喪失の時 5

 

 補助マットと化した男は、けれど異様な早さで復活を遂げ、少年二人から気味悪がられた。

 ある程度、免疫があるらしい少女すら、若干顔を引きつらせつつ現状を手短に説明する。

 するとへらり笑って彼は助力を申し出た。

 有り難い――――のかもしれないが、素直に喜べない居心地の悪さは如何ともし難く。

 

 

 ふらふら走る背を追いつつ、並走するキースがカノンへ小さく囁いた。

「なあ、大丈夫なのか? のこのこついていって」

「ウーム……兄弟、君ってば滅茶苦茶難しいこと聞いてくるね。僕に分かるわけないだろ、そんなこと。君の感想はそのまま僕に通ずるとだけ言っておくよ」

「つまり、全然信用してない、って?」

「オヤオヤ、酷い。全然ってこたぁないでしょうが。何せ君の初恋の人、彼の助力は信用してるみたいだし。郷に入っては郷に従え、とりあえずは想い人を信じろよ」

 にっと白い歯を煌かせたところで、それ以上に煌き華やぐ光を背景に、キースは項垂れてしまった。

「初恋……ね。いいよ、もう。終ったし」

「ふぅん……もしかして、直感でも働いてるのかな?」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、なーんにも!」

 言い放つ勢いでキースより足が一歩前に出た。

 「ずるい」と言いながらも競わないキースは、男ほどではないにしろ、よろけながら一番後ろを走るミリアを気遣う素振り。

 足に自信があるのは本当だろうが、黒一色の男が靴代わりにタオルを巻いた足では、走りにくいのだろう。

 最初、男は自分が履いていた黒い革靴を差し出そうとしたが、ミリアが思いっきり嫌がって却下した。

 脱ぎたてほかほかの他人の靴を、しかも裸足のまま履く嫌悪は分かるが、それより問題は男の背丈がミリアより高いことだった。

 合わない靴のサイズで走るか、タオルで走るか。

 どちらにせよ、走りにくい。

 ならば不快を抱かない方を選択するのは、至極当然。

 男の案で、そこら辺の異形を一匹伸して奪うという話も出たが、ミリア曰く、彼は銃をいつも携帯している割に命中率が恐ろしく低いらしい。

 否、百パーセント、当たらないそうな。

 だからと肉弾戦が得意、なんて都合の良い話があるはずもなく、態度は傍若無人でも異形より能力は劣るという。

 こんなのあてにして本当に大丈夫かと、聞けば聞くほど助力の胡散臭さだけが残った。

 それでも後へ続くのは、偏に散々男の評価を貶めたミリアが彼へ頼んだからだ。

 帰りたいから助けて、と。

 人間に甘いらしい男は、例の血の笑いを見せて頷いた訳だが。

 ――ミリアは明言を避けている。

 一言も、彼女は言わいない。

 帰りたいのは誰なのかを。

 カノンとキースは勿論だが、逃げると親友の手を取った彼女だって、帰りたい人間のはずなのに。

 彼女から聡い聡いと評されても、その心はカノンの予想を裏切り続けていた。

 今もってカノンが思う彼女は、土壇場で逃げるのを諦めるが、そうすると自分たちと帰る選択肢を選ぶのではないか?

 奇妙な疑心暗鬼に囚われても、答えが内からひょっこり顔を出すなどありはしまい。

 

「おおっと。ちょっと隠れようか」

 比較的暗い路地裏を選んで進んでいても、幾度か男はそう言ってカノンたちを影へ隠した。

 自分は路に出たまま。

 そういう時は決まって異形と思しき者が通りかかり、

「げっ、芥屋? なんでてめぇがここにいやがる……」

 男の背が壁となっているので、こちらからもあちらからも互いは見えない。

 けれど繰り返す邂逅はどれも男に対して不快を示していた。

 ……嫌われ者、なのかな。

 ふとそんな感想を抱く。

 親に似ていない――それだけで母や妹、父にいたるまでのけ者扱いを受けているのだから、当のカノンは殊更陰険な眼で見られた経験がある。

 行動も子どものいじめでは飽き足らず、時には近所の変態が不義のやり方を伝授してやると強引にカノンの髪や腕を強引に引きずり。

 日中、人がいる通りだというのに、誰も助ける素振りすらなく。

 危うく家へ連れ込まれる寸前、母が助けてくれた。

 しかし、変態はそんな母にまで迫り――――

 

