蚊帳の外の茶
昔々あるところに、風聞のよくない狼がおりました。
どこまでも自分本位のその狼は、美しい外見と声を持っていたため、性格の悪さに似合わず女性からモテていました。
狼が住む、近くの町や村の器量良しは、大抵彼のお手つきとなるくらいでした。
節操ナシも良いところです。
いくら後腐れのない付き合いばかりといえど、誘われ乗った相手が既婚者であろうとも気にしない神経は、狼の射程範囲にいない男たちとしては面白くないものでした。
けれど、天は二物を与えない、色男金と力はなかりけり、という先人の慰めなぞ素知らぬ狼です。
相手として誰一人、不足しない者がいませんでした。
大半が返り討ちにあってしまいます。
狼を長年追い続けていた猟師ですら、未だ、一矢も報いることが出来ないのです。
尤も、彼の場合、持ち前の熱血根性が空回りした挙句、自滅するのがオチで、そのため、近くにいる同業の齢若い男から失笑されるのが、半ば日課となっておりました。
そんなある日のこと。
今日も今日とて、馴染みの女のところを梯子しつつ、森へ朝帰りした狼の耳に、一つの情報が入ってきました。
なんでも、物凄く可愛い女の子が、森に住む哀れな老婆のところへ、見舞いにやってくるというのです。
人間の老婆が森に住んでいるとは初耳ですが、そんな枯れた存在より、狼の気を惹くのはやっぱり可愛い女の子。
「ふふふ……可愛いというからには、やはりふわふわの金髪に藍色の目をした、好奇心旺盛な方なのでしょうねぇ」
限定される容姿を想像しつつ、にやける狼は、そこではたと考えます。
運命的な出会いを演出するにしても、狼はどこから女の子が来るか知らないのです。
具体的な顔すら想像の域を出ず、首を捻ること数回。
「……私としたことが、肝心なことを忘れていました。女の子はお祖母ちゃんのお見舞いへ行くのですから、そこで待ち伏せしておけば良いだけの話ではありませんか」
偶然を装うにしても、相手を知らねばならないでしょう。
何事も手際の良さを重んじる狼は、早速お祖母ちゃんの家を探しに行きます。
うろちょろ動く女の子より、動かない家を探す方が簡単だと考えたからです。
途中、お花畑で呑気にお花を摘む、女の子のような格好をした男の子を見かけた狼は、ふと自分の姿と見比べます。
狼と呼ばれて久しい年月を生きていますが、狼が狼たる所以は、せいぜい尖った耳と少しばかり長く鋭い牙と爪くらいのものです。
対して、男の子の姿は、茶色いずきんを被ったような獣面で、同色の尻尾もスカートから飛び出していました。
「……なんと言いましょうか、世の中、間違いはどこにでもあるものですねぇ」
存在自体が何かしら間違っている感満載の狼はそう呟くと、男の子へ背を向けます。
彼の目的はあくまで、可愛い女の子なのですから。
* * *
探して探して、ようやく見つけたお祖母ちゃんの家らしき家は、森の生き物すら近づかないほどの奥にありました。
風景はなんともおどろおどろしいのに、その家だけは非常にメルヘンチックな造りで、逆に不気味です。
鷲鼻でも、絶世の美女でも、こんな家に住んでいる輩は、間違いなく魔女でしょう。
すると狼に、別の思惑が浮かびます。
お祖母ちゃんが魔女だったとして、これが絶世の美女の姿をしていた場合、手を出したものかどうか、という仕様のない思惑です。
魔法で実年齢を誤魔化す程度ならば手は出さず、肉体年齢を止めた存在なら有無を言わさず押し倒そうか、などなど、本当に節操のないことを考える狼。
兎にも角にも、まずは中身が肝心と、外見だけでお祖母ちゃんへの態度を考えていたとは思えない頭で思い、お祖母ちゃんの家のドアをノックします。
時間もあまり置かず、中から返事が届きます。
「……どなた?」
「あ…………」
聞こえて来たのは、間違いなく、老婆といって差し支えない、品のある声音。
けれど何故か狼は言葉を失って、喉を一つ鳴らしました。
どんな女相手でも、震えなかった声を震わせて、老婆であれば空耳で終わらせようとした会話を望みます。
「あ、の……申し訳ございませんが、その……少し…………そう、少しばかり、ここで休憩させてはいただけませんか? っあ、わ、私は別に、その、怪しい者ではありません」
