花ノ言霊 6
地に落ち、飛散した涙。 絶望に強張るエメラルドが次の涙と悲哀を溜める合間。 ぴしゃっと生温かい液体がミリアの頬を叩く。 「…………え」 漏れた声は足の間にあった男の姿が失せた拍子に喉を通り。 雨音が耳朶を打つ。 手足の拘束が消え去り、視界を遮る者が無くなれば、その度に雨音は増し――――さして時を置かず、宙に溶けていく。 次いで起こるのは雨上がりの大気とは程遠い、高い濃度の生温かな臭気。 「うっ……」 思わず自由な手で口元を覆えば、ぬるりと絡みつく赤を自身の手に見た。 「ひ……」 理解が及ばず、他の色を求めて上体を起したミリアは、拍子にぼとり脇に落ちたモノを見やった。 先程までミリアの眼前にいたと思しき男の、肘から先のない腕。 「な、に……」 追いつかない理解に足だけが逃れようと床を掻くものの、油のように絡みつく何かがその力を他方へ滑らせていく。 それでも何度か同じ行為を繰り返すと上半身がバランスを崩し、これを支えるべく両手が無意識に背後の床へ。 けれど足同様、何かに力を流されては崩れる動作を堪え切れず、緩慢な反応しか出来ない裸身が地に叩きつけられてしまう。 「くっ」 与えられた痛みにより、少しばかり鮮明になる頭。 顰め狭めた視界をゆっくり開いたミリアは、痛みによる痺れを感じながらも、今更ながらに認識した光景に瞠目する。
色彩が全て朱で塗り潰された空間。
高所の明かりに照らされ、ねとりとした光沢を放つ朱を追えば、それは己の身体までをも染め上げており。 「――――!!」 声なき声が喉を焼く。 取り戻した冷静さをかなぐり捨てて、目の前の現実を否定するべく立とうとしても、絡みつく朱はミリアの逃げを許さない。 もどかしい動きに耐え切れず、四つん這いになったミリアはぬめる床に爪を立てた。 それすら満足に保てぬというのに。 何度も手足を滑らせては、何度でも四つ足の生まれたての獣のように朱の床を掻き続ける。 恥も外聞もなかった。 ただ、混乱だけがあり―― 「っ、ふぐっ!」 大した距離も進めない内に、手の平が何かを踏んでバランスを崩す。 どこまでも広がる赤い床に身体を叩きつけたミリアは痛みに呻きつつ、何を踏んだのかと顔を上げた。 「!」 途端に言葉を失い、動きを止めた視線の先。 見慣れない、けれど、見たことはあったモノが転がっている。 今の今まで、ミリアを蹂躙していた男の、着用していた衣服。 それが、首と、腹から下、腕を失った状態で、同じ姿の中身を伴い、赤の中に沈んでいて。 弾かれたように上半身を起したミリアは、へたり座った格好で部屋のあちこちへ視線を飛ばした。 今はもう、嘲笑も、雨音もない――しかし、微かな呻きが響く部屋を。 見渡し。 理解、するしかなかった。 この、おびただしい量の赤が、血である事を。 転がった姿が、傍に散らばる小さな塊が、元は異形であっても人型だった事を。 生きて、動いていたモノだった事を。 自分だけが、暴れたせいで裂かれた皮膚はあれど血に塗れた姿であろうとも、こうして無事に在る事を。
――理解、して。
「でも…………どう、して?」 掠れた声が誰かへ疑問を投げかける。 ほとんどが死に、もしくは死へ向かっている最中、自分だけが生かされている理由は? 彼らの死により、ミリアは「助かった」と言えるのかもしれないが。 一人だけ動ける違和感は、この血だまりを前にして安堵を呼ぶものに非ず。 元より救いなぞ望めなかった身の上なれば、過ぎる未来はどれも惨たらしいものばかり。 散らばる彼らよりも無惨な目に、これから遭ってしまうのではなかろうか。 ミリアが想像出来ないほどの、恥辱よりも精神を犯すほどの…… 「……ぅぁ」 「!」 考えに没頭するミリアの耳に、小さな喘ぎが届いた。 乾き始めた血が剥がれ落ちる気持ち悪さを感じつつ、急いでそちらに向きを変えたミリアは、これ以上ないほどエメラルドの瞳を見開いた。 壁に陥没した従僕姿の頭を鷲掴み、もう一方の手でその腹を裂く姿を認めて。 ぱたぱたと音を立てて床を穿つ臓物と血に、原型を留めていた男の顔が苦痛と恐怖に歪んでいく。 これをもたらした穏やかな瞳は、慈しむように柔らかく男を眺め、白に近い灰の毛に覆われた口の端が少しだけ笑みを刻んだ。 