過ぎゆく時、積み重なる思い、変革を望む世界。
 その全てから隔絶された少女が一人、緩やかな眠りに身を任せている。
 いつの日か、待ち焦がれる彼の人が古よりの法を用い、彼女に安穏を与えてくれるまで。
 老いることなく、身じろぎもせず、死すら迎えることなく。
 人の身には有り余るほどの時を、少女は眠り、待ち続けた。
 そして――

 

てに

 

 東の白み始めた空が、その部屋を徐々に明るく染め上げる。
 照らされ現れるのは、豪奢ではないにしろ、素材や細工の上等な椅子や卓等の品々。ほこり一つない数々の物たちは、しかし長い間その役目を忘れていた。誰も座らない、何かを置かれることもない、触るモノはなに一ついない。整備する者もなく、それでも変わらぬ姿で有り続ける物たちには、同一の主が存在した。永い間を眠り続ける主が。
 この部屋の天蓋の下、柔らかな寝台の上。

 きめの細かい白磁の肌を包むドレスは純潔の白。
 朝露を纏う薔薇の蕾のごとくたおやかな唇。
 涼やかな面差しに、薄明かりのなかでも輝くブロンドの長い艶やかな髪。
 かつて、姫と呼ばれたその主は、今も眠り続けていた。容易に起こすこともできそうな姿なのだが、この永い時、姫君は決して目覚めることがなかった。
    
 呪い――
    
 永劫のような昔に姫君を襲ったこの悲劇は、数々の英雄によって終わりを迎えるかにみえた。
 しかしその実、誰しもが姫君の目覚めを目にすることなく、ある者は去り、ある者はここに到る途中に命を落とし、ある者は姫君の傍で天寿を終えた。
 自らの周りに起こる運命の末路を、姫君は知ることなく眠り続け――
 そして、終わりは唐突に訪れる。

  *  *  *

「…………よ……く」
 声を久しく忘れた喉から、掠れた声がもれる。軋む体をぎこちなく起こし、感触を思い出そうと胸に組んでいた手を解き、敷布を硬く握り閉める。
 
強張った表情からどうにか笑みを引っ張り出し、隣に立つ者へ意を伝えようと顔をあげ――
 見開かれた空色の瞳に、必死で繕った微笑みが消えた。
「やあ、お目覚めはいかがかな? お姫さま?」
 大げさに両手を広げ首を傾けたのは、おおよそ人と呼べる者ではなかった。
 高い背丈の割に華奢な体を包むのは、場違いなほど明るい色彩の服。
 袖から覗く左手は針のように細長く、右腕は肘から先がなく袖がひらひら揺れる。
 いたずらに笑む顔からは男女の区別がつかない。
 白と黒とが反転した瞳は中心に縦の線を描いている。
 左目があるはずの場所には抉られた爪痕が三つ。
 蜘蛛の糸を束ねたような銀の髪には、雨粒のような珠が散りばめられ、首と同じ呪式の描かれた帯が巻きついている。
 人を模した姿形の者。

 甘い夢と果てに服従の死をもたらす者。
 夢魔。人がそう呼び、言い伝え、恐れてきた者。
 その姿が目の前にあって、姫君は怯えではなく落胆を表した。
「……そう、…………なのね……」
「ええ。約束の時が来てしまったので」
 息を吐くような掠れ声に、心底残念そうな顔をする夢魔。
 どうぞと手を差し伸べ、姫君を誘う。
 操り人形のようなぎこちなさでその手を取り立ち上がった姫君は、ぐらりとバランスを崩した。慌てて支えた夢魔に礼もなく、まだ動きに慣れない体を引きずるように、窓へ身を寄せる。
 夢魔は無言でそれに従う。
 まだ明けぬ空を眺めながら。
「これが……?」
「約束の地、です。本当はもう少し時間があるのですが、いかんせんこの城内に人の気配がなかったもので。些か早い気もしましたが、お知らせに来た次第です」
「そう……」
 狭い窓から望む景色は、姫君の記憶からは随分とかけ離れたものだった。
 風化した街並みに広がる荒野。緑は情け程度しかなく、先人の頃に作られた道も跡形がない。戦で失われたというより、時の経過とともに寂れていった風情を、ただ姫君と夢魔は見つめていた。
「――そろそろ」
「そうね、約束ですものね」
 完全に声を取り戻した姫君は、何かを吹っ切ったような顔で、
「でも、少し卑怯な気もするわ。私の願いは叶えられなかったのに」
「そう言われましても。最初に交わした契約は絶対ですよ」
「あーあ、どうせなら未来永劫ずぅーっと、って言っておけばよかったぁ」
「それでは私が損をしてしまうでしょう」
「願いが叶えば損にはならないはずでしょう?」
 それとも、と眉根を寄せて、姫君は夢魔の顔を覗き込む。
「私の願いは叶うはずないと思ってるのかしら?」
 恐れもなくじっと見上げられ、ついついフイっと視線を明後日の方向へ向ける。
「い、いえいえ。そんなことはございませんとも」
「そーぉ?」
 疑わしげに詰め寄る姫君に、夢魔は左手を振り右袖を振りして否定を伝える。
 ふいに、姫君がため息をついた。
 窓から身を乗り出し、荒廃の風を胸いっぱい吸い込む。
「でも、そうね。結局、私は目覚めなかった……」
 泣いているような呟きに、夢魔はただその背中を見つめ続けた。
 徐々に朝の色を思い出していく空。
  