言っている端から怪しさ無限大の狼の言葉に、狼自身が戸惑い、断られることを想定しては、酷い不安が彼を襲ってきます。
訳の分からぬ熱に苛まれ、返事を待つ間、高鳴る胸を押さえてはドアに額と手を押し付ける狼。
閉じた目でもぐるぐる巡る視界を感じます。
「どうぞ?」
届いた声が、すぐだったのか、だいぶ経ってからなされたのかさえ、狼には分かりません。
ただ、身を打ち震わせる喜びが、狼の脈を大きく早くさせていきます。
「……し、失礼します」
言って、ゆっくりお祖母ちゃんの家へ入った狼は、外とは打って変わった、外装とは似通う綺麗な室内に、普段は長い前髪で隠してある目をぱちくりさせました。
「いらっしゃい?」
「あ、は、はい」
そんな狼を迎えた声はベッドから聞こえ、招く音に対し狼はギクシャクした動きで、その近くにあった丸椅子へ腰掛けました。
最初はカーペットに落としていた視線を、徐々に上げては、皺の手を捉え、更に上げては、ふんわり微笑む、藍の目をした貴婦人と出会いました。
「っ!」
狼の息が詰まります。
今まで、色んな女性とみだりに付き合ってきた狼ですが、こんな胸の鼓動は初めてです。
まるで自分の物ではない動きをみせる心臓を、狼は服の上から押さえました。
そこへ、彼女の手が伸びます。
頬へ触れられて、大きく震えた狼でしたが、これを知って離れようとする手はしっかり押さえ、自ら頬を寄せます。
恍惚と思しき表情の眼が細まりました。
けれど、彼女の手が離れる素振りに気づいては、名残惜しそうに自分の手を離しました。
「あなた、狼さん?」
「は、はい……そ、そういう――貴女は?」
お祖母ちゃんという呼び方は、狼の喉から出てきません。
そう呼ぶと、彼女と自分の間に大きな隔たりを感じてしまうと思ったからです。
しかし、そんな狼の思いなど知らないお祖母ちゃんは、にっこり笑って言いました。
「私は、茶色ずきんのお祖母ちゃんなの。とっても可愛い子なのよ、私の孫は」
「孫…………」
茶色ずきんとは、狼が当初の目的としていた女の子の名前でしたが、お祖母ちゃんを前にした狼が、何よりもショックを受けたのは、それがお祖母ちゃんの孫という事実でした。
お見舞いに来るくらいですから、血の繋がりはあると、自分勝手で生きてきた狼にも理解できますが、お祖母ちゃんの口から告げられた衝撃は、計り知れないものです。
孫というからには、お祖母ちゃんには子がおり、つまるところ、彼女にはそういう相手がいたという話でした。
今もいるかもしれませんが、自分に正直な狼は、いた、という過去形を無意識で用います。
それは最早願望、否、呪詛のような考えでした。
お祖母ちゃんへ手を出した相手が、まだのうのうと生きていることが、狼には何より赦せない事となっていたのです。
そこで狼は、自分の心に気づきました。
驚くべきことに狼は、初めて会った、好みからは程遠いはずのお祖母ちゃんを、心の奥底から欲していたのです。
齢が齢だけに、肉体的ではお祖母ちゃんの負担となりそうですが、精神ならば問題ないと昂る自分の熱をそちらへ向けます。
たとえお祖母ちゃんが若かったとしても、自分からでは到底手は出せないと感じながら。
「何もないところだけれど、ゆっくりしていって良いのよ」
くしゃりと頭を撫でられた狼は、完全な子ども扱いにも関わらず、相好をだらしなく崩していきます。
熱に浮かされた瞳は、お祖母ちゃんの申し出を、何度も何度も、飽きることなく頷いては喜びました。
* * *
可愛い女の子をすっかり忘れ、お祖母ちゃんのため甲斐甲斐しく働いていた狼は、ノック音を聞いて、眉を思いっきり顰めました。
何せ、動物すら寄り付かない森の奥なのです。
自分とお祖母ちゃんだけの、都合の良い世界だったのです。
それなのに、訪問者はお祖母ちゃんに受け入れられては、見舞いの品だかを置き、ずっとお祖母ちゃんの隣を占領しています。
これが噂通りの女の子であったなら、狼は丁重に帰るよう仕向けられるのですが、いかんせん、現れたのはお花畑で見かけた、どこからどう見ても、そっちの方が狼だろうとつっ込みたくなる容姿の男の子。
