?」

 能天気なミリアの声とは裏腹に、鈍く重い、嫌な音が男から生じていた。

 

 


UP 2008/7/4 かなぶん

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