 ドンッ
   
 突如、何かが突き上げる音が響く。
 驚いた姫君が窓から離れて夢魔に尋ねる。
「これが?」
「ええ、これで最期でしょう」
 すっと手を差し出す夢魔。
 少し怯んだ様子の姫君だったが、意を決してその手に自らの手を重ねた。
「この後は?」
「後は……ありませんよ」
 言葉の最後も聞かぬうちに、姫君の体が崩れる。
 今度は支えようともせず、夢魔はその体を見下ろした。
 眠りの中にいた時と少しも変わらない表情。
 違うのは、徐々に失われる体温。
 真実、二度と開かれぬ瞳。
 その身体を捨て置き、姫君がそうしていたように、夢魔も窓の前に立つ。
 手の平には、淡く青白く光る珠。
 夢魔の髪を飾るものによく似た、露の結晶。
「君は知らないでしょう?」
 いたずらっぽく笑みながら、手の平の珠に優しく語り掛ける。
「裏切りに傷ついた君が、私と契約を交わして安穏を得ようとしたこと自体が間違いであったことを」
 姿を保つために利用したこの城から、やむを得ず出て行かなければならなくなった者たちの末路を。
 起こすに値する者を選ぶために仕掛けた罠で、命を落としていった者たちの嘆きを。
 辿り着いても君を起こせず絶望する者の叫びを。
 いつしか魔物の住む城として、街の人々すら魔物と蔑まれていたことを。
 くすくす楽しげに笑いながら、夢魔は囁きかける。
「本当に君には感謝していますよ?君との契約で、私は沢山のご馳走をいただきました」
 夢魔の糧は人間の嘆き、苦しみ、痛み、怒り、絶望。
 姫君はまさか自分の願いのせいで、どれだけの嘆きを生んだかなど知る由もないだろう。
 この珠の姿になったあとでは、自我もあるまい。
 契約を終えた人間の魂は珠となり、夢魔の力となる。
 甘く苦く、美しく醜く、希望と絶望の狭間を魅せる、夢魔の力の源。
  
 ドンッ
  
 感傷に浸る夢魔の足元から、また低い音が突き上がる。
 無粋なその音に、夢魔は遠い昔に交わされた契約を想う。
 
『世界の終わりまで……それまでに私に目覚めを与える者が……真実の愛を与えてくれる者がいるならば一目で良いから、逢いたい』
  
 姫君に口づけを。
 古よりの解呪の法。だが、誰一人として、姫君の目覚めに逢えた者はなかった。
 当たり前だと夢魔は確信していた。
 真実の愛など、人の身には過ぎたモノだ。永の時を生きるのと等しく。
    
ドンッ
   
 感覚の短くなった音に、今度は夢魔の力によって姿を保たれていた城が歪み崩れ始める。
 際限なく、貪欲に何かを求める人間たちは、自らの住処からさえ根こそぎ全てを奪い取っていった。その末路がこの終わり。
 音もなく、砂のように崩れゆく城のなか、夢魔は立ち去ることもせず、ただじっと手中の珠を見つめる。
 心など一度も騒がなかった。それでも確信していた。
「目覚めるはずなど、ありません」
 吐息に似た響き。
 パラパラと、銀の髪から雫のように無数の珠が堕ちてゆく。
 それに一瞥もくれず、唯一残った目の前の珠に、優しく口づける。
 ――姫君を目覚めさせた時のように、甘く。
「私以上に君を想える者など、いようはずもないのだから……」

 

 一条の光を受けながらサラサラと崩れる城とは対象的に、世界は悲鳴をあげて崩壊する。
 後に残ったものなど、何一つなく――――

 

 


UP 2007/10/16
かなぶん

修正 2014/4/20

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