「お祖母ちゃん、具合はもういいんすか?」
「ええ。ありがとう、茶色ずきん」
お祖母ちゃんは言うなり、男の子の頭を優しく撫でて上げます。
狼の手の中で、所在無く掴んだ箒がばきりと音を立てました。
次いで男の子はお祖母ちゃんに近づくなり、ぎゅっと抱き締められました。
「!!?」
ぎりっと歯軋りする音と共に、狼の喉を血の味が通ります。
狼が黒い嫉妬に燃えているなぞ知らない、仲の良いお祖母ちゃんと茶色ずきんは、その後も楽しそうにお喋りしたり、スキンシップを図ったりしました。
その間の狼の様子といえば、目も当てられない有様です。
これがお祖母ちゃんと何の繋がりもない子どもだったなら、完膚なきまでに、大人気なく追っ払えようものですが、相手は可愛い孫。
無下にして、お祖母ちゃんにばれたら、嫌われてしまうのは確実です。
じりじり焼けつく想いを抱え続けた狼は、茶色ずきんちゃんが帰る段階になって、ようやく解放された気持ちになりました。
しかし、お祖母ちゃんは言います。
「狼さんも、そろそろお帰りなさい?」
「っ!」
優しい、どこまでも残酷な、慈しみに満ちた声でした。
少し前までお祖母ちゃんの存在を知らなかった狼は、いつの間にか自分がこの家の住人だと思い込んでいたため、お祖母ちゃんの言葉は出て行けと同義に聞こえてしまいました。
身体を地に縫い付けられたかのように動けなくなった狼が、掠れた声を出したのは、茶色ずきんちゃんがお祖母ちゃんの家を後にしてから、だいぶ経ってからです。
「私は……ここにいてはいけませんか? お邪魔、ですか?」
絞り出した声に、いつもの自信はありません。
拒絶された未来を想像しても、先には何も見えず、狼は胸元をぎゅっと握っては俯き、お祖母ちゃんからの返事を待つだけです。
空気が、動きました。
下を向いた視界に、ネグリジェの裾が映ります。
顔を上げたなら、狼より少し低いところに、きらきら好奇心に光る藍色の眼がありました。
そっと、皺くちゃの細い両手が狼の両頬を撫でます。
返答は今もって為されないままだというのに、狼の頬には紅が混じります。
けれど。
「そんなことないわ? あなたが居たいだけ居ていいの。だから、泣かないで頂戴、可愛い子」
「…………はい」
小さく頷いた狼は、そのままお祖母ちゃんの肩へ頭を寄せ、嗚咽は殺しながらも涙を流しました。
何故泣いたのか、何故お祖母ちゃんの拒絶が怖いのか、何故お祖母ちゃんにここまで惹かれてしまうのか。
狼には何一つ分かりませんでしたが、摺り寄せた頭の重みを受け止めて、髪を梳いてはあやすように撫でる優しい手は、彼が初めて経験したものでした。
* * *
ランプの明りに包まれた、目を腫らす狼の前に、温かいホットミルクが差し出されました。
両手でおずおずと受け取り、視線を上げれば、白髪を結い上げた柔らかな微笑があります。
ミルクの温かさと同じ眼差しを感じて、ほっとした狼は、木製のカップへ口をつけました。
じんわり広がる温もりは、水分を出し切った狼を優しく包んでくれます。
少しだけ、狼の腰掛けるベッドが沈んだなら、隣にお祖母ちゃんが座っていました。
「あなたは少し、あの人に似てるわね?」
「あの人?」
「私の――――夫……みたいなものだったような気がする人、かしら?」
「…………なんだか、回りくどいですね」
唐突に似ていると言われた人物が、お祖母ちゃんから夫と称される者と知って、狼は喜んだものか傷ついたものか、反応に困りました。
夫と想われるのは良いのですが、夫を想い出されるのは甚だ不愉快だったのです。
しかし、狼の葛藤をお祖母ちゃんが知るはずもありません。
遠くを見つめる目は、同時に、狼も見つめていました。
「よく、ね、分からないの。今でもあの人が、本当は私をどう想ってたか、なんて。もっといえば……私はたぶん、あの人が私をどう想おうとも、あんまり気にしてなかったのね」
「……それは」
お祖母ちゃんの独白に、さすがの狼もちょぴっとだけ、夫なる人物へ同情を示しました。
