それは古い記憶。
 どれほど古いかは定かではないが、ただ古いと記憶していた。
 降り立ったのは気まぐれだ。
 水のない地、枯れ葉や枯れ木もすでにない、ひび入った大地。
 黒い沓で踏めば起こる土埃、それよりも多く吹き荒ぶ砂を冷めた目で見下ろす。
 手には周囲を嘲笑うような、緑の花穂。
 特に目的はない。
 ただ、なんとなく思う。
 ――此処でコレを殖やしてみよう。
 たおやかな手からするりと花穂を地へ落とせば、それだけで一面が緑に色づく。
 花穂の中に倒れ、目を瞑ること幾ばくか。
 次に目を開けた時、花穂の海はそのままに、木々が生え、沼ができ、川が流れていた。
 常人であれば驚く変化だが、やはり冷めた目で一瞥しては、手近な花穂を一つ千切る。
 興味もなくくるくる回し、そろそろ起つかとまた気まぐれに思ったなら、目の端に白い集団が映った。
 ――あれは確か……何だったか。
 以前は興味のあった者たちだった気もするが、飽きた後では記憶を漁るのも面倒臭い。
 相変わらず冷めた目で見つめる中、集団は何かを行ったかと思えば、一人を残して去っていく。
 このまま起っても良かったが、ふらりとそちらへ近づいた。
 花穂の中を突っ切り、抜け出したなら、残り物がビクリと大きく震えた。
 白い薄衣を纏う娘。
 頭からずぶ濡れになったソレは、ほとんど用を為していない薄衣を掻き集め、赤とも青ともつかぬ顔色を悲壮に歪めていた。
 どういう者かを見、声もかけずに立ち去ろうとする背へ、恐る恐る声がかけられた。
 りゅ、龍神様ですか? お、お願いします。村を、村に、み、実りをお与えください。
 龍神というのは確か、今の姿とは別の姿を指すと思ったが。
 怪訝に眉を顰め、肩越しにちらりと娘を見る。
 途端にその頬が赤く染まるのを見て、そう言えばこの身はアレらの目を惹くと思い出した。尋常ならざる姿から龍神と誤認したと呑みこめば、ついでに、この状況が初めてではないことにも気づく。
 ――ああ。ニエというヤツか。酔狂だな。
 己と引き換えに、己ではない者のために乞い願う。
 そのおかしさゆえ、娘を拾った。
 娘が言う村にも、一応、実りというのを与えてやる。
 以前、それを忘れたせいで、うるさいのがうるさくする口実を与えてしまったのだ。
 あの時拾ったモノは、どうやら恨みがあったらしく、全く何も言わなかったというのに。
 この娘も同じだったようで、実りに喜ぶモノたちを昏い目で見ていたが――
 どうでもいい。
 連れていった先で、ニエの言うニエの役目を眺めること、ひと時。
 飽いてまた別の場所へ行こうと思い立てば、ニエが追いすがる。
 何故か、こちらの所在を決められると思い込んでいる節に、うんざりした。
 ――そういえば、ニエとはそういうものだったな。
 去るなら死ぬと喚き、流れる大滝を背景に崖際に立つニエ。
 好きにしたらいいと背を向けた矢先、うるさいのが其処にいた。
 思いっきり顔を顰めたなら、似たような顔をしたうるさいのは、けれどこちらには何も言わず、通り過ぎてニエの傍に立つ。
 ニエは気が立っていたはずだが、うるさいのの顔を頬を染めて見つめるのみ。
 ――丁度良い。
 これ幸いとさっさと起つ直前、また思い出す。
 ニエを拾う度、最後には必ずうるさいのが引き取り、以来、ニエはうるさいのを慕い続けている、と。
 うるさいのも役に立つことがあるのだと感心したが、その後には必ず小言が向けられると気づいたなら、しばらくは此処に来ないようにしようと決意した。