満足そうに見届けた後で、力のない腕が止める動きを見せる中で、黒い爪が男の顔をゆっくりと潰していく。 断末魔の悲鳴さえ奏でられない喉の代わりに頭部の内包物が飛び散れば、男を解放した口元が緩み、覗いた牙を長い舌が一巡舐めた。 「……はあ」 堪らないと歓喜に疼く、艶めかしい声。 あれだけ共に居て、初めて聞く類の音色は、ミリアの心を震え上がらせた。 自分では検討もつかない、不可思議な感情で。 自ら下した殺戮の余韻に、変わらぬブラウンの光が潤い揺らぎ。 ミリアは彼女以上に血に濡れた、そのくせ着衣に乱れ一つない彼の名を口にした。 「タナム……」 それは助けを願った名だった。 小さく、買った者と買われた者その役割を示す呼称ではなく、彼の名を初めて、彼を前にして呼び。 囁きにすら聞こえる声は、呼んだミリアですら届くとは思っていなかった。 それなのに、タナムの尖った耳は鋭敏に反応を示し、彼の身体をこちらへ向けた。 「ああミリア」 熱に浮かされた語りを口先に、ミリアの姿を捉えたブラウンの瞳が一層酔いしれて揺らめく。 まるで、長い間離れていた半身に、ようやく逢えたとでもいうように。 先程まで視線を掠める度、逸らしていた事を忘れたように。 緋色に染む衣が大きく一歩、彼女に向けて踏み出され。 けれど、ミリアの視界の中で蠢く影が知覚されたなら、端で捉えたのか、タナムの目はあっさりそちらへ向けられた。 「ひっ! ゆ、許して……」 逃げようとしていたのだろう。 扉へ向け這いつくばっていた女は、肉の半分を抉られた顔で、拉げた手と足の千切れた腿を引き摺りつつ、近づくタナムへ命乞いをする。 これにブラウンの眼は殊更鮮やかな輝きを見せ、黒い爪が鼻先に乗った眼鏡の位置を直し。 「――――!!」 「っ!」 声もない絶叫に、ミリアの身体が竦んだ。 「まだ、生きていたのだな」 ともすれば、苦笑混じりに聞こえる声音。 だが、優しげな相貌とは裏腹に、その靴は女の踵を踏み砕く。 このままでは助からない、そう判断した女が、激痛に引き攣らせた顔で前を向けば、靴を除けたタナムの首が不思議そうに傾いだ。 「ふむ。どこへ行くつもりかな?」 顎を擦りさすり、興味深そうに女を見つめる傍ら、脇腹まで移動した靴が無遠慮にこれを叩いた。 「ぅっ」 衝撃に身をくねらせ、口から血を吐き出す女。 それでも腕だけは機械的な動きで、前を目指して血の床に爪を立てる。 「ほお? 軽かったかね? もう動けないだろうと思ったのだが」 わざわざ腕の前まで移動したタナムは、しげしげと腕を見つめて、そう言い放ち。 次の瞬間。 形容し難い鈍い音が地を通り、部屋に反響。 「っっぐ……」 直視に耐え切れないミリアは、呻いた口に手を当て俯き、縮めた己が身を抱いた。 感覚を閉ざすべく眼を閉じれば、捩れてしまった女の腕がその背に倒れる、すぐ傍にある画が浮かぶ。 作られた闇の中では、増して鮮明にタナムの温かな声が届いた。 「さて、息はあるようだ。ならば、そのまま待つがいい。安心したまえ。お前だけを生かすような真似はしない。丁度、生餌を欲している知人がいてな。彼へお前を引き渡す事にしよう」 「ひぅ」 息を呑んだのは、女ではなくミリア。 女へ向けられた言葉は、同時に、ミリアへ向けられたモノだと解釈される。 あれだけ飾り立て、大事にしていた彼らを虐殺したのは、他ならぬタナムなのだろう。 数を考えれば在り得ない話だが、女の尋常ならざる怯えや惨たらしい所業を見た後では、疑う余地もなし。 そんな彼にとってミリアなど、短い時間を共にしただけの存在。 加えて生餌というのなら、虫の息の女よりも、生かされたミリアにこそ相応しい。 「と、思ったのだが……ただの痙攣か。既に事切れていたとは、存外、脆いものだな」 あぁ…… 残念そうなタナムの口調を耳に、声にならない憂いがミリアの喉を衝く。 一人だけ生きている理由を見つけた矢先、女が死んだ事で確実となった己の末路。 女の死を確認したためか、真っ直ぐこちらへ向かうタナムの靴音に、猶予さえないのだと知れば。 「ミリア、遅く――」 「ひぃっ」 肩に置かれた手を思いっきり払った。 これにより裂ける痛みを感じたが、惨たらしい死が目前に迫る今、構ってなぞいられない。 