好きか嫌いかは気にしない、というのは寛大なようでいて、その実、興味がないというのと変わりないように思えたからです。
自分が、似ているという夫と同じ扱いを受けたら――考えれば考えるほど、狼は夫が不憫だと想い、それでもやることはやった彼を恨みます。
話の内容から察するに、お祖母ちゃんの夫は故人のようでしたから、それだけが狼の救いだったりしました。
「……あの人、ね。私をこの家に連れて来てから、ずーっといなかったのよ」
「……はい?」
「ずっとね、別の女の人のところを点々としていたの。この家にはほとんど帰らずに」
「…………」
何となく、夫なる人物へ親しみを覚える狼。
似ている、と言われても仕方ない気がしました。
「それである日、女の子を連れてきたの。今日から私たちの娘だって」
「……え……そ、それではもしかして、茶色ずきんちゃんというあの少年は――」
「ええ。その女の子の子どもで、私とは血の繋がりはないのよ」
「…………」
知らされた事実に、狼は茶色ずきんちゃんを一発でも殴らなかった自分を胸内で罵倒しました。
今度会ったら、どうしてくれようと考えつつ、話の続きに耳を傾けます。
「だけどあの人、女の人のところへ行くのは止められなかったみたいね。私もそういう人なんだと納得してしまった節があったし。でもね、彼が亡くなってから、娘が言ったのよ。あの人が女の人のところへ行くのは、私に嫉妬して欲しかったからだ、って」
「それは――――」
なんて身勝手な、けれど、狼にはよく分かる心情。
継ぐ言葉は見つかりません。
「でも私、嫉妬なんて出来なかったわ。だってあの人、とっても可愛かったから」
「…………」
可愛い子とその前に評された狼は、非常に嫌な予感がしました。
「私の方がずっと年上でね。だからかしら、私、あの人のこと、異性とは思えなかったの。世間的には夫扱いだったけど、私は親のような気持ちで接していたから」
言って、やはりそうかと何故か項垂れてしまった狼の手へ触れるお祖母ちゃん。
突然のことに、どぎまぎする狼は、お祖母ちゃんの顔も見れず、頬を真っ赤に染めました。
「やっぱりあなた、あの人に似てるわ。こうやって触れただけで、真っ赤になってしまうところとか」
「…………」
返す言葉もありません。
けれどふっと笑った風を感じたなら、狼は弾けたように顔を上げました。
「あの、その……もし、もしも似ているというのなら…………代わりでも構いません。私を貴女の傍に置いてはくれませんか?」
狼にとっては一世一代の告白でした。
しかし、お祖母ちゃんは苦笑しつつ首を振ってしまいます。
やんわりと否定されて、狼の顔は笑い泣きに固まりました。
瞑る目もなく項垂れては、「そうですよね」を繰り返し口にします。
強張る心には他の言葉が見当たりません。
去るしかないと思っても、動くことすら出来そうにありません。
すると狼の頬へ、乾いた皺の手が添えられました。
大きく跳ねつつ、恐る恐るお祖母ちゃんの方を向く狼。
苦笑のまま、もう一度お祖母ちゃんが首を振ります。
「あのね? あなたはあなたなんだから、代わりになんかなれないのよ? 無理に代わりになろうとしたって、疲れてしまうもの。だから、ね?」
言い聞かせるようにお祖母ちゃんは首を傾げ、またも流れる狼の涙を拭ってあげました。
「あなた自身が、私の傍に居たいって思ってくれるなら、私も嬉しいの。あの人がいなくなって本当に一人になって、私もつまんなかったから――――ほらほら、泣かないの」
いないことを「つまんない」で済ませるお祖母ちゃんを思って、狼はその夜、ずっと泣き続けました。
* * *
こうして狼はお祖母ちゃんと一緒に暮らすようになり、周辺の町や村は平和になったのでした。
…………というのは建前で、お祖母ちゃんという手を出せない想いばかりが募る相手を得た狼は、以前にも増して頻繁に梯子しつつ、家では良い子を演じる二重生活をエンジョイするのでした。
もちろん、隠しているつもりでも、お祖母ちゃんにはバレバレでしたが。
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