「……オウ……キース。君は完全にアウトだが、僕もかなりヤバい感じだよ」

「突然何だ?」

 ほれ、といぶかしむキースへ手首の針を見せるカノン。

 途端、面白いくらい青褪めたキースをからかう余裕もなく、大仰に溜息を吐けば、ミリアが不思議そうな顔をしていた。

「どうしたの、君たち?」

「ああ、いや、門限がね。キース八時で、僕十時なんだ。過ぎたらさ、明日、顔が残るかなぁって」

 引越しする日、偶然通り掛かった変態の顔は、あれからだいぶ経っているのに、腫れあがってぶよぶよのままだった。

 現在はだいぶ良くなったのだろうか。

 同情の余地はないが、それでも近所じゃ噂になるくらい顔の良い男だったから気になった。

「へぇ……長いね。私なんて六時だったよ」

「え」

 呑気に過去へ思いを馳せるカノンだったが、ミリアの言葉を聞いて驚きの声を上げた。

 黒一色の男が異形を適当にあしらっているのを邪魔しないよう、小さく尋ねる。

「短くない? そりゃあ昔の風習だっていうならまだしも」

「昔って……他の子は君たちとそんな変わらなかったわ。でも、私のとこはちょっと……父が厳しくてね」

「父って……あの、自殺した――」

「キース!」

 騎士気取りだった紳士な親友が、まさかそんなヘマをするとは思わず、つい大きな声で窘めてしまった。

 一瞬きょとんとしたキースは、自分が何を口走ったか思い返して呻き、口を押さえた。

 カノンも慌てて口を押さえ、男の方を向けば、こちらへ笑いかける様。

「もう大丈夫だよ」

 そうしてまた路へ戻される途中で、ミリアが二人へ言い聞かせるよう明るく告げる。

「そう。ありがとう、教えてくれて。お陰で選択肢がなくなっちゃったわ」

「選択肢?」

 不思議そうな顔のキースへは楽しげに微笑み、不可解な表情を浮かべたカノンへは意地悪く笑って。

「聞いていい? 他の家族は?」

「……もう、いないよ。皆バラバラだって」

「そう。ありがと」

 ふいっと顔を逸らして言ったなら、こめかみを小突く柔らかな感触一つ。

 何が起こったか分からず、押さえてキースを見やると、カノンを指差し固まっていた。

 それで理解し、顔を赤らめる代わりに、シニカルな笑みを返してやった。

 ミリアに続いて路へ戻れば、我に返ったキースが追ってくる。

 文句を言われる前に走り出した男とミリアを追う。

 後ろから追いかけてくる怒気を受け、まるでキースから逃げている錯覚に陥った。

 もしかしたらキースは本気で追ってきているのかもしれないが……。

 しかし、ちらりと向けられたミリアの視線で現実を思い出す。

「ねえ、あとどのくらいで帰れるの?」

 眠気に任せて親に無茶言う子どもの口調で尋ねれば、ミリアではなく男がのんびり答えた。

「もうすぐだよ」

「……さっきもそう言ってなかった?」

「そうだっけ? でもまあ、本当にすぐそこだから」

 朗らかだが奇妙な歪みを感じさせる不気味な声音。

 実は売りに出される途中なのでは?