*  *  *

 懐かしいとも思わない夢見の後、しばし愛妻の寝顔を眺めていた孔雀。
 けれど、絶えきれず伸ばした手の異常をライラックピンクの目に映しては、瑪瑙を起こさないよう寝所を出た。
 窓から差し込む陽もない深夜。
 当然、周りを視認することは難しいはずだが、瑪瑙属する稀人とは違う理の人、その中でも特殊と言える身の上には、暗闇などあってないようなもの。
 やはり瑪瑙を起こさないよう、夫婦の寝室を後にしては、家主のカラスにも気づかれぬよう外へ。
「……ふう」
 特に緊張もなかった道中。
 それでも汗を拭う素振りと共に息をつき、空を仰ぐ。
 寝室から死角になる位置に浮かぶ月を見て、先ほど引っ込めた手を伸べてみせた。
(やはり、透けている……)
 輪郭はあるものの、夜に溶け込むように透ける手。
 ここ最近、幾度となく目にしてきた異常は、日に日に起こる頻度が多くなっている気がした。
 いや、事実、多くなっているのだろう。
 身体を動かすなりして、意識している内は問題ないのだが、寝起きになると認識が甘くなってきてしまう。
 先日など、ついうっかり部屋で確認してしまったものだから、起き抜けの瑪瑙にしっかり目撃されてしまった。
 あの場はなんとか誤魔化したものだが、また気づかれたら瑪瑙相手に二度目はない。
 こちらの身を案じる瑪瑙の姿は、何とも言えない心地にさせてくれたが、別に悲しませたいわけではないのだ。
 ――そもそも、悲しまれる状態でもないのだから。
 孔雀本来の姿は、今とは似ても似つかない。
 それがこうして稀人に似た姿を保っていられるのは、身体に刻まれた黒い模様の効果だ。
 これにより、形を上手く留めおけない孔雀でも、瑪瑙と立ち並ぶことができた。
 しかし、ここのところ、この模様の調子がすこぶる悪い。
 原因に思い当たる節はある。そして、近い内、この模様が完全に効果を失くすだろうことも、孔雀は察しがついていた。
 模様が消えたところで、孔雀自身は今の姿を失うだけだが、それでは瑪瑙の傍にただいることも難しくなるだろう。
 それは何としても防がねばならない。
(これをどうにかするには一度あそこへ赴かねばならん。……我が妻の傍を離れるのは考えるのも御免だが、伴った挙句、奴と彼女が万が一にでも出遭ってしまったなら――)
 自身が瑪瑙の夫であることには、全く疑いを持たない孔雀。
 しかし、これまでの経験上、”奴”と出遭った稀人は、一人も漏れなく”奴”を慕うようになってしまう。
 自分から瑪瑙へ向ける想いは誰にも負けない自信があっても、瑪瑙がどう想うか。
 正直なところ、”奴”と比べられて選ばれる自信は、全くなかった。
(瑪瑙一人残して行くのも……いやしかし)
 残したところでカァ子さんという家主がいるのだが、自分以外が瑪瑙の傍にいることを許さない孔雀の中に、終ぞその名が浮かぶことはない。
 どこまでも自分本位に悩み続けること、しばし。

「孔雀!!?」

 悲鳴に近い声でそう呼ばれ、ビクッと肩を震わせた孔雀は、目をぱちくり。
「あ、瑪瑙……お、おはよう」
 もしや、どこか透けていただろうか?
 目で確かめるわけにもいかず、素知らぬていで挨拶したなら、身を翻す瑪瑙。
「あ!」
 追おうとした孔雀だが、玄関の入り口まで駆けたところで、追いかけるつもりだった瑪瑙に行く手を阻まれた。面食らっている内に、今度は頭へタオルが被せられてしまう。
 ぐっとそのまま下に引かれ、強い力でゴシゴシ擦られる。
「め、瑪瑙、何を――」
「こっちの台詞よ! 小雨なのになんでこんなずぶ濡れなのよ! 一体いつから外にいたの!!?」
「え?」
 言われていることが分からず、限られた視界の中で服を見れば、確かにずぶ濡れ。
 しかも明かりもないのにはっきり見えることから、すっかり夜が明けていると知る。
 元々、その長命さと頑健さゆえに孔雀の時間感覚は雑な方だった。
 それでも瑪瑙と暮らす中で、彼女と同じ時間感覚を身につけていたため、そこまで悩んでいたのかと自分でも驚いた。
「なんで、こんな……何か、悩み事でもあるの?」
「!」
 伺う優しい声音。
 見抜かれたようなソレに、思わず何度目か分からない惚れ直しをする孔雀だが、打ち明けられる内容でもない。
 瑪瑙が自分以外の誰かに心奪われるのが怖くて、一緒にいられない、などと。
 瑪瑙への想いは誰にも負けないと思っている孔雀にとって、口にすることすら阻まれる。
 除けられたタオルの先に、声の通りの表情を浮かべる瑪瑙を見ては、むず痒い気持ちに視線を逸らして別の話題を探す。
 丁度その時、小雨も上がった雲間から細い虹が見えた。
「あ、虹だ。虹だよ、瑪瑙。綺麗だねー」
「……孔雀?」
 打って変わった冷ややかな声が突き刺さる。
 プライドを取って誤魔化しに走った成果に、ダラダラと汗が流れる。
 音がしそうなぎこちない動きで瑪瑙へ顔を向ければ、先ほどとは明らかに違う剣呑な光が黒い瞳に宿っており――
「あのぉ、お取り込み中すみませんが」
 そんな声が唐突に聞こえ、孔雀と瑪瑙の視線がそちらへ向けられる。
 助かったと言わんばかりの目と、邪魔をするなと言わんばかりの目。
 正反対のそれを受けた相手は、少しばかり身を引いたが、営業スマイルを崩さずに手紙を一通、差し出した。
「速達です。瑪瑙さんに」

 

 


あとがき
単独と書いておきながら続き物。ですが、このネタではないので単独、というくくりで。

UP 2021/02/23 かなぶん

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