強張った顔を上げ、惚けたブラウンの双眸を認めたなら、近い距離に戦慄が走る。 縮めていた身体を伸ばし、足と手で床を掻いて、倒れ込むように扉を求めた。 一刻も早く離れなければ―― もしも捕まったなら―― 「っ、ミリア!」 声に追われ、振り遅れた腕が囚われる。 「ぃやあっ! 離して!!」 引き攣る喉から叫びを絞り出し、まだ逃れられると爪が喰い込んでも腕を振るう。 深い痛みに自然と涙が零れたなら、震える爪。 躊躇するような隙を得るなり、ミリアは爪の中から腕を引きずり出し、再度、血と涙で崩れた顔を扉へ向けた。 逃げよう。 逃げなければ。 あの扉の先にさえ辿り着けば――
屋敷の者に、殺される事が出来る。
生きながら喰われる事は、タナムの手で弄り殺される事は、とても怖いから。 裸体だろうが血塗れの肌なぞ、好き好んでくすねる者はいないだろう。 醜く歪んだ顔を見て、売ろうと思う者も、組み敷こうと思う者もいないはずだ。 だから、あの扉の先をミリアは望む。 死ぬために、逃げる。 一度は慕ったタナムから、彼からもたらされる凄惨な死を恐れて、ミリアの身体は別の死へ逃げるべく動き。 「ミリアっ!」 「ひっ……!」 しかして、種の違い、男女の違い、怪我の有無により容易く、今度は身体ごとタナムの腕に囚われる。 傷を労わる温かさが怖い。 大切に扱う動きが恐ろしい。 生かそうとする意思が伝われば、それは同時に、死なれては生餌にならぬと言われているようで。 なればこそ、押し付けられる胸へ、抗う頭が叫ぶのは。 「いやっ、離して! 離して離して離して、私に触らないで!!」 暴れても押さえつける腕は解放を許さず、かといって余裕があるわけでもない声が、ミリアへ言い聞かせるように彼女の耳に宛がわれた。 「ミリア、ミリアっ!? しっかりしろっ! 私を見ろ! 私はお前を傷つける者では――」 「怖い、怖い怖い怖い怖い怖いっっ! 嫌だっ、死にたくないよ!――でも!」 だが、ミリアは聞き入れずに払い。 「痛いのは怖い、痛いくらいなら死にたい! もう、嫌! こんな、こんな風に私でいられなくなるならぁっ!」 突如、自分を閉じ込める胸倉を掴んだ。 抱きかかえる形に納まった身体、しっかり交わった眼鏡越しの視線に、屈み気味の獣面がほっとした息を吐く。 次いで、苦笑混じりに彼の口が開かれる――直前。 食い入るように見つめる彼を正確に認識しつつ、ミリアは告げた。
「殺して」
途端、温かな腕が固まる。 「……みりあ…………? 何を、言って……」 「殺して下さい、旦那様。お願いです。私を殺して」 しがみつき、訴えかけたなら、瞳を凍らせたタナムの首が振られた。 「何故……私が…………? ようやく、名を……お前は、私の名を呼んでくれたのに」 「それなら…………何度でも呼びます――呼ぶわ、タナム。貴方の名前を。貴方のために、貴方が望むのなら」 「ミリア……」 呼ばれた名に応じ、柔らかな光がブラウンの瞳に滲む。 併せ、縋りつくようにミリアの身体がタナムへ寄せられれば、これを嫌って彼女の腕は彼の胸を押し。 「だからお願い、タナム。私を殺して。今すぐ、貴方の手で殺して。タナム、お願い。私を殺して……解放して。私で居られなくなる私ならいらないから。私を私から解放してよ。ねえ、貴方の名を呼ぶから、タナム、引き換えに私を」 「……ミリア? どうした? どうしてそんな、惨い事を口にする? 私の名を呼びながら、何故、殺してなどと…………助けに来るのが遅かったからか? アレらの不穏に気づかず、お前を一人残して、その様な姿にまでしてしまったから、お前は私を恨んで」 茫然と尋ねるタナムの眼を見つめていられず、突き放した彼の胸へ額を寄せては、違うとがむしゃらに首を振る。 その中で見つめるのは、羞恥も抱けぬほど朱に干からびた己の裸身、同色に染まるタナムの衣と、肉片混じりの床。 粘着とざらつきを足裏に感じ、目を閉じたミリアは、決して離さないくせに彼女を持て余す腕の主へ、開いた視線を投じる。 「……恨んでなんかない。だけど……怖い」 「ああ……すまない。酷な事をお前にしたと私は」 「貴方が――タナムが、誰より、怖い」 告げた言葉は狂気に非ず。 