 と不謹慎なことを考えた矢先、叱るような風体で上へ伸びるレールが、瓦屋根と漆喰の壁の間から見えた。

 しばらく走れば、今度は格子状の扉が現れる。

 疑った自分を恥入りながら、カノンはスピードを上げてミリアを追い抜き、はためく黒いコートへ。

「ねえ……疑われたりするのってキツくないの? 嫌われたり、とか」

 重なったのは、紛れもない自分。

 似ているとは思えないが、似通っていると思ってしまって。

 男はしばらく考える素振りで妙な唸り声を上げた後。

「そだねぇ。うん、全然。ま、大事なのはボクが信用してて、好いてるってことだし。他の人どうこうしようなんてさ、考えるだけ無駄無駄」

「……なんか、押し売りみたい」

 呆気に取られて言えば、男は急に首の角度を変えてこちらを振り返り、ぱっくり赤い口を開けて笑った。

「まあね。小さな親切大きなお世話ってさ、用は結果でしょう? やってる最中なんて、誰もそんなこと考えない。だからボクは存分にやるのさ。結果なんて後についてくるものだし、目標は大切だけれど、大事なのはやり切ること」

「嫌われても?」

「ても。知ったこっちゃないんだ。ボクはそれが人間のためだから行うだけ。例えば飯を作って出して。ボクのことは快く思ってなくても、用意された物が安全なら食べるでしょ? それで良いんだ。それ以上望んだって仕方ない」

 肩を竦めて視線が戻される。

 直前、カノンは更に問うた。

「本当は……望んでるんじゃない?」

「…………どうだろ? それはワーズ・メイク・ワーズの範疇じゃないし」

 それで短い会話は終わりを迎えた。

 男は相変わらずふらふらした調子で走っているが、カノンにはそれが無言の拒絶に思えた。

 加え、男の名乗りと思しき言葉を聞いたなら、余計何も言えなくなってしまった。

 ミリアに対しては自己紹介をしたくせに、男へは名前すら聞かず名乗らず。

 無意識に必要ないと分けてしまったのだろう。

 自分たち――否、カノンは彼を、帰るための手段程度にしか思っていないことに気づかされた。

 これではまだ、異形たちの方がマシではないか。

 互いを嫌い合おうが、個として男を認めている異形らの方が、無関心な自分よりも――

 今にして思えば、カノンは中傷する彼らのことも、本当はどうとも思っていなかったのかもしれない。

 ただ、煩わしい、放っておいてくれとしか。

 そうして最終的に浮かぶのは、引越しの際、ご苦労にも餞別の嫌味を言いに来た彼女。

 同級生で、なんだかんだ言いつつ、カノンの周りを騒がしくしていた……

「ほらほら、もうすぐだよ」

 耽る思考を遮って、男の呑気な声音が響く。

 意識を向ければ確かにあと数十メートル先に格子があって。

 振り返ればキースも嬉しそうな顔をしていて。

 けれど、彼の初恋の人は――――

 

「ミリア」

 

 近くも遠くもない不思議な位置で、低く淡々とした声が耳朶を打った。

 と同時にミリアが盛大に躓く。

「っ!」

「ローディアさん!?」

 駆け寄り支えようとするキースを見たカノンも、駆け寄っては手を引いた。

 キースの、手を。

「カノン!?」

 悲鳴のような非難を受けても、惚けた隙を逃さず勢いに乗せて、彼を引っ張り走らせる。

 しかし、長くは続かない。

「待てよ、ローディアさんを置いてくつもりか!?」

 地面を踏みしめ、ミリアの方へ行こうとする力に逆に引っ張られそうになった。

 恋は終ろうとも、逃げようと言った責任感と想い出が、キースに力を与えているようで。

「クソッ、本当に愉快な奴だよ、君は!」

 悪態をつきながら、カノンは手を離したい衝動に駆られてしまう。

 初めて得た親友の願いを叶えてやりたいと。

 だが、これを遮るように、別の手がキースの腕を取って、無造作に引っ張り――投げ捨てた。

「キース!?」

 今度はカノンが悲鳴染みた非難を、人間が好きだという黒一色の男へ向ける。

 異形相手に口は回るが腕はからきし――そんなミリアの言葉を否定するかのような力強さは、反論を許さずカノンをも引きずる。

「ローディア嬢?」

 一度だけ、男が振り返って呼んだ名前は、泣きそうな顔をしていた。

「……行って」

「そ。じゃね」

 短い応酬。

 男はへらりと笑い、カノンを引っ張っていく。

 そのままも癪だったから、大丈夫だと腕を払って走りつつ、振り返ればミリアの意識はもう、こちらにはなかった。

 走ってきた路地裏より暗い十字の先を、泣きそうな、けれどとても幸せそうな笑みを浮かべて見上げている。

 そっと、柔らかな手が挙がり、暗がりへ進んでいく。

 ゆっくり、戻される手には、鋭い爪の獣の手が握られ。

 カノンたちを売ろうと画策した犬面に似たソレへ、ミリアが慈しむよう口付け――――

 

 がしゃんっと音が鳴り、目の前を格子が遮った。

 

 同時に立ち上がったミリアが横目でこちらを見、「御免」と小さくその唇が動く。

 しかして瞬きのこと。

 すぐさま視線を戻したミリアは引き寄せられるように暗がりへ身を消し、次いで軋んだ音を上げて視界が上方へ沈んでいく。

「いたたたたた……」

 はっとして振り返れば、男に襟首を掴まれ拾われた形のキースが頭を擦っていた。

「キー」

「ローディアさん!? っ放せ、この!」

 名を呼ぶ暇もなく、我に返ったキースは男の手を払い、よろけたまま格子に縋って、下方へ広がる煌びやかな街並みの中、彼女の姿を探す。

 けれど、死角に隠れた少女は見つかるはずもなく。

 立ち上がっては男の胸倉を掴み上げ、キースが吠えた。

「今すぐ下げろ! ローディアさんがいないんだ! まだ間に合うだろう!? 逃げるって、あの人そう言って――――」

「キース、違うよ。お姉さんは逃げられるか試すって言っただけだ」

「カノン!」

 標的を男からカノンへ変え、キースは締め上げ吠え続ける。

 そんな友をカノンはただじっと見ていた。

「なんで、お前、俺の手を引いたんだよ。あの人、帰るって言ってたじゃないか!」

「キー……ス」

 加減のない締め付けを甘んじて受けたせいで、名を呼ぶのさえ苦しい。

 気づいたキースが慌てて放せば、新鮮な酸素を求めて肺が暴れ、咳が止めどなく溢れた。

 膝をついて咳き込んでも、戻らない昇降機ゆえか労わる素振りもみせず、ただ悔しそうな顔をしたままのキース。

 言葉は何一つ浮かばず、咳き込むことだけ優先する身体に対し、少なからず安堵を覚える自分を苛立たしく思いつつ。

 と、重い昇降機内の空気など素知らぬ様子で、不思議そうな声が訪れた。

「ローディア嬢が帰る? どこへ?」

「んなことっ――――ひ!?」

 逆上したキースがまた男へ向かうのを追うと、彼は懲りずにこめかみへ銃口を当てていた。

 気のふれた光景を見せつけられて、カノンも咳を堪えて息を呑む。

 そうして先に回復したキースが、怯えつつも言葉の先を告いだ。

「勿論、俺たちのいた場所さ!」

 胸を張る姿はなかなか様になっているキース。

 これでへっぴり腰じゃなければもっと良いと、カノンは内心で真面目に思った。

 なけなしの勇気をはたいた宣言は、男を少し驚かせ――へらり笑わせた。

「残念だけど、それはないよ」

「はっ、アンタにローディアさんの何が分かるっていうんだ!?」

 それは君も同じだろと、こっそり他方へ毒を吐くカノン。

 激昂するキースには勿論届かず。

 へらりとした笑みを崩さない男は、そんな二人へ告げた。

「何がって言われてもねぇ。ローディア嬢が言っていたんだ、元いた場所は単なる口実なんだ、ってさ」

 

「「は?」」

 異口同音。

 

 するする昇り続ける昇降機の中、短くとも密度の濃い沈黙が広がった。

 

 


UP 2008/7/14 かなぶん

修正 2009/3/12

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