平然と異形を屠っていた顔が、ミリアの言葉を前に歪んでゆくのを見つめながら、分かって貰えるように告げる。 混乱はしていようとも正気なればこそ、この言葉は語られるのだ、と。 「確かに彼らは恐ろしかった。私を嗤う声は心を苛んだし、乱暴な扱いを思えば気持ち悪くて怖気が走る。傷つけられた痛みだって…………だけど、それすら掻き消すの。貴方の……貴方に対する、私の恐怖は」 「ミリア、私は……言う義理もないが、私はお前を助けようと」 「怖いよ、タナム」 懺悔する言葉を遮り、ミリアは訥々と言い聞かせるように続ける。 「私を見つめる穏やかな眼差しのまま人を殺せる貴方が。息絶える様を微笑ましいと喜ぶ貴方が。身を案じる口振りで望みを絶つ貴方が。言葉を解する相手へ躊躇いなく宣告する貴方が」 「ミリア、私は……」 「何より怖いのは、私との関係を忘れた貴方の行動」 「私の……?」 叱られた子どもの如く怯え、耳を伏せさせるタナムへ、ミリアは微笑みもかけず。 「買った者と買われたモノ」 「それは……」 「ううん。それはいいの。貴方が名で呼ぶよう、敬語を止めるよう言うなら、私はそれに従うまでだから」 「っ」 易い話し方の意を知り、タナムの手がミリアの肩を掴んで引き離した。 強要したつもりはない!――そう叫ぶ口を先読みし、裂かれていない手が声を発する前の開かれた牙を滑る。 鋭さに流れた血が牙を伝って舌に落ちたなら、その味を呑み込めずに溢れる唾液。 首元に垂れても、瞬き一つ出来ないブラウンの眼は、ミリアを映しながら、一体何を考えているのだろう。 理解及ばず、ミリアは諦めた顔つきで首を振り。 口内の手を抜き去り、彼の頬を撫でては、変わらぬ声のトーンで語る。 「憶えていないの? 貴方は私を避けていたはずなのに」 「あ、れは……」 反論はいらない。 首を振って先を拒むなり、タナムの眼が動揺に乱れた。 あれだけの異形を殺した無傷の相手が、服にすら不自由する満身創痍のミリアを前にして、恐れ戦く滑稽さ。 ミリアは内心で苦笑を示し、表には無表情を貼り付けたままで。 「それなのに、こうして私を抱きしめるのは何故? 痛めつけて殺したあの人へ告げた通り、生餌にするつもりだから、私を捕らえるの? 迂闊に殺してしまわないように」 「ち、違う……これは…………そんなつもりでは……」 慌てて肩から離される手の平。 返り血の滲む黒い爪を恐れる動きで、先端を天井へ向けたままタナムの手が上下に緩く振られたなら、解放によろめくだけのミリアが顔を歪める。 タナムから避けられていた間、決して、彼へ向けなかった柔らかな笑みに――。 「良いの、タナム。何も言わなくて良いの。だけど、生餌なんて嫌なの。私は、どうせなら、最後には食べられてしまうなら、先にトドメを刺して欲しいの。弄る痛みはいらないから、一思いに殺して欲しい」 「ミリア……」 「ねぇ? 私を殺して、タナム。さっきの人みたいに殺されるのは嫌だから、痛みすら感じられない速さで、私の命を奪って?」 他の誰でもない、貴方の手で。 本当は屋敷の者にすら、手を下されたくはなかったから。 本当は死にたくないけど、このまま生きていたくもないから。 生き抜いても、こんなところでは二度目がないなんて言い切れないから。 また、辱めを受けるくらいなら、いっそ。 いっそ殺されるなら、相手は貴方が望ましい。 怖くて怖くて怖くて…………だけど。 それでも、愛しいと想ってしまう貴方になら。 一息に奪われるなら、私は悦ばしいとさえ感じられる。 命を失うことも……。
浴びた血とは異なる、自身から流れゆく血のためか。 度重なる陰惨な事柄に疲弊してか。
支えを失い、身体を揺らがせたミリアは、タナムの両手に己の手を差し伸べ重ねて。 「お願い、愛しい御方。どうせ死を迎えるしかないのなら、せめて、貴方の手に掛かって、他を考える間もなく死んでしまいたい」 愛しい、私の旦那様…… ほとんど朦朧とした頭で、ミリアはそう告げる。 霞む視界の中で、タナムがどんな顔をしているのかも分からず。 崩れ落つように倒れた身体ごと、彼女は己の意識を手放した。 |
2010/6/29 